⇒神辺ご案内
 神辺宿今昔
           菅茶山の暮らした神辺宿                                                                    著者:上 泰二
Ⅰ 菅茶山略年史

 菅茶山は江戸時代後期、備後国安那郡神辺宿で生まれ、京都・大坂に遊学したが、その後、大方の学者が志す三都(江戸・大坂・京都)を敢えて選ばず、生涯、神辺宿にあって、故里並びにその近郊の教育・文化の源流となった巨人と言える。
とりわけ、江戸時代文化・文政期のベストセラー「黄葉夕陽村舎詩集」で天下に声名を馳せた当代屈指の漢詩人。
多くの文人墨客たちが面謁を求めて訪れた文人サロン当主。私塾「金粟園」-「黄葉夕陽村舎」を「廉塾」に郷校化、出自、身分、職業の別ない入塾条件とその為人を敬慕して全国から集まった延べ2000~3000人とも推定される学種を育て、全国各地に送り届けた教育者として、山陽道鄙僻の小さな宿駅神辺を「あの茶山がいる神辺」として全国津々浦々に広めた。

しかし、「菅茶山先生行状」(賴山陽)、「菅君茶山先生墓碑銘」(賴杏坪)などから推し量ると、茶山は「名聞好き」と囁かれるのが厭で、死の直前までずっと固く口を閉ざしていたが、天明6年・7年(1786・7)に跨がる天明の百姓一揆の際、飢饉に喘ぐ困窮者を救うため率先して私蓄(斗米)を放出し、更には文化元年(1804)千田村庄屋河相周兵衛らの背中を押して、自らが「福府義倉」と命名した救恤結社を立ち上げさせるなどしている。
これらの社会事業としての事蹟こそが後世に最も伝えたかったメッセージではなかったのかとも思われる。

一見その大柄な体躯や四角張った顔貌、老いて白髪頭から受ける印象とは思いの外、謙譲で温和、偉ぶりもしないで、相手の誰彼の別なくユーモアたっぷりに話す為人と中庸且つ卓越した見識が、遊学先の京坂のほか、江戸、常陸、大和など遙々訪れた旅先にあっては、名勝、風土を網羅した漢詩・和歌・紀行文を遺し、老中松平定信侯に代表される公人や文雅の人、神邊宿を往来する藩主清末侯(毛利匡邦)や訪問客は言うまでもなく、隣近所の童たちに至るまで愛され親しまれていた。

生来、病弱であったが、却って、そのことが幸いしたのか、父樗平・母半・伯父高橋愼庵譲りの読書と詩作への萌芽を育んだ。
当時、藩主阿部氏は概ね幕閣、定府の習い、自藩の台所事情と天理を無視した藩政に一揆が続発、宿全体が頽廃ムード、展望の持てない村のお歴々に倣って自らも沈めた。 呑む・打つ・買う の深淵から抜けだし、19歳、一念発起、京坂への初の修学。
賴春水の「青山社」、葛子琴への追憶が新鮮な「混沌社」社友、「懐古堂」中井竹山・履軒兄弟らと交流を重ねた。
30歳、考え抜いた末、恐らく西山拙齋を範としたのであろう、処士として古里を永久の棲家と決め帰郷するまで、生家の東本陣役を務め、近隣の童生を教授する傍ら、断続的に六回遊学を繰り返し朱子学と医学を修め、和臭味のない宋風の写実詩を創始し、やがて、版元の方から破格の条件で乞われベストセラー「黄葉夕陽村舎詩」集を発刊した。

大方の知るかぎりでは、その中、29首(神邊町内18首+松風館十勝碑林内3首、福山市内1首、府中市内3首、三原市内1首、尾道市内1首)の詩碑が、それぞれの詩ゆかりの舞台や茶山を主客としたハイレベルな文人サロンの所在地を今に伝えている。
自らが招かれた各地での文雅の集い、廉塾などで遠来の客に求めた講釈、詩文会etc.今日の社会教育事業の草分けと呼んでも過言ではなかろう。

茶山が自作の川柳「燗鍋(かんなべ)は酒呑む人は多けれど本読む人は銚釐(ちろり=「ちっとも、少しも」)ともなし。」と慨嘆していた神邊宿の世直しのため自邸内に開設した「金粟園」時代、安永4年(1775)、入門記録が残る一番弟子藤井暮庵や末弟耻庵への指導実績から自信を得、寛政4年(1792)、其の家の東北河堤竹林の下に本格的な村塾「黄葉夕陽村舎」を築き、「益々、書を読み、村童の教授」に専念するため家業「酒造業」を耻庵に委ねた。
その後、永続的な教育の重大性に鑑み、自らの血筋の繋がる後継者に恵まれなかったことも相俟って、寛政8年(1796)、塾・塾田の藩営化を申請、翌寛政9年(1797)認可され、以後、「廉塾」または「神邊学問所」と呼ばれるようになった。後年、経済学者との異名も付加された経営の才もあって、「廉塾」は繁栄、明治5年(1872)の学制改革まで存続した。
その後も、茶山が編みだした教育内容は二世紀半を隔ててなお廃れることなく現代の教育内容のそこかしこに脈々として引き継がれている。
その教育理念は中央ではなく地方、郷里にあって、虚心に学種こと教育を通じて世直しを勧めること。教育内容は「廉塾規約」「菅太仲存知寄書」などに、「徳行を以て第一とする」期待される教師像、教師の使命、次世代養成の根幹は、厳しい反面、慈愛に満ち満ちた子弟愛が詩文や墓碑銘などに遺されている。

医者でもあったことから、健康管理に努め、飲酒についても、「酒に飲まれない」程度の量を守り、次世代を担う塾生を育成する一方、専ら、詩酒徴逐、足の向くまま、気の赴くまま、そこかしこ閑行、見聞、感得したことを、謂わば、全身全霊を駆使した漢詩や文筆に託した。それが相乗効果をもたらしたのだろう。
人生僅か50年と言われた当時としては、稀有な傘寿、80年という生涯を全うさせたと言えるかも知れない。


Ⅱ 神邊宿鳥瞰~城下町から宿場町へ~
 元和5年(1619)水野勝成が大和国郡山藩から備後国福山藩十万石を受封、一旦、神辺城に入城、備後国福山藩の始祖になった。一国一城令下、勝成は家康とは従兄弟同士、隣国岡山・安藝広島両藩への抑え役の意図もあって、特に認められ、元和8年(1622)神辺城から、近未来に舟運を見込み現在地常興山に新築した福山城に移り、海岸を埋め立て城下町を作り、次々と新田開発、治水工事を進めた。
芦田川の水を通称、「どんどん池」に貯め、浄化して、城下の武家屋敷や商家などに給水した。赤穂に次ぐ国内で二番目に古い水道、古幹線水路網の長さは約3里半(14km)に及ぶ画期的な水利事業である。

一方、神辺は井戸水と併せて、高屋川から水を引き、堀跡と見られる水路を活用、廉塾講堂前庭で川北・川南に分水、生活用水としていた。移城を境に、城下町としての役目を終え、武士は各地へ分散、戦略上、鈎辻の多かった町並みをそのまま残して農工商民が根づいた。

   神邊驛   菅 茶山
黄葉山前古郡城 黄葉山前 古郡城   黄葉山前は古の城下町
空濠荒驛半榛荊 空濠 荒驛 半ば榛荊 空濠 荒れた驛 大分雑木が繁っている
一區蔬圃羽柴館 一區の蔬圃は羽柴館  一区画の野菜畠は秀吉が泊まった館の跡
數戸村烟毛利営 數戸の村烟は毛利の営 数戸烟が立っている辺は毛利軍の陣営跡

 強者どもの夢の跡。これは茶山が目と心に映ずるがまま、詩句に委ねた神邊の風景である。その宿で、端的に言えば、時代劇「水戸黄門」でお馴染みの世界が日夜、繰り広げられて行く。
近年の日本とは天地の差、超安心・安全の世相とは言いながら、時に胡麻の灰(蠅)も登場した旅路、陽の高い中からやって来宿する客を競い合い呼び込む宿屋の番頭や女中、陽暮れ、やがて賑やかな笑い聲やざわめきも途絶え静まりかえった夜更けの街頭を按摩が杖を頼りに笛を吹きながら通り過ぎていく・・・。

江戸後期神辺宿絵図(「神辺風土記」菅波堅次著)などによれば、平野一里塚(荒神社内)から(平野古市)暫く西へ。平野と神辺の境界に造った堰の跡がある。
天保11年(1840)高屋川氾濫後、神辺宿を水害から守るため築かれた。洪水の都度、宿と犠牲を強いられた平野村民の間で熾烈な争いが絶えなかったと言う。

現鵜野謙二氏邸付近に神辺宿の東門があり、七日市。十日市の西門と併せて、夜の定刻が来ると門を閉め、一切の出入り禁止。その西に、土手を隔てて裏手に高屋川が流れる現存の廉塾、その西隣に伯父高橋愼庵邸、高屋川大仙坊橋に通ずる小路を挟んで前述の「神邊驛」詩碑が目印の小早川文吾屋敷跡、太閤(豊臣秀吉)が九州へ向かう途中立ち寄ったとされる伝太閤屋敷跡、村一番の銘水「太閤水」こと「鍵屋水」が湧出る井戸があり、千利休が、その水で太閤のためにお茶を点てたという伝説も知る人ぞ知る。埋め立てられて久しい。

廉塾の筋向かい、東から北条霞亭邸・東本陣・小早川文吾邸などが姿を消している。
街道に併行する南小路、入口近くの普門山西福寺には茶山詩碑「賞梅」、境内に小早川楽々翁(文吾)の墓が建立されている。

街道を西下すれば、鈎辻沿いの横町、三日市と合流する三叉路、南の突き当たりに黄葉山麓の天別豊姫神社(神辺大明神)がある。1700年代、「氏神道」として新道(宮通り)が整備された。中途、直ぐ茶山と判る特徴のある筆蹟、「献」を彫り込んだ石柱がある。

天別豊姫神社の東山麓に南北に長い菅家墓地があり、その西南の一角に御霊屋に菅茶山の墓がある。
前面の巨大な楠に見守られ東向、寄り添うように左に自牧齋(菅三郎・茶山養子)右に井上敬(萬年継室・菅三郎母、茶山姪)の墓、その右に、二人の愛弟子の墓がある。

引き返して、横町、西下すると三日市通り、高屋川掛の橋に繋がる往古の幹線道路の西に現存の神辺本陣、南向かいに問屋(人馬の継立・荷物の運送)、御茶屋屋敷(福山藩直営公用舎専用休泊所)、鈴鹿秀満邸、再び鈎辻(現広島銀行付近)で南下、紺屋町(城主御用商人町)、十日市通りを挟んで、東側に薬上山光蓮寺、西側向かいに藤井暮庵跡がある。

町屋は間口が狭く、奥行が長い短冊形土地区画。黄葉山西麓直下の武家屋敷群を取り囲むようにして東から西へと広がって行ったと言われている。
宿は東惣門跡(現中国銀行付近)、道の両側に土塁を築き、その上に竹の柵が設えられていた。
今は少し離れたR313沿道(川南長畑)に巨大な常夜塔が大締め役として往来する人々の安全を願っている。 
寛永10年(1633)街道・宿駅の整備が命じられた。神辺宿は山陽道、石州銀山街道、笠岡道が交叉する交通の要衝、旅人の便宜を図って、御領と平野に一里塚、そこかしこに憩亭(辻堂)が建てられた。
その後、永年にわたって、街道整備が地元領民に課された。不孝にも、延宝元年(1673)年、堂々川が氾濫、国分寺が流失、下御領村では63人の犠牲者を出した。
元禄10・11年(1697・1698)にかけて、東中条村で砂留実施計画が起こった。しかしながら、堂々川流域の砂留工事が始まったのは享保7年(1722)、八代藩主正福時代、藩の台所事情で実に20数年に及ぶ空白があった。

堂々川砂留(国登録有形文化財指定 平成18年・2006年)を白眉に全国屈指の砂留が現存している背景に、神邊が全国最寡雨地帯、透水性が大きく、風化・崩壊が早い花崗岩地帯故に土砂災害防止と水源保護対策と併せて、西国大名の通過する山陽道の宿場であったことから、幕閣を担う福山藩が他藩に対する面目に賭けても整備をなおざりにできない事情があったためとされている。

 寛永12年(1635)、大名弱体化のため、参勤交代が制度化された。江戸幕府は全国の諸大名を一年江戸に住まわせ、次の一年自分の領地に住まわせることになった。
これら諸大名の旅(大名行列)の途中、大名や大勢の家来専用の休宿泊場所(本陣)や荷物運びをする人足や馬を代えたりする宿場が必要になった。
神邊本陣は本家、現存の西本陣(尾道屋菅波家)と分家、茶山の生家、東本陣(本荘屋菅波家)の二カ所があった。西本陣は嘉永4年(1649)筑前福岡藩黒田家の定本陣となった。藩主に随行する家臣団は近くの佛見山萬念寺や宿屋を利用していた。

また、継立、次の宿場(井原市高屋宿・福山市今津宿)まで荷物を運搬する人馬の用は西本陣近くの問屋が受け持ち、川北・川南村を初め近隣の村の庄屋を通じて必要な人馬を集めていた。
どちらも、お上の御用故に、本陣は萬遺漏のない受け容れに備え、改修や新築工事もあり、一定の報酬額は決められていたが、「入るを量りて、出るを制する」わけにはいかなかったようである。
助郷も、「寄馬人足の制」で縛られ、日当は格段に安い上、農繁期、春3・4月と秋10月頃の出役を強制されることが悩みの種だったようである。

元禄11年(1698)水野氏が断絶、旧領地は幕府領になった。元禄12年(1699)幕府の命により、岡山藩が福山領を検地した。その結果、十五万石となった。増収分の五万石は勝成が進めた新田開発によるものである。
元禄13年(1700)松平忠雅が出羽国山形藩から備後十万石に転封される。残る5万石、西中条・東中条・箱田・三谷村、粟根・山野村、神石郡が上下陣屋支配となった。これが、茶山が編集を命ぜられた「福山志料」(文化6年・1809)に欠落している所以である。
宝永7年(1710)阿部正邦(初代福山藩主)が宇都宮から転封され、以後、明治2年(1869)第十代藩主正桓による版籍奉還まで、実に十代161年間にわたって、阿部家が福山藩政を担った。


Ⅲ 福山藩と百姓一揆
延享5年(1748)2月2日、菅茶山がこの世に生を享けた。
(延享5年7月12日、寛延に改元)。同じ年の寛延元年阿部正右が第三代福山藩主になり、やがて老中まで昇り詰めている。以後、十代正倫、十一代正精、十三代正弘と老中職、定府という誇るべき系譜、幕藩権力の一翼を担い、権力の座に固執する余り時ならぬ加重の財政支出も必至であったろう。
それに、総数2200余人の家臣団中、926人(40㌫超)が江戸・上方に常駐する経費。それを支えている縁の下の力持ち、領民が農事暦と抗う術もない天変地異を無視した苛斂誅求の賦課が屡々百姓一揆を蜂起させたと言える。
因みに、「福山地域災害略年表」を見れば、福山藩の事情と百姓一揆の因果関係が自明になる。

宝永7年(1710))初代藩主阿部正邦、下野宇都宮より移封入城
宝永8年(1711)正邦が朝鮮通信使鞆滞在・千田沼改修費と労役を領民に課す
正徳5年(1715)正邦死す。二代正福継嗣

享保2年(1717)洪水、大火
享保2年(1717)~享保3年(1718)享保の百姓一揆
享保6年(1721) 芦田川氾濫
享保17年(1732) 大虫害 飢饉
享保18年(1733) 利根川普請手伝い 城下木綿橋に「目安箱」設置
享保19年(1734)2月、城下笠岡町から出火1150軒余焼失
延享2年(1745)正福、大阪城代
延享5年・寛延元年(1748)茶山(幼名 菅波喜太郎)誕生
寛延元年(1748)6~7月、旱魃 9月、洪水、死人・馬多し
正福、隠居、三代正右継嗣

宝暦2年(1752)正右奏者番に栄進
備後地方夏旱魃、秋淫霖雨つづき不作、飢饉
宝暦3年(1753)2月28日~3月3日 宝暦の百姓一揆
 夏 流行病
宝暦5年(1755) 長雨、洪水、気候不順 7月、大風雨で凶作
 中条農民騒乱
宝暦6年(1756)藩主正右が寺社奉行兼任
 春 飢饉
宝暦7年(1757)夏 流行病 大風雨
宝暦10年(1760 洪水)1762 7月、旱魃が追い打ちをかけている。
 正右、京都所司代になる
明和元年(1764)正右、西丸老中になる
明和2年(1765)藩主正右老中栄進
 6月、城下で大火、吉津町、本町、胡町、東町、三吉村、焼失
明和4年(1767 )11月18日 三日市出火 御茶屋~東本陣60軒焼失
明和5年8月、領内暴風雨。田畑家屋損害甚大
明和6年(1769)百年来の大旱魃 
正右、老中在職中に死す。四代正倫継嗣

明和7年(1770)8月24日~28日 明和の百姓一揆
 定藤仙助(下竹田)、北川六右衛門(下竹田)、渡邊好衛門(下御領)、首謀者として処刑
安永3年(1774)正倫、奏者番になる
安永5年(1776)正倫、日光社参奉行になる。
安永8年(1779)正倫、寺社奉行となる
天明4年(1784)伝染病が流行。329人が病死
天明5年(1785)奸臣遠藤弁蔵 「惣郡之御用掛、惣纏役」になる

天明6年(1786)長雨と冷害で不作
12月14日~12月22日 天明の百姓一揆
         正倫、農民の要求を拒否
天明7年(1787)1月26日~2月22日 天明の百姓一揆(再発)
 頭取は徳永徳右衛門。見事な戦術で、一揆を指導、犠牲者を出さず、血も見ることなく30ケ条からなる要求を実現した全国でも希有の百姓全面勝利の一揆。正倫老中昇任の一週間後、「病死」。享年38歳

文化2年(1805)2月28日 十日市出火。12軒焼失
文化4年(1807)2月18日~19日 三日市、出火。西福寺~七日市出口・三日市西~紺屋町表側250軒焼失
 2月18日、茶山は亡父樗平の十七回忌を無事務めた、その夜、大火があった。北西の風強く、火は三日市から七日市まで総なめ、私宅及び親族(東本陣)本宅、土蔵ともに全焼した。延焼206件。幸い怪我人は居なかった。藤井暮庵宅と向かいの光蓮寺(十日市)、西本陣(三日市)、廉塾と西隣の高橋家は類焼を免れた。

文政6年(1823)大旱魃。藩は城下各地の神社、寺院に「雨乞いの御祈祷」の役人を派遣。7月2日、神辺大明神へも代参。沼隈のはね踊り、家並み、道筋に松明が灯され、笛に太鼓が打ち鳴らされた。
20日を過ぎて、雨の気配が表れ、数日後大雨となった。
天保元年(1830)大雨洪水。百姓一揆(未遂)
  小林嘉忠治(道上)が、「策謀者は自分一人」と申し出て入牢、処刑。同志は全員釈放。

天保11年(1840)6月5日~ 未曾有右の大洪水
備中井原・高屋、府中中須、高木、横尾・藪路・千田・片山、神辺一帯が大洪水に襲われる。
藩も救助、医療、炊き出し支援、天下橋から木綿橋にかけ被災者の架設小屋の設置、10月には城下で犠牲者の一斉供養を執り行った。

安政元年(1854)・2年 大地震
安政2年(1855)10月3日、神辺宿で強震があった。本陣の土蔵、土塀が崩壊。修復時、寒水寺から疎石を譲り受けた。


Ⅳ 福山藩と菅茶山&文筆活動
 寛政4年(1792)藩主正倫は林述齊との詩論で、自国の茶山45歳が漢詩人として、No.1であることを初めて識り、五人扶持を給し、儒医を命じた。
実は、これより前、天明6年(1786)、福山藩は藩校弘道館開校に当って、茶山39歳に教授として招聘の話を持ち込んでいるが、茶山は病気を理由に辞退している。当時、詠まれた詩から、正義感の強い青・壮年期ならではの茶山の政治批判が根底にあったと見られている。

安永元年(1772)、京都遊学前後から茶山25歳は刎頸の友、西山拙齋の勧めで、古文辞学から転じ、朱子学那波魯堂の門を潜った。この頃から、拙齋の思想、生き方に共感、老中田沼意次・意知親子の賄賂政治から老中首座松平定信(天明七年(1787)~寛政五年(1893))による黎明期「寛政の改革」前までの拙齋編「休否録」に、茶山詩34首が掲載されている。

その中「歎齋」(田沼父子を誅殺した武士を義士と称えた作品)は、山陽の「忌諱に触れん」との意見を全面的に受け容れて削除し、「黄葉夕陽村舎詩」には3首「窮隣」「丁屋路上」「即事」のみに載せられている。
天明2年(1782)この年まで作品「黄葉夕陽村舎詩」前編巻一 成る(以下略述)
天明5年(1785)「黄葉夕陽村舎詩」前編巻二

天明6年(1786)福山藩弘道館が開校。茶山、教授に召し抱えられたが、病弱を理由に遜辞
天明8年(1788)「遊藝記」「冬日影」成る
寛政3年(1791)「黄葉夕陽村舎詩」前編巻三
 藩主正倫、林述齋を通して茶山を識る。福山藩儒医として5人扶持を給される
 寛政5年(1793)茶山46歳、福山米屋町で月2回、漢籍の講釈をする
 寛政6年(1794)茶山47歳、妻宣を伴い「北上歴」の旅に出かける。
亡父樗平の「三月庵集」を編集
 寛政7年(1795)茶山48歳、福山藩御家人に召し抱えを断る
 寛政8年(1796)茶山49歳、「郷塾取り立てに関する書簡」を藩に提出。

寛政9年(1797)「黄葉夕陽村舎詩」前編巻四
 藩が「黄葉夕陽村舎」を郷塾として認可
 茶山が名付け親の「福山義倉」(発起人 河相周兵衛)創設
寛政12年(1800)「黄葉夕陽村舎詩」前編巻五
 享和元年(1801)茶山54歳、藩から儒官に任じられ、藩校弘道館で講釈する
享和3年(1803)「黄葉夕陽村舎詩」前編巻六

 文化元年(1804)茶山57歳、正精公に召されて江戸へ赴く(1月21日出立)。
藩主に従って帰郷(11月5日)。「福山志料」編集始める
  在府中、賜暇を取り常陸に遊ぶ。寄稿文「常遊記」(常陸ミちの記)成る
 「黄葉夕陽村舎詩」前編巻七
 文化4年(1807)茶山60歳、神辺大火。「福山志料」関係書類は焼失を免れたが、伯父高橋愼庵の遺著焼失。金粟園が焼失したため、以後、茶山は自宅を廉塾に移す。
 文化6年(1809)茶山62歳、「福山志料」の編集成る
  「黄葉夕陽村舎詩」前編巻八
 文化7年(1810)茶山63歳、都講賴山陽を伴い、東門太夫(福山藩家老内藤景堅)などの招宴に臨む
文化8年(1811)「黄葉夕陽村舎詩」後編巻三

 文化9年(1812)7月、茶山65歳、御宮御造営につき御用係を命じられる
  「総鬢の乱れし髪を結わずして、藩こう頭を結おふ髪かな」
   (大意)総鬢→聡敏神社(水野家祖霊社)を荒れるにまかせておいて、(阿部)藩侯が頭(髪)を結ふ神(勇鷹神社→阿部家祖霊社)を建てるとは?
  茶山と交遊のあった詩僧海道士(牛海)が作った落首と見なされ、牛海は所払い、尾道へ移った。茶山の心中が察しられる。

 「黄葉夕陽村舎詩」(正編)附録「耻庵詩集」刊行
 文化10年(1813)11月、御宮御造営につき賜金
  「三原梅見之記」成る
  「黄葉夕陽村舎詩」後編巻四

 文化11年(1814)3月、茶山67歳、正精公から出府を命じられる
体調の回復を待って、5月6日出立。江戸で越年。
「黄葉夕陽村舎詩」後編巻五 「筆のすさび」成る
文化12年(1815)3月29日、帰郷
「黄葉夕陽村舎詩」後編巻六
文化14年(1817)「黄葉夕陽村舎詩」後編巻七
文政元年(1818)「大和行日記」成る
 文政2年(1819)72歳、「答問福山風俗記」成り、幕府に提出する
文政3年(1820)「黄葉夕陽村舎詩」後編巻八
  「室町志」を修する
文政4年(1881)
 文政6年(1883)「黄葉夕陽村舎詩」後編 刊行
 文政7年(1884)中村甫公の勧めで「花月吟」(茶山少年戯作)発刊
 天保3年(1832)「黄葉夕陽村舎詩」遺稿 刊行される


おわりに
「かんなべ宿の頃」を語る資料はハード・ソフト両面で、国特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」・国重要文化財「菅茶山関係資料」と国重要文化財指定が間近な「神辺本陣」・「菅波信道一代記」が傑出している。

今日まで多くの事蹟が郷土史研究家の愛郷心で残されているが、その源泉は菅茶山の「福山志料」・「答問福山風俗記」、菅波信道の「菅波信道一代記」と言えよう。
特に、「答問福山風俗記」・「菅波信道一代記」はppに代わる「書画」がふんだんに添えられIT時代の郷土史愛好家にとって恰好の補完教材と言えよう。

 なお、さらに関心興味のある方は、毎年恒例行事として催行される茶山ポエムハイク(主催 菅茶山記念館)や「かんなべ史跡めぐり」(主催 神辺町観光協会)などのフィールドワークによる学修方法もある。
奮って参加、温故知新、故里の宝を見聞、更に光を放つべく磨きをかけてもらいたい。

参考資料
「神辺風土記」菅波堅次
「続神辺風土記 遺稿集」菅波堅次
連続教育講座「『菅波信道一代記』を読む」~近世神辺宿の歴史を知る~菅波哲郎

茶山詩碑(「菅茶山の面影を訪ねて」松浦正明 平成16(2004)年 から)
1-1 歳杪寄大空師   西中条 遍照寺
1-2 黄龍山遍照寺
1-3 良夜の碑
2   西福寺賞梅   川北 西福寺
3   龍泉寺櫻    川北 龍泉寺
4-1 国分寺和歌碑  下御領 国分寺
4-2 
5   丁谷餞子成卒賦 川南 神辺公民館
6   送恵充上人之高野山 徳田 寶泉寺
7   高屋途中    上御領 一里塚
8   農 功     川南 松浦邸
9   箱田道中    箱田 細川邸
10  神邊駅     川北 藤井邸
11  十四日與嶺松師赴鞆浦途中口占 川北 光蓮寺
12-1時子璐叔姪東遊 西中条 高居
12-2次子璐月夜泛琵琶湖韻
13  閑 行     湯野 東福院
14  御領山大石歌  下御領 八丈岩登山口
15-1大坊福盛寺   駅家町新山 大坊福盛寺
15-2柏谷途中   (新市町網引柏)
16  荒谷即事    府中市出口町荒谷
17  遊父石村    府中市父石町
     西山先生姫井仲明頼千祺近藤伯恊
18  羽 中     府中市出口町 羽中八幡神社
     川明知日暮 川明かにいて 日の暮るを知る
     烟直覺風収 烟直くして 風の収るを覺ゆ
     暫得談経暇 暫く談経の暇を得
     聊成践勝遊 聊か践勝の遊びを成す
     雲邊僧聲沓 雲邊 僧聲 沓かに
     歸路忪田洫 歸路 田洫(田圃の溝)に忪ふ(驚く)
     淙淙暗水流 淙淙として 暗水流る
19  梔子湾     福山市沼隈町内海
20  米山寺拝謁小早川中納言肖像  三原市沼田東町 米山寺
21  始登鼟鼟石   尾道市千光寺公園
     呈遊諸遊石在千光寺南

参照:詩碑案内(神辺ご案内)