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菅茶山遺芳顕彰会の創設
神辺における教育・文化の先駆者として菅茶山先生の名前は時代をこえて語り継がれてきました。しかし、その業績はあまり知られておらず、好事家による遺墨の収集や、数少ない郷土史研究家による専門的な研究がされてはいましたが、殆どの人にとっては昔の偉い先生という受け止めに留まっていました。
1926年(大正15年)、地元有志によって茶山没後「100年祭」が行なわれました。しかし、これは継続されることなく、やがて日本は戦時体制の時代に入って行きました。
戦後の混乱が落着くにつけ、かつての100年祭を知る人たちの思いを集め、1979年(昭和54年)没150年祭を、次いで160年祭が当時の郷土史研究会によって神辺商工文化センターを会場に100年祭を引き継いだ形で行なわれました。
この集まりのなかで、以後5年ごとに茶山祭を行なうことが発案され、会則を定め、広く会員を募り「菅茶山遺芳顕彰会」が発足しました。
1985年(昭和60年)の没165年祭には会員も230名余になり、会報誌が毎年発行され、また、茶山研究者の一人であった故北川勇先生の講話を集大成した「茶山詩話」を編集、全7巻が毎年1集づつ発刊され、会員を中心に配布、好評を博しました。 |
菅茶山先生顕彰碑 |
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100年祭記念の絵葉書 |
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茶山詩話 全7集 |
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子どもたちに茶山を伝えよう
1992年(平成4年)「神辺を元気にする会」の肝いりで「まんが物語り・神辺の歴史」が発刊されました。古代から開けていた神辺の歴史を柱に、菅茶山、葛原しげるの二人を入れ、まんがによって紹介した単行本でした。
この発刊を機に、難解な茶山の漢詩を子どもにもわかる形で伝えたいという機運が盛り上がり、神辺公民館を会場にして「茶山ポエム・イマジネーション・パーティー」が開かれました。これは現代語訳した茶山詩をエレクトーンの演奏に合わせて朗読し、朗読の合間には茶山の生い立ちが備後方言で紹介されるなど、参加した大人から小学生にいたる150人程が終始なごやかな雰囲気で「菅茶山」を楽しむ集まりでした。この会の成功は以後の顕彰会活動に一つの転機をもたらすものとなりました。 |
まんが物語り 神辺の歴史 |
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茶山ポエム絵画展の始まりと発展
茶山の漢詩を現代語訳し、さらに小学生にも理解できるように意訳した「茶山ポエム」のイメージを絵に描いて表現しようというアイデアが生まれました。町内の6小学校に呼びかけ、1993年2月、集まった作品637点を菅茶山記念館に展示、「第1回茶山ポエム絵画展」が開催され、3月には「ふくやま美術館」で優秀作品130点が公開されました。
「茶山ポエム絵画展」はこの後、毎年おこなわれ、神辺町内全ての小学校から全校児童の作品が応募されるなどの支援を受け、今では、町内だけでなく近隣の幼稚園・小学校・中学校・高校の有志からの応募を得て、毎年2600点を超える作品が寄せられるまでに発展しています。
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茶山ポエム絵画展表彰式 |
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「茶山生誕250年祭」を機に神辺町内に残る格子戸の家々に作品を掲げる「茶山ポエム絵画かんなべ格子戸展」が四季折々に開催されています。
こうした公開展示の場は広島県庁ロビー、井原線沿線の町々、茶山と交友のあった岡山県鴨方町「西山拙斎」の顕彰会との交流行事など、方々の移動展として企画され、当顕彰会活動の広がりを支えています。 |
かんなべ格子戸展を見る親子 |
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菅茶山生誕250年祭
1998年(平成10年)10月17日~18日の両日、菅茶山(1748~1828年)の遺徳を偲ぶ「菅茶山生誕250年祭」が神辺文化会館の大ホールを主会場に茶山ゆかりの寺院をはじめ、町内各所で多彩なイベントが開催されました。
これは没170年祭の行事を繰り上げ、生誕祭として位置付ける企画でした。 |
菅茶山生誕250年祭
祭文を奉読する高橋会長 |