顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報26号」電子版

会報を電子収録しました(写真を除く)
   茶山 ・山陽との交流 
    自らの喜寿に思いを重ねて

                           菅茶山顕彰会会長 鵜野謙二

 賴山陽45歳は菅茶山77歳が依頼した浪華の女侠「阿雪伝」を書き上げ、文政七年(一八二四)十月京都に遊んだ母梅颸と共に茶山のもとを訪れ二泊した。十一月には広島を発し、上京の途次、廉塾に再訪、五日間滞在した。その時の茶山詩「丁谷餞子成卒賦」(原詩漢文)が神辺公民館前に建立されている。
数宵の閑話 毎に三更 未だ盡きず仳離十載の情 送者は筇を停め 客は頻りに顧みる
梅花香裏夕陽傾く(読み下し)
 茶山と山陽、師弟の間には、時に暗雲あり、不幸もあったが、この数宵、夜の更けるまで胸の内を語り明かして、なお飽き足らぬ逗留であった。茶山翁は杖をつき寒風をおして丁谷梅林まで出向き名残を惜しんだ とされる場所に石標「茶山山陽餞飲之所」がある。
 茶山が山陽と初めて対面したのは、天明八年(一七七八)、広島の頼春水宅を訪れた時で、茶山41歳、山陽9歳。以来、三十二歳の年齢差を超え、交遊関係は三十七年間に及んだ。
 山陽は寛政十二年(一八〇〇)21歳の時脱藩騒動を起こし幽閉され廃嫡となった。先の見えない不安な気持ちを抱えた山陽は屡々茶山に手紙を送った。茶山もまた若い山陽のことを気にかけ、折にふれ助言・激励した。文化六年(一八〇九)、山陽は父の勧めで廉塾の都講として神辺に赴いた。
 茶山は廉塾の後継者として期待していたが、山陽はかねてから三都(江戸、京都、大坂)に出て名をあげたい野心があった。山陽は自らの心情を「上茶山先生書」で訴えた。最終的には、茶山が譲歩、山陽は廉塾滞在、わずか一年三カ月で京都に向かった。さすがの茶山も不快の念を隠せなかったが、次第に気持ちが和らぎ二人の交遊は終生続いた。
 茶山は山陽の文学的な才能を高く評価、山陽もまた終生茶山に尊敬の念を抱いていた。
感性豊かな「滲み出る」ような文才茶山、伝えたいことを「溢れ出ん」ばかりに認めた山陽。歩んだ人生、気質の差異はあったが、師弟の「文雅の交わり」は、深く強い絆で結ばれていた。二人の人生は常に自分自身を磨く努力に努力、惜しみない社会貢献、今も巨星として燦然と輝いている。
 菅茶山の遺芳・遺徳は備後福山・神辺の誇りうる文化遺産である。自らの喜寿を節目に、
竹原賴山陽顕彰会・関係諸機関・団体とも緊密に連携、協働してこの茶山文化を「茶山ポエム・アート」として後世に継承・発展させるさらなる努力を重ねたい。
  伊能忠敬と箱田良助~菅茶山との交流~
   東京大学名誉教授 西川治氏講演

                                 武村充大

 昨年一月二十八日から二月六日まで「中国新聞」文化欄「緑地帯」に、「楽しい知縁のひろがり」と題する東大名誉教授西川治先生のコラムが八回にわたって連載された。
その①では、「青山学院中の四年の時、橘南谿『東西遊記』。漢文は賴山陽『日本外史』で、神辺(現福山市)に廉塾を開いた菅茶山とつながる。茶山の友人箱田良助は伊能忠敬に師事、後に忠敬は九州第一次と第二次測量の途次、茶山らと交流した。良助は後に榎本圓兵衛と名乗る。幕末・明治期に活躍した榎本武揚の実父だ。忠敬研究で私は中国地方も度々訪れた。こうした知縁・血縁・地縁の好例をめぐる研究は筆者最晩年の愉悦である。」と書かれていた。(「 」は転載。)

また、その⑧二〇〇〇・九・二二、には、「広島大学・福山大学名誉教授石田寛氏らと神辺から井原市内一帯に残る伊能測量隊の足跡など調査した際、武村充大氏に案内役を務めてもらった上、是非会いたいと希っていた伊能翁の高弟箱田良助の曾孫榎本隆充氏が箱田良助生誕碑・菅茶山の詩碑建立記念祭(二〇〇一・四・八)に来訪されるので、よろしかったらとのお誘いの電話をいただいた。」との謝辞が書かれていた。

箱田道中      菅 茶山
此徑山蹊歳幾回 此の山蹊を徑ること歳に幾回
毎将夜半始還來 毎に夜半ならんとして始めて還り來る
行思往時停籃? 行く往く思ふ時籃?を停めしむを
數點流蛍水竹隈 數點の流蛍 水竹の隈

本稿は西川氏による見出しの講演をベースに、数多の資料(後述)を総括、神辺が誇りうる先人の地縁・足跡を辿ってみた。
  ***   ***   ***
我国で最初の実測地図作製者伊能忠敬は、一七四五年(延享二年)、上総(現千葉県)生まれ。養子先(下総)の家業、酒造業などを艱難辛苦して再興、一七九四年(寛政六年)五十歳で隠居後、勘解由と名乗り、江戸で高橋至時に天文学を学んだ。一八〇〇年(寛政十二年)幕府の許可を得て、蝦夷の測量を開始、以後十六年間に及ぶ全国測量を行った。
忠敬の内弟子、箱田良助は、一七九〇年(寛政二年)、備後安那郡箱田村庄屋細川園右衛門の次男として誕生した。備中大江村の谷家・池田家と姻戚関係にある。
谷東平は一七七四年(安永三年)生まれ。師茶山から三十歳の時命名された諱「以(もち)燕(やす」)」を公的に使用した。忠敬に随従、地理測量を学び、忠敬が蝦夷地測量中、地元備中の測量を委ねられるほどの逸材であった。
池田家は園右衛門の祖母於豊の出所で良助の弟直行が婿養子となったが難破事故死、次いで次弟直義が入婿、二代目を継いだ。三代目楠五郎は榎本武揚の従兄、その墓碑の裏に親交を窺わせる「海軍中将榎本武揚」と刻まれた石造りの卒塔婆が建てられている。
一八〇六年(文化三年)、忠敬は第五次測量で初めて福山入り、山陽道側の海岸線の測量を実施した。この時、忠敬は茶山との面会を望んでいたが、日程調整が叶わず、果たさなかった。
翌文化四年、良助は兄右忠太と上京、忠敬の門下生になり、測量術を学んだ。
良助(十九歳)は、東平の奨めで、第七次九州第一次測量(文化六年八月二十七日~文化八年五月八日)に参加した。その際、「良助、同人親 園右衛門、親類 谷東平」連名で提出した誓約書が伊能家に現存している。
一八〇九年(文化六年)十一月二十七日、総勢十八名の一行が九州へ向う途次、神辺東本陣菅波武十郎に止宿、菅茶山と会談、文化八年二月十二日、九州からの帰途は、良助の生家に止宿している。
往路神辺東本陣の宿へは茶山が訪ねている。初対面のこの日、茶山は忠敬から、表紙に「伊能勘解由所贈」の書き込みがある「鄭註孝経」(久保木竹窓著の注釈書。忠敬が序文を書いている。)を贈られ、「留談夜に至」った。この時茶山は次の詩(後編巻三―六所収)を贈っている。

 伊能忠敬先生奉命測量諸道行次見問賦贈
酒肆蔵名臥故邱 酒肆名を蔵して故邱に臥し
豈図幕檄命飛輶 豈図らんや幕檄飛輶を命ぜんとは
璿璣坐括三千界 璿璣坐して括る三千界
分率行量六十州 分ちて率く行く量る六十州
已識馬援能聚米 已に識る馬援能く米を聚る
不従楊烔問浮舟 楊烔に従い浮舟を問わず
奚嚢我亦収河岳 奚嚢我河岳を収め
愧把生涯供漫遊 愧らくは生涯を把りて漫遊に供せしを     
  
(大意)幕命によって日本全国の測量調査と地図作成に尽力した忠敬を称賛するとともに、全国行脚の苦労話を聴き、自らが詩嚢(作詞ノート)に中国の黄河や五岳を収めたような気分だ。一方自分は詩嚢を埋めるため生涯を漫遊に費やしたことを恥しく思う。
一八一二年(文化九年)一月十二日、第二次九州測量の往途中、忠敬一行は東本陣に止宿。茶山は迎えに来た良助の父園右衛門と一緒に忠敬と会談。「銅板の萬国地図」を贈られている。
一八一四年(文化十一年)、茶山は「又召赴東都」藩主阿部正精の命により二度目の江戸出府。五月六日、高屋での見送り人の中に、谷東平の名がある。同月十六日には東平が忠敬宛に書いた書簡を預かっている。江戸で新年を迎えた茶山は、在府中、忠敬・良助師弟と数回面会、親交を深めている。
一八一五年(文化十二年)五月十九日、茶山が忠敬から受け取った書状には「もう七十二歳になるので、地図の完成を急いでいる。面会は叶わないと思う。どうか長生きされて新地図を一覧くださいますように」と望んでいたが、この年の第九次測量には高齢のため不参加。一八一六年(文化十三年)の第十次測量は内弟子筆頭の良助たちに委ねた。
一八一八年(文政元年)四月十三日、忠敬は茶山の感想も聴くよしもなく永眠した。折りから茶山は「大和行日記」の旅行中、忠敬の遺言で伏せられ、茶山が訃報に接したのは九月二十三日のことであった。
一八二一年(文政四年)、「大日本沿海與地全図」は主の遺志を継いだ良助たちによって、六年の歳月を費やし、幕府に提出された。
良助は後に榎本家に入り圓兵衛と名乗った。
生涯、子に恵まれなかった茶山が存命であったら、さぞかし羨やんだことだろう。「倅勇之助は講武所で、次男釜次郎(武揚)は御軍艦操練教授方出没」と自慢の息子の日常を書簡に託し、一八六〇年(万延元年)八月六日、冥歿した。伊能忠敬内弟子筆頭箱田良助こそ函館五稜郭を占拠して新政府に抗した榎本武揚(一八三六~一九〇八)の父である。
参考資料
・図録「伊能忠敬内弟子筆頭箱田良助と榎本武揚」福山城博物館 二〇〇九年
・「伊能忠敬研究」第54号「神石高原町に設立された四基の伊能測量碑」松井義典 二〇〇八年       
   小早川隆景を称える菅茶山詩
    「藝備歴史散歩」益田与一著 から

                             上  泰 二
はじめに
 昨春、北川精美堂印刷の奥様から菅茶山関係資料にと「藝備歴史散歩」(益田与一著 広島県警本部編 一九八八年)を拝借した。
 著者益田与一氏は明治三十四年、広島市に生まれ、日本、中国両文学の研究を生涯の趣味とした郷土史研究家。昭和三十八年から五十四年まで県警本部発行の月刊機関誌「いずみ」の川柳選者として、昭和五十一年からは「広島の昔の人と事績」をテーマにした「歴史の散歩」の寄稿を請われ、昭和五十六年からは賴山陽百五十年忌を機に山陽とその周辺を七年間、八十四回に亘って書き続けた。昭和六十三年、米寿記念に、恩師太刀掛呂山先生の序を得てこの書を上梓した。
 漢詩寄題     太刀掛呂山
藝薇泰斗是菅賴 藝薇の泰斗は是れ菅賴
配得群峯列宿多 群峯列宿を配し得て多し
欽君温故能掻痒 欽ず君が温故能く痒を掻き
先哲遺珠悉網羅 先哲の遺珠悉く網羅す 

 平成三年(一九九一)十月十日、菅茶山先生遺芳顕彰会が菅茶山歿百六十五年祭記念講演会に益田与一氏を講師として招聘。演題「菅茶山先生とその雅友」。参考資料として本著「第四章 芸備の珠玉 四編」が配布されている。
その中、著者の謂う「学殖深く、徳望篤き鴻儒の率いる学塾」主こと菅茶山に関わっては、小早川隆景を称える菅茶山詩「米山寺拝謁小早川中納言肖像」、次いで「葛原勾当の活字日記」などが掲載されている。
茶山詩についてこれまで出遭った解説書とは少し趣を異にした著者の「故きを温ね能く痒を掻く」論考を紹介したい。曹洞宗米山寺と小早川隆景曹洞宗米山寺(三原市沼田東町納所)は小早川家の菩提寺として同家歴代の墓が鎮まり、中に一きわ大きな宝筺印塔は、鎌倉時代末期の製作とされ、型状整正古雅、印塔中秀作として、国の重文に指定されている。(前略)隆景は豊臣秀吉に重用され、最有力ブレーンとして五大老の一に推されたが、秀吉の死に一年早く慶長二年(一五九七)六月、六十五歳で病歿。訃報に接し、秀吉は「さては日本の賢者は絶えたり」としばし感に耽っていた。その場に茶を点じて持参した茶匠の語りかけに「この人、唯毛利家の蓋なるに止まらず日本の蓋にも余りある方なり」と涙を浮かべた と。 武将としての隆景の面目を最も発揮したのは、文禄役に於ける碧蹄館の迎撃戦であった。京城奪還のため南下の明、李如松の軍を迎え、京城北方の碧蹄館で会戦し、明軍を北に退け、北方各地に駐屯する日本軍の京城への集結を支え、やがて龍山での停戦協定、京城撤退、文禄役収拾を助けた。隆景の功績は高く評価される。隆景の偉いのは、歴戦の武将としての知略統率に傑れたばかりでなく、人間生きることの究極を作善にありとし、自ら京都大徳寺の塔頭、黄梅院の住持(後大徳寺百十二世)玉仲宗琇に就いて参禅を怠らず、晩年三原へ引退するまで領治した筑前(福岡県)の城下名島へ名島学校を興して青年に学問を奨励し、孔子霊廟を建てて儒学振興の基を開いた。米山寺拝謁小早川中納言肖像一戦奇功全列屯 一戦の奇功 列屯を全うす想君単隊立傳飧想う君の単隊は立って飧を伝えしを畫中冠帯英風在 畫中の冠帯英風在り馬上光陰華髪繁 馬上の光陰華髪繁し先覩無愆援覇主 先覩愆り無く覇主を援け(公予め天下の豊臣氏に帰するを知りて首めにその義兵を援く)豫防有計保宗藩 豫防計有り宗藩を保つ(公没すに臨み遺言して恵瓊の言を用うる勿らしむ)
當時諸将争驍勇 當時諸将驍勇を争いしも
興學誰知文徳尊 興學誰か文徳の尊きを知らん(藩鎮学を建つるは公より始まる)*( )内は黄葉夕陽村舎詩傍注部分の訓読)訳注
一行目 もし碧蹄館の勝利がなかったら、京城以北に散開駐屯する我が諸軍は全滅しただろう。
二行目 夕日の沈むころ戦い終って、隆景の隊は「おーい、夕食だ」と伝令したことだろう。
三・四行目 画像を拝するに、冠帯の公卿姿には犯すべからざる英雄の風格があり、生涯、馬上、駆馳の間に、白髪も多くなられた。
五・六行目 備中に秀吉対陣の時本能寺の変あり。秀吉が俄に毛利と和を講じたのは明智光秀と一戦を交えるためであった。後に変を知った毛利方には、秀吉追撃すべし との意見もあったが、「義兵討つべからず」と自軍を制し、裏面で秀吉軍を援けたのは隆景公の明識によるところ。毛利宗家が石田三成寄りの安国寺恵瓊に関わりすぎないように諫める遺言したがそれも誤りがなかった。
七・八行目 当時雲の如く武将がいて、その驍勇に於いては優劣がつけがたいが、文徳の尊さを先見して、領内に学校を興した美挙は隆景公に勝る将はいない。
 筆のしずく(以下筆者)

①菅茶山文學碑
 「米山寺拝謁小早川中納言肖像」 小早川氏歴代の墓所は米山寺の向かい側山裾にある。四囲を柵で仕切られ、中に南北二列、それぞれ十基の宝筺印塔が整然と安置されている。前列右端が隆景の墓。菅茶山文學
碑は入口右側、一基は原詩、もう一基は富士川英郎氏の訳詞が刻まれている。
富士川氏は最初の菅茶山全書とも言える「菅茶山 上・下」(福武書店 一九九〇年)で大佛次郎賞を受賞、「菅茶山と賴山陽」(平凡社 昭和四十六年)の著書もある。

②闕字
 林多恵子氏が本会報第5号に、「漢字の欠画」と題し、茶山先生百六十年祭冊子の「米山寺に小早川中納言肖像を拝謁」の書中に「英風」の「英」が「英」と欠画になっているのは、後桃園天皇(在位明和七年(一七七〇~安永七年(一七七八))の諱、英仁を憚っていることを紹介している。
林氏から拝借した「菅茶山、鎌倉・江の島を行く」(井口鐵介著 本の森 二〇一四年)を要約すると、「東南アジアの漢字文化圏には避諱という習慣があって、目上の人を本名で呼ぶことは無礼であるとの考えがあった。特に皇帝や天皇に対しては実名が敬避され、その表現の一つが欠画であり、当該文字の一画、通常は最終の一画を記さない。茶山時代、在位の天皇、光格天皇の諱、兼仁(ともひと)の兼、仁孝天皇の諱、惠仁(あやひと)の惠の最終の一画が欠画となっている。しかし、欠画にされていない場合も相当数ある。」と

③肖像&寿像
 天明八年(一七八八)六月二十七日、茶山は遊藝日記の旅の帰路、米山寺を訪れ絹本小早川隆景公寿像(国重要文化財)、手書、折簡を見せてもらい表題の七言律を詠んでいる。
平成二十二年(2000)本会秋季研修旅行時、住職の説明で学んだが、肖像ではなく寿像(存命中に造っておく人の像)が正しいとのこと。米山寺紹介の「しおり」にも「歴史書、写真集、映像における隆景の肖像はほとんどこの寿像を転載している と。
   竹原賴山陽顕彰会と相互交流
    マッサンブームに魅せられて


 昨年三月十日、鵜野会長以下、一般からの参加者も含む二十四名が安芸の小京都竹原へ研修旅行に出かけた。話題のNHK朝ドラ、マッサンブームに魅せられての発案だが、昨夏、神辺を訪れた竹原賴山陽顕彰会との相互交流が主目的。
平均年齢七十二・六歳の参加者にとってはうってつけのリラックスツアー。八時出発。福山東ICから途中高坂PAで充分なトイレ休憩、河内IC経由二時間少々で竹原「道の駅」着。そこでバスを降り、出迎えのガイドの案内で先ず本川沿いにある山陽広場の賴山陽先生銅像にご挨拶。断続的に舞い続ける小雪ニモ風ニモ負ケズ町並み保存地区散策。
マッサンの舞台、竹鶴酒造(小笹屋酒の資料館)では竹原賴山陽顕彰会長でもある十三代目当主竹鶴寿夫氏が店頭で直々のお迎え。鵜野会長の要望に即応、開店前の慌ただしい時間帯に店内を案内、超品薄の銘酒「竹鶴」の試飲サービス+マッサンの裏話。
竹鶴酒造は製塩業で財をなし、一七三三年(享保十八年)酒造業に転じた。屋号は小笹屋であったが、裏の竹藪に鶴が営巣したことから、松ならぬ「竹に鶴」も、瑞兆として喜びトレードマークの小笹屋竹鶴に改めた。
寿夫氏と政孝氏(一八九四~一九七九)とは再従兄弟。一九六〇年(昭和三十六年)に初対面。生真面目で「本物をつくれ。本物をつくらんと生きていけんぞ」が口癖だった。旧制忠海中学時代、池田勇人総理(一八九九~一九六五)の先輩。学生寮では後輩の池田が竹鶴の蒲団の上げ下ろし係だった。エピソードとしてドラマに織り込んでもらいたかったが、公共放送NHK、「政治家はダメ」と言下に拒否された。
ドラマでは泉ピン子が演じた姑(実名チョウ)は政孝・リタ夫婦の国際結婚に理解があった。実像はあのような意地悪でもなく、顔も悪くなかった と。

その後、竹鶴会長自ら一行の先導。山陽が伊丹で絶賛した台柿が移植されている松阪邸、その庭から文人たちの詩酒徴逐の舞台になった京都清水寺を模した普明閣を遠望、記念写真。山陽の祖父が紺屋を生業とした賴惟清旧居、三賴が学んだ塩谷道碩の屋敷―竹原書院―竹原図書館と変遷を経た現歴史民俗資料館、賴家の先祖が眠る龍頭山照蓮寺・賴家墓所には直下の胡堂から合掌、山陽の叔父春風の春風館・分家春風の孫三郎が建てた復古館南の中ノ小路を通り抜け出発点へ。
バスで市内のホテルに移動。竹原賴山陽顕彰会員十八名と昼食・交流会。歓迎のご挨拶で、竹鶴会長は「茶山・山陽の功績を将来に亘って知らしめる努力が必要」と強調、鵜野会長は「茶山と廉塾は山陽抜きには語られない。今後ともこういう機会を造っていきたい」と。
京都・下鴨神社の荘園として栄えた竹原の文化・教育・産業発展に尽粋した二十二人中賴家から亨翁、春風、杏坪の三人が祭神として祀られている郷賢祠の町を後にした。
最後の見学地は「安芸津歴史民俗資料館」。東は近畿地方、西は九州まで赴き銘酒を造っている広島杜氏(軟水醸造法)生みの親、三浦仙三郎(一八四七~一八〇九 賀茂郡三津村)の業績を学んだ。
道中、作家藤井登美子先生によるトーク。往路は処女作「鳳尾蕉の夢」に語られる茶山・山陽・平田玉蘊の織りなす人間模様(後述)、復路は著書「北僻に立つ」の主人公賴杏坪が難治の県北貧郡在任中、飢餓で苦しむ農民を救済するため自費で植栽した杏坪柿(三四一六本)にまつわる物語。庄原市山内町、日吉神社境内にその記念碑「充糧碑」が建立されいる。百九十年後、現存の古木二本の中の蘖が三次民俗資料館に移植されているという。
鵜野会長がバスレクの掉尾を「菅茶山三択クイズ」で締め括った。十六時帰着。頬を掠める寒気はとても鋭かったが、心はとっても温かい至福の一日であった。
   ***   **
 
  「山陽と茶山」(藤井先生トーク)要旨
 
 天明元年(一七八一)以下、山陽年齢2歳
閏五月一日、大坂から父母に抱かれ、祖父亨翁の待ち望む竹原へ里帰り。磯宮八幡神社の忠孝石に因んで「忠孝」の文字を謹書したお守袋を贈られる。山陽はそれを生涯肌身離さず大事に身につけていたという。
天明六年(一七八六)7歳
「晩春、竹原にて詩句を作る。」(賴山陽全書)処女作「朝日山」の歌碑が山陽広場に建立されている

  朝日山       賴山陽
上朝日山去 朝日山を上り去(く)る
手欲摩蒼穹 手は蒼穹を摩せんと欲す
山路宜匍匐 山路は宜しく匍匐(ほふく)すべし
恐衝廣寒宮 廣寒宮(月中宮殿)に衝くを恐る

天明八年(一七八八)9歳
 茶山「遊芸日記」の旅で、広島へ。山陽と初対面。詩、書画を見てその秀発ぶりに驚いた。
 しかし、山陽はこの前年、癇症(躁鬱症)を発症。その後も青年期にかけて再発を繰り返し、問題行動が多く、妻淳子と結婚したが、夜遊びも止まらなかった。
寛政十二年(一八〇〇)21歳
 竹原の大叔父傳五郎の弔問に在府中の父の名代として赴く途中、脱藩。京都に潜伏中、自宅に連れ戻され座敷牢に幽閉。この間、山陽は多くの書物を読み、多くの文章を書いた。これが肥やしとなって、やがて「日本外史」など大輪の華を咲かせ実を結ぶ。享和三年(一八〇三年)幽閉を解かれるが、その後、なお二年間、謹慎生活を送る。
 この事件によって、山陽は廃嫡、春風の嗣子権次郎が継嗣。山陽の妻淳子は離縁、山陽との間に授かった長男聿庵は賴家で静子によって育てられた。
文化二年(一八〇五)26歳
 門外自由の身になった山陽は、父、春水らと約一カ月間、竹原へ保養に赴いた。茶山も招かれ、照蓮寺などでの詩宴に臨んだ。
文化四年(一八〇七)28歳
 父、春水らと竹原へ赴き、尾道の画家平田玉蘊・玉葆姉妹と詩宴・船遊びにうち興じた。
 山陽と玉蘊はお互いに惹かれ合うものを感じ、書簡による交流が始まる。
文化六年(一八〇九)30歳
 義弟権次郎と夜遊びが絶えず、思案に暮れた春水は茶山に相談。山陽は都講として廉塾の門を潜った。
文化七年(一八一〇)31歳
茶山の山陽批評は「文章は無双」。それ故、講義の他に「黄葉夕陽村舎詩」の校正を一任させた。惜しむらくは、母静子も「子供らしき事も御座候故、私共はたへず子供しかり候様にし加り申候」と辟易している人間性。しかし、やがて、姪と結婚させ、夫婦養子にし、福山藩へ仕官させたい との願望を抱くようになった。
一方、山陽にとっては廉塾生活について出奔時に書き残したとされる落首、「水凡、山俗、先生頑、弟子愚」(退屈な所へ来た)の印象を拭いきれない。その補償作用か、それとも、三都への宿望を実現するため、意図的に茶山に愛想づかしされようとしていたのか、飯炊き女との艶聞、涼み台での全裸姿問答など、好き勝手放題の日々を送っていた。
折から、山陽は福山藩家老の招宴で、茶山の息子扱いを受けて憤慨、口頭に代えて五千字に及ぶ自分の宿願の手紙を書いた。やむなく茶山も応諾、餞詩を贈った。
文化八年(一八一一)32歳
 神辺と尾道、距離的にも山陽と玉蘊の仲は急接近していた。山陽は出発直前、玉蘊に上洛を促し二人の弟子を引き連れ出奔した。弟子の道連れもさることながら、「山陽ほどの逸材を手放した」茶山への内部批判が厳しい。玉蘊を利用して山陽を連れ戻そうとする策謀もあったらしい。この後、長期間、茶山の不機嫌が尾をひいた。春水も親友茶山への遠慮から山陽に勘当を申し渡した。
 一方、追いかけるように、母妹を伴い上洛した玉蘊は山陽に「直ぐに結婚はできない」と言われ、失意のうちに尾道へ。折りを見計らって、茶山の許を訪ねた。その際、皮肉にも山陽が玉蘊と同じ理想の女性と謳った江馬細香の磁器を手土産に。
文化十一年(一八一四)35歳
 後足で砂をかけるような廉塾出奔以来、最初の帰省。この間、京都で儒学、詩、書の三部門で名を成していた山陽は茶山の調停で、父春水との和解が成立、父春水の他界を契機に、茶山の不機嫌も漸く氷解。西帰への道が拓かれた。山陽は往復路とも春風館に春風を訪ねた。
文政七年(一八二四)45歳
 母静子への最後の報恩旅行、三月から十月までの京都旅行を終え、竹原へ立ち寄った。その時詠んだ詩が賴惟清旧居裏庭の歌碑に刻まれている。

  至竹原          賴山陽
我家昔日読書山 我家昔日読書の山
紫翠依然窓几間 紫翠 依然たり 窓几の間
愧使京塵染鬚面 愧ずらくは京塵をして鬚(しゅう)面を染めしむを
歸来却対旧孱顔 歸えり来たりまた対する旧孱(ぜん)顔

文政八年(一八二五)46歳
 九月、叔父春風が他界。享年七十三歳。姫路へ出講中の山陽への連絡が遅れ、約一か月後の墓参となった。山陽は茶山の許で往路は一泊・復路は三泊、「丁谷梅林」その後の話にうち興じた。それが師父と仰ぐ茶山とも最後の出逢いとなった。文政十年(一八二七)八月十三日、茶山八十歳が不帰の客となった。
   菅茶山顕彰会定例総会
   中山善照氏が記念講演


 平成二十七年度菅茶山顕彰会定例総会が昨年五月二十七日(水)神辺商工文化センターで開催された。
 鵜野会長が「本年度の新入会員は十三名、殊に女性会員が七人も加入、会員が若返りました。茶山学習や研修に力を入れたい。」と元気の出るあいさつの後、新入会員を紹介。続いて、議長に武村充大氏を選出。①平成二十六年度事業報告及び決算報告並びに監査報告を承認。次に②役員改選に入り、新しく顧問に大畠功之菅茶山記念館館長を委嘱、理事に黒瀬道隆氏、倉田義朗氏、羽原知子氏を選出。会計に嶋田時市氏を指名して承認。続いて平成二十七年度事業計画及び予算案を審議。事業計画として、総会、茶山ポエム絵画展、菅茶山墓参の集い、会報二十六号発行、ホームページの開設、菅茶山関連学習会(年三回程度)の開催」を予算案とともに承認。また、懸案事項として、①廉塾の改修工事に合わせて顕彰会として出来ることを実行する。②年二回程度、廉塾の清掃活動を行う。上記事項については会員全体に呼びかけて行うことを承認、議事を終了。休憩後、中山善照氏が自著「まんがと物語で綴る福山の歴史 明治の凋落と栄光の回復」を資料に記念講演。それに先立って、三宅真一郎理事が講師紹介。
講師紹介
中山善照氏は昭和十三年、福山市生まれ、福山誠之館高校卒業、広告代理店でグラフィックデザイナー、コピーライターとして商工会事業や町起し事業等に関わる。現在はCIC中山善照プラニングオフィス代表。
今春三月、まんが物語「神辺の歴史」の姉妹編、「福山の歴史―菅茶山・葛原しげる」を発刊予定。著書の中で、「茶山ポエムへの作曲と挿絵を懸賞金付で公募する。

「福山の歴史明治の凋落と栄光の回復」要旨
 「福山はどこにありますか。」
 「倉敷と尾道の間にある町です。」
 四十万都市福山の知名度は低く、市民は「福山には何もない」とつぶやく。おおまかに云って、文化的に一流のものがないのは事実。福山が一流のものを創造できないのは、明治の廃藩置県からの凋落の歴史に因があり、行政担当者に才がないからではなく、市民も行政も貧しい凋落の歴史DNAを今に受け継いでいる被害者だから。
 大切なのは、歴史を克服し「一流の町にする」という戦略的思考。明治維新からの福山の凋落の歴史を知り、未来に向けてナンバーワン・オンリーワンの文化をつくろうとする志である。凋落の三流思想を捨て、一流の発想をして文化を蓄積して行けば福山の栄光は回復できる。一流のもの再建・復活の一つとして「鞆と神辺の歴史資源修景」があげられる。いずれも茶山が賑わいの場づくりの仕掛け人の元祖と言える。    
  菅茶山墓参の集い
   帰南子ども会も参加

 八月十三日、茶山百八十九回忌の早朝、そぼふる雨の中、菅茶山顕彰会鵜野謙二会長、高橋孝一代表理事ほか理事十八名と地元帰南子ども会の子どもたち五名が墓所に集合、そぼふる雨の中、清掃作業。その後、墓前に香を手向け、賛歌「わが茶山先生」を合唱、郷土の偉人の冥福を祈った。

 今回は、昨年に続く子どもたちの参加に、武田恂治事務局長がパンフ「菅茶山」(⒓㌻)を用意、参加者に配布した。
廉塾講堂の「方円の手水鉢」を表紙に、コンパクトに茶山の略歴、廉塾、菅茶山墓碑、菅家墓地配置図、茶山顕彰事業、茶山略年表、最終頁を楽譜付の「わが茶山先生」(作詩・辻みつる 作曲・八丈けい)で締め括っている。
  
  菅茶山先生のお墓参り
                    福山市立神辺小学校三年 小林伸輝

 今日八月十三日は、菅茶山先生の命日です。顕彰会にさそわれ、僕はお兄ちゃんと一緒に
家の近くのお墓へ行きました。
 僕は手でお墓のまわりにたまっている葉っぱをひろってそうじをしました。
茶山先生は百八十九年前に亡くなったと教わりました。茶山先生の歌も歌いました。僕は随分前に亡くなった人が、今でも大切にされていることが、すごい。そんなにりっぱな人だったのだと思いました。
   
   菅茶山先生と廉塾についての学習会
   茶山学習PT始動


 十月三十一日、廉塾で、菅茶山先生と廉塾についての学習会が開かれ、理事や理事から声を呼び掛けられた人たち三十名が参加。
初回の講師は鵜野謙二会長。第一部、廉塾で「寒かったが熱の籠もった」講義を聴いた。第二部、近くの七日市集会所に移動、茶菓を頂きながら、「菅茶山顕彰会の歩み」、次いで「菅茶山先生と廉塾」をテーマに学習した。

この事業は郷土の誇り、茶山先生や廉塾の教育について、少しでも多くの人達に知ってもらいたいとの願いから昨年度来PT(プロジェクトチーム)を決め、検討を重ね、実現したもの。茶山ゆかりの地で「やさしく楽しい学習」がモットー。百聞は一見に如かず。老若男女、会員・非会員、どなたでも歓迎。一人でも多くの参加・願わくば入会を期待しています。    (PT代表 延近隆弘)
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  廉塾八景ごあんない

 塾主 菅茶山 天明~文政年間、「当代随一」と評された漢詩人。神辺宿に生まれ、⒚歳の時から六回京坂に遊学、朱子学・古医法を学んだ後、郷里に帰り、生涯、故郷神辺に在って、当時頽廃ムードの故郷、世直し目的で私塾「黄葉夕陽村舎」(後の郷塾「廉塾」)を開き、全国各地から茶山を敬慕、入門した塾生の教育に専心した。漢詩人、儒学者、教育者、慈善事業家として地域社会に貢献、病身故に健康管理に務め、八十年の生涯を閉じた。
廉塾 二三〇年前の原風景がそのまま残っている。

①表門 山陽道に面し、門の傍ら三本の楠樹陰に「国特別史跡廉塾ならびに菅茶山旧宅」の碑がある。文化三年、伊澤蘭軒、昭和六年、徳富蘇峰氏、昭和五十六年、富士川英郎氏がこの柴門を潜り、それぞれ廉塾と周囲の景観を描いている。

②菜園 表門から中門にかけ南北約⒛㍍、低木に仕切られたアプローチがある。東側が菜園、今もなお地元自治会が四季折々巨星在りし日の彩りを再現させている。

③養魚池&南寮 中門手前西に養魚池がある。茶山の書で「廉塾養魚池 政酉抄冬為(文政七年十二月造る)」と刻まれた碑がある。数多の来客のおもてなしと防火対策、万一の場合、書類を袋に入れ池に沈め、焼失を防ぐ目的であったと。中門手前東に南寮が残っている。他に槐寮・敬寮があった。

④用水路&洗筆場 中門を潜ると南と西に向かって用水路が流れている。戦国時代、戦略的な意図で高屋川から水を引き込んだもの。石橋を渡ると講堂。課業から解放された塾生が庭先から石段伝いに下り清流で嬉々として筆や硯を洗う様子が「即事」に詠まれている。

⑤講堂 西から六・六・八畳の畳の間。周囲の襖に来塾した文人墨客の書画がある。その裏に厠,三・四畳の板の間が続いている。

⑤竹縁と手水鉢 講堂東側に茶山が考案した板と竹を組み合わせた濡れ縁がある。平櫛田中が釘付けになったという。その脇に方円の手水鉢がある。茶山の教育方針「水随方円」を示唆している。

⑥中庭の東池 平成二十二年秋、菅波哲郎氏が養魚池とは別に「屋傍東に半円形の池」の存在を新聞発表。賴山陽の「東遊漫録」のスケッチや伊澤蘭軒の「長崎紀行」でも裏打ちされている。用水路沿いに、取水・排水口の跡が目視できる。近々、修復工事で詳細が解明されるだろう。

⑧居宅&書庫 菜園の西塀を隔て講堂に寄りに居宅と書庫がある。書庫には一昨年、国重文に指定された「茶山関係資料」を含む「黄葉夕陽文庫」、居宅の二階には明治以降の資料が収蔵されていた。

⑨茶山の墓 黄葉山北東山麓の一角、準儒教式に祀られた御霊屋がある。昭和十五年(一九四〇)、県史跡に指定された。
   特別史跡旧閑谷学校視察旅行
   和気神社で足腰息災祈願


 十一月五日、平成二十七年度研修旅行が行われ、鵜野会長以下三十八名が菅茶山ゆかりの地、特別史跡旧閑谷学校などを見学した。
鵜野会長があいさつ。「この秋の叙勲で延近隆弘理事が瑞宝双光章、竹原賴山陽顕彰会竹鶴寿夫会長が黄綬褒章を受章」のホットニュースに、参加者一同、拍手喝采。ともに喜びを分かち合った。
出発時、バスの窓を濡らした雨滴が嘘のよう、謳い文句どおり好天に恵まれた「晴れの国岡山」。最初の訪問地、備前焼ギャラリー。0桁が多い焼き物を求める人も数多。備前❤日生大橋の見える旅館で昼食。閑谷学校へ。

過日、神辺本陣の「歴史講演」「閑谷学校に関わった文化人―菅茶山と係わった人々―」講師森本純一さん(和気町歴史民俗資料館)直々の案内で事前学習(後掲)も充分のフィールドワーク。先ずは大部分のリピーターが広大な連丘にえも言えぬ赤褐色の光沢を放つ備前焼瓦の屋舎群と校地を取り囲む見るからに堅牢な石塀に再見。広大な広場、鶴鳴門を眼下に、根元を厚手の落葉の胴巻きで包んだ一対の大楷樹を配した石階を登って孔子聖廟へ。土木巧者津田永忠指揮とあって、全構造物は屋根の造り・傾斜、屋舎の構造から基礎部分まで一貫した防雨排水・防火対策に瞠目。
階差数段下、東隣の閑谷神社は藩主池田光政、謚芳烈公が祀られている。折りからシートで蔽われ修復工事中。軒丸瓦の文様池田家家紋「揚羽蝶紋」のみ確認。
 国宝「講堂」は東西555間・南北105間、約300㎡、回り縁から磨き抜かれた大きな円柱で支えられ神域を思わせる荘厳なムードの漂う修行道場を臨んだ。壁に二代藩主綱政書「定」、五代藩主春政書「克明徳」(ヨク徳ヲ明ラカニス)など重文の掲額がある。
講堂付設の「飲室」は休憩所、中央部に炉が切られている。その縁に「炭火のほか焚火不許可」とある。道理で天井が燻んでいない。
 講堂の西側、文庫に覆い被さるように湾曲した丘陵地火除山が迫り、最西端の学房跡と資料館の間に介在、万一の類焼阻止を期している。
 時間の関係上、黄葉亭は割愛した。

最後の見学地和気町民俗資料館・和気神社。奈良・平安時代、神託事件で弓削道鏡の怒りをかい脚の腱を切られ、大隅国(鹿児島県)へ左遷された和気清麻呂が、宇佐八幡宮のご加護により猪の大群によって護られ、脚が元通りに回復したとの故事。祭神の守護獣が狛猪との説明に、近年獣害に悩む幾人かは妙な顔、足腰の守護神とあって、「お守り」を求める熟老も。狛犬ならぬ狛猪は近郊の三原市御調八幡宮にも鎮座している。この事件に連座、この地備後国八幡荘に流謫された姉廣虫(法均尼)が創建、弟清麻呂の雪冤を祈ったと伝えられている。
 最後のバスレクは藤井登美子先生のトーク、天下の三大賢侯の一人、「池田光政物語」でめでたく結ばれた。(PT代表 武田恂治)
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   「池田光政物語」
           
((以下、要旨、文責編集子)

・慶長十四年(一六〇九)父、姫路藩主池田利隆、母徳川秀忠の養女鶴姫の長男として誕生。母の威光で鄭重・寛大に扱われた。
・慶長十八年(一六一三) 5歳。江戸で父と徳川家康に謁見。家康から与えられた脇差を面前で抜き払い、「これは本物じゃ」と語った。父子退出後、家康が「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。
・元和二年(一六八二)父、逝去。家督相続が許されたが、翌年、幼小を理由に因幡鳥取三十二・五万石に減転封。姫路時代四十二万石の家臣をそのまま抱えていたことから財政上苦労した。
・元和九年(一六八九)⒖歳で元服。第三代将軍家光の偏諱を拝受、光政と名乗り、大御所秀忠の養女勝子を正室に迎えた。この頃、京都所司代板倉勝重に治国の要道について訊ねた。
「四角い箱に味噌を入れて丸い杓子をもってとるようにすればよい」との回答に、光政は「隅の行き届かない箇所をどうすべきか」と重ねて訊ねた。勝重は「貴殿のような大国の政は厳重なやり方だけでは収まらない。国事は寛容の心をもって当らねば、人心を掴むのはむつかしい」と答えた。光政は終生この教えを肝に銘じて治政に当った。現今にも通ずる王道と言えよう。
・寛政九年(一七九七) 叔父の岡山藩主池田忠雄が逝去。忠雄の嫡男光仲3歳と入れ替えに岡山藩三十一・五万石へ移封。以後、光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。
・光政は積極的に家臣の諌言を受け容れ、教育の充実と質素倹約、財政の確立を旨に政治を行った。
寛文八年(一六六八)、全国初の藩校・花畠教場を初め領内一二三カ所に郡中手習所を作った。財政上の理由で、嫡男綱政と対立、寛文十年、手習所を統合、日本最古の庶民の学校、閑谷学校を開校した。当時幕府が国学としていた朱子学ではなく陽明学・心学を藩学とし、熊澤蕃山を招聘、中江藤樹にも助言を求めた。それでも安泰だったのは、光政の政治手腕が高く評価されていたからであろう。
新田開発、百間川の開鑿、産業の振興に努め、神儒一致思想に基づく神仏分離を行った。
寛文十二年(一六七二)、隠居。その後も隠然とした力を持っていたが、天和二年(一六八二)、七十四歳で帰幽した。
 
   「絆の会」福山ブランド登録活動に
    本会会員も共助


 六月五日、福山市都市ブランド戦略推進協議会はエフピコRimで福山で生み出される創造性あふれる産品・サービスや取り組み・活動を「福山ブランド」として認定・登録。第一号、認定五点・登録六件に認定証と登録証が授与した。
 この登録活動部門に、神辺七日市上自治会員を中心に、廉塾整備・美化活動と地域伝統文化の継承活動を続けている「廉塾ふれ愛ボランティア絆の会」(鵜野謙二会長)が登録された。

 この会は、国の特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」が自分たちの自治会内にあることを誇りとし、先人茶山先生の遺徳に学び、ボランティア活動を通して史跡の保存美化に努め、史跡を訪れる人々を大切におもてなし、地域の絆を深めようという趣旨のもとに、二〇一一年に結成され、以来活発な活動を持続している。
 活動日には、菅茶山顕彰会会員にも呼びかけ、顕彰会の懸案事項でもある史跡の美化活動の一つとしてともに汗を流している。
 
   廉塾・茶山旧宅保存・活用委初会合
    計画づくりに向け現地調査


 九月二十四日、「廉塾並びに菅茶山旧宅」の保存・活用に関わって福山市教委が住民や有識者で構成される委員会(鎌田輝雄委員長 福山大学名誉教授)の初会合を開き、現地調査、この国特別史跡の保存・活用に向けての計画づくりに着手した。近年、雨漏りがしたり、壁が崩れるなど、特に老朽化が進み、修復が喫緊の課題となっていた。隔靴掻痒の感があるが、来年度中に保存・活用計画を決め、平成二十九年度の着工を目指す予定。
   御領遺跡の土器に舟の絵
   ふるさと神辺で講演と特別公開

 昨年三月十四日、神辺文化会館で県教育事業団埋蔵文化財調査室の伊藤実室長が「御領遺跡の舟―描かれた耶馬台国時代の大型船―」と題する講演があった。また、同月十一日から二十九日まで神辺歴史民俗資料館で舟の絵が描かれた複合口縁型土器が特別公開された。
 講演要旨
・平成二十六年八月七日、その年の一月に御領遺跡で発掘された土器の洗浄作業中に「舟の絵」(HP「御領遺跡」に詳細)を発見。
・土器の特徴から弥生時代後期後半の製作、口縁部に描かれた絵は縦3㎝横⒒㎝ほどのサイズ。弥生時代の土器に舟の全体像が描かれた例は少なく、我国最古の出土品か。
・船絵柄①舷側板は描かれたとおりの縦板か。中世までの製材方法から考えて、浸水を防ぐために、先ず丸木舟を作り、その吃水線から上部に横板を貼り合わせる準構造船と思われる。②船尾の旗がなびく方向と竿のしなりが異なるのは何故か。旗(旌・旄)などから、最も格式の高い皇帝の臣下の交易船と思われる。③船外の三本の描線は三副舵を兼ねた櫂か などか疑問。
・誰が描いたか。①弥生人。穴の海であったと伝えられる御領近くの住民か。事実、ごみ穴には海の近くであったことを示す赤貝や牡蠣の殻が発掘されている。それとも、描いた人が大きな舟の入る近くの港か瀬戸内海で目撃、自慢話の種に描いたか。②西瀬戸内地域(伊予、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後)の人。先述の土器の型、備後と同質の伊予(今治)粘土が材料として使われている。
・船絵の土器の使途①貯蔵②運搬③贈答
(文責 編集子)
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 神辺には「穴の海」伝説がある。その昔、神辺平野は海か湖、若しくは沼地であったという。廉塾の裏を流れる高屋川の水深は深く舟の航行は可能であった。支流堂々川などから多量の流失土砂の堆積・浚渫作業によって、土手堤も徐々に高くなった。この絵の舟の目撃場所が高屋川であった可能性もなくはない。

「茶山詩五百首」の集外に次の詩が所収されている。

乗舟崕下叩柴関 舟に乗じて崕下柴関を叩く
相對無言意各閑 相對して言無く意各々閑なり
留客村厨何所設 客を留めて村厨何の設くる所ぞ
秋江帆影夕陽山 秋江の帆影夕陽の山

また、岩谷焼(窯元引野町)にも「神辺十景絵図」という神辺の景勝十三カ所を描いた皿がある。その一景に元藤(元淵)が選ばれている。廉塾近くの上流、堂々川が高屋川に合流する附近(平野)の地名、船舶が繋留可能な潟湖があったと思われる。
絵皿の裏に、茶山の弟子、門田朴齋・小早川文吾の詩が残されている。

  元藤(元淵)  門田朴齋
瀦水寒漪碧 瀦(ちょ)水 漪(さざなみ)の碧色なるは寒し
萩蘆宿雁鴻 萩蘆(てきろ) 雁(がん)鴻(こう) 宿る(やどる)
昔聞安那海 昔 聞く安那は海
舩舶(せんぱく)嘗交通 舩舶(せんぱく) 嘗て交通するを

  元藤(元淵)  小早川文吾
元淵今為蕩 元淵 今 蕩となす
水艸緑如雲 水艸(草)緑 雲の如し
鳧鷖將鸛霍 鳧鷖(ふえい) 將に鸛(こうのとり)霍(はや)し
飲啄自成群 飲啄(いんたく)自に群を成す
 
  御領古代ロマンを蘇らせる会 旗揚げ
  冊子「遺跡・古墳・砂留」発行と講演


 「御領の古代ロマンを蘇らせる会」(高橋孝一会長)が 福山市制一〇〇周年記念に、「御領発:古代ロマン 遺跡・古墳・砂留」の冊子発刊と講演会を開催した。 
 十一月二十一日、この会の下に結集した堂々川ホタル同好会、下御領生産森林組合、自転車と遺跡を楽しむ会、神辺ふるさと会が福山市立御野小学校体育館で「御領遺跡の船絵壺」と「御領古墳群」について歴史講演会を開催した。三五〇名という多数の聴衆が早くから会場に詰めかけ、熱心にふるさとロマンに耳を傾けた。
 前半は前掲の伊藤実氏の「御領の船絵壺の謎・弥生時代の御領遺跡」、後半は「県下最大の『御領古墳群』の謎を考える」講師 福山市立大学准教授 八幡浩二氏。伊藤氏の講演は前回の部分修正に留め、八幡氏講演の要旨を提供したい。

 「県下最大の『御領古墳群』の謎を考える」
  福山市立大学准教授 八幡浩二(要旨)

・広島県下には一一、二二五基、福山市九〇六基、神辺町三一一基(平成二十四年調)がある。それが今回の「御領古墳群」の調査によって県下最大、否、日本最大級古墳の評価がなされるかも知れない。
・二〇一五年二月現在、御領地区(国道313号線北側丘陵地)に二二〇基の古墳群の存在が確認されている。古墳時代後期の横穴式石室で、入口は閉塞石で塞がれているいる。小規模で追葬可能な家族墓が密集した『群集墳』である。
・日本書紀に見られる中央政権(ヤマト政権)vs吉備国(備前、備中、備後、美作)の抗争の中で連丘南麓下にある神辺平野は、遠交近攻、総社平野の後背地を担う橋頭堡、全国有数の古代都市が存在し、土地の酋長、豪族の支配下にあった家長、家族が生活を営んでいたものと推定される。 (文責 編集子)

 「日東第一形勝」など市重文に                   
   茶山、鞆の津繁栄の土台づくり


 昨年三月二十五日、福山市教育委員会は鞆福禅寺などに残る朝鮮通信使の史料二十八点を市重要文化財に指定した。
江戸時代、福禅寺対潮楼は朝鮮通信使三使の迎賓館に充てられていた。一七七一一年(正徳元年)に訪れた通信使の従事官李邦彦が、客殿からの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮から東で一番美しい景勝地)と賞賛し、その書を残した。それから百年、その書は扁額として掲げられていた。一八一〇年(文化七年)福山藩主阿部正精がその書が朽ち果てるのを憂い、模刻額の制作を命じた。更に、二年後、茶山の発案で、遠縁の菅良平を介して木版にし、裏面に茶山自ら跋文を添え、寺に寄贈した。それが今回の市重文の一つに指定された。
茶山こそ「鞆の津」の賑わい、地方創生の演出者であると言われる所以である。

 葛原家旧宅改修終了
 GWにお披露目会


 平成二十五年九月から着手されていた葛原家旧宅の改修工事が終り、昨平成二十七年五月GW五日間にわたって「お披露目会」が賑々しく行われた。
二日、祝賀式典に次いで、喜多流大島能楽堂大島衣恵さんがしげる作詞の「月夜」をアレンジした小謡で開演。三日には、吟詠家和田元子さんが、「茶山云北条子譲以此詩為西遊第一」と評した賴山陽の「泊天草洋」などを披露した。

 泊天草洋        賴山陽
雲耶山耶呉耶越 雲か山か呉か越か
水天髣髴青一髪 水天髣髴青一髪 
萬里泊舟天草洋 萬里船を泊す天草の洋
煙横篷窓日漸没 煙は篷窓に横たわって日漸く没す
瞥見大魚波間跳 瞥見す大魚の波間に跳るを
太白當船明似月 太白船に當って明月に似たり

  静御前        賴 山陽
工藤銅拍秩父鼓 工藤の銅(どう)拍(びょう) 秩父の鼓
幕中挙酒観汝舞 幕中酒を挙げて汝の舞を観る

 しずやしず賤の苧環(おだまき)繰り返し
 昔を今になす由もがな

一尺之布猶可縫 一尺之布 猶縫う可し
況是操車百尺縷 況んや是操車百尺の縷(いと)

 吉野山峯の白雪踏み分けて
 入りにし人の跡ぞ 恋しき

回波不回阿哥心 回波回らず阿哥(あに)の心
南山之雪終古深 南山之雪終古(とこにしえ)に深し

 五日、常連の協賛出演者、藤井登美子先生の「備陽六郡志」に関わる講演。ありし日の家主葛原勾当・しげるを偲ぶ「二絃琴演奏」、「ニコピン体操」「葛原童謡」、「朗読」「詩吟」、琴、横山敏崇さんのフルート演奏など盛り沢山のイベントで連日賑った。
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  講演「備陽六郡志の謎」藤井登美子(要旨) 

 文化二年(一八〇五)、菅茶山は福山藩主阿部正精に地誌「福山史料」の編纂を命ぜられた。茶山はそれまで民間で編纂されていた「備陽六郡志」(宮原直倁編)や「西備名区」(馬屋原重帯編)などの歴史書及び新たに藩命で提出された資料などに基づいて編纂に着手した。
 宮原直倁は元禄十五年(一七〇二)、宇都宮で阿部家家臣宮原与五右衛門直重の子として生まれた。十歳の時、主君の国替えに伴って備後へ。二十三歳で勘定方に昇進。三十歳の時、備後地方を襲った蝗による凶作の検見で卓越した才能を発揮したが、困窮している農民に接待と賄賂を要求する同僚の讒言を受け普請方に左遷された。失意の日々の中、それでも「郡中の事をよく知らなければ政治は行われず」と川口村在住の牢人(旧水野家家臣)から譲り受けた史料をベースに、「備陽六郡志」の編纂、安永五年(一七七六)七十五歳で歿した。
「備陽六郡志」は、四十六巻。そのうち四十四巻が義倉文庫に遺されている。失われた二巻には「検見覚え書き」「安那郡」の脱落がある。いずれも、新たに一揆弾圧令を下した阿部正右治政下、首謀者定藤仙助の断罪のみならず家族の所払い、権力者にとって何か不都合なことが隠されているように思えてならない。歴史は支配者の都合の良いように書き替えられる。(文責 編集子)
虚実皮膜の論。後は「見てきたような嘘」も織り交ぜた藤井先生の七作目の力作「草魂の賦」に譲りたい。主人公宮原直倁と明和一揆の義民との交流が描かれている。
   小惑星「Masafumi」誕生
    「Kansazan」と空から見守り


 一九九九年二月一日、一九七六年十月、東京天文台木曽観測所で香西洋樹・古川麒一郎両氏が発見した六八四六番目の小惑星が両氏の申請で「Kansazan」と命名され認定・登録された。
前年の春、菅茶山記念館を訪れた香西氏(当時鳥取県佐治天文台長倉敷市出身)は、小惑星「Sessai」(鴨方国西山拙齋)の命名者。茶山の「筆のすさび」や黄葉夕陽文庫に遺された資料などから、茶山や養嗣子の甥萬年が天文への関心・学殖が深かったことに感銘し、国際天文学連合中央局への申請となった。
それから四半世紀、昨年十二月七日、JAXAが臥薪嘗胆、五年ぶりに金星探査機「あかつき」を金星周回軌道再投入に成功」のビッグニュースが全世界を駆け巡った。「あかつき」には郷土の技術者木村雅文氏あて同僚からのメッセージも託されていた。その熱い希いが至難の業を克服したと言える と。
木村氏は一九五九年福山市生まれ、県立福山葦陽高校を経て東京理科大卒業。宇宙開発エンジニアとしてNECからJAXA(宇宙研究開発機構)に転出、特に軌道関係や月周回衛星「かぐや」などの高感度アンテナ制御に関するリーダーとして活躍。「あかつき」運用計画にも関わった。二〇〇九年六月四日、「かぐや」月面落下直前、急病で倒れ入院。小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還をも待たず、八月十一日、昇天した。享年四十九歳。
JAXA有志の提案で、二〇一〇年十一月、一九九七年十二月に埼玉県のアマチュア天文家佐藤直人氏が発見した一六八五三番目の小惑星に備後福山出身の木村雅文氏の名前「Masafumi」が申請、認定・登録された。
鎖国時代の真っ直中、海外事情に熱い視線を注いだ備後国茶山、萬年、それから三百年その玄孫とも言える木村雅文氏、三つ星が肩を並べて、天空から温かい眼差しでふるさとや地球家族を見守ってくれていることだろう。
   旧閑谷学校、日本遺産認定
   近世日本の教育遺産群の一つとして


 四月二十四日、備前市「閑谷学校」が水戸市「弘道館」、足利市「足利学校」日田市「咸宜園」とともに、「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」として日本遺産に認定された。二〇一二年、「廉塾」も、これらの遺産群に合流する提案があったが、申請要件が充足されず実現に至らなかった。今回、認定された十八件のうち、広島県では尾道市の「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」が選ばれた。「廉塾」の追加申請が急がれる。

   閑 谷        菅 茶山
遺澤今幾世 遺澤(余光)今幾世ぞ
夏楚尚巌荘 夏楚(榎・荊制の教鞭)尚、巌荘
時聞堈夫語 時に聞く堈夫(駕籠かき)の語
亦及文宣王 亦文宣王(孔子)に及ぶ

 同じ「閑谷」と題する詩が前編巻二にある。一七七六年(安永五年)、茶山は西山拙齋、賴春水と閑谷黌を見学している。その時の作品とされている。長編なので、要約すると、①広大な連丘の巖林の中に、瓦甍が玲瓏な黌宇が忽然と現れ、彎曲した一本の小径の傍らに幽澗が流れている。②天下を狙う群雄割拠の時代から一変、文政による治世を目指した藩侯池田光政公の卓見で、経費の節減と財源の確保に務め、完成した壮大な学問の殿堂での教育で「村民皆朴直」、昔ながらの美風を継承している」③天地の運行、君臣の摂理は軌を一にしている。主君が恩愛を施せば農政は必ず成功する。と結んでいる。
 この閑谷学校で毎年十月に行われている伝統的な儀式「釈菜(釈奠)・孔子祭」。現在もなお地元県立和気閑谷高校の教職員が祭官を務め、全校生徒が全面的に協力継承しているとのこと、衷心より敬意を表したい。

  賴山陽を愛した女流画人平田玉蘊展
   輝く現代女性を応援する企画展


 平田玉蘊歿百六十年の昨年十月九日、広島県立歴史博物館示室で「賴山陽を愛した女流画人平田玉蘊展」が始まった。十一月二十三日まで初公開作品(約六十点)尾道市重要文化財を含む絵画・資料計百六十点がⅢ期に分けて展示物の入れ替えが行われた。

 Ⅰ期、一四六点の作品・資料の中、茶山関連の展示資料を紹介したい。
・「風俗御問状答書」(草稿)菅茶山
 綿産業に関わって出稼ぎする女性たちの姿が描かれている。
・「菅家往問録」
 文化六年(一八〇九)九月二十五日、「従萱堂(母)同来、平田豊、同庸」と揮毫、この日半日留り、四~五帖絵を描く。
・菅茶山・宣宛ての豊からの書状
「(茶山に絵のことで)尋ねたいことがあるが、女一人で外出できず不自由」
・茶山あて春水・梅颸の書状 
文化八年閏二月六日、山陽出奔について衷心より謝罪
・杏坪宛て茶山の書簡
山陽出奔直後、茶山の許へ借金取りが詰めかけたたことから近所の人が「金に困って逃げた」と噂している。併せて、玉蘊を利用して山陽を連れ戻そうと策謀し、茶山を不機嫌にした僧慈仙、河相周兵衛の情報を伝えている。
・「筆のすさミー」
草稿には、草香孟慎(平田玉薀の義理の叔父)の記事があるが、本稿では割愛されている。
・慈観寺本堂再建諸入用帳
玉薀が描いた襖絵「雪中松図・雪中竹梅図」の画料百五十日 二両半(一両=六萬円)と記帳されている。
・万歳図
茶山宛の玉薀の書簡(文化七(一八一〇)十一月二十八日付)に、「出来が悪いのでやり直しをしたい。賛(道光上人)が先にあるので、それができない」と。

  詩碑「梔子湾」前に立って
   茶山の尊皇思想にふれる

 九月二十六日、福山大学文化フォーラム2015があった。この日常設会場ふくやま文学館からバスで井伏鱒二著「さざなみ軍記」の舞台を辿るフィールドワーク「沼隈半島と平家伝説」。道中、竹盛浩二講師引率の一行は内海大橋下で茶山詩碑「梔子湾」(沼隈町阿武兎観音の西奥、田島との間の入り海、出入口が判りにくいことから「口無し湾」)の前に立ち、郷土の巨峰茶山を偲んだ。福山市HPには神辺町外五基の碑の一つとして紹介されている。茶山の尊皇思想の一端が窺い知れる。

   梔子湾       菅 茶山
荒山何處𦾔行営 荒山何れの處ぞ𦾔行営
島寺沙村烟靄中 島寺沙村烟靄の中
一去龍舟春幾度 一たび龍舟去って春幾度
紫藤花落暮湾風 紫藤花は落つ暮湾の風

語註
・行営=応保年間、後白河上皇行幸の際備後国守藤爲成が設けた仮の在所。清盛が高倉上皇宮島参詣の際整備したが、上皇は立ち寄らなかった。(平家物語巻第四 厳島御幸 参照)
・龍舟=高倉上皇天皇のお召舟
  特集 「茶山先生に学ぶ講座」

その一 九月二十日 福山城博物館湯殿
「福山藩の教育と誠之館」
  賴 騏一氏 広島大学名誉教授


 福山藩は天明六年(一七八六)藩主阿部正倫が藩校「弘道館」を開校した。折からの百姓一揆の頻発で、藩体制の立て直しに迫られ、庶民対象の廉塾に対し士族教育による人材育成を求めた。しかし、中国の「科挙」制度と異なり、固定化した世襲制度枠内での教育に目立った効果があがらなかった。
国家存亡の危機の真っ直中、老中首座にあった藩主阿部正弘が自藩の教育改革にも乗り出した。嘉永二年(一八四九)、正弘は弘道館改革の建策を儒者関藤藤陰にまとめさせ、嘉永五年(一八五三)に「誠之館御造営御趣意御直書」でその方針を示している。嘉永七年(一八五四)正月、江戸・福山の新学館を「誠之館」に改称。秋、福山の新学館建設に着工。安政二年(一八五五)に新学館「誠之館」を福山城下霞町に開校した。
この日の講演では、主として嘉永六年癸丑七月二七日付、関藤藤陰の意見書(広島県史近世資料編一 賴騏一編(思想と教育)掲載)の解説。改革の要点は従来の家中登用法を世襲制から仕進法(文武両面で基準に達した者のみに、役職・給禄を与えるという身分制・秩禄制)を採用。文武とも初・中・上段の三階梯の認定基準。八歳の就学、十歳、武術の履修に始まる文武両道教育で一定の基準に達した者のみを十七歳で登用、以後、中・上段の課程修了者に加増、二十五歳で全課程を修了する としている。しかし、一触即発の時代、藩士の学力実態に鑑み、揺るぎない挙藩体制確立のため登用基準に到達しえない藩士への弾力的運用を具申している。

その二 十月十日 広島県立歴史博物館
「絵から見る玉蘊と江戸期の女性画家たち」 山盛弥生氏  実践女子学園香雪記念資料館研究員

 絵画には浮世絵、漢画(水墨画)、やまと絵(源氏物語絵)、南画(文人画)、写生画など四つのジャンルがある。
絵画は元は中国の士大夫(文人)、科挙に合格した高級官吏自娯のための詩書画の一つ。生業ではなく素人芸として嗜まれていた。日本では中国文化への憧憬から、謂わば、旦那芸から始まり、やがて富豪家の女性の余技として広まって行った。
当初、玉蘊は全国的には無名だった。尾道の豪商、木綿問屋、画人でもあった父五峯の影響もさることながら、港町尾道を訪れた京都の画家八田古秀を師と仰ぎ、菅茶山や賴家の人々など数多の文人墨客との交流・愛顧を得て、斬新な情報をキャッチ、技を磨き続けた。
やがて、「平安人物師」(一七六八年)に画家として池野大雅とともに、「画帖要略」(白井華陽一八三二年)に三八四人中、二四人の閨秀画家の一人として、「名は三備に知られ」るようになった。
さらに、「竹田荘師画録」(田能村竹田 一八三三年)では一〇四人中、八人の女性の一人、「画を売って母を養う」。女画家。一人息子(妹玉葆の子)を育てた模範的な孝子として、賴杏坪などが「尾道志稿」で絶賛している。主な画業に「桐鳳凰図」(慈観寺)軍鶏図(浄土寺)がある。

その三 十月十七日
「廉塾の開塾と―「廉」についてー」 菅波哲郎氏 郷土史研究家

①自宅と塾
 天明元年(一七八一)「黄葉夕日村舎」開塾が通説になっているが、「暮庵先生行状略記」などから、安永四年(一七七五)居宅に家塾を開き、天明五年(一七八五)家塾を「金粟園」と呼んでいた。新塾(後の廉塾)の屋敷地造成、藩への認可申請工程を経て、寛政四年(一七九二)黄葉夕日村舎・閭塾を開き、寛政八年(一七九六)郷校認可に伴い廉塾と改称。文化四年(一八〇七)、神辺宿大火により、居宅も廉塾に移した。
②開塾前の社会情勢
 茶山存生中、宝暦(6歳)、明和(22歳)、天明(39歳)と百姓一揆が三度あった。天災の連鎖にも拘わらず、藩独自の過酷な収奪に農民が蜂起、幕藩政治を揺さぶった。
③茶山の政治意識
 「民が悪を行う原因は困窮にある。困窮に陥らないようにするのが仁政である」と為政者の有り様を述べる反面、詩集「休否録」(西山拙齋編)には田沼意次を非難する厳しい政治批判詩を寄せている。幕府勘定奉行岡本花亭が内密に、その著者と人数の情報提供を求めているほどである。一方、「黄葉夕陽村舎詩集」出版に当っては山陽から「(お上の)忌諱に触れる」との忠告を受けた詩については全て削除している。
④廉塾の「廉」
 朱熹の「廉節」(官、民を治めるには清く正しく節操を以て当るべきである)に由来していると思われる。そういう学種を育てる教育をめざした。丁寧に説明すると政治批判と受け止めかねられないので昌平黌儒者柴野栗山に「廉塾」の額を揮毫してもらっている。

その四 十月十八日
 「閑谷学校に関わった文化人―菅茶山と係わった人々―」  森本純一氏 和気町歴史民俗資料館

はじめに 本日の主人公は武元登々庵(一七六七~一八一八)・武元君立(一七七〇~一八二〇)兄弟。和気郡北方村出身。二人とも閑谷学校で閑谷学校中興の祖、有吉臓器に学び、のち君立は閑谷学校の教授になった。
①閑谷学校 岡山藩主池田光政が後年「土木巧者」と評される津田永忠に命じて造らせた。校舎は寛文十二年(一六〇〇)に着公、光政の歿後、元禄十五年(一七〇二)に完成した。
 安永五年(一七七六)茶山29歳は大坂に帰る賴春水31歳を見送りがてら鴨方に寄り、西山拙齋42歳と三人で藤井高尚(宮内村吉備津神社祠官)宅に宿泊、翌日は岡山で姫井桃源宅に宿泊、翌日閑谷学校を訪れている。藤井家は大森(のち大国)家の親戚で、両家とも文人たちと親交、地域の文化振興ネットワーク基地の一翼を担っていた。
 文化十年(一八一三)君立、有吉らによって教授たちの憩いと遠方からの来客をもてなす場として茅葺きの東屋が建てられた。賴春水が「黄葉亭」と命名、浦上春堂が「黄葉亭図」を描き、山陽が「黄葉亭記」を書いた。
②大森黄谷の旅
 大森黄谷(現大国家三代目 一七八六~一八五二)、中村嵒州(岡山藩士 一七七七~一八五六)は茶山や山陽とも親交があった。文化六年(一八二三)、二人は九州への旅の途中、茶山の黄葉夕陽村舎を訪れ二夜宿している。その折、黄谷が描いた黄葉夕陽村舎図(会報㉔号掲載)が現存している。
③武元登々庵・君立兄弟
 二人は安永五年、閑谷学校へ入学。安永七年(一七七八)には池田治政に後楽園へ召し出され、兄は揮毫、弟は講義をするほどの俊才であった。兄⒗歳、弟⒔歳は、従兄弟明石順二⒚歳ととに「天神講」を開講。
 天明六年(一七八六)西山拙齋が志村東州(仙台藩儒)を同伴、茶山を訪ねた。志村はそれまで二、三か月間、武元家に逗留、武元家で客死した長尾蘭州の後を継いで兄弟を教授している。
父和七郎の命で兄は病弱のため諸国行脚、弟が家督を継ぎ名主になった。
寛政十年(一七九八)君立は齋藤一興と従兄弟赤石退蔵を茶山に入門させるため神辺へ。
登々庵が初めて茶山と出遭ったのは享和元年(一八〇一)、翌年、「黄葉夕陽邨舎」と刻まれた備前焼の陶板を贈っている。
文化七年(一八〇七)春、登々庵は西遊の途中、廉塾を訪れ秋まで茶山の許で過ごしている。
茶山は文化十五年三月、「大和行日記」の旅の途中、宮内で登々庵の訃報を知り、改元文化元年(一八一八)四月、京都で追善供養を催している。その席に柴田義董、浦上玉堂・春琴、中林竹洞が名を連ねている。
④武元家と大森家の交わり
 寛政十二年(一八〇〇)母、享和三年(一八〇三)、父が逝去、登々庵が暫く故郷にいた時期があった。大森家は武元家を介して文人や兄弟に絵画や揮毫を依頼している。
 それらの書状を中心とした資料が大国家文書として現存、目下、三分の一程度、目録化事業が進んでいる。

その五 十月三十一日
「賴山陽を愛した女流画人 平田玉蘊―江戸期に咲かせた女性の自立―」  池田明子氏 ノンフィクション作家

①玉蘊の生涯
・天明七年(一七八七)松平定信が老中首座に就いた年、尾道の木綿問屋の二女(長女は夭折)として誕生。父五峯の影響から妹玉葆とともに幼くして画を学ぶ。
・文化二年(一八〇五) 父(享年47歳)が歿し、玉蘊⒚歳が一家を背負うことになった。
・文化七年(一八一〇) 浄土寺の杉戸に「つる薔薇図」「山桜図」を描くなど、画家として精力的な活動を続ける。
・文化八年(一八一一) 山陽を追って京都へ。画の勉強もしたようである。尾道に残って画家として自立する決断。
・文化十三年(一八一六)「茶山日記」に「一月十一日 玉蘊女史、其の良人隺鳴を携えて来り、二物を惠む」とある。文面にペットを連れて行ったという印象がある。
・文政八年(一八二五)「芸潘通志」「尾道志稿」完成。茶山たちによる玉蘊の古鏡図への題詠詩が掲載される。
・天保三年(一八三二)頼山陽(享年59歳)が歿する。
・天保五年(一八三四)天保の大飢饉で世の中は騒然としていた時代。橋本竹下が飢饉救済事業として慈観寺の本堂を再建。玉蘊が襖絵「桐鳳凰図」を描く。
・安政二年(一八五五)、多数の「富士図」を描き、69歳の生涯を閉じる。

②玉蘊を支えた人々
・浄土寺 本堂、多宝塔は国宝、重文の豊庫の寺として著名。制作年代不明だが、玉蘊に代表作*「軍鶏図」の衝立などを描かせている。岩に爪を立てている。寂しくて辛い玉蘊の心の叫びが聞こえる。
・尾道の豪商 橋本竹下 屋号 灰屋。町年寄。銀行創設、新田開発なども手がけた。最大のスポンサー。
・菅茶山 廉塾には華岡青州の長男が入門するほど全国的に名を馳せていた。玉蘊の作品を江戸の友人に贈ったり、斡旋もしたようである。
・年下の恋人隺鳴 伊勢の出身。広島の俳句集に作品が載せられている。一年前後同棲し一女を授かったが、夭折。
・頼家の人々 山陽の叔父、春風、杏坪、さらに母静子は生涯、玉蘊を支援し続けている。
   神辺宿 歴史まつりで大賑い
    茶山ウイーク2015そこかしこ


 十月十七日から十九日までの三日間、教育と文化の郷、神辺宿場町は恒例の歴史まつりと茶山ウイーク2015で賑わった。好天にも恵まれ、心待ちにしていた大勢のリピーターと新客が西国街道を往来した。
前々日の十四日、神辺小学校六年生が神辺本陣の大掃除のお手伝い。ご褒美に菅波哲郎先生から「ふるさと神辺」の歴史を教わった。期間中、地元の大学生ボランティアガイド大土井温子さんがデビュー。大先輩の倉田義朗さんにエスコートされ、終始、笑顔で訪問客を迎え案内に努めた。

三日市・七日市通り→「茶山ポエム町並み格子戸展」。本陣前では「軽トラ市場」が開店した。
廉塾→「元祖神辺うずみ御膳」、菜園で収穫された「大学いも」など模擬店が開かれた。
 本陣・中庭青空ステージ→来訪者が思い思いに周囲の飲食コーナー・地元物産展・手づくり作品の出店に立ち寄りながら日本・世界の名曲コンサート・神辺二上がり踊りなどのアトラクションを観賞。

本陣・御殿様お成りの間→定番シリーズ「歴史講演会」本陣の分家筋に当る菅茶山の「廉塾」、茶山と交流のあった「閑谷学校に関わった人々」、最終日は藤井登美子先生の講演「茶山の弟子、義民徳永徳右衛門」とあって大入り満員札止めの盛況であった と。

神辺文化会館→「茶山ウィーク2015公募俳句展」一般四五点、小学校二三四八点、中学校一八二三点、合計三七一六点の全応募作品が公開。

 一般の部 特選 入賞作品(敬称略)
うろこ雲参勤交代ありし道  田村祐巳子
金風の宿場町にとなりにけり 嶋山洋子

 菅茶山記念館→「門田朴齋展」―菅茶山、賴山陽に学び幕末を生きた文人―
展示資料二九点の一点。

福盛寺 菅茶山 朴齋書

白蛇峯畔梵王城  白蛇峯畔梵王城
屈指曽遊八歴春指を曽遊に屈すれば八度春を歴たり
石丈金仙皆識我  石丈金仙皆我を識る
二毛非是𦾔時人  二毛是れ𦾔時の人に非ず
 茶山先生福盛寺詩慶應元年八月寺主嘱書
 六十九翁門田朴齋重鄰

 慶應元年(一八六五)八月、朴齋69歳が福盛寺住職に乞われて揮毫したもの。⒓歳で 廉塾に入門。24歳、望まれて養嗣子に、㉛歳、唐突な離縁宣告をした師父の詩、その時、どんな思いで筆を執ったのであろうか。
   中条の歴史と文化を子どもたちに
    深水自然を守る会がアクション


 十一月二十九日、「深水自然を守る会」(波戸忠重会長)が茶山ゆかりの文人サロン中条を舞台に「ふるさと神辺の歴史と文化とこどもたち」をテーマにイベントを開いた。春風館十勝碑林、黄龍山遍照寺など数多ある詩碑が誇るべき歴史と文化を今に伝える中条、主会場中条小学校では全児童(一五六名)による茶山詩口上・合唱・群読、同校OGの声楽家奥野純子さんの「ふるさと中条」の合唱、その後、児童たちが整備した寒水寺古道から堂々公園へ在りし日の茶山と文人たちさながらに散策、中条百景を満喫した。
   2015茶山ポエム絵画展
   応募作品、三〇〇〇点超


 本年一月九日、菅茶山記念館で、2015年度茶山ポエム絵画展授賞式が行われた。本会鵜野会長、高橋代表理事や関係小中学校長などの来賓、保護者で満員の会場で開式。公財市かんなべ文化振興会三好雅章理事長ごあいさつ。第23回目の本絵画展に昨年より三〇〇点多い三二三〇点の応募があったことに感謝、公平・公正・丁寧に全作品の審査に当られた縄稚輝雄先生の御労苦を労った。

授賞式後、受賞者代表、山口みひろさん(誠信幼稚園)が司会者の質問に答え「梅の花びらを描くのに苦心。他にひまわり、バラの花が好き。木の下の人物は父と私」と。「お父さんお母さんに『ありがとう』も忘れないでね」司会の言葉にこっくり頷いていた。
なお、山口みひろさんの作品は2015年最優秀作品ポスターに選ばれた上、今年の世界児童画出品作品に推薦される。

2015茶山ポエム絵画展
*主催 公益財団法人福山市かんなべ文化振興会・菅茶山記念館
*共催 菅茶山顕彰会
*後援 神辺美術協会・福山市教育委員会
*「詩題(原題)」現代語訳詩者(敬称略)
①「梅(画山水)」②「蝶(蝶七首)」③「夕日(所見)④「螢(螢七首)」⑤「晩秋スケッチ(秋日雑詠)」以上五首、中山善照⑥朝景色(路上所見)⑦「天の川(雨後)」⑧「夏の日(夏日雑詠)以上三首、矢田翠⑨「御領山大石の歌」(御領山大石歌)⑩「廉塾(即事)」以上二首、武村充大⑪「雪の日(雪日)」本安俊三⑫「冬夜読書(冬夜讀書)」岩川千年

*出品幼稚園・小中学校
・道上保育所・神辺千鶴幼稚園・誠信幼稚園・神辺小・竹尋小・中条小・道上小・御野小・湯田小・幕山小・府中市栗生小・銀河学院中・鳳中・神辺西中・城西中・城南中・千年中・東朋中・東中・一ツ橋中・誠之中

*出品点数
 ・幼稚園  三園 一五一点
 ・小学校  九校 二,六一一点
 ・中学校 十一校  四六八点

*入選点数 入賞総数 六〇一点
 ・最優秀賞 八点・優秀賞 一二一点
・入選 四七二点

*各学年別最優秀賞受賞者(所属)「画題」
 ・山口みひろさん(誠信幼稚園)「梅」
 ・多田光希さん (神辺小一年)「雪の日」
 ・重政和憲さん (御野小二年)「ホタル」
 ・鴨井昊さん  (湯田小三年)「ホタル」
 ・奥野雄太さん  (中条小四年)「ホタル」
 ・東汰地さん  (道上小五年)「ホタル」
 ・伴場翔梧さん (竹尋小六年)「天の川」
 ・森原桃子さん (誠之中二年)「蝶」

*作品展示計画
 ・菅茶山記念館 入選作以上六〇〇点
  1/⒗(土)~2/7(日)
 ・各地移動展・特別展(随時)
 
編集後記

◇平成二十七年、今年の漢字は「安」。山積する「不安」へのアンチテーゼか、それとも新玉の年2016へ向けての祈願であろうか。
◇元日、茶翁、老いてなお花が咲き、樹木が芽吹き、小鳥が囀り、書に向かい、詩興が湧く春への間断なく湧出する希望を詠んでいる。
◇高齢化の波に揉まれる本会、女性を含む若手会員の加入、誰もが親しみやすい学習会、HP復活などで、イノベーションを進めようとしている。
◇稺(稚)松が長じて傍らに並び雙老龍(松)と為る 次世代の活躍も続いている。市制百周年の節目、他団体・同志とも手を繋ぎ更なる地方創生への道を切り拓きたいものである。
 
会報編集部
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