顕彰会会報寄稿

菅茶山顕彰会会報 第27号
講演概要「山陽と茶山」   菅茶山顕彰会会報 第26号
 講師:藤井登美子先生
  
 天明元年(1781)以下、山陽年齢2歳
閏五月一日、大坂から父母に抱かれ、祖父亨翁の待ち望む竹原へ里帰り。磯宮八幡神社の忠孝石に因んで「忠孝」の文字を謹書したお守袋を贈られる。山陽はそれを生涯肌身離さず大事に身につけていたという。

天明六年(1786)7歳
「晩春、竹原にて詩句を作る。」(賴山陽全書)処女作「朝日山」の歌碑が山陽広場に建立されている

  朝日山       賴山陽
上朝日山去 朝日山を上り去(く)る
手欲摩蒼穹 手は蒼穹を摩せんと欲す
山路宜匍匐 山路は宜しく匍匐(ほふく)すべし
恐衝廣寒宮 廣寒宮(月中宮殿)に衝くを恐る

天明八年(1788)9歳
 茶山「遊芸日記」の旅で、広島へ。山陽と初対面。詩、書画を見てその秀発ぶりに驚いた。
 しかし、山陽はこの前年、癇症(躁鬱症)を発症。その後も青年期にかけて再発を繰り返し、問題行動が多く、妻淳子と結婚したが、夜遊びも止まらなかった。

寛政十二年(1800)21歳
 竹原の大叔父傳五郎の弔問に在府中の父の名代として赴く途中、脱藩。
京都に潜伏中、自宅に連れ戻され座敷牢に幽閉。この間、山陽は多くの書物を読み、多くの文章を書いた。これが肥やしとなって、やがて「日本外史」など大輪の華を咲かせ実を結ぶ。
享和三年(一八〇三年)幽閉を解かれるが、その後、なお二年間、謹慎生活を送る。
 この事件によって、山陽は廃嫡、春風の嗣子権次郎が継嗣。山陽の妻淳子は離縁、山陽との間に授かった長男聿庵は賴家で静子によって育てられた。

文化二年(1805)26歳
 門外自由の身になった山陽は、父、春水らと約一カ月間、竹原へ保養に赴いた。茶山も招かれ、照蓮寺などでの詩宴に臨んだ。

文化四年(1807)28歳
 父、春水らと竹原へ赴き、尾道の画家平田玉蘊・玉葆姉妹と詩宴・船遊びにうち興じた。
 山陽と玉蘊はお互いに惹かれ合うものを感じ、書簡による交流が始まる。

文化六年(1809)30歳
 義弟権次郎と夜遊びが絶えず、思案に暮れた春水は茶山に相談。山陽は都講として廉塾の門を潜った。

文化七年(1810)31歳
茶山の山陽批評は「文章は無双」。それ故、講義の他に「黄葉夕陽村舎詩」の校正を一任させた。
惜しむらくは、母静子も「子供らしき事も御座候故、私共はたへず子供しかり候様にし加り申候」と辟易している人間性。しかし、やがて、姪と結婚させ、夫婦養子にし、福山藩へ仕官させたい との願望を抱くようになった。
一方、山陽にとっては廉塾生活について出奔時に書き残したとされる落首、「水凡、山俗、先生頑、弟子愚」(退屈な所へ来た)の印象を拭いきれない。
その補償作用か、それとも、三都への宿望を実現するため、意図的に茶山に愛想づかしされようとしていたのか、飯炊き女との艶聞、涼み台での全裸姿問答など、好き勝手放題の日々を送っていた。
折から、山陽は福山藩家老の招宴で、茶山の息子扱いを受けて憤慨、口頭に代えて五千字に及ぶ自分の宿願の手紙を書いた。やむなく茶山も応諾、餞詩を贈った。

文化八年(1811)32歳
 神辺と尾道、距離的にも山陽と玉蘊の仲は急接近していた。
山陽は出発直前、玉蘊に上洛を促し二人の弟子を引き連れ出奔した。弟子の道連れもさることながら、「山陽ほどの逸材を手放した」茶山への内部批判が厳しい。玉蘊を利用して山陽を連れ戻そうとする策謀もあったらしい。
この後、長期間、茶山の不機嫌が尾をひいた。春水も親友茶山への遠慮から山陽に勘当を申し渡した。

 一方、追いかけるように、母妹を伴い上洛した玉蘊は山陽に「直ぐに結婚はできない」と言われ、失意のうちに尾道へ。折りを見計らって、茶山の許を訪ねた。その際、皮肉にも山陽が玉蘊と同じ理想の女性と謳った江馬細香の磁器を手土産に。

文化十一年(1814)35歳
 後足で砂をかけるような廉塾出奔以来、最初の帰省。
この間、京都で儒学、詩、書の三部門で名を成していた山陽は茶山の調停で、父春水との和解が成立、父春水の他界を契機に、茶山の不機嫌も漸く氷解。西帰への道が拓かれた。
山陽は往復路とも春風館に春風を訪ねた。

文政七年(1824)45歳
 母静子への最後の報恩旅行、三月から十月までの京都旅行を終え、竹原へ立ち寄った。その時詠んだ詩が賴惟清旧居裏庭の歌碑に刻まれている。

  至竹原          賴山陽
我家昔日読書山 我家昔日読書の山
紫翠依然窓几間 紫翠 依然たり 窓几の間
愧使京塵染鬚面 愧ずらくは京塵をして鬚(しゅう)面を染めしむを
歸来却対旧孱顔 歸えり来たりまた対する旧孱(ぜん)顔

文政八年(1825)46歳
 九月、叔父春風が他界。享年七十三歳。姫路へ出講中の山陽への連絡が遅れ、約一か月後の墓参となった。
山陽は茶山の許で往路は一泊・復路は三泊、「丁谷梅林」その後の話にうち興じた。
それが師父と仰ぐ茶山とも最後の出逢いとなった。文政十年(1827)八月十三日、茶山八十歳が不帰の客となった。