筆のすさび    《「現代語訳 筆のすさび」メニューへ 》      
 
 「筆のすさび」は廉塾へ立ち寄る多くの来訪者から茶山が直接聞いた諸国の異事奇聞、交友のあった大勢の友人知人からの書簡などから、興味関心を持ったこと、胸中の思いなどを書き綴ったものを、晩年の文政10年(1827年)頃、弟子の木村雅寿に第1巻分を清書させたのが始まりとされています。茶山の死後、次々に書写編纂が進み、安政3年(1856年)全4巻の随筆集として刊行されたものです。

 この書は各項とも4、5行から12〜3行までの仮名まじり文で、簡潔で客観的な表現で通されています。項目は第1巻〜第3巻は各39項、第4巻は45項で全162項の話しで構成されています。
 内容は自然現象、史伝、文化、人事、怪奇など実に広範囲にわたっており、茶山の卓越した科学的思考力に裏打ちされた博学ぶりには眼を見張るものがあります。

 この「筆のすさび」は仮名まじりとはいっても古文であり、誰にでも読めるものではありません。そこでこの内容をより多くの人に知ってもらい、茶山にもっと親しんでいただこうと、茶山生誕255年祭の記念事業の一環として現代文訳を企画し、菅茶山遺芳顕彰会の研究委員の手によって「現代文 菅茶山翁 筆のすさび」として刊行いたしました。(ニュースNo22をご覧ください)

 このホームページでは「現代文 菅茶山翁筆のすさび」の中からいくつかの話しを転載しています。全162話の中のほんのわずかしか紹介できませんが、茶山の知られざる一面をお楽しみいただければ幸いです。

 
 原文を別ページに収録していますのでご覧ください。 《 「筆のすさび」 原文 全162編へ 》
     
「筆のすさび」 版本 (広島県立福山誠之館高校同窓会蔵)               版本の一部
《現代語訳 筆のすさびメニュー》
巻之一より 月蝕(がっしょく) 黒気(こっき) 普賢岳焼出 蝦夷(えぞ) 毒井(どくせい)
巻之二より 道は一なりの条 変化気質 不弟(ふてい)を誡めしこと 癇癪もちの事 大石良雄
巻之三より  加藤清正相法を学びし事  川 の 説  通称の説 国家良図
(こっかりょうと)
裸形の国
巻之四より 奇樹(きじゅ) 豊後山国川 書札文字死活 月を見る説 機巧(きこう)

                                                         
◆ 月蝕(がっしょく) ◆ 
 文化9年(1812年)7月16日の夜に観測された月食は、鏡に匣(はこ)の蓋を覆うように、東から欠け始め、皆既月食になると、紫色に見えた。私の甥の万年(まんねん)が注意しながら観察していたところ、月の中にひとすじの黒い気流が起こり次第に暗くなった。月食がもとに復する時また黒い気流が見えたが、これはそのまま剥(お)ちた。その黒い気流は月の中だけで外には見えなかったという。
 乙亥(きのとのい 1815年)11月の皆既月食の時は、西南より欠け始めて、初めは盆の中に墨汁をこぼしたようにくらくなってきて何にも見分けがつかなくなり、月の周りの星だけは爛々と輝いて見えた。
 丙午(ひのえうま:1785年)元日の皆既日食は、太陽の色が茶色に見えて夕暮れのようで、雀などはねぐらに帰った。
 寛保2年(1742年)壬戌(みずのえいぬ)5月の日食は、昼間が暗闇になって星座は光輝やき、さながら夜のようになったと言い伝えている。天文学者も「太陽の運行が高く、月の運行が低い時の日食は非常に暗くなる。でも、星が見えるのはどうしてだろうか」と言っている。
   
   ※鏡匣…江戸時代の手鏡は丸く、この鏡を納めていた丸い箱の蓋を端から次第に覆う時の様子が月食がおこる
          状態とよく似ているの意。
黒気(こくき)   
 文化丙子(ぶんかひのえ ね:1816年)正月27日の夜、讃州(香川県)金毘羅山の端の大麻という処より、幅一間(1.8m)あまり、長さ一里(約4km)あまりの黒い気流が一帯(ひとすじ)東西へ靡(なび)き、しばらくして序々に薄くなり、西方へさらさらとくずれるように流れていった。その流れは疾風のように速く流れ去り、見えなくなった。初めは紫色に見えていたが、次第に黒くなり、後には濃い墨の様になった。途中で見ていた人は身の毛がよだったとか。小児は恐れて家に駆け込んだ。その様子は雲とも烟とも見えたという。
 この土地の人、牧周蔵という人そのことを書状で知らせてきた。
   
    ※牧周蔵…讃岐の人、茶山の門人

普賢岳焼出  
 寛政4年亥年(1792年)肥前(長崎県)雲仙岳のそばの普賢岳が噴火して、太谷(みたに)は一瞬のうちに山となった。島原城も危ないのではないかと、人皆逃げていると、4月1日に泥水が湧き出て、多くの土地は土砂で埋没した。三つの集落はあとかたもなくなり、また小さな山がいくつもできた。たまたま逃げ切った人もその時の事をよく覚えていない。湯の中を走り遁れ(のがれ)たように覚えた人もあり、また水中、泥中、或いは火中を遁れたように覚えている人もあるとか。その災いは浅間山噴火(1783年)の10倍ともいう。噴火による山崩れで起こった津波による家屋の流出は肥後(熊本県)がかえって多かったという。
 また、寛政のはじめ、長崎の南の海中1里(4km)ばかりの所に海水が一方にばかり流れて瀬ができた所がある。近くを通る船乗りたちは、数年の間不思議な事だと話していたが、後に雲仙岳の噴火があった。山は裂けて崩れ、津波が起こり、多くの村々が被害を受け、海を隔てた肥後の浜辺まで木材などが流れついた。噴火の夜避難してようやく死をまぬかれた人々は、熱湯の中を走ったようだったという。噴火し崩れたのは「前山」といって、雲仙の前の山であった。初めの頃の噴火の時は皆ここかしこに避難したが、数ヶ月何事もないのでだんだん帰ってきた。後には、酒、肴などを持って、山に登って遊覧する人もでてきたという。
   
    ※浅間山の噴火…天明3年(1783年)大噴火があり、関東一円に大被害をもたらした。
    ※肥後の浜辺…この被害を俗に「島原大変、肥後迷惑」と呼んだ。
    ※「前山」…今は眉山と称する。雲仙岳の東側、海岸近くに位置する。

蝦夷(えぞ)
 蝦夷はほぼ三角形の土地で、東西二百六、七十里(1000kmあまり)、シレトコ崎(北海道知床岬)という所に大きな石があり、これが北端である。北面が百里(400km)ばかりある。西北角にソウヤ(北海道宗谷)という所がある。そこから松前(北海道松前市)まで二百里(800km)弱である。土地の多くは山であるが大河も湖もある。東面エリモ(日高地方)という所までは粟、稗を作り食べ物としている。住む人々はあまり異国の人のようではない。それより奥は魚鳥だけを食べている。眉が一文字に続いて、髪が長くて多い。東北にクナジリという一島がある。またエトロフという島もある。ここの山を六月に扇の柄で掘ると、砂の底はみな氷だという。会津の樋口平蔵の紀行文に詳細が書かれている。カラフトはソウヤの西北二十里(80km)ばかり離れた海の向こうにあり、北へ長くその果ては海である。西は山旦(さんたん)という。夷(えびす)に近くて海峡がある。西へ行くと満州からの役人の出張所がある。常陸(ひたち 茨城県)の人、間宮林蔵はそこまで行って、清の役人に逢うて帰ったという紀行文がある。
   
    ※山旦…山靼とも書く。黒竜江下流地域、または、そこに住む種族をいう。
    ※満州…中国東北部の通称。
    ※間宮林蔵…徳川幕府の蝦夷地御用雇。文化5、6年(1808〜1809年)、幕命により樺太を探検し、
      樺太が島であることを確認した。
毒井(どくせい)
 備中(岡山県西部)に新兵衛新開という所がある。七夕に井戸に溜まった土砂やごみなどの掃除をしたところ、四人がその井戸の中で死んだ。天明年中(1781年〜)のことであった。その頃、その井戸は笠岡(岡山県笠岡市)の御代官である竹島左膳という人の管理下にあり、その旨を申し出たところ、「その様な事はよくある事なので、検視するほどのことでもない。この薬を飲ませなさい。時が経過しているので、蘇生する事は無いであろうが。」といって散薬を下さったという事だ。その後また笠岡で七夕に二人死んだ。私がその井戸を見たところ海に近く、そして浅い井戸であった。
 文化八年辛未(かのとのひつじ 1811年)、備後浦上村(広島県福山市春日町浦上)では井戸を掘っても水が出なかったため、水を呼び寄せるために井戸の底で火を焚きその灰を取りに入ったところ、たちまちのうちに死んでしまった。
 翌年文化九年壬申(みずのえさる 1812年)八月、備後千田村(福山市千田町)で誤って火事を起こしてしまった時の灰が井戸に入った。それを掃除しようと中に入った一人が死んでしまい、その人を助けようとした二人もまた死んでしまった。その時、井戸に入ろうとした者は、たちこめる悪臭にしばらくの間入ることができないほどであり、顔をそむけて死体を引き上げたということである。
 「大体、夏から秋にかけて、この時期には井戸の中には毒があり、中に鳥の羽を投げ入れた時、羽がひらひら舞い落ちなければ井戸には必ず毒がある。」と聴雨紀談に見られる。ある人が「提灯(ちょうちん)に火を灯して井戸の中に降ろし、毒があるならその火は必ず消える」のだという。笠岡では死人がでた後、新開という地の井戸は良くないという事で、その周辺の井戸を全て埋めてしまったという事だ。

    ※聴雨紀談…都穆選の随筆。但しこの記述はみえない。茶山の記憶違いか。
◆道は一なり行うにも亦二なしの条◆
 魯道先生の話で、いまでも頭に残っている一つに、道の事を話されたことがある。
 「道は一つである、行いもまた二つとはない。孟子の、人は生まれながらにして持っている四つの徳、即ち仁・義・礼・智、大学の至善(しぜん)、中庸(ちゅうよう)の君子は中庸す、論語の克己(こっき)、中庸の慎独(しんどく)等の四書(ししょ)の徳目は人に解りやすく知らすため、とくと納得させるために教えた徳目である。
人の道即ち誠の心は一つであり、数多くの岐経があろうはずはない。もとより、その教え方を工夫することによって、目的を達成させるという事はあるが、それは全て仁を成就さすための方法である。それぞれの徳目が、それぞれ他と、どう異なっているかを理解すれば、皆、仁について教えているという事が自明のことであるが、今時の人達はこのような事に留意する人は少ない。
 人が一つの事を行うのにこれより外に良い方法がないことを至善という。行いが過ぎることも不足することもなく、心の中に私欲の心がないのを中という。
 仁とは人を人として愛することである。天は万物創成をなし、人は万物を慈しむことができる。その道理は同じである。愛は仁の表現である。しかし人は利己的な心の働きによって、その愛の道理に当てはまらないことがある。例えば父母よりも妻子を愛し、兄弟よりも朋友を愛し、人よりも馬を愛するの類である。またその父母を愛する中でも、父母の心に順うのを孝とするけれども、父母の過ちを諌めずに意に順うのもまた愛の道理に反する事である。
 義はその愛の道理に反しないように規制して、道理にかなうようにすることをいう。それ故に仁を成し遂げる手段である。
 礼は愛を身体で表現するのに、その表現を美しいすじみちで表す行為である。是もまた仁を成就さす一つの手段である。
 知は愛が道理にかなっていること、その行為が仁徳にかなっていることの是非を分別するのである。これも又、仁を成就さす一つの手段である。
 この義礼智の三つの手段をもって、愛する心も行為も皆一様に道理にかなえさすならば、それは仁であり、一人の人格形成は成就するのである。義礼智は仁より出て仁を成就して一つのものになるならば、仁義礼智は一体となって全てが仁になる。己に克ち独り慎むことは仁をつちかう方法である。
 中庸は仁の成果である。至善は仁をおこなうための目標である」と。
 この言葉は安易な説明のように聞こえるけれども、いろいろと詳しく言えば却って惑う者もあるだろうから、この様に言われたのである。
 あらゆることで、魯道先生が道を語られたことは、このように詮索し過ぎて、枝葉末節にとらわれるのを恐れられたからである。

   ※魯道先生…那波魯道、茶山の師、京都の朱子学者。
変化気質 
 目は視、耳は聴く、口は味を知る。世の中の人々は皆同じである。目は横に、鼻は直ぐく頭は円い。是もまた人は皆同じである。これは天から人に授かった天理である。視力についてもよく見える人と見え難い人がある。聴覚もよく聞こえる人と聞こえ難い人がある。味の方も人によって嗜好が異なる。目の大小、鼻の高低、頭の長短がある。これは気質であり、人は気質の次元では差異がある。朱子学の言う、この当然の理と気の二元論について、とやかく議論する人が多いのは納得出来ないことだ。
 この話しを考安(こうあん:茶山の門人、府中の人)にしたところ、彼もまた次のような話しをした。
 薬が人体を温めたり冷やしたりする作用は天理である。形、色、匂、味は気質(性質)である。たとえば桂枝(けいし)の温(うん)は桂枝の天理である。是を粉にすれば形も変わり、炒ると色も変化し匂いも薄くなるけれども、これを舐めてみると辛みの度合いは変化していないことがわかる。それなのに、薬の天理を論ずるのはあやまりだとする医者がいることは、物の気質は変化しても天理は不変であるという道理を疑う儒学界の悪弊が医学界に及んだものであろう。
不弟(ふてい)を誡(いまし)めし事
 一人の弟がいた。その兄と同じように学問をしていた。しかし、どうしても兄の名声と人望に追いつけないので、それを恥じて、ややもすれば兄の短所を吹聴(ふいちょう)していた。ある人が「あなたと兄上とは、学問に詳しいのは同じだ。詩文を作るのも同じ、巧みに字を書く事まで、何一つ劣る事はない。それなのに兄上ほどの名声がないというのは、徳行が及ばないからだ。もしあなたが兄上に勝とうとするなら、今から心を改めて徳行を脩(おさ)めなさい。やがて兄上よりも上に立つことは必至である」と教えた。弟は大いに悦び、日夜言行を慎み、二年ほどたった頃には、優劣つけ難い兄弟となった。弟の驕(おご)りはいつのまにかやんで、兄をそしるような事がなくなったのは無論のこと、兄を敬い仕えて、人々はその態度に驚いたという事があった。
 孟子は王道(徳による支配)を重んじ、覇道(武力権謀による支配)を否定した。斉(せい)の宣王(せんおう)、梁(りょう)の恵王(けいおう)に王道を勧めたが、もしこの二人が孟子の言葉に従って王道を行っていたなら、中国全土の本来の支配者でありながら衰えていた周の王室をどのように助けたであろうか。また周王も二人の王にどのように対処し給うたか。
癇癪(かんしゃく)もちの事 
 世上の癇癪もちという者は、幼少より親の愛によりかかり、驕り(おごり)高ぶり、また、わがまま一杯に育っている。財産家なので人に世話をしてもらい、位が上だとあって機嫌をとられ、何事も自分の思いのままになる。ところが自分の意に逆らう事があると、俄かにはらをたてて、その怒りが顔つきや体全体にあらわれる。或いはどこかへ行こうと思うのに、差し支えがあり行かれない時などは、じっとしておれなくなり庭の中を歩き回る。そして近くの器物を投げ散らかす、また柱に打ち付けて砕いたりする。
 或いはみだりに人を罵り、また、妻子や使用人を意味もなく打擲(ちょうちゃく)する。甚だしいのは刀を抜き槍をひらめかす者もいる。或いは一日に何度となく手を洗って、他人の物は皆けがらわしいと思う者もいる。大抵他人の目から見れば、このくらいの事は我慢できるだろうとおもわれる事も、冷静に気を落ち着かせようとはしないで、自分で自分の心を狩り立てて、止めようとはしない。このような事は、皆幼少からの驕り、わがままをそのままにそだてた事で、所謂癇癪もちとなったのである。私は「浩然草(こうぜんのしょう)」を講義する時にこの説をいうて「直を持って養う」の反対だと論ずる。
◆大石良雄◆
 大石内蔵介(くらのすけ)、細川候の屋敷に預けられていた時、茶坊主二人をつけて日常の用をさせていた。明日は切腹と決まった前夜に内蔵介が便所へ行かれた時、茶坊主の一人は手燭を持ち、一人は湯を持ってついて来たが、お互いに涙を流し声を呑んで悲しんだ。内蔵介はこれを見て、なぜその様に泣かれるのですかと尋ねた。二人は答えて「私たちはこのほど御そばにあって、親しく御つきあい頂きましたのに、明日はお別れ致さねばなりません。お名残惜しくて、思わずこのように嘆いております」といいながらまたむせかえり泣いた。内蔵介は顔色も変えないで「これは私が覚悟致さねばならない事をよくぞ知らせて下さいました。さて長い間一方ならぬ御苦労、御世話をいただきました。私も名残惜しく思っています。何ぞ形見を差し上げたいが、持って来た物もないので、これは年来身につけていた物で」と、一人には紙入れの嚢(ふくろ)、一人に腰下げ巾着を与えられた。これを二人の家では家宝として今に伝えているという。大石はほんの少しの間でも人がなつき親しんだ人であったと、西依(にしより)先生の話である。

   西依先生…京の儒者西依成斎か。茶山より46歳年長で、茶山と面識があった。
加藤清正 相法(そうほう)を学びし事
 「宋朝の美なければ免る事難し」と論語でのたまわれるのを、男色という説もあるが、美貌には盛衰があり、長くは保てない。誰にでも好かれる、優しくて可愛らしい容貌の人がおるとする。その容貌の持ち主が他人の悪口をいうのには、さほど悪感情をもたないものであるが、憎たらしい容貌の持ち主が、物を誉めても人々はあまり信用しないものである。この様なことから人を見る目について考えてみなさい。
 ある与力の話に「訴訟を聴くとき、その人の顔を見ない。美男子のいうことは正しく聞こえ、醜い人の言葉は邪悪に聞こえる。臆病な者は瞳が定まらない。人を惑わすことが多い」と言った由。
 加藤清正は外見に囚われずに人の本質を見分けることの困難さに苦しみ、人相術を学ばれたという。その心を尊ぶべし、また、その性を哀れむべし。
通称の説
 漢文で事件、事実を記した文章に、近頃の人で諱(いみな 生前の実名)がはっきりしない人が、何某右衛門、何某兵衛と書いているのは格別論議する事はいるまい。ところが、漢文の中に日本の名前をそのまま書くのは、文字が俗っぽいといって、弥三郎を一文字で「弥」といい、又太郎を「又」。平右衛門を「平」と書いたのがある。漢学書生が漢文の勉強のついでに書いたというなら論にもならないが、記録、史志の類いならば十分考えるべきである。太郎、次郎は世間に広く通用しているので、省いてもよいとするならば、「弥」「又」は、親も三郎、子も三郎だから、その子を弥三郎、又三郎まどというので、弥も又も同じように通用している呼び名であって、その人の名ではない。平右衛門、源兵衛は、もとは平氏の右衛門、源氏の兵衛である。だからこれも名とはいえない。今頃名前についての事が乱れてしまって、今述べたようなけじめもないので、仕様がないから、何某右衛門、何某兵衛と書くより外ないのである。
川之説
 備後横尾の鶴が橋は、元は「鶴が渡し」といって舟の渡し場であった。その時の舟の櫓や棹などが、今の橋守の宅に残っていた。何時の頃の失火だったか、消失したという。今は川の水が少なくて浅くなり、ややもすると干上がることもある。
 同じ川の上流で、国分寺の西側に、烏岩という高さ3間(5.4m)余の柱のような立石があって、烏が毎年この石の上に巣を作った。
 三十年程前の川さらえの時、この地の老人が、昔の烏岩はこの辺りにあったと言うので、長い竹竿を砂の中に差込み、あちこちと探したが手ごたえはなかったという。川が土砂で深く埋もれたものと思われる。この川だけでなく全ての川がそうである。
 山の木が無くなって雨水で土砂が流され、それが川底に堆積して次第に川床が高くなり、川の両側の良田に泥水が流れ込むようになったと言い伝えられている。近頃では、田地は湿地化し、洪水の心配だけでなく、地下水の水位が高くなって井戸水の水質が悪くなり、黄胖(おうはん)などの病気に罹る者が多くなったように思える。
 目の前の事象が引き起こす利害に気がつかないので、役所の者も手をつけず放っておくのであろう。
国家良図(こっかりょうと)
 今の制度は、以前からその土地を領していて大国の大名をそのまま立てておき、譜代大名を大国に封じることもせず、冠位もそれほど高くないのは、幕府の譜代(ふだい)の家より外様(とざま)の大国を重んじるという謙譲(けんじょう)の美徳である。譜代の諸大名も、国が大で位も高い外様大名が多いゆえ、油断することなく、徳川の世を大事にする気持ちが強い。この制度も昔はなかった良い制度である。
 晋の国が呉の国を滅ぼして天下統一を図ろうとしたとき、晋の張華(ちょうか)、山涛(さんとう)は敵国外患(てきこくがいかん)のない時は、緊張感に欠けるので国が滅ぶと言って、呉をたてておくのが良い策であると諌めたが取り上げられず、呉につづいて晋も滅んだ。これは利害をみて言ったことであるから、遠大な考えがあったというべきである。
 徳川幕府は、仁義にのっとって天下を平定なさったので、利害の観点から議論した張華や山涛とは雲泥の差はあるあが、おのずと一致するところがある。
 私は、この説を長い間言いださなかったが、十余年前、頼春水、山陽父子と竹原(広島県竹原市)で会って、歴史の議論をした時に言ったが、その時は何の反応もなかったが、数ヶ月の後、春水からの手紙ですばらしい意見だと認めてくれた。

    ※張華、山涛…ともに晋の武帝につかえた人物
    ※敵国外患
「敵国外患なければ国恒に亡ぶ」(孟子)
裸形(らぎょう)の国
 数年前、安芸の国(広島県西部)の人が漂流してある国に流れ着いた。その国の人はみな裸で、ふんどしのみをまとっていた。国の酋長(しゅうちょう)がときどき見回りするのに会ったが酋長も后もみな裸であった。
 芋がたくさん採れて、灰の中に入れて蒸し焼きにして食べていた。その葉を植えておくと、また芋ができた。芋の外に穀物などは食べていなかった。
 この裸の国へ、安芸の人が航海中に難破していたのを、オランダ船が助けて、この裸の国へ預けておいて、翌年、日本へ連れて来たという。
 このように、漂流している人を連れてくれば、日本人に限らず、知らぬ国の人でも裸国から褒美の金がもらえるからである。
 武元景文はその人に会ってその話を聞き、詩に作ったが今は忘れた。

    ※武元景文…菅学者、詩人、書家。岡山県和気郡の大庄屋の息。茶山に私淑していた。
書札文字死活(しかつ)
 手紙の文章にも活き死にがある。
 たとえば、
 「一筆啓上仕候」(一筆さしあげます)より「御無事御堅固云々」(どうぞお達者でお過ごしください)
 「私宅無恙時候御自愛」(私の家の者は変わりありません。どうぞご自愛ください)
 「猶期後音云々」(申し残した事は次のたよりに譲ります)
は、変わったことは何もなく、こう書くよりほかなかったにしても、書いたのか書かなかったのかわからないほど、印象の薄い文章である。
 その間に、
 「此間の寒気は弊郷(へいきょう)は海浜に氷を見」(この間の寒さは私の所では海辺に氷が張りました)あるいは、
 「半月一月の旱(ひでり)なるに、よそには夕立すれどもここにはふらず」(もう一ヶ月も日照りが続き、よそには夕立が降ったというのにここには降らない)
など言うのは、同じ時候の挨拶を述べるにしても、その土地のようすも思いやられて、手紙の文字も活きてくる。月日の終わりに
 「此書したためたる時は、雨しきりにふり、時鳥(ほととぎす)二声三声聞こえています。
 など書くと、いよいよその時その人の姿も思われるようでおもしろい
 長さが三尋(3ひろ 約4.5メートル)あまりある手紙でも死んだ文章がある。三行四行ほどの文章でも活きた文章がある。これは手紙文に限らず、詩歌、連歌、俳諧などでも心得ておくべきことである。
月を見る説
 友人の橋本吉兵衛(尾道の人で茶山の門人)が来て語った。
 「人が月を見るのに、人によって大小がある。自分は直径2、3寸(1寸は約3cm)の丸いものと見たが、人によっては直径5、6尺(1尺は約30cm)にも見えるものらしい。6寸ばかりに見えるのは普通の人の目である。そうなれば、いわゆるぬか星などは自分の目には見えない」という。人々みな試していることだ。私ははじめて聞いた。
奇 樹 (きじゅ)
 寛政の中頃(1795年頃)私は京都にいた。美濃(岐阜県)から「からたち花」の盆栽を十鉢ばかり荷駄で運んできて商売する者がいた。数日の間に、お客が大勢集まり、商売人は百両余り儲けて帰った。その頃、この植物盆栽が流行して、甚だしい物は三百両もした。数寸(約10cm)の盆栽である。その後、紀州(和歌山県)に蘭を植えることが流行し、これも大金を費やすので、お上より禁止されたが禁止命令には従わなかった。とうとう役人が蘭を栽培している家々に踏み込んで、その根株を引き抜いて捨ててしまった。
 その後、石菖蒲(いわあやめ)がはやって、京都のある医者が一鉢の盆栽を十六両で買うのを見た。
 文化12、13、14年(1815〜1817年)の頃、牽牛花(あさがお)の珍しい品種を咲かすのを競い、佳い品種が百品も出来て、七十両の値段がついた。備中(岡山県西部)の人が一方金(1両の4分の1)で一種類を購入しようとしたが、名品種はこんな小銭ではとても買えなくて、こぼれ種という名もない品種を数種類買って帰った。
 その後、江戸でもこの事が流行して、岡花亭が「朝顔の記」などという文章を作って私に見せた。文政の初め頃(1820年頃)である。
 享和の頃(1802年頃)備中、備前に文鳥を飼うことがはやり、これも一羽数十両もした。岡山藩より強く禁止されて、ようやく流行が止まった。
 「芥川」(飛鳥川)という書物にその頃の事が記述されている中に、芸州広島の大田川上流で、ある僧侶が川岸で仏具を洗っていたら、花一輪が流れて来るのを見た。それは椿の奇種であった。僧侶はそのまま取り上げて挿しておいた所、3、4年して奇花が咲いた。城下の人々が毎日のように見物に来て、大田川上流にその品種があるのではないかと探したが、そのような物は何も無かった。さても珍しいことの花だといい伝えられ、益々来客が多くなった。ある人がたわむれに「貴僧の椿は名花なので、お殿様が所望されていますよ」と話した所、僧はその椿を鉢植えして、その日に何処かへ去ってしまった。毛利家がまだ広島の城主であった頃(1600年以前)の話であると。このような事は時々あったことであろう。
豊後(ぶんご)山国川
 豊後の日田(大分県日田市)より豊前の中津(大分県中津市)へ二十里(80km)は皆峡谷である。川を山国川という。左右の連なった山々と樹木、岩石が奇抜な姿、形をしていて美しい風景となっており、道も余り難儀ではない。非常に遠い所ではあるが、一度行って見る値打ちはあるという。(久太良の話)
     ※山国川…頼山陽は文政元年(1818年)から二年にかけて九州各地を旅行した。元年十二月この川を
       耶馬溪(やばけい)と名付けた。二年二月末に神辺に来て茶山に対面。その折りの土産話であろう。
     ※久太良…久太郎で頼山陽の通称。
機巧(きこう)
 備前岡山の表具師幸吉という者が、一羽の鳩を捕らえて、その体の軽重や羽翼の長短を計り、自分の体重と比較して、自分に合った羽翼を作製し、胸の前で操作出来る仕掛けを作り、羽翼を動かして飛行した。地面から直接飛び上がることは出来なかったので、屋上から羽ばたいて飛び出した。
 ある夜、郊外れ(まちはずれ)の空を滑空していて、野原の一角で酒宴を開いている人達を見つけた。もしかしたら知人ではないかと、降下して地面に近づいたところ、風力が弱くなり、バランスを崩して落下してしまった。酒宴していた男女は驚いて逃げ去った。そのあとに酒肴が沢山残っていたので、幸吉は腹一杯になるほど飲み食いして、再び飛行しようとしたが地面からは飛び上がることは出来なかったので、羽翼を畳んで歩いて家に帰った。
 後で、この事が露見して、幸吉は町奉行所に呼び出され、人のしない事をするのは、それがたとえ道楽といえども一種の犯罪であるとして、両翼を取り上げられ、住んでいる町から追放され、他の町へ移し替えられた。
 このことは一時の笑い種ではあるが、珍しい事だから記録しておく。寛政の前(1789年以前)のことである。