| 広報ふくやま 「歴史散歩」のコピー 2023年4月~ 「菅茶山の足跡を訪ねて」シリーズ (1)4月号「龍泉寺桜」 (2)5月号「松風館跡」 (3)6月号「箱田道中」 (4)7月号「神辺驛」石碑 (5)8月号「自然科学へのまなざし」 (6)9月号「岡本池の碑」
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| 広報ふくやま 8月号コピー 菅茶山の足跡を訪ねて (5)自然科学へのまなざし |
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星夕 あまつ風 はらふ雲間に かけ見えて 夜半ふけわたる ほしあひの空 七夕の夜空を詠んだ菅茶山の和歌があります。 |
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| 茶山は漢詩だけではなく、多くの和歌や随筆を残しています。随筆をまとめた「筆のすさび」に書かれた内容は多岐に渡りますが、月食の話から始まり、彗星、月の大きさの話など天文現象の話題も多く、茶山の自然科学へのまなざしを感じることができます。
また、菅茶山が編さんした「福山志料」には二十六夜月待の記述があります。月光の中に阿弥陀如来を中尊に観音菩薩と勢至菩薩の三尊が現われると言い伝えられ、江戸時代に全国各地で行われていました。陰暦7月26日の夜、茶山が月を待っていたところ、細い月の下部に雲がかかり、月の両端の間に白い光が浮かび、それを見た傍らの僧が如来が現われたと礼拝したことが記されています。月の両端を脇侍の菩薩、中央の光を阿弥陀如来と捉えたものでしょう。 このような天文に関する記録を多く残した茶山の偉功を讃え、菅茶山と命名された星があります。天文学者の香洋樹と古川麒一郎によって発見された小惑星のひとつです。14等級の暗い星ですので、残念ながら肉眼では見えません。(補足説明*) 身の回りの自然にも優れた観察眼を持っていた茶山に倣い、茶山の見た星を思いながら、夏の夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。 「福山志料」(廿六夜月待 一部分) *菅茶山顕彰会会報26号の記事の一部:編集子1976年10月東京天文台木曽観測所で香西洋樹・古川麒一郎両氏が発見した6846番目の小惑星が、 1992年2月1日、両氏の申請で、「Kansazan」と命名され認定・登録された。 |
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| 広報ふくやま 9月号コピー 菅茶山の足跡を訪ねて (6)岡本池の碑 岡本池の碑⇒ |
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広報ふくやま 10月号コピー
菅茶山の足跡を訪ねて
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「読書をする人が各々行儀を正すことは勿論のこと、日々読み聞いたことの根本がすべてそこに通ずる」という一条を筆頭に、廉塾で学ぶ塾生が守るべき規則をまとめたものが「廉塾規約」です。 規約には、他にも(2)授業に出られないときは、理由を申し出ること(4)授業中に互いに笑ったり睨んだり居眠りしないこと(8)挨拶を丁寧にし、互いに好ましくない言葉を使わないこと(11)読書に飽きたといって、立ち騒いだり相撲を取らないこと(12)後輩や年若い者をいたわり、行儀を教え、仮にもいじめたり冷やかしたりしないこと(15)毎日掃除することはもちろん、月に大掃除をし、書物や硯、筆、傘などを整理すること(19)平生歩く時に走り回らないこと㉔塾生同士で金の貸し借りを行わないこと、といったように、現在の学校の校則にも共通するような細かいルールが定められていました(番号は規約の項番)。 廉塾は社会が安定し、文書を通じた行政が一般化した江戸時代にあって、文字を読み、書き、算盤(計算)という実用的な学問を学びたいという市井の教育要望に答えた私塾が始まりです。儒学者にして当代随一の漢詩人である菅茶山が塾を開いたことから、全国から塾生が集まり、のちに福山藩の「郷校」となり、公的な学問所としての役割をはたします。学費の払えない塾生にも、塾の仕事を手伝わせることで就学の機会を認めていました。多様な出自を持つ塾生が、同じ塾で心地よく学ぶためには、このような規則を定めることが必要であったのです。 菅茶山が廉塾の教育を通して人を育ててきたことを念頭に冒頭の一文を再度見直すと、塾生各自がルールを守ることはもちろん、廉塾において学んだ塾生たちが行儀を正し、その意識が伝播することで、社会全体をより良くしたいという茶山の理念が感じられます。行儀よく真面目に、誰もが平等に授業が受けられる学校がいいですね。 |
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広報ふくやま 11月号コピー
菅茶山の足跡を訪ねて
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「対潮楼」 評品江山人不同 傍觀遠客眼應公 望看朱棟懸天半 來見蒼□(山冠に品)挿水中 島嶼斷連松石影 雲濤豁達帆檣風 休言邦俗誇郷土 果爾靈區甲大東
(要約)どの山河を一番とするかは人によって違うが、遠方から来て眺めるひと(朝鮮通信使)の眼は公平であろう。望み見れば朱色の建物が天に懸り、近くを見れば蒼い岩が海にそそり立つ。島々が途切れ途切れに連なり松や岩が風景としてある。雲も波も悠々と広がり帆は風を受ける。郷土のひとが自慢するように、果たしてこの景色が一番美しい。
1795(寛政7)年に鞆を訪れた菅茶山が詠んだ漢詩です。 1711(正徳元)年第8回朝鮮通信使の一行は、福禅寺の客殿からの景色が対馬から江戸までの間で一番美しいと評し、従事官の李邦彦が「日東第一形勝」の書を記しました。 1764(宝暦14)年第11回の後、長らく途絶えていた朝鮮通信使は1811(文化8)年に来訪をすることになりました。しかし幕府の財政悪化などさまざまな理由から、使節は対馬で止められました。この対応のため対馬に派遣された江戸の儒学者古賀精里を茶山は神辺で出迎えています。翌年「日東第一形勝」の書を版木にして広く人々に見てもらうよう勧めたのは、この時古賀と話したことが理由だったかもしれません。 対馬止まりとなった12回目の朝鮮通信使。もし通常通りの経路を通り、鞆へ寄港していたなら、当世随一の漢詩人と称された茶山は鞆で使節と語らい得ていたかもしれません。 |
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菅茶山の足跡を訪ねて
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1825(文政8)年、頼山陽(49歳)が広島を出立して帰京の途中、菅茶山(77歳)を訪問し、数日間滞在して帰途につく際、丁谷(ようろだに)の観梅で別離の杯を交わしました。この時に詠んだ漢詩が神辺交流館横の石碑に刻まれています。
數宵閑話毎三更 未盡仳離十載情 送者停筇客頻顧 梅花香裏夕陽傾 (「丁谷餞子成卒賦」の一部)
(要約)幾夜にわたり深夜までしみじみ語り合ったが、それでも十年間別れて過ごした間の積もる話は尽きない。自分はいつまでも杖を立てて見送り、客(頼山陽)は、しきりに振り返りつつだんだん遠くなる。そうしている間に、この梅の匂う里に夕陽が傾いた。
頼山陽は、江戸後期の儒学者で、「日本外史」「日本政記」を著した歴史家として著名です。竹原で来遊していた茶山と出会い、酒宴を共にした縁もあって、山陽は茶山に身の振り方を相談する手紙を1807(文化4)年に送っています。父春水からも相談された茶山は1809(文化6)年12月29日、山陽を廉塾に都講として迎えました。 茶山は、山陽の詩才・文才にすっかりほれこみ福山藩に任用してもらうよう運動していましたが、山陽は茶山に上京したいと訴えました。茶山もついに折れて山陽の上京を認め、山陽は、1811(文化8)年2月廉塾を去りました。 茶山のもとを離れた山陽ですが、あくまで茶山を尊敬し、いつも書簡で礼を尽くすとともに、帰省の往復ごとに茶山を訪問するなど師の恩を忘れませんでした。この碑からも両者の親密な関係が分かります。
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菅茶山の足跡を訪ねて
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福山左義長は、1623(元和9)年正月に水野勝成の入城を祝って、城下の人々が飾りとんどを引いて東堀端に整列したのが始まりです。城下町各所が競って飾りを工夫し、音頭を唱えながら市中をかつぎまわるという練り歩きが特徴です。 1815(文化12)年頃、江戸の学者 屋代弘賢が全国の藩に送った風俗・年中行事についての質問状に対する福山藩の回答書に「備後国福山領風俗問状答」があります。祭り、諸行事、遊び等について、多くの挿し絵を入れ事細かに記録された地誌で、藩内での聞き取りや領内各地から寄せられた報告書を基に、菅茶山が中心となって編さんしました。 その中の正月の項に「左義長の事」という記述があります。 「とんどという。城下町々、十日頃より子どもたちが、家々のしめ縄、松飾りを集める。その後老若そろって大竹四本を縄で巻き立て、裾を四つ足に開き山という。(中略)飾りは年々思い付きの品や鳥獣草木まで手を尽くす。大小およそ三、四十基が十三日までに飾りつけられ、十三日・十四日に市中をかつぎまわる。十四日の申の刻(午後4時)に本庄村前地に持ち出して火をかけ、「とんどや左義長(とんど)や明年もござれや」と人々はやして燃やす。この時、もちを竹にはさみ、その火で焼いて持ち帰り、人々少しずついただいて祝う…」と、4枚の挿し絵とともに詳細に書かれており、福山左義長が、この時期にも正月行事として継承されていたことが分かります。 令和の今では練り歩きは減少しましたが、今年も一年の無事を祈って各地でとんどが行われます。 |
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菅茶山の足跡を訪ねて(11)西福寺の梅 |
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茶山は自身を「梅癖」と称すほど梅の花が好きだったようで、梅を詠んだ漢詩がいくつも残っています。神辺町の西福寺には、菅茶山の「西福寺賞梅」の歌碑があります。
品茶琢句坐斜陽 閑事偏知春日長 暮鳥還棲驚有客 梅花花底小僧房
(要約) お茶を楽しみ句を捻って座っているうちに日が傾いてきた。のんびり過ごしていると春の日は長い。日暮れに鳥がねぐらに帰って来ると、客(茶山)がいたことに驚いたようだ。満開の梅の花に覆われた小僧房でのこと。
梅の咲き誇る頃の穏やかな景色と、鳥に心を寄せる茶山の人柄が伝わってきます。 文人たちにとって梅は特別なものであったのか、身近な場所だけではなく遠方まで梅を求めて足を運びました。13歳年上の友、西山拙齋が神辺を訪れて、初めて顔を合わせた際も三原まで梅を見に行っています。 西山拙齋は茶山に先駆け、鴨方に私塾「欽塾」を開いた儒学者です。京都で同じ師に学んでいますが、知り合ったのは郷里に帰ってからのことです。拙齋は茶山にとっては最も交遊を深めた人物で、師のような存在でした。神辺を訪れた拙齋は茶山とたびたび西福寺に遊び、詩を詠んでいます。1798(寛政10)年に拙齋が亡くなるまで交流は続きました。 また茶山の編さんした「福山志料」の西福寺の項には、拙齋の漢詩が掲載されており,親交の深さを物語っています。 |
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菅茶山の足跡を訪ねて
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廉塾から南に500mほど進んだ黄葉山の東麓,網付谷に茶山の墓があります。その墓碑に茶山の人物像を記した次の一節があります。 先生為人 偉軀幹方面高顴 (大意) この墓碑は菅自牧斎(廉塾の2代目塾主)によって建立されたもので,「茶山先生菅君之碑」と題された碑文は,広島藩士で儒学者である頼杏坪の撰文で茶山の人物像のほか,経歴や業績,塾の経営に関することなど,その一生が簡潔に記されています。 |
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