平成22年度菅茶山顕彰会定期総会&記念講演

平成22年5月15日(土)、神辺町商工文化センターで、平成22年度菅茶山顕彰会定期総会が開催された。総会後、丸山万里子氏((財)遺芳文化財団理事長・日本はきもの博物館・日本郷土玩具博物館二代目館長)が愛用の下駄履き姿で登場、「はきものは人を支え玩具は心を育む」の演題で記念講演、盛会裡に全日程を終了した。

「はきものは人を支え玩具は心を育む」(講演要旨)
明治11年(1978)、祖父丸山茂助(嘉永6年~大正6年 享年69歳)は製塩に必要な薪を活用した下駄づくりを創業、木履王国松永繁栄に貢献した。その功績を讃え丸山邸の庭に、「丸山翁の碑」が建立されている。碑文は英文学者福原麟太郎の父、福原甚之助、雅号・鏡山が能筆を揮っている。周知のとおり、丸山鶴吉、葛原しげる、福原麟太郎は福山中学校の同窓生、同郷の誼もあって、在京中も親交が続いていた。終戦直後、鶴吉は新市の姪出原富子が経営する至誠高等女学校の窮状を見かね、折から竹尋の生家に疎開中の葛原しげるに至誠高等女学校校長就任を懇請した。出原・葛原両家、戦没者遺族同士の相互扶助を説かれ、しげるは「郷土の子女教育に挺身・・・。」することを決意。その後14年間、至誠女子高等学校と広く地域社会の教育に貢献した。
父の二代目茂吉時代、昭和30年、下駄産業は頂点に達し、工場数189、下請け280、従業員数5000、生産高5600万足、年商23億円。その後、生活様式の変化に伴い下駄の需要が激減、そこかしこ、いわゆる「木靴の山」(井伏鱒二・「東京新聞」連載小説、昭和34年)が見受けられるようになった。昭和41年、福山・松永市合併の年、父が他界した。
後継者の夫茂樹は昭和53年、下駄産業100年記念に「はきもの博物館」開館。昭和60年には、2266点に及ぶ日本を含む世界の「はきもの」が国の重要有形民俗文化財に指定された。その中の一部、大足(田下駄)、ルナーブーツ(月面靴・複製)、履用時、硬さをほぐすため微温湯で濡らす鮭皮製アイヌ靴、花魁には道中用の三枚歯下駄のほか室内用の履物もあるとか、「栄光のはきもの」コーナー100点目の荒川静香のスケート靴など「履物アラベスク」紹介。
夫が還暦を迎えた平成6年、「はきもの博物館」に「日本郷土玩具博物館」を併設、旧「丸山商店営業所」(国登録有形文化財)を部分改修、コーヒーハウス「サボ(仏語:下駄)」を開店、同時にさまざまな文化教室を開講、遺芳文化の継承に努めている。平成8年、夫は他界。万里子夫人が二代目館長を継ぎ、現在に至っている。
昨年、開館30周年、満潮時を利用して下駄の材料の木材を運びいれていた入り川跡が遊歩道に改修され、また一つ松永繁栄の歴史を語る跡が姿を消した。
手際よく纏められたDVDにコメントを加えながらの講演に大きな拍手が送られた。

遺芳(松永)湾縁起
名付け親茶山と松永
 丸山氏はこの日の講演でプロローグに松永湾の別称遺芳湾の命名者としての茶山、エピローグに丸山家所蔵の茶山の書をice-breakerとして紹介された。ここで松永と神辺ゆかりの人物交流について触れてみたい。   
その昔、松永に南北朝の戦いに敗れた本荘重政という武士が隠れ住んでいた。謙虚な人柄から彼はほどなく土着の人々の信望を得、自ら率先垂範、松永湾の開拓に着手、寛文七年(1667)に塩田四十八浜を造成した。時の藩主水野勝種は漁塩業を主要産業とする松永湾の富の実権を藤江村の庄屋山路氏に委ねた。山路家(屋号岡本屋)は「福山の殿様十万石、岡本の財産一万石」と噂されるほど自らも冨を築いたが、利権を独占することなく、惜しみなく地域や地域の人々を潤すのに使った。
文化十五年(1818)、山路家六代目当主右衛門七重敏は灌漑用水池「岡本池」を造成した。時の藩主阿部正精は、茶山に命じこの徳業を讃え来歴碑「岡本池碑」を選並書させている。後継者山路熊太郎(機谷)は学者として知られている。平素は極めて倹素で一見農漁夫のような風采をしていたが、学者が訪れると、何年でも好きなだけ自宅においてやり、子弟に講釈させていた。百姓一揆の時などには何時も農民の味方となっていた。大塩業者の多くが山路氏にならって徳行を積み、教育、文化面でも競って茶山、頼春風・山陽・三樹三郎、江木鰐水、森田節齋など著名人を招き、遺芳文化発展・継承の礎を固めた。「塩鹺漁火非人有不羨君主賜鏡湖」と四恩を説いた茶山に教えられるところ大であったのかも知れない。
文化二年(1805)秋、茶山は西山拙齋の次男孝恂(復軒)を伴い神辺を出発、松永の高橋邸で一泊,遠雷、大風直後の湾風景を「白虹出海跨塩田 月在中天夜皎然」七絶二首を詠み、翌日、竹原で長い幽閉生活から解放されたばかりの山陽ら頼一族と再会している。
文化三年(1806)春、茶山60歳は松永経由で百島に渡り西林寺で詩会に臨んでいる。のちに庄屋石井四郎三郎がこの島に塩田を開いているが、茶山は「時将吟酌會詞雄」と僻地の孤島に於いても詩会が催されるようになった時代の発展に喝采している。
文化十年(1813)二月末、茶山は「三原梅見の記」(茶山・桑田翼淑共著)紀行に出発、「松永より船路を行ましと其里なる高橋影超(風月庵)をたずねしに、桑田主(翼淑中条・河相君推の女婿)もそこにあって、これもあるじとおなじく伴ひ行ましという」ことになり、海路松永から三原へ向かっている。この紀行文は気心の知れた桑田に筆を委ねている。
文政九年(1826)春、茶山は山路忠平の別荘「白雲楼」に招かれた。山路氏から「松永湾」の命名を求められ、「中庸」の「芳を千載に遺す」から遺芳(あとに残る香、後世に残る名誉)と名づけ、その記念の祝歌として「遺芳湾十二詠」を詠んだ。
 化政期は遥か昔に遠のいたが、「遺芳」の精神は世代を超え後世に受け継がれている。木履王丸山茂助は「遺芳クラブ」(美術クラブ)を作り著名な画家を招いて大画会を開催、また、図書館建築資金として巨額の寄付をするなど地方文化の発展に貢献した。次男丸山鶴吉は県立福山中学校から一高、東大を経て、警視総監まで登りつめた人として知られているが。明治三十四年(1901)、中学卒業の前年、春の運動会での「義勇旗事件」で校長に校友会長として不条理な学校裁定の撤回を求めた硬骨漢、東京の同窓会館「誠之舎」の経営危機を救った同窓会東京支部長としても有名である。
鶴吉と同じ松永出身、福中の九年後輩に福原麟太郎がいる。在京中、鶴吉の紹介で葛原しげると知り合い、「読書会」などの活動を共にした。のちに随筆家としても知られる文筆の手ほどきも受け、大正十二年(1922)、しげると麟太郎との共訳「スティヴンソンの子供の歌」を出版している。
大正六年(1917)、しげるの父重倫が上京した。麟太郎は、多忙なしげるに代わって東京見物の案内役を務めている。折りしも、宮城道雄が朝鮮から不退転の決意を抱いて上京した。しげるに誘われ重倫がこの試演奏会に出席している。演奏会後、父の「祖父の生まれ変わりだと思って世話をしてあげなさい」との一言がしげるをして、宮城道雄生涯の強力な支援者、良き理解者としての運命的な出逢いの端緒を開いている。
昭和二十年(1945)年三月、東京大空襲で勤務先の精華高等女学校が被災、廃校になった。四月、しげる夫婦は三人の娘と三人の孫を連れ、八尋の生家に疎開した。翌年、鶴吉の懇請で鶴吉の姪、出原富子理事長経営の至誠女子高等女学校校長に就任した。
校歌賛美論者とも言えるしげるは、「校歌=郷土唱歌」は「不知不識の裡に団結心が養成される」が持論。在郷中も、乞われるままに多くの校歌、社歌、団歌、市町村歌などを手がけたが、昭和三十年(1995)、松永市制を祝って、「松永市民歌」(岡田忠彦作曲)を作詞している。
昭和三十一年(1956)一月末、鶴吉危篤の報せに、しげるは急遽上京。病院に鶴吉を見舞った。翌日も枕辺に立った。しかし、鶴吉は前日とうって変わって反応がなかった。只一言「しっかりたのむ」と次男が父の言葉を取次いだ。昭和二十二年二月末、しげる一家が疎開直後、八尋の自宅で「引き受けた」と約した「至誠の方も、万事うまく行っているよ」と答えた声が妙に上ずっていた。その年の六月三日、親友丸山鶴吉が病歿。享年74歳。戒名は「松壽院殿遺芳宗鶴大居士」。「遺芳」は雅号としても使用していた。
6月23日、宮城道雄が遭難死。享年62歳。この日、奇しくも葛原しげる70歳の誕生日。
昭和三十三年(1958)「茶山三百首」(重政黄山先生講述・島谷真三編)初版が発行された。序文として、葛原しげるが「発刊によせて」、昭和四十四年重版には福原麟太郎が「・・・重版を祝して」を寄せている。
二人の刎頚の友を相次いで失ったしげるは、その後、昭和三十四年(1959)、至誠学園創立25周年記念行事を大々的に挙行、昭和三十五年(1960)6月1日付、至誠女子高等学校退職、同年11月、東京の自宅に帰った。翌昭和36年〈1961〉年、12月7日、母校東京教育大学構内で倒れ、不帰の客となった。