菅茶山顕彰会会報 第27号 |
江戸後期の福山藩儒学教育について ー誠之館と廉塾を主にー |
福山大学孔子学院 蒋 春紅 |
①福山藩の歴史 ..その昔、備後国は神辺に拠点があった。備後国福山藩は元和五年(一六一九)、大和国郡山藩から転封された水野勝成を開祖とする。 元和五年(一六一九)、安藝・備後両国(49万8千石)の大名福島正則は奥州津軽藩に改易された。後任に淺野長晟が安芸国と備後国六郡(42万石)の広島城主に、水野勝成が大和国郡山藩から転封され備後国残り七郡及び備中国二郡(10万石)の神辺城主に任ぜられた。 ・水野勝成は一旦、神辺城に入った。家康と従兄弟同志、新規築城禁令下、元和八年(一六二二)、常興寺山に福山城を新築、拠点を福山へ移した。斯くて神辺は「黄葉山前古郡城」下町から参勤交代の宿駅へと変遷の歴史を辿った。水野家は元禄十一年(一六九八)五代勝岑で無嗣断絶した。 ・元禄十三年(一七〇〇)、天領時代、出羽国山形藩主松平忠雅が一代限り10万石の藩主、讃岐国丸亀藩主京極高或(縫殿)が城番を務めた。 ・宝永七年(一七一〇)、初代藩主阿部正邦が入封、明治二年(一八六九)、第十代藩主正桓まで実に十代百六十一年間、阿部家が藩政を掌握していた。 ②阿部時代の儒学教育 水野時代の藩内教育は、藩主の侍講佐藤直方によるご進講に陪席する二、三の重臣の範囲に限られていた。阿部時代に入って、家塾委託から藩校弘道館、江戸学問所、誠之館、郷校廉塾などが藩の中高等教育を担った。 ③弘道館の創設 天明六年(一七八六)、四代藩主正倫は福山城西下に弘道館を創設した。弘道館は「人能弘道也 非道弘人也」(人間こそ道を広めることができるのだ、道が人を広めるのではない。)(論語)に由来、正倫も教育理念「形の武より心の武を励むに如かず」を掲げた。 当時、全国的に大飢饉が起こり、藩財政も窮乏し、百姓一揆も頻発した時代、学問に注目し、侍臣太田全齋ら著名な儒者を登用して教育に当らせ、儒教精神によって、綱紀粛正を図ろうとした。 五代藩主正精は「詩書画三絶」と謳われた文官であった。文政二年(一八一九)江戸詰め藩士子弟のため丸山藩邸内に学問所を開校した。開校に当って、「孔子銅像」を下賜、「学問の事は心のほしゐままならざるやうに身を修るを第一とすべし」と、修身を教育目標に明示した。 ④設置学科と儒学 弘道館には文学所と十カ所余の稽古場が設置された。前者は儒学や詩文、後者は馬術、弓術、剣術、槍術、砲術を教授した。儒学教科内容は詳細不明だが、一般的に四書五経、孝経、小学などが採用されたものと思われる。 儒学教授は儒者、儒者格、儒者見習などの職階が敷かれ、菅茶山、鈴木宣山、衣川寛斎、伊藤貞蔵、伊藤文佐、北条霞亭などが名を連ねた。更に、山室如齋学術世話取り(弘道館総纏)の下に、会読・読書・御書物預かり掛かりを置き、事務運営の円滑化を図った。 ⑤弘道館の教育制度 ..入門資格、御家中、組の者、庶民有志としているが、出講時、「麻裃着用」を義務づけていることから、有資格者を村役人など富裕層に限定している。授業料 不要。文武奨励法として、賞詞、酒肴、賞金、俸禄加増、役儀昇進を定めている。 しかし、順逆の師弟関係、出席も自由、その上、どんなに文武が優れていても、世襲制に阻まれ、昇進や俸禄に反映されないとあって、学修意欲を削ぎ、出席率も低迷、期待された効果が上がらなかった。 ⑥誠之館の建設 ..七代藩主正弘は、異例の老中筆頭に昇進,内憂外患の真っ只中、自藩の学術奨励と時代の変化に耐えうる人材育成のために学制改革を決断、嘉永六年(一八五三)新学館建設を命じた。名も誠者天之道也、誠之者人之道也 誠は天の道なり、誠之は人の道なり。(誠は天から授かった正しい道である。これを誠にするのは人の道である。)「中庸」に依拠、「誠之館」と改称、江戸城西の丸造営指揮の功により加増された1万石の追い風と私財を資金に充て、満を持して学舎建設に着手した。 嘉永六年(一八五三)冬、江戸丸山藩邸に江戸学問所、次いで、安政元年(一八五八)冬、福山城下西町道三口(現霞町)に名実ともに新たな学舎「誠之館」を竣工させた。総面積四二〇〇坪、附属練兵場一八〇〇坪。広大な敷地に、正弘の「誠之館」教育に託す意気込みが窺える。 ⑦誠之館の教育制度 ..誠之館は弘道館の反省を踏まえ、民間採用の儒者関藤藤蔭などに諮問、世襲制に依らない昇進制度と時代の変化に即応した教育内容、前者は文武の到達度が俸禄・昇進に反映される「仕進法」、後者は「漢学」中心の教育に「洋学・医学・数学」など新たな学科を採用した。儒学教授陣に、側近の江木鰐水、関藤藤蔭、門田朴齋など錚々たる侍講が選ばれた。 明治五年(一八七二)、藩校「誠之館」は学制改革で、一旦、幕は引かれたが、その歴史と伝統を伝える当時の重厚な建造物、玄関はそのまま移築され、今もなお福山誠之館高等学校に承け継がれ、創立以来百五十年余の齢を重ねている。 *** *** *** ①廉塾の設立 ふるさと神辺宿は「町を歩く人はみな博徒で、酒飲みは多いけれど、本を読んで勉強する人は一人も見当たらない」と慨嘆した茶山は末弟耻庵や最初の弟子藤井暮庵の実指導経験を通じて「学種(学問の種を蒔くこと)=教育」で世直しを図ろうとした。 「天明元年ころ、居宅から山陽道を隔て斜交い、高屋川沿いに私塾「黄葉夕陽村舎」を開設した。」とされている。しかし、安永五年、「藤井暮庵、菅先生の門に入り教えを受く」(「暮庵先生略記」)などから、茶山28歳は「黄葉夕陽村舎」以前、すでに自邸内に村童対象の寺子小屋形式の塾「金粟園」を開き、教育に当っていたものと考えられている。 寛政四年、茶山45歳は塾の経営に専念するため、耻庵に家業の酒造業を譲った。寛政八年十月、茶山は塾永続の必要性を認識、福山藩に、私塾「黄葉夕陽村舎」の建屋に田畑を添え、塾を郷塾にしてもらいたいと上申した。寛政八年冬、茶山49歳、申請は聞き届けられ、郷塾となった。以後、「廉塾」「閭塾」「神辺学問所」と呼ばれた。 ②廉塾の教授陣 ..指導陣には、塾主茶山に加え、都講(塾頭)として、生え抜きの藤井暮庵、頼山陽、北條霞亭らが名を連ねている。加えて茶山に面謁を求めて訪れた文人たち、一流外部講師の特別講釈や出前講座も看過できない。 「朱子学」を標榜、私見を挟まないあくまでも原註に忠実な教育内容に徹し、期待される教師像として、「徳行第一」を旨とし、「芝居小屋と違って流行らずともよい」と明言している。 一方、藩校に民間学者登用の道を拓き、北条霞亭、門田朴齋、北条悔堂や賴山陽の弟子、自牧齋、江木鰐水、関藤藤陰、門田重長など、巨峰茶山に連なる弟子たちを藩校教授に送り出している功績も見逃せない。 ③「廉塾」の教育制度 ..廉塾は主に士族対象の藩校と異なり、職業、身分、出身地に関係なく塾生を受け入れていた。茶山の名声と人柄を慕って、四国、九州、近畿、東北地方など全国各地から若者たちが集まっていた。在塾生、常時、およそ20~30人。その総数はおよそ2000~3000人と推測されている。 束修料(授業料)は無料。原則、全寮制、食費及び書籍代として年間四両二朱。これは当時の奉公人一年分の給金より遙かに高額な教育費。茶山も「一郷一村に幾千百人かが居住」している中で塾生は極く稀な存在、親兄弟への報恩を籠めて厳しい自己研鑽を説いている。塾生の所持金は預かり、貧しい塾生には塾の仕事を手伝わせる奨学措置を講じていた。 廉塾はお上から預かっている施設と認識、自らの扶持金を含め、福府義倉教育教科料など、塾の財産として、世話役を選び、資金の運用に当らせている。子孫にも私的な流用を厳に諌めていた。 ④「廉塾」の教育内容 ..教科書・・・中庸、周易、礼記、書経集伝、詩経集伝、孟子、荘子、佐傳、杜律、近思録、蒙求、古文真宝、唐詩選などを採用している。 教科指導・・・素読、講釈・・・素読(ひたすら音読を重ね暗誦、文意に辿り着く)、講釈・輪講の予習・復習の繰り返しである。 詩文会・・・月六回(必修)に限定、敢くまでも、読書が基本、濫作を戒めている。初心者に漢字を覚えさすのが所期の目的とか。 野外活動・・・夏の観螢、重陽の節句の登山を年中行事とし、詩文会を織り込んでいる。座学からのリフレッシュメントも図った活動と思われる。 特別講座・・・出前・外部講師招聘による講釈・詩文会。藩の重臣や寺社、村役などから招聘を受け催行されることも多い。 廉塾規約・・・「本来、読書家は礼儀正しい」ので不要としながら、塾生の増加に伴い塾生活心得を成文化している。 学業―遅刻・欠席・外出届の励行、講釈中の居眠り・中座・無駄話禁止、図書貸し出し規則など。 学習用具・生活必需品―整理・点検・管理の日常化。大切な備品・器物の扱い 日常生活―質素倹約を旨とし、礼儀作法・あいさつの励行、いじめ・ひやかしの禁止。 寮生活 小雑司(当番)制により、火の用心、盗難予防・戸締まりなどの日課に当らせている。 金銭の所持・貸借禁止、所持金は「預り銀差引帳」に記入して塾が預かり、塾生の必要に応じて支出していた。 ⑤結び ..二〇一八年は茶山生誕二百七十年。廉塾は、茶山の希いどおり、茶山没後も、菅三(惟縄・自牧齋)―養嗣子晋賢(門田朴齋五男)によって承け継がれ、明治五年、学制改革まで存続、今もなお国特別史跡「菅茶山旧宅および廉塾」として、国重要文化財「茶山関係資料」とともに茶山が唱導した「学種」の源泉としての役割を担い続けている。 |
1 第27号発刊に寄せて | 会報編集部 |
2 菅茶山辞世の詩歌に想う | 鵜野 謙二 |
3 江戸後期の福山藩儒学教育について | 蒋 春紅 |
4 雪に耐えて梅花麗し | 上 泰二 |