菅茶山略年表                          もどる   

 西 暦  元 号  年齢           で   き   ご   と

 1748 延享5   1    2月2日 菅波樗平・半の長男として神辺に生まれる。

 1766 明和3  19    京都で市川某に古文辞学を学ぶが、後に那波魯堂に朱子学を和田泰純に
                  古医方を学ぶ

 1771 明和8  24    西山拙斎が初めて茶山を訪ね、共に三原に観梅に行く

 1773 安永2  26    初めて大阪の「青山社」に頼春水を訪ねる

 1775 安永4  28    藤井暮庵が入門する

 1780 安永9  33    遊学中に大阪の「混沌社」社友と交わる

 1781 天明1  34    この頃、神辺に私塾「黄葉夕陽村舎」を開く

 1784 天明4  37    門田氏宣と結婚する

 1786 天明6  39    福山藩弘道館教授に迎えられたが断る
                  天明百姓一揆(〜1787)

 1788 天明8  41    藤井暮庵と広島・宮島に遊び頼杏坪・頼山陽と会う
                  『遊芸記』が成る  『冬日影』が成る

 1792 寛政4  45    福山藩儒医として5人扶持を給される
                  塾経営に専念するため家業を弟恥庵に譲る

 1794 寛政6  47     『北上歴』の旅に出る 父樗平の『三月庵集』を編集する

 1796 寛政8  49    塾が福山藩校の郷塾となる

 1800 寛政12  53    弟恥庵が京都で客死する

 1801 享和1  54    福山藩儒官となり藩校弘道館で講釈を始める

 1804 文化1  57    福山藩主阿部正精の命で江戸に赴く

 1805 文化2  58    阿部正精に福山志科』編纂を命ぜられる

 1807 文化4  60    神辺大火で茶山居宅は全焼、塾はまぬがれる

 1808 文化5  61    門田朴斎が入門する

 1809 文化6  62    頼山陽が廉塾の都講(塾頭)になる

 1810 文化7  63    後に廉塾の後継者となる甥の子、菅三が生まれる 

 1811 文化8  64    頼山陽が廉塾を去る

 1812 文化9  65    『黄葉夕陽村舎詩』前編が刊行される

 1813 文化10  66    『三原梅見之記』が成る 北條霞亭が廉塾の都講になる 

 1814 文化11  67    阿部正精の命で江戸に赴く 『筆のすさび』が成る

 1818 文政1  71    大和・吉野・京都に遊ぶ  『大和行日記』が成る

 1820 文政3  73    門田朴斎を養子とする  『室町志』をまとめる

 1823 文政6  76    『黄葉夕陽村舎詩』後編が刊行される  

 1826 文政9  79    妻宣が没する

 1827 文政10  80    門田朴斎を離縁し菅三を養子とする
                  8月13日没する 川北網付谷に葬られる

 1832 天保3        『黄葉夕陽村舎詩』遺稿が刊行される

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