⇒神辺ご案内
かんなべ宿の頃 
        菅茶山の住んだ街「かんなべ宿」
                                      著者:上 泰二
 
菅茶山の暮らした神辺


 菅茶山は江戸時代後期、備後国安那郡神辺宿で生まれ、京都・大坂に遊学したが、その後、大方の学者が志す三都(江戸・大坂・京都)を敢えて選ばず、生涯、神辺宿にあって、故里並びにその近郊の教育・文化の源流となった巨人と言える。

多くの文人墨客たちが面謁を求めて訪れた文人サロン当主。私塾「金粟園」-「黄葉夕陽村舎」を「廉塾」に郷校化、出自、身分、職業の別ない入塾条件とその為人を敬慕して全国から集まった延べ2000~3000人とも推定される学種を育て、全国各地に送り届けた教育者として、山陽道鄙僻の小さな宿駅神辺を「あの茶山がいる神辺」として全国津々浦々に広めた。

一見その大柄な体躯や四角張った顔貌、老いて白髪頭から受ける印象とは思いの外、謙譲で温和、偉ぶりもしないで、相手の誰彼の別なくユーモアたっぷりに話す為人と中庸且つ卓越した見識が、神邊宿を往来する藩主清末侯(毛利匡邦)や訪問客は言うまでもなく、隣近所の童たちに至るまで愛され親しまれていた。

大方の知るかぎりでは、その中、29首(神邊町内18首+松風館十勝碑林内3首、福山市内1首、府中市内3首、三原市内1首、尾道市内1首)の詩碑が、それぞれの詩ゆかりの舞台や茶山を主客としたハイレベルな文人サロンの所在地を今に伝えている。


 神邊宿の始まり

 元和5年(1619)水野勝成が大和国郡山藩から備後国福山藩十万石を受封、一旦、神辺城に入城、備後国福山藩の始祖になった。
一国一城令下、勝成は家康とは従兄弟同士、隣国岡山・安藝広島両藩への抑え役の意図もあって、特に認められ、元和8年(1622)神辺城から、近未来に舟運を見込み現在地常興山に新築した福山城に移り、海岸を埋め立て城下町を作り、次々と新田開発、治水工事を進めた。

移城を境に、神辺は城下町としての役目を終え、武士は各地へ分散、戦略上、鈎辻の多かった町並みをそのまま残して農工商民が根づいた。

寛永10年(1633)街道・宿駅の整備が命じられた。神辺は山陽道、石州銀山街道、笠岡道が交叉する交通の要衝、旅人の便宜を図って、御領と平野に一里塚、そこかしこに憩亭(辻堂)が建てられた。

寛永12年(1635)、大名弱体化のため、参勤交代が制度化された。江戸幕府は全国の諸大名を一年江戸に住まわせ、次の一年自分の領地に住まわせることになった。
これら諸大名の旅(大名行列)の途中、大名や大勢の家来専用の休宿泊場所(本陣)や荷物運びをする人足や馬を代えたりする宿場が必要になった。

神邊宿には、福山藩茶屋と2箇所の本陣が設けられた。現存の神邊本陣は西本陣(尾道屋菅波家)で、その分家、茶山の生家、東本陣(本荘屋菅波家)は今はない。
西本陣は嘉永4年(1649)筑前福岡藩黒田家の定本陣となった。藩主に随行する家臣団は近くの佛見山萬念寺や宿屋を利用していた。

また、継立、次の宿場(井原市高屋宿・福山市今津宿)まで荷物を運搬する人馬の用は西本陣近くの問屋が受け持ち、川北・川南村を初め近隣の村の庄屋を通じて必要な人馬を集めていた。
どちらも、お上の御用故に、本陣は萬遺漏のない受け容れに備え、改修や新築工事もあり、一定の報酬額は決められていたが、「入るを量りて、出るを制する」わけにはいかなかったようである。
助郷も、「寄馬人足の制」で縛られ、日当は格段に安い上、農繁期、春3・4月と秋10月頃の出役を強制されることが悩みの種だったようである。

元禄11年(1698)水野氏が断絶、
宝永7年(1710)阿部正邦(初代福山藩主)が宇都宮から転封され、以後、明治2年(1869)第十代藩主正桓による版籍奉還まで、実に十代161年間にわたって、阿部家が福山藩政を担った。

延享5年(1748)2月2日、菅茶山がこの世に生を享けた


 
神邊宿の様子

 
  神邊驛   菅 茶山
黄葉山前古郡城 黄葉山前 古郡城   黄葉山前は古の城下町
空濠荒驛半榛荊 空濠 荒驛 半ば榛荊 空濠 荒れた驛 大分雑木が繁っている
一區蔬圃羽柴館 一區の蔬圃は羽柴館  一区画の野菜畠は秀吉が泊まった館の跡
數戸村烟毛利営 數戸の村烟は毛利の営 数戸烟が立っている辺は毛利軍の陣営跡

 強者どもの夢の跡。これは茶山が目と心に映ずるがまま、詩句に委ねた神邊の風景である。

その宿で、端的に言えば、時代劇「水戸黄門」でお馴染みの世界が日夜、繰り広げられて行く。
近年の日本とは天地の差、超安心・安全の世相とは言いながら、時に胡麻の灰(蠅)も登場した旅路、陽の高い中からやって来宿する客を競い合い呼び込む宿屋の番頭や女中、陽暮れ、やがて賑やかな笑い聲やざわめきも途絶え静まりかえった夜更けの街頭を按摩が杖を頼りに笛を吹きながら通り過ぎていく・・・。

当時、藩主阿部氏は概ね幕閣、定府の習い、自藩の台所事情と天理を無視した藩政に一揆が続発。
宿全体が展望の持てない「呑む・打つ・買う」 の頽廃ムードにあった。
茶山が自作の川柳
「燗鍋(かんなべ)は酒呑む人は多けれど本読む人は銚釐(ちろり=「ちっとも、少しも」)ともなし。」
と慨嘆していたことでも知られる。


神邊宿の

現鵜野謙二氏邸付近に神辺宿の東門があり、七日市。十日市の西門と併せて、夜の定刻が来ると門を閉め、一切の出入り禁止。
その西に、土手を隔てて裏手に高屋川が流れる現存の廉塾、その西隣に伯父高橋愼庵邸、高屋川大仙坊橋に通ずる小路を挟んで前述の「神邊驛」詩碑が目印の小早川文吾屋敷跡、
太閤(豊臣秀吉)が九州へ向かう途中立ち寄ったとされる伝太閤屋敷跡、村一番の銘水「太閤水」こと「鍵屋水」が湧出る井戸があり、千利休が、その水で太閤のためにお茶を点てたという伝説も知る人ぞ知る。埋め立てられて久しい。

廉塾の筋向かい、東から北条霞亭邸・東本陣・小早川文吾邸などが姿を消している。
街道に併行する南小路、入口近くの普門山西福寺には茶山詩碑「賞梅」、境内に小早川楽々翁(文吾)の墓が建立されている。

街道を西下すれば、鈎辻沿いの横町、三日市と合流する三叉路、南の突き当たりに黄葉山麓の天別豊姫神社(神辺大明神)がある。1700年代、「氏神道」として新道(宮通り)が整備された。中途、直ぐ茶山と判る特徴のある筆蹟、「献」を彫り込んだ石柱がある。

天別豊姫神社の東山麓に南北に長い菅家墓地があり、その西南の一角に御霊屋に菅茶山の墓がある。
前面の巨大な楠に見守られ東向、寄り添うように左に自牧齋(菅三郎・茶山養子)右に井上敬(萬年継室・菅三郎母、茶山姪)の墓、その右に、二人の愛弟子の墓がある。

引き返して、横町、西下すると三日市通り、高屋川掛の橋に繋がる往古の幹線道路の西に現存の神辺本陣、南向かいに問屋(人馬の継立・荷物の運送)、御茶屋屋敷(福山藩直営公用舎専用休泊所)、鈴鹿秀満邸、再び鈎辻(現広島銀行付近)で南下、紺屋町(城主御用商人町)、十日市通りを挟んで、東側に薬上山光蓮寺、西側向かいに藤井暮庵跡がある。

町屋は間口が狭く、奥行が長い短冊形土地区画。黄葉山西麓直下の武家屋敷群を取り囲むようにして東から西へと広がって行ったと言われている。
宿は西惣門跡(現中国銀行付近)、道の両側に土塁を築き、その上に竹の柵が設えられていた。
今は少し離れたR313沿道(川南長畑)に巨大な常夜塔が大締め役として往来する人々の安全を願っている。 

神辺大火

文化4年(1807)2月18日~19日 三日市、出火。西福寺~七日市出口・三日市西~紺屋町表側250軒焼失
 2月18日、茶山は亡父樗平の十七回忌を無事務めた、その夜、大火があった。北西の風強く、火は三日市から七日市まで総なめ、私宅及び親族(東本陣)本宅、土蔵ともに全焼した。
延焼206件。幸い怪我人は居なかった。藤井暮庵宅と向かいの光蓮寺(十日市)、西本陣(三日市)、廉塾と西隣の高橋家は類焼を免れた。


参考資料
「神辺風土記」菅波堅次
「続神辺風土記 遺稿集」菅波堅次
連続教育講座「『菅波信道一代記』を読む」~近世神辺宿の歴史を知る~菅波哲郎