ホームページ

 
 菅茶山に関連したニュースや情報をお知らせするページです
 顕彰会トップページと主要項目は、次をクリック ください
旧版トップページ
     
      顕彰会について  菅茶山紹介
 顕彰会ニュース  黄葉だより 
 顕彰会会報・寄稿  茶山ポエム
 廉塾・墓地案内  神辺ご案内
 記念館・博物館  行事案内(下記)
  顕彰会会員交流メール
 参加申込、入会、問合せ、意見等
メール・アドレス     info@chazan.click
 顕彰会だより 2024年1月号 (第15号)  
 ★顕彰会入会案内 
        
    
 顕彰会ニュース  2024.2更新
 no256号 茶山学習会
 no255号 茶山ポエム絵画展 
 no254号 山陽新聞奨励賞受賞 
 no253号 廉塾クラウドファンディング
 no252号 ポエム絵画エントランス展
 no251号  茶山ポエムハイク
 no250号 生誕祭 
   
 黄葉だより  2023.11更新
 ♠   講演「童謡 夕日ができるまで]
 ♠  講演「菅茶山の漢詩ネットワーク」
広報ふくやま【歴史散歩
 「菅茶山の足跡を訪ねて」シリーズ コピー
   (1)4月号「龍泉寺桜」
   (2)5月号「松風館跡」
   (3)6月号「箱田道中」
   (4)7月号「神辺驛」石碑
   (5)8月号「自然科学へのまなざし」
   (6)9月号「岡本池の碑」
   お知らせ 2024.2更新 
菅茶山顕彰会 研修旅行
日帰りバスの旅

 1.日時 3月10日(日) 
       8:00出発~17:30帰着予定
       集合場所:JA福山市 湯田支店
 2.訪問地 香川県高松市・さぬき市
 3.訪問行程 
  栗山記念館⇒うどん山田屋讃岐本店⇒道の駅「源平の里むれ」⇒平賀源内記念館⇒鴻の池SA
 4.参加費用 10,000円
 5.栗山記念館では、菅茶山顕彰会と栗山顕彰会との交流を予定しています。

 柴野栗山(しばのりつざん)は茶山と同時代を生きた儒学者で11代将軍家斉の政治顧問となり「寛政の改革」など江戸幕府の政治に深くかかわった人物として有名です。
 1804(文化元)年、茶山は江戸にて栗山の詩宴に招かれ対面している。栗山は3年後に没しており、茶山は次の出府の際その墓参りに行っている。


   行事案内  2024.2更新   

神辺美術協会 
新春展
  2月7日(水)
 ~2月18日
(日)
 菅茶山記念館  前期 ~2月11日 洋画、日本画、彫刻、工芸
 
後期 2月12日~ 写真、書、デザイン
 雛祭り展
菅茶山記念館
 2月24日(土)
   ~3月17日(日)
 菅茶山記念館  地域に伝わる雛人形や雛飾り、創作雛の展示
菅茶山顕彰会
研修旅行
 3月10日(日) 四国
高松市・さぬき市
 ・日帰りバス旅行
 ・栗山記念館、平賀源内記念館など訪問
 ・顕彰会会員宛「研修旅行ご案内」を参照

       会報・寄稿  2023.7更新
会報33号 表紙
2ページ「茶山ポエムを各世代に届けたい」
本文(3ページ以降)
「茶山ポエム絵画展30周年に寄せて」  *「茶山ポエム絵画展黎明のころ」  *茶山詩の世界 
「廉塾バラは庚申バラ」  *「菅茶山と福山藩」 *超群の一鶴「廉塾並びに菅茶山旧宅」
記念誌 河相君推と松風館十勝~菅茶山と中條村の文人たち』  
分冊版 Ⅰ表紙~松風館十勝碑林と十勝碑  
   Ⅱ菅茶山と中條村、菅茶山が往来した中條路、仮説「松風館十勝は邸内及び山田谷一帯に設置」
   Ⅲ記録「松風館十勝碑林建立」~裏表紙
 寄  稿  菅茶山と中条村 ・菅茶山と乗如上人  ・茶山と梅  ・講演「廉塾と槐」 ・廉塾の今昔に懐いを馳せて 
 神辺ご案内 神辺町にある菅茶山ゆかりの寺院  松風館十勝碑林 
 *以前掲載した記事は「会報・寄稿」にあります。  寄稿・情報提供のお願い

    2023.10更新

 神辺学区まちづくり推進委員会
    神辺宿文化研究会
  ホームページ
 *歴史文化を活かした町づくり 
 *廉塾バラ
 *福山城築城400年記念事業
 *神辺宿まちなみ講演会
 
  神辺町観光協会    ホームページ  
 
   葛原文化保存会 葛原文化(葛原しげるとその祖父葛原勾当の文化)を継承し発展させるため
の活動を行うことを目的しています
ホームページ 
おしらせ・イベント情報
顕彰会HP記載記事   神辺ご案内 黄葉だより「葛原しげると宮城道雄」 
 
堂々川ホタル
同好会
ホームページ

2024.1掲載
 情報誌 
  堂々川;人ホタルと花と砂留とⅡ1号   堂々川;人ホタルと花と砂留とⅡ2号
  堂々川;人ホタルと花と砂留とⅡ3号   堂々川;人ホタルと花と砂留とⅡ4号
  堂々川:人ホタルと花と砂留とⅡ5号   堂々川:人ホタルと花と砂留とⅡ6号
  堂々川:人ホタルと花と砂留とⅡ7号   堂々川:人ホタルと花と砂留とⅡ8号
  堂々川:人ホタルと花と砂留とⅡ9号   堂々川:人ホタルと花と砂留とⅡ10号
お山のこんぴらさん
(内容を見ることができます)
 高橋孝一著 キングパーツHPより  
 QRコード表   菅茶山新報  

会報32 

菅茶山新報>神辺案内  松風館十勝碑林地図  
       
松風館十勝
碑林
しおり
 
松風館十勝碑林
のご案内 (栞1P) 
 松風館十勝碑
(栞2P)
 山田谷 松風館跡
周辺(栞3P)
 十勝碑林に建立した
詩碑(栞4P)
 
 
  広報ふくやま 4月号    「歴史散歩」のコピー
 

 菅茶山の足跡を訪ねて
   
(1)龍泉寺桜


      <龍泉寺にある菅茶山詩碑(右)>
 
 

菅茶山(1748~1827)は備後国神辺の教育者で、江戸後期を代表する漢詩人としても有名です。

 農村の風景や人々の営み、交友、紀行詩など2,400首余りを集めた茶山の漢詩集「黄葉夕陽村舎詩」は当時のベストセラーとなり、「当世随一の漢詩人」と絶賛されてその名は全国に知れ渡りました。宋詩に学び、詩材を身近な日常生活の中に求め、実景を写し、自分が見たまま、感じたままを日本人の感覚で表現したことで大衆に受け入れられたのです。

 生涯神辺を拠点にした茶山は、日頃は近隣の学僧や藩士、文人、医師たちと交流し、郷土を題材にした詩や記録を残しています。

 今月号からゆかりのある地に建立された詩碑やエピソードなどを紹介し、茶山の人物像に迫ります。

「龍泉寺桜」

  老樹移来幾百春

  年年麗艶占芳辰

  林東有墓生苔蘚

  會是花前闘酒人

【要約】桜の老樹を移し植えて何度春が過ぎたであろうか。年々美しくあでやかに、この春をほしいままに咲き誇っている。林の東には墓があり、コケが生えている。かつて生前には、よくこの花の前で酒を酌み交した友であったのに。

 神辺城跡北麓の帰谷にある龍泉寺の境内には、奈良県の興福寺から接木として持ち帰った「車返しの桜」と呼ばれる古木がありました。今はなき花の下で、亡き友を偲ぶ茶山の姿が目に浮かびます。

  
歴史散歩  広報ふくやま 5月号 「歴史散歩」のコピー

  菅茶山の足跡を訪ねて (2)松風館跡

                                                     <松風館十勝碑林(右)>

 神辺町西中条の山田谷に、河相君推という酒造業を営む豪農がいました。多くの書画類を蒐集し、和歌に巧みな風流人で、茶山と交流がありました。

 屋敷地には、母屋、酒造場のほか数寄を凝らした客殿「松風館」が建っていました。

 池や丘を設けた松風館の邸内では、十ヵ所の景勝(十勝)を定め、名士にそれぞれ命名、揮毫してもらったものを石などに刻んで掲げていました。命名者は、茶山、菅恥庵(茶山の弟・儒者)、頼杏坪(広島藩儒者)、柴野栗山(阿波藩儒者・昌平学教授)のほか九州や江戸の儒者たち十人で、茶山の交友の広さを物語っています。

 茶山が松風館での詩会で、即興で詠んだ詩があります。

「松風館即時」

  詩罷松窓夜幾更

  捲簾閑待柿歸鳴

  隣燈有影樟陰黒

  林雨將収竹氣清

【要約】詩宴も終わり松の枝が差しかかる窓から外を眺めれば、夜もたいそう更けてきた。簾を巻きあげてホトトギスが鳴くかと静かに待っている。隣の家の灯りでクスの木の陰は濃く、林を濡らした雨も間もなくやみそうで、竹藪には清々しい気配がただよっている。

 夜の山田谷の風景を彷彿とさせ、茶山のすぐれた自然観察力と美意識を感じます。

 当時の十勝碑は分散したようですが、新たに十勝碑や詩碑などが建立され、松風館十勝碑林と命名されています。

 

歴史散歩  広報ふくやま 6月号 「歴史散歩」のコピー

菅茶山の足跡を訪ねて (3)箱田道中

<箱田良助誕生之地碑(中央・左)と箱田道中詩碑(右)>
 

 茶山は友人である河相君推や遍照寺の大空上人がいる中条に、箱田路を通って度々行き来しています。深夜になって中条から家に帰る途中の景色を詠んだ詩があります。

 箱田道中

 此經山蹊歳幾回

 毎將夜半始還來

 行思往事停籃輿   訂正: 時⇒事

 數點流螢水竹隈

(要約)この山あいの道を年に幾度往来することか、いつも夜半近くなってから家に帰ってくる。以前はよくここでかごを止め、蛍火を眺めたことなどを回想していると、水辺の竹藪の中から数匹の蛍が出て飛んで行った。

 時を忘れて夜更けまで交流を楽しんだ帰り道、箱田に差し掛かった時に思いがけず数匹の蛍が暗闇から現れ、流光を描きながら飛び去って行った情景を素朴に表現しています。

 箱田には茶山と交流のあった人物が生まれています。幕府天文方の伊能忠敬に17歳で入門し、筆頭内弟子として、測量に従事し、日本最初の実測地図である「大日本沿海輿地全図」の完成に大きく寄与した箱田良助です。

 良助は1814(文化11)年、江戸に滞在中の茶山を何度も訪ね、測量の話題で盛り上がるなどつながりを強めていきました。

 また茶山は1809(文化6)年、九州第一次測量隊(第7次測量)が福山藩領内に入ったとき、神辺東本陣に宿泊した伊能忠敬を訪ねて以来、忠敬とも親交を深めています。

 なお、幕末から明治維新期にかけて活躍した榎本武揚は良助の次男です。

 

歴史散歩広報ふくやま 7月号コピー
茶山の足跡を訪ねて(4)
「神辺驛」石碑

JR神辺駅を出て北東に進むと、東西に走る旧山陽道に出ます。白壁の続く古い町並みをたどれば神辺本陣があり、かぎ状に曲がった道をさらに東に行けば、茶山の弟子であった小早川文吾の旧宅跡や廉塾(菅茶山旧宅)があります。

 この通りの一角に、太閤秀吉が九州へ向かう途中に立ち寄ったとされる伝太閤屋敷跡があり、そこに茶山の漢詩「神辺驛(えき)」を記した石碑が立っています。 

 

    神辺驛

  黄葉山前古郡城

  空濠荒驛半榛荊

  一區蔬圃羽柴舘

  數戸村烟毛利營

(要約)
黄葉山の前は古いにしえの城下町。かつての濠(ほり)は涸(か)れ、宿場は廃れて雑木が生い茂っている。
一区画の野菜畑は昔、羽柴(豊臣)秀吉が泊まった館の跡。数戸の家から煙が立っている辺りは毛利軍の陣営の跡とか。

  

 神辺は古代から交通の要衝であり、中世には黄葉山に神辺城が築かれました。神辺の地はこの神辺城を巡って幾度か戦場となっています。天文年間(1532〜1555年)に起こった神辺合戦と呼ばれる戦の際には、大内方の配下である毛利氏が城下町に陣を敷きました。

 その後、近世には大名行列が立ち寄る宿場町となってにぎわった神辺の町。茶山の時代には戦場となった頃の面影はどこにもなく、ただ雑木林や野菜畑となり昔の姿をしのぶだけでした。

 茶山は福山藩主阿部正精の命により1805(文化2)年に「福山志料」という地誌の編さんを手掛けており、その中で神辺の歴史も詳細に記しています。今日まで神辺の地で絶えることなく続く人々の営みの移り変わりが感じられます。

 

 星夕

  あまつ風 はらふ雲間に かけ見えて

  夜半ふけわたる ほしあひの空

 七夕の夜空を詠んだ菅茶山の和歌があります。

 茶山は漢詩だけではなく、多くの和歌や随筆を残しています。随筆をまとめた「筆のすさび」に書かれた内容は多岐に渡りますが、月食の話から始まり、彗星、月の大きさの話など天文現象の話題も多く、茶山の自然科学へのまなざしを感じることができます。

 また、菅茶山が編さんした「福山志料」には二十六夜月待の記述があります。月光の中に阿弥陀如来を中尊に観音菩薩と勢至菩薩の三尊が現われると言い伝えられ、江戸時代に全国各地で行われていました。陰暦7月26日の夜、茶山が月を待っていたところ、細い月の下部に雲がかかり、月の両端の間に白い光が浮かび、それを見た傍らの僧が如来が現われたと礼拝したことが記されています。月の両端を脇侍の菩薩、中央の光を阿弥陀如来と捉えたものでしょう。

 このような天文に関する記録を多く残した茶山の偉功を讃え、菅茶山と命名された星があります。天文学者の香洋樹と古川麒一郎によって発見された小惑星のひとつです。14等級の暗い星ですので、残念ながら肉眼では見えません。(補足説明*)

 身の回りの自然にも優れた観察眼を持っていた茶山に倣い、茶山の見た星を思いながら、夏の夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。

 

​「福山志料」(廿六夜月待 一部分)

 
*菅茶山顕彰会会報26号の記事の一部:編集子
 1976年10月東京天文台木曽観測所で香西洋樹・古川麒一郎両氏が発見した6846番目の小惑星が、
1992年2月1日、両氏の申請で、「Kansazan」と命名され認定・登録された。
 
 
広報ふくやま 9月号コピー 
菅茶山の足跡を訪ねて(6)
岡本池の碑 

 藁江峠(金江町)を南に下り1キロメートルほど進むと岡本池があります。その堤に「岡本池の碑」が建てられ,池の来歴が次のように記されています。

 (大意)

 藁江村には3つの池があり,藁江,柳津,金見三村の田を潤していたが,晴天が続くと農民は干害に苦しんだ。その姿をみた藤江村の豪農・山路右衛門七重敏は1818(文政元)年3月,私財を投じて新たに池をつくった。村人は喜び,山路家の屋号から岡本池と名付けた。藩主(阿部家第5代福山藩主阿部正精)は,その功績を称賛した。

 『福山志料』には藁江村に20箇所,金見村に22箇所,計42箇所もの溜池が記載されており,地形的に水量の確保が課題であったことが伺えます。岡本池の築造は地域課題の解決につながったのです。

 18世紀以降,福山城下の焼失や享保の飢饉,天候不順による農作物の不作が続き,百姓一揆が立て続けに発生するなど,地域社会全体が不安定な状態でした。

 このような状況を背景に藩財政も苦しくなる中で,豪農商と呼ばれた人々は,自らが出資者となり飢饉・災害等の被災者救済や教育・文化などの発展を目的とする義倉を設立し,地域社会の回復を図りました。また山路家のように民衆のため自ら私財を投じてインフラ整備等を行う者も現れました。

 こうした動きは福山藩にとっても地域社会を安定させる大きな助けとなりました。阿部正精はその功績を後世に残すため,福山藩儒として重用していた茶山に撰文させ,石碑を建てさせたのでしょう。

  岡本池の碑