⇒菅茶山の紹介

 菅茶山顕彰会HPに、初期から掲載しているページです。 著者不明

 菅茶山と漢詩     『黄葉夕陽村舎詩』

 菅茶山の漢詩集『黄葉夕陽村舎詩』の構成は、文化九年(1812)出版の「前編」八巻「附録」二巻の五冊、文政六年(1823)出版の「後編」八巻の四冊、天保三年(1832)出版の「遺稿」の〔詩集〕七巻〔附録〕一巻・〔文巻〕四巻の四冊、合計十三冊から成る。

 この詩集の出版について、森鴎外は小説『井澤蘭軒』で菅茶山の文化七年の手紙を紹介している。
その中で「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡弊弟が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したら醜態呈露一笑の資と存候。
銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。
これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日菅太中晋帥。井澤辞安様

と自費出版が当然であった世に「銭一文もいらず本仕立は望次第」とお金も必要なく仕立ても望み次第であり弟の恥庵の詩及び散文をも「前編」の「附録」上下二巻に納めさせている。


 『黄葉夕陽村舎詩』巻一の巻頭には、小原業夫(1775〜1831、名は正修、字は業夫、号は梅坡、岡山藩士)の序があり、つづいて天台宗の学僧六如上人の書簡二通が収められている。
その最後に「菅君茶山案下」と脇付がされており茶山の詩に対する評が書かれている。「他人の吟巻は之を読みて、未だ両三(二、三回)号に過ぎずして已に倦みて眠る。この集のごときは甘藷(甘いさとうきび)を啖ふが似し。只恨むらくは其の了し易きこと又石蜜(氷砂糖)の如きを。中辺皆甜く、奇瑰(めずらしく優れたもの)横陳(横に連ねる)と毎も往々人をして自ら缺然(もの足らない)たるを視はしむ。礼卿足下深く自ら保重(自重)せよ。天下後世必ず公論有らん矣。周白す。」(もと漢文)


 また、『黄葉夕陽村舎詩』「前編」最尾に小寺廉之(1782〜1849、字を子和、通称は帯刀、号は葵園、備中国笠岡稲荷神社の祠官であった小寺清先の三男で茶山に学んだ。)の跋がありそれには茶山の詩風について次のように書いている。

 「茶山先生の詩、京師の一書肆予に懇に刊行を求む。予其意を叩ねて看んことを求むる者多きを知れり。頼子成(頼山陽)去年先生の塾に寓し、人に謂ひて曰く、嘗て謂へらく先生の居、詩集類書汗牛充棟(蔵書の多いこと)にして、先生其間に吟嘯するならんと、既に来り視るに僅々(わずがに)二三部に過ぎざるのみ、と。

予も亦嘗て恠しむ、先生講説の暇、花を蒔き鳥を聴き、以て楽しみと為し、未だ嘗て其鬚を撚り肩を聳やかせるを見ずと。因て諸を先生に質せり。
先生曰く、吾三十歳前後頗る意を雕鐫(ちりばること)に用ひたり。魯堂先生曰く、子佳詩を作らんと思はば、佳境を求めざるを得ず、佳境を求めんと欲せば虚構し、奇を競はざるを得ず。是詩に役せらるる也。境に随ひ興を寄せ、以て娯しみを取るべく、以て憂を遺るべし、他に求むること勿れ、と。

吾其言に服して復た刻苦せず、と。予因って所謂其の詩の多からざるは虚構を為さざるが為なり。其の語の平易なるは奇を競ふこと為さざるが為なり。世の此れを以て名を徼むる、汲汲孳孳(せっせと励むさま)たる者多し。
然れども人特に、意を先生に屬するは何ぞや、乃ち知る、所謂真の詩は、彼に在らずして此れに在るなり。是書肆の奇貨(うまい金儲け)と為す所以か。  文化辛未(1811年)十二月 備中小寺廉之子和識并書」(もと漢文)


 この詩集の上欄には茶山の友人知人合わせて七名が詩評を載せている。
 茶山の師那波魯堂(1727〜1789、名は師曽、字は孝卿、号は魯堂・鉄硯道人)、備前の武元君立(1770〜1820、名は正垣、字は君立、号は高林・北林・閑谷学校教授)、天台宗の学僧六如上人、旧知の友人であり広島藩の儒者である頼春水(1746〜1816、諱は惟完・惟寛、字は千秋・伯栗、通称弥太郎、号を春水・霞崖・拙巣・和亭)、春水の子であり茶山の私塾「廉塾」の塾頭を務めた頼山陽、同じく塾頭を務めた北條霞亭(1780〜1823、字は子譲、号は霞亭、志摩的矢の出身で茶山の姪と結婚「廉塾」の塾頭となる。)、茶山の末弟菅恥庵(1768〜1800、名は晋葆・晋寶、字は信卿、号は恥庵・三閘・小驛)である。これらの中で一番多く詩評を載せているのが頼山陽である。

 『黄葉夕陽村舎詩』遺稿の序で山陽は、「前略…余が読書の処は、翁の室と水竹を隔てて相い対す。評論あるごとに、童生をして巻をフげて往復せしめ、筆を以て舌に代う。此の如きもの周歳(まる1年)なり …後略」(もと漢文)と「廉塾」にいたときから詩の校訂を行っていた。
 また、『黄葉夕陽村舎詩』文巻附録、「茶山先生行状」の中で山陽は、茶山の詩を次のように述べている。
「前略… 著述文章は適用に帰し詩は尤も其の長ずる所、然れども家名を以てするを欲せず興に触れて吟哦し務めて実際を叙し虚設暇搆を事とせず肯へて苟しくも作らず切琢数四にして篇成る。
又人に諮詢(意見を尋ねる)して改竄を憚らず、然る後始めて世に伝う。而して淡雋隠秀艱苦の態を見ず、其緒余(本業の片手間)を以て国詩を作る亦能く人の意表に超ゆ。
享保正徳より諸大家輩出し大抵嘉万七子に本づきて唐賢を模擬し大にして未だ化せず、葛蠧菴(1739〜1784、名を張、字を子琴、号は蠧菴・竹風楼・小園叟、片山北海を盟主とする混沌社の一員)之を一変し六如師之を二変す、
而して江湖社(市河寛斎を盟主とする詩社)諸子更に相標榜(名目をつけてほめたてる)し海内ぎょう然(したがうこと)復旧習に非ず、然れども其剛柔互ひに用ひ洪孅(大きいこと細かいこと)悉く有して而も風格高逸一唱三嘆(詩文の優れているのを褒める語)の意のある者を論ずれば識見独先生推す。 …攻略」(もと漢文)

 『黄葉夕陽村舎詩』文巻に収められている北條霞亭の詩集『嵯峨樵歌』の序文の中で茶山は「前略… 其詩は力めて實境を写して、時尚(流行)を逐わず、余の衆作にたらざる所の者、子譲、或いは能く之を言う…後略」(もと漢文)と述べ、同じく『黄葉夕陽村舎詩』文巻にある「復古賀太郎左衛門書」では茶山自身の詩に対する考えが克明に述べられている。
 「前略… 喜怒哀楽人々異あり、山川原隰在々同じならず。人々異あるの情を以て、在々同じならずの境を写す。其の言、豈斎しむ可きや。故に詩、家々体異なること宜しく、人々調同じゅうすること宜しからず。
此れ自ら論弁持たず。後世の詩、大抵娯楽を取るの具と為すに過ぎず、外に徇うる者、人の己を誉むるを以て悦と為し、之を逍遥自適し外に持つ無し者に比す。其の娯楽を為すは如何也。亦た、自ら論弁持たずや。外に徇うる者、内に遣し省みずは必ず也。
将に、喜ばずして笑い、怒らずして罵り、哀れまずして哭き、楽しまずして歌う有らん。
学を以ての之を言うは、欺慊の路に既已に此に岐つや。古人、佩玉の微、猶以て其の徳を養う有り。況んや、詩の志を言うは其の択す有らざる可きや。
事実を述べ、実際を写し、前人の顰に倣わず、時世の粧を学ばざれば、乃ち初めて偽詩に非ず也。 …攻略」(もと漢文)
このように詩に求めるものはやはり、務めて実際を写して、虚構はあえて作らずであった。

 このような詩に対する考えは菅茶山の生き方そのものであったといえるのではないだろうか。