顕彰会会報寄稿

菅茶山顕彰会会報 第27号
 茶山・山陽との交流 菅茶山顕彰会会報 第26号
           ー自らの喜寿に思いを重ねてー
 菅茶山顕彰会会長 鵜野謙二
 
 賴山陽45歳は菅茶山77歳が依頼した浪華の女侠「阿雪伝」を書き上げ、文政七年(一八二四)十月京都に遊んだ母梅颸と共に茶山のもとを訪れ二泊した。
十一月には広島を発し、上京の途次、廉塾に再訪、五日間滞在した。その時の茶山詩「丁谷餞子成卒賦」(原詩漢文)が神辺公民館前に建立されている。

数宵の閑話 毎に三更 未だ盡きず仳離十載の情 送者は筇を停め 客は頻りに顧みる
梅花香裏夕陽傾く(読み下し)

 茶山と山陽、師弟の間には、時に暗雲あり、不幸もあったが、この数宵、夜の更けるまで胸の内を語り明かして、なお飽き足らぬ逗留であった。
茶山翁は杖をつき寒風をおして丁谷梅林まで出向き名残を惜しんだ とされる場所に石標「茶山山陽餞飲之所」がある。

 茶山が山陽と初めて対面したのは、天明八年(一七七八)、広島の頼春水宅を訪れた時で、茶山41歳、山陽9歳。以来、三十二歳の年齢差を超え、交遊関係は三十七年間に及んだ。
 山陽は寛政十二年(一八〇〇)21歳の時脱藩騒動を起こし幽閉され廃嫡となった。
先の見えない不安な気持ちを抱えた山陽は屡々茶山に手紙を送った。茶山もまた若い山陽のことを気にかけ、折にふれ助言・激励した。文化六年(一八〇九)、山陽は父の勧めで廉塾の都講として神辺に赴いた。

 茶山は廉塾の後継者として期待していたが、山陽はかねてから三都(江戸、京都、大坂)に出て名をあげたい野心があった。山陽は自らの心情を「上茶山先生書」で訴えた。
最終的には、茶山が譲歩、山陽は廉塾滞在、わずか一年三カ月で京都に向かった。さすがの茶山も不快の念を隠せなかったが、次第に気持ちが和らぎ二人の交遊は終生続いた。

 茶山は山陽の文学的な才能を高く評価、山陽もまた終生茶山に尊敬の念を抱いていた。
感性豊かな「滲み出る」ような文才茶山、伝えたいことを「溢れ出ん」ばかりに認めた山陽。歩んだ人生、気質の差異はあったが、師弟の「文雅の交わり」は、深く強い絆で結ばれていた。
二人の人生は常に自分自身を磨く努力に努力、惜しみない社会貢献、今も巨星として燦然と輝いている。

 菅茶山の遺芳・遺徳は備後福山・神辺の誇りうる文化遺産である。
自らの喜寿を節目に、竹原賴山陽顕彰会・関係諸機関・団体とも緊密に連携、協働してこの茶山文化を「茶山ポエム・アート」として後世に継承・発展させるさらなる努力を重ねたい。