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菅茶山の紹介
広島県立歴史博物館蔵 菅茶山肖像画(部分)  菅茶山(かん・ちゃざん)は1748年 近世山陽道の宿場町だった備後国安那郡神辺郷(現在の広島県福山市神辺町)に生まれました。
 当時の神辺(かんなべ)は宿場町として栄えていましたが、町は賭け事や飲酒などとても荒れていました。茶山は学問を広めることで町をよくしたいと考え、1781年34歳のとき「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)後の「廉塾」(れんじゅく)を開きました。「黄葉夕陽村舎」の名は塾の南にそびえるふるさとの山、黄葉山(こうようざん)と、同じく塾の裏を流れる高屋川から眺める美しい夕日から名づけられました。
菅茶山坐像  
 
「廉塾」の塾舎  「廉塾」は漢詩の第一人者の菅茶山の塾として広く知られ、常時10〜30名あまりの塾生が藩の枠や身分を越え、福山藩を中心に北は奥羽、南は九州から集まり、その教育の効果には大きなものがありました。

 塾で学ぶためには年に4両あまりの飯料と若干の書物料を払わなければなりませんでした。年4両といえば当時の奉公人の一年分の給金よりもはるかに多い額でした。しかし、貧しく飯料の払えないものは塾の家事を手伝いながら学ぶことができました。塾頭には頼山陽や北條霞亭らがおり塾の教育を補佐しました。

 この時期、漢詩の世界では見たものを自然に心のままにうたおうとする運動がありました。これをやさしく、わかりやすい言葉で詠んだ菅茶山は詩集『黄葉夕陽村舎詩』の発刊により名声は全国的なものとなりました。

 菅茶山は80歳でなくなり、黄葉山のふもとに葬られました。「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年に国の特別史跡に、「菅茶山の墓」は1940年に広島県史跡に指定されています。
廉 塾 講 堂
川北網付谷にある菅茶山墓
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