顕彰会会報寄稿

菅茶山顕彰会会報 第27号
講演概要「松平定信と菅茶山」   菅茶山顕彰会会報 第28号
 講師:岡野将士氏(県立歴史博物館主任学芸員)

  「松平定信と菅茶山」
    
 松平定信は徳川吉宗の孫、安永三年、白河藩第二代藩主松平貞邦の養子になり、天明三年、白河藩主、天明七年、老中に就任、寛政の改革を行った。寛政五年、老中、解任。文化九年、定永に家督を譲った。
以後、楽翁と号して江戸浴恩園で文雅に勤しむ。
 定信はのち明治政府による顕彰で同時代の田沼意次と比較対照、儒教的倫理を説き、文武両道を勧めた名君とされている。

 定信と茶山の接点は古文化財録「集古十種」編集事業にある。「からうた」や「ふみ」などで言外の余情を汲み取ることが肝要だが、言語や文字の補完資料として、古文書、画図、古図、古額が必要との認識から、この国家的事業に着手、著名な調査・編集要員を全国各地に派遣した。寛政八年、神辺宿茶山を訪ねたのは白河藩儒廣瀬蒙齋。

「有方録」に「仕官を望まず村里に隠遁。居宅は坊の南に、別荘は坊の北、「黄葉夕陽村舎」と呼んでいる。
関西では盛んにその詩を称賛。翁は別け隔てをせず交友の広いことを楽しみにしている。
それ故四方の文士が集い、別荘に泊め、色々と談論する。」と記録、同時に楽翁へも悉に報告したものと思われる。

 寛永十二年四月には、白河藩画師白雲・大野文泉が茶山を訪ね、宮島や府中へ調査に出かけている。
この時、「西国名所図」として描かれた帝釈峡の雄橋や松平定信書「文武忠孝」など五点が茶山に贈られている。

 定信は造園が趣味で、生涯五つの庭園を造っている。茶山ゆかりの庭園は南湖と恩浴園である。
前者は享和元年、白河城下に造られた日本最初の公園、別称「士民共楽」(身分に関係なく誰もが楽しめる壁や塀のない公園)、四季の草花が植栽される博物学的な面と海防、操船訓練の場としての目的も含まれ
ていたと思われる。
文化五年、茶山は園内十七の景勝地の一つ逗月浦(和名 月待つ浦)に、漢詩を寄せるよう命じられている。

 後者、浴恩園は寛政五年、築地の一橋家跡に着工、翌年ほぼ完成した。回遊式庭園で茶山は園内五十一勝中、魁春園(和名 春知る里)の詩文を乞われていた。

 茶山は藩主正精の命で文化十二年の元旦を江戸で迎えた。程なく帰国を控えた二月五日、白河老公に召され浴恩園に赴いた。
諸臣の案内で「春風の池」から「秋風の池」を巡り、客殿「春風館」で老公と対面した。

 侍浴恩園
雪後江城風剪剪 雪後江城 風剪剪
蘆芽未茁梅猶晩 蘆芽未だ茁かず 梅 猶晩し
頼因侍史詠歌佳 頼いに侍史詠歌の佳きに因って
早已名園春不淺 早や已に名園 春淺からず

老公は茶山の詩に応えて

故郷を 思ふもしばし なぐさめよ
 梅の色香は よしあさくとも


と和歌を詠み、一枝の梅を手折りて、茶山に贈った。

 この梅は大事に福山藩邸に持ち帰り、盆栽に接ぎ木した。茶山は帰国途上、傷つくことを慮ってこの盆梅を友人の石田梧堂(秋田藩儒)に預けた。三年後の文政元年、茶山が「大和行日記」の旅行中、小野梅舎が帰郷途上、件の梅を梧堂の書を添え茶山に届け、「二、三日うちに、故国倉敷へ帰るついでに神辺まで持ち帰ってあげます」と親切に言ってくれた。
しかし、茶山は一面識もない梅舎に江戸から京都までの道中に加え、さらに神辺までとは厚かまし過ぎると思い、鄭重に労を労い受取った。

時移り、文政四年正月、梅は廉塾に届けられ庭に植えられた。(以上 文責編集子)