顕彰会会報寄稿

菅茶山顕彰会会報 第27号
方円の器 
(巻頭言)
 菅茶山顕彰会会長 鵜野 謙二

「水随方円器」(水は方円の器に随う)と言う故事がある。
「方」は四角、「円」は丸、水は器によってどのような形にもなることから、人は環境や教育、交友によって良くも悪くもなる。

 さらに、「方円の器」の故事(思想)には、「方」は人が生きている社会的範疇であり、「円」は人間の内面的な心である と言われている。
人は、家庭、地域、職場、交友関係等の様々な社会でふれ合い、助け合い等の人間関係の中で生きている。

 人の心は見えないが思いやりは見える。人生訓(故人が人間の生き方として遺した言葉)はいろいろある。人の痛みを感じる。いたわり、優しさ等の言葉は、元々、人間性の根幹(人間の生き方)から出ているものであり本能ではない、鍛錬・努力して身に付けるものである。

 廉塾講堂の東、濡れ縁の真向かいに「方円の手水鉢」がある。塾生が講堂から常に目の当たりにした場所である。菅茶山が廉塾で目指した学問(教育)の精神である。

 菅茶山は一七四八年(寛延元年)備後国(現在の福山市神辺町川北)に生誕し、人生八十年の大半を神辺の地で過ごし、自分自身を磨く努力を惜しみなく、地域貢献、社会貢献に努めた。
また、一七九六年(寛政八年)には、私塾黄葉夕陽村舎から福山藩弘道館の郷校となった廉塾で塾生を学種として大切に教育した。

 菅茶山は十九歳の時から京都・大坂へ六回に及ぶ遊学で賴春水や多くの漢詩人・儒学者と交友を深めた。また、一八〇一年(享和元年)には、福山藩の儒官となり、藩命により二度、江戸に赴き、元老中松平定信、伊能忠敬など多くの文人墨客との交友関係を広げた。

 菅茶山は十八世紀の終わり頃から江戸後期において儒学(朱子学)者・教育者・漢詩人として日本全国に大いなる反響をもたらし、1800年代(文化・文政年間)には多くの文人墨客が菅茶山・廉塾に訪れている。

 菅茶山の豊かな感性・人間性は、深安(神辺)教育の歴史に「茶山に学べ」と言う標語として残っている。
今も教育・文化の巨星として光り輝いている、
 廉塾講堂  
方円の器手水鉢