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 茶山ゆかりの地訪問     菅茶山顕彰会が行っている研修会から 

菅茶山と中条村
 
―『菅茶山と文人サロン』から抜粋―
                             
 著者 上 泰二(編集 藤田)
      
 備後国の母なる川、芦田川の支流、高屋川には神辺平野を見守る北の山脈に源を発するいくつかの支流がある。
国の登録有形文化財砂留群で知られる堂々川がその代表格である。その西を深水川に合流する山田川、さらに西に、今信川を支流に持つ箱田川が水野氏滅亡、元禄13年(1700)一代十年で潰えた松平忠雅治政下、天領となった中条を貫流している。

 茶山は通常、中条への往復道中、往路は山田川沿いの「丁屋路上」、帰路は箱田川沿いの「箱田道中」を選んでいたとされている。
「中条帰路」に対し、次の「即事」が中条往路の作品と云われている。
「箱田道中」は平成13年(2001)年、伊能忠敬内弟子筆頭、箱田良助(1790~1860)生家前に「生誕碑」と隣り合わせで詩碑が建立された。
因みに、箱田良助は茶山の弟子。次男釜次郎が函館五稜郭を占拠して新政府に抗した榎本武揚(1836~1908)である。

 即 事         菅茶山
 晨気褰林霧  晨気(大気) 林霧を褰(かか)げて
 晴光満野堂  晴光 野堂に満つ
 雀鳴何唶唶  雀鳴(じゃくめい) 何ぞ唶唶(さくさく)たる(矢継ぎ早に鳴く)
 早稲已登場  早稲 已に場に登る(登場)

(意訳) 朝まだき霧が少しづつはがれて、陽光が野堂に満ち満ちている。
     雀が忙しげに囀っている。早稲の穂先が顔を覗かしている。
  
 中条歸路        菅茶山
 郊雲醸雨夜山低  郊雲 雨を醸(かも)して夜山低し
 家指長松亂竹西  家は指さす長松 亂竹の西
 十里野程人不見  十里の野程 人見えず
 秧鶏角角隔林啼  秧(おう)鶏(けい)(水鶏)角(かく)角(かく) 林を隔て啼く

(意訳)村に雨雲がかかり山の稜線がぼやけている。
    目指す家は丈の長い松と竹藪の西に見えている。十里の野路に人っこ一人見えない。
    くいなが林の向こうで啼いている。

 箱田道中        菅茶山
 此経山渓歳幾回  此の山渓を経(ふ)ること歳に幾回
 毎将夜半始還来  毎(つね)に将に夜半ならんとして還り来る
 行思往時停籃○  行く行く思う往時籃(らん)○(よ)(駕籠)を停(とど)めしを
 数点流螢水竹隈  数点の流螢 水竹の隈(くま)

(大意)この山間の道を年に往来することか。いつも夜半近くになってから家に帰って来る。
    以前はよくここで駕籠を留めて星の降るような蛍火を賞でたものだ。つくづく回想していると
    水辺の竹藪の中から数匹の螢が飛んで行った。

 神辺の奥座敷中条(安那郡西中条)には、中条を代表する文人サロンとも謂える松風館や遍照寺があった。
「黄葉夕陽村舎詩」巻一「雑詩」に、登場する「崖寺」がその遍照寺第一号と思われるが、中条が居場所として選ばれた経緯は「上寒水寺路上」にも詠み込まれている。

 上寒水寺路上      菅茶山
 寺見飛禽外  寺は見ゆ飛禽の外
 泉鳴雑樹中  泉は鳴る雑樹の中
 狂痴従世棄  狂痴(狂った痴れ者) 世の棄つるに従(まか)せ
 尊酒有人同  尊酒(酒樽)人の同じうする有り
 尋徑追牛跡  徑を尋ねて牛跡を追い
 班荊待午風  荊(小径)を班(わか)って午風を待つ
 雲松随處在  雲松随處に在り
 吾道幾時窮  吾が道幾時か窮まらん

(大意)寒水山寺が鳥の飛んでいる空の向こうに見える。足下の谷川の水音が雑樹の繁みの中から聞こえる。
世間が狂痴な自分を相手にしてくれないのに任せている。(ただ)酒の座だけには仲間に入れてもらえる。小径に牛の足跡を尋ねて上り、草を敷いて座り、午の風を待っている。
到るところに雲のかかった松があり、自分の道はいつになっても行き詰まることはないだろう。

 天明2年(1782)、茶山35歳までの作品が所収されているとされる「黄葉夕陽村舎詩」巻一では、京坂遊学前後に関わる自分史「寄肥後藪先生」「歳杪放歌」、藩政批判詩「御領山大石歌」などを基軸に、茶山の目に映じた農村風景と心に響いた心象をあるがままに
詩語に託した作品や揺れ動く青年期を概括した数多の作品のカタルシスの場として中条が選ばれているように思われる。

 当初、「歳杪寄大空師」では「山路を登りながら考えた」草枕(漱石)の主人公に似て、
下界の「荒歳村居事亦紛」を傍目に、「但愛山中無暦日 不論皮裡有陽秋」浮世と隔絶した高野山から着任、やがて高野山へ帰任した遍照寺大空上人の生き様と対照的に、
自らは「情けに棹し」霽れた日、遙か木の間越しに城を眺め、「愧昔為亭吏 三年困世営」(「松間」)、役人の片棒を担つがざるを得ない世俗生活に嫌気がさし、
どっちつかずの住みにくい現世で自らの立ち位置(「上寒水寺路上」)に辟易、居場所を求め、山野に樵夫との閑話、渓谷に童と釣り糸を垂れるなどしてそこかしこ彷徨う中、ふと足を踏み入れた中条に安寧の場所を尋ねあてたように思う。

 昔から中条は文化水準の高い土地柄、「村聲有趣聴逾好」。村人たちの会話もどことなく高尚で趣があり、聴いていて逾々好感が持てる。一方、世間はつれない。
自らは「狂痴背世少交遊」。ただ「狂痴従世棄」、「尊酒有人同」がせめてもの救いと追い詰めているのは「多病」「伏枕」生活の故か。それでも、心中密かに、今に見ておれ「雲松随處在」、人生至るところに青山あり。
幸い「堪喜阿連麤識字」、末弟耻庵が識字の喜びを知り、一番弟子藤井暮庵も入門。これを希望と祈願に「吾道幾時窮」、いつの日にか学種を育てるという願望を実現する機会が訪れる と。

 茶山存生中、宝暦3年(1753)、明和7年(1770)、天明6・7年(1786・1787)、4度に及ぶ百姓一揆があった。
茶山が好んで筆に託している遺墨「天下非一人之天下公之天下也。」家康の理想郷とした座右の銘とは裏腹に、幕藩政治の貧困が招いた暗黒の飢餓窮乏時代、
貧富の格差から惹起される貧民感情が、庶民の目から見れば別世界に住み拱手傍観の為体の茶山をますます精神的にも追い詰めていたのかも知れない。

 詩中、詩語「狂痴」について、同題の次の詩に文理解釈が詠み込まれている。
筆者には「弧尊」・「孤雁」(巻一)などにも同じ意識下の意識の流れが読み取れるように思う。

 狂 痴         菅 茶山
 狂痴背世少交遊  狂痴 世に背いて交遊少なく
 心跡伶俜十五秋  心跡(心と行い) 伶俜(れいへい)(落ちぶれる貌) 十五(成人)秋
 坐上桑亀曾屢験  坐上の桑(そう)亀(き) 曾って屢々験(けん)す
 夢中蕉鹿欲何求  夢中の蕉(しょう)鹿(ろく) 何(いず)くにか求めんと欲す
 空林月黒鴟鴞嘯  空林月黒うして鴟鴞(シキョウ)(梟)嘯(うそぶ)き
 古戌烟荒枳棘稠  古戌(こじゅ)(古砦=神辺古城祉)烟荒れて枳棘(ききょく)稠(しげ)し
 推枕残更温濁酒  枕を推して 残更濁酒を温むれば
 沈燈一穂照人愁  沈(ちん)燈(とう)一穂(いっすい) 人愁(しゅう)を照らす

 これは京都遊学に関わる中間総括、青年期にありがちな挫折感か。それは故郷神辺にあっても同工異曲であった。
そうした中にあって、中条は趣を異にしていた。
当初、茶山は、雨上がり、仲秋の名月を求めて、「此際余能守単影 泥行十里叩松寮」(「癸丑仲秋十五夕既午訪松風館酒間書二首」)から推して、独り淋しく、親戚筋の河相君推の懐に抱かれるべく中条路に足を踏み入れていたものと思われる。

 君推の人柄、殊の外心和む居場所に、程なく、諸国から茶山を訪ねてくる数多の文人墨客(後述)までも案内、晴雨、寒暖、早暁・深更を厭わず憑かれたもののように、中条への路を足繁く往来、寒水寺、黄龍山遍照寺の高僧大空上人、松風館などの主人と頻繁に交流、中条文化発信の礎を築いた。

松風館主河相君推のおもてなし
 深水川に別れ、山田川沿いの路を北上すると、神辺町西中条山田谷公民館がある。年中無休、分岐点に建って道案内役も務めてくれる屋舎から東回りか西回りの路、どちらを選んでも良い。
道なりに更に北上すると合流地点に広大な更地がある。
石垣を巡らした門端に巨岩南正面に一目で茶山書と判る「象山(金比羅宮)献燈」と刻まれた常夜灯、それに丁字路一つ隔て数多の石碑群が一堂に会した「松風館十勝碑林」が視界に飛び込む。

 前者は文化13年(1816)1月の建立。茶山と君推らが前年の月見の宴で下話をしたのだろう。
東面 「文化丙子孟春」、西面 「山田谷講中」、北裏面に保之(河相君推)撰書の和歌「やはらぐる光をここにあらはしてうつすともしび神もみそなへ 保之」が刻まれている。
そこが旧河相君推邸跡といわれる。本宅と客殿「松風館」が別棟であったかどうか知るよしもない。

 そこから少し山路を登ると、山田新池、路を挟んで西側に土居河相家の墓所がある。君推の次の世代で廃家となった墓地には正徳年間に建立された七体の地蔵像があり、その古さが頷ける。
河相君推の碑文は茶山の撰書であることは言を俟たない。院号「成鑑院慈航智英居士」のうち、英は最後の一画が欠画となっている。
茶山詩にも見られる時の後桃園天皇の諱、英仁の英の字を憚ったものである。墓前に頭を垂れる人があれば、故人にとっても、望外の喜びであろう。

 所 見         菅茶山
 落日残紅在  落日残紅在り
 新秧嫩翠重  新秧(しんおう)嫩(どん)翠(すい)重なる
 遥雷何処雨  遥(よう)雷(らい)何れの処の雨ぞ
 雲没両三峰  雲は没す両三峰

(大意) 夕陽が空を赤く染め、野山の新緑のなかで若苗の緑がさらに美しい。
遙か彼方で鳴る雷は何処に雨を降らせているのだろう。
見る見るうちに雲が広がり、二、三の峯を隠してしまった。

 これも「松風館」関係詩の一つであろう。その他、多くの詩から揣摩して、松林や竹林を含む北山に抱かれた広大な邸宅の前庭に、珍木奇石を配し、澗流を巡らし、小島に擬した池亭に橋を架し、鯉や鮒などを回遊させ、近所の童たちも自由に出入り、遊び場として提供していたと思われる。
しかし、今は分家の中条岩岡河相家屋敷内に移されている「迎碧墩」を除いてその栄華の跡を留めるものはない。

 後者はその金石文だけでも後世に語り継ごうと、平成18年(2006)、その屋敷跡の西に、その命名・揮毫者の拓本を刻した十勝碑、松風館関係碑三基と詩碑三基(後掲)計十六基が建立され、中国の「西安碑林」に倣って「松風館十勝碑林」と命名された。

 その撰文によれば、「河相君推 実名は保之備中後月郡井原村の産で西中条山田谷に居住した 富豪にして書画を蔵し和歌を嗜む 菅茶山と姻戚関係があり遠祖は源氏佐々木氏である 酒造業を営み数奇を凝らした居宅を構え松風館と名付けた。 
 菅茶山は黄葉夕陽村舎に立ち寄った天下の有名人士を伴い訪れて屡々詩会を催した 君推は酒宴の席で心から歓待した。
松風館十勝の名称はこれらの人々によって命名 揮毫されたものが多い」と
猪原薫一氏(「備後史談」第十六巻 第十号)は、「松風館十勝」次のように整理・解説している。

1-1面 松風館(しょうふうかん) 賴杏坪 (広島藩儒者)
 筆者註 「遍照寺」さながら、長松林を縫って松籟が四季折々の音曲を奏でていたのであろう。この地を訪れた道光上人に「聴松庵」、賴春水に「嶺松庵」がある。

1-2面 棣棠(れいとう)橋(きょう) 倉成善司(豊前中津藩儒者)
 註「棣(ニワウメ)、棠(ヤマナシ)が泉池に架かる橋の両岸に植えられていたらしい。」の解釈に対し、地元の郷土史家は「棣棠は山吹を意味し、昭和25年(1950)ころまで、橋の両側に群生していたのを見た記憶がある。」としている。

1-3面 鳥語澗(ちょうごかん) 赤崎彦禮(鹿児島藩儒者)
 筆者註 小鳥のさえずりが途絶えることのない渓流の意か

1-4面 鳴(めい)玉橋(ぎょくきょう) 菅信卿 (茶山の末弟 春水の門下生)
 註 西山拙齋の歌「柴橋を掛て幾世も住ぬべし玉を鳴らせる松の下水」が詠まれている。
 筆者註 春水の「河相保之松風館同菅禮卿賦」(後掲)の一節に「鳴玉渓流不覚譁」の表現がある。清流が玉を鳴らすようにちょろちょろと流れていたらしい。春水への表敬表現かも知れない。
 
以上、書幅(原本)の四勝名の下(方欄)に、永富充国(肥前五島藩儒)が、揮毫者名「池亭四勝は四角の木柱(一基)で、各面が四勝名の方角に向いている。 時 寛政戌午竹酔日(寛政十年(1798)五月十三日)」と記文を残している。一本の四角柱でそれぞれの面の方向にそれぞれの名勝名が書いてあったということである。

2 迎碧墩(げいへきとんとん) 柴野栗山(昌平黌儒者) 註 眺望ができる碧苔で蔽われた小高い丘陵地
 唯一現存している石づくりの標識で、茶山の記文がある。
 時 乙丑(文化二年(1805)石標。「文化元年、茶山が江戸で河相保之のために書いてもらった。」と。池亭四勝から7年後、建立。裏面に「河相保之立」とある。

3 浸(しん)翠(すい)池(ち) 山本来山 江戸の儒者  註 周囲の積翠をさかさまに映した池  
4 紅於徑(こうおけい) 岩瀬華沼 肥前島原藩儒者  註 紅於(楓)の茂った小徑
5 魚樂(ぎょらく)梁(りょう) 亀田鵬齋 江戸の儒者  註 水を堰き止め魚を捕る所(梁)
6 垂(すい)白(はく)棚(ほう) 紫源(不詳・柴源は誤) 註 白藤の棚

浸翠池、魚樂梁も、茶山が在府中、仲介の労をとったと思われる。垂白棚の三基は石標と思われる。

7 娯論亭(ごろんてい) 菅茶山 註 林泉中の池亭で、「文学の論考を娯しむ所」と思われる。
 木製の扁額に茶山が直接書いたものらしい。時 文化己巳嘉月十日(文化六年(1809)十二月十日。

 次いでながら、松風館関係碑三基と詩碑三基には前述の「所見」のほか次の詩が選ばれている。
訪れる人々、思い思いに往時の文人サロンの叙景とホスト役河相君推の為人を髣髴させるよすがになればとの希いからの撰であろう。

 松風館即事       菅茶山 (松風館関係詩碑の一つ)
 箱蔵古畫案堆書  箱に古畫を蔵し、案(つくえ)に書を堆(うずたか)くす
 却是尋常百姓廬  却って是れ尋常 百姓の廬(いおり)
 爨婢摘萃呼病鹿  爨婢(さんぴ) 萃(へい)を摘んで病(びょう)鹿(ろく)を呼び
 園奴激水引遊魚  園(えん)奴(ど) 水を激して遊魚を引く
 籟長松頂風収後  籟は長し 松(しょう)頂(ちょう) 風収まって後
 流浄嵓根凍解初  流れは浄し 嵓(岩)根 凍を解(と)くるの初(はじめ)
 奴婢亦能知愛客  奴婢 亦能く客を愛するを知る
 不妨騎馬到階除  妨げず騎馬 階除(かいじょ)に到るを

(大意)箱には昔の書画骨董が一杯収められ、机上には書籍が堆く積み上げられている。これが普通の百姓の住いとは思えない。
女衆が艾を摘んで、病気の鹿に与えている。男衆は水を堰き止め、魚に餌をやっている。
松の天辺の風が収まった後も、松籟が耳に残っている。谷川の清らかな水が凍っていたのが解け始めた。
男女の使用人は訪問客のおもてなしをよくよく心得ている。こちらが馬で階前に乗り付けても笑顔で出迎えてくれた。

 就中、「籟長松頂風収後」松籟が余韻を残して爽やかに吹き抜ける館は百姓の廬とは思えない「箱蔵古畫案堆書」書画のコレクション、館のそこかしこで見受ける使用人をはじめ直接おもてなしに当たる「奴婢亦能知愛客」、CS度満点。
この詩一つ読んでも、客は変われど主変わらず。引きもやらぬ文雅の客人たちに対する主人の為人と細やかな心づかいが使用人の何気ないおもてなしに溢れているように思われる。

 「松風館」(巻四)に詠み込まれている地理的位置については、「君家衝宇近吾廬」「竹徑沙堤十里餘」。しかし、近くても遠い親戚もある。
邸宅の周辺「垂蘿場圃鳥争巣」は当然の理だが、「落葉池亭童喚魚 不妨事隙時来往」に館主の人柄が微笑を誘う。招かざる闖入者たち、子どもにも優しいおもてなしが茶山の共感を深めたにちがいない。

 松風館即事       菅茶山
 詩罷松窓夜幾更  詩罷(や)んで松窓夜幾(いく)更(こう)
 捲簾閑待柿歸鳴  簾を捲いて閑かに柿歸(しき)の鳴くを待つ
 隣燈有影樟陰黒
  隣燈影有りて樟陰黒し
 林雨將収竹気清  林雨將(まさ)に収まらんとして竹気清し

(大意)詩宴が終って松の枝が差し掛かる窓から外を眺めれば、夜も随分更けて来ている。
簾を巻き上げ、時鳥が鳴くのを閑かに待っている。 
隣家の灯で楠の木陰は薄暗く、林を濡らした雨も間もなく止みそうで、竹藪には清々しい気配が漂っている。

 河相保之松風館同菅禮卿賦  頼春水 (松風館関係詩碑の一基)
 長松之下故人家  長松之下 故人(旧知の人)の家
 鳴玉渓流不覚譁  鳴玉の渓流 譁(かまびす)しきを覚えず
 傳杯更愛幽香度  杯を傳え 更に愛す幽香の度(渡)るを
 屋角微風橘柚花  屋(おく)角(かく)の微風 橘(きつ)柚(ゆう)の花

(大意)背の高い松の木の下に親しい友人の家松風館がある。
チョロチョロと玉を転がすような谷川の音が本当に心地良く聞こえる。
お互いに盃を酌み交わしていると、えも言えぬかぐわしい香りが広がってくる。屋根の角の辺りから、微風に乗って、ああ、蜜柑と柚子の花の香りが・・・。

 天明5年(1785)3月12日、西山拙齋は茶山、賴杏坪、姫井桃源らと松風館を訪ねている。
次いで、14日、河相子蘭宅を訪ね、遍照寺に登っている。
例によって、その後も、詩酒徴逐の日々を重ねている。
松風館について、日頃、自らが道楽で作庭したと伝えられる至樂居に起居している拙齋にして最大級の賛辞を贈っている。破天荒なお墨付きと言える。

  河相君水宅即事     西山拙齋
 中條山下宿 
 中條山下の宿
 歓宴也佳哉  歓宴 也(また)佳い哉
 危緑松水浮  危緑松水に浮び
 残紅点花苔  残紅 花苔に点ず
 烟霞禽向伴  烟霞禽(きん)向(こう)(名山・大河を探勝した隠士)に伴い
 膠漆陳雷擬  膠漆陳雷(膠・漆のような懇篤な友人同士)に擬す
 不管春宵短  管せず春宵の短きを
 夢醒亦呼杯  夢醒めても亦杯を呼ぶ

(大意)中条山下の松風館での楽しい宴、丈の高い緑の木が池に影を映し、散り落ちた花びらが苔の上に落ちている。烟霞の中、まるで膠漆のようにくっついて離れない友人陳雷と行を共にしているようだ。夢のような短い春の宵から目覚めてまた。

黄龍山遍照寺と大空上人
 天明4年(1784)3月17日、西山拙齋は廉塾逗留中の道光上人の送別と吟遊をかねて泊まりがけで廉塾を訪れた。
一週間滞在後、俗事に染まらない僧侶との交際の多い茶山の悠々自適の生活ぶりを羨んで次の詩を詠んで鴨方に帰っている。

  寄 懐         西山拙齋
 川南川北探餘花
  川南 川北 餘花を探る
 日日逢迎酔紫霞  日日逢迎して紫霞(酒)に酔う
 羨爾平生無俗累  爾(君)を羨む 平生俗累の無きを
 交遊強半是僧家  交遊強半是れ僧家

 漢詩文というハイレベルの余技がベースであることから、自然と茶山詩の舞台は寺院、応対者は教養のある僧侶が主流を占めている。
廉塾を起点に、現在、各々、詩碑が建立されているゆかりの舞台は、指呼の間に、東の唐尾山国分寺、證林山明正寺、西の佛見山萬念寺、薬上山光蓮寺、南の新宮山龍泉寺、普門山西福寺、北の湯野山東福院、亀居山寶泉寺などがある。

 神辺の奥座敷、中条に限って言えば、明尾山寒水寺(一編)、黄龍山遍照寺、松風館などとその往復道中に関わる作品が圧倒的に多い。
その橋渡し役を担った篁大道、河相子蘭、松井子珞らのほか、地元の名も残されていない文人たちの存在も決して見落としてはならない。

  同道光上人登黄龍山遍照寺分得重字   菅茶山
 老禅方丈最高峰  老禅の方丈最高峰
 踏破中条紫翠濃  踏破す中条の紫翠濃(こま)まやかなり
 湖海○遊無路梗  湖海 遊 路の梗ぐなく
 乾坤樗散有人容  乾坤樗散(ちょうさん) 人の容るる有り
 松杉風外郊坰迴  松杉(しょううさん)風外郊坰迴(こうけいはる)かに
 簷○香中洞壑重  簷(えんはく)簹 香中洞壑(どうがく)重なる
 閑境剰知魂夢穏  閑境 剰(あまつさ)え知る魂夢穏やかなるを
 起來將及午齋鐘  起って來たれば將に午齋の鐘に及ばんとす

(大意)大空上人の庵は最高峰にある。青葉若葉の翠の中を登ってきた。
渡る世間には無能で役に立たない人間を受け容れてくれる所もある。
遥か町外れ山の松杉を風が吹き抜けている。軒の竹の香が谷に広がっている。
お参りしたら、この時を待ち受けていたように、午鐘が鳴りだした。

 筆者が唐突に連想したのは「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)。二つの寺鐘の文理解釈は同工異曲であろうか。特に茶山の場合、言外の人生哲学が含まれているように思えてならない。

 大空上人に関わる茶山詩「送大空上人之高野山」、曾て自ら尋ねたことがある昼なお暗い鼎臺(高野山)、群僧が磬音を合図に規律正しく粛々と行う修行を目の当たりにしての結聯、「方外原来無物累 也知幽境配禅心」(俗塵を絶った聖域に帰入されるあなたの禅心は一層光明を増すことだろう)には、「送高野山之惠充上人(寶泉寺)」の「今恨君學成」や「唯愛名花不愛受銭」(国分寺 如實上人)、「牛渚(観月の名所)清遊久有期」(光蓮寺 嶺松師)とも全く別世界の凜とした詩心が瞥見されるように思うのは筆者だけなのであろうか。

中条詩に遺された人たち
 茶山生誕250年祭記念「菅茶山略年表」(草稿)茶山記念館・神辺町教育委員会1998年)などによれば、疎明資料として「*できごと」(「詩題」を含む)に関わって、有名無名、数多の文雅の士たちの名が列挙されている。
 
安永2年(1773)茶山26歳 松井子珞26歳が姪河相子蘭と一緒に京都遊学時、琵琶湖舟遊で詠まれたものとされている。詩集には掲載されていない。

  次子珞月夜泛琵琶湖韻  菅茶山
 天女祠前湖月清
  天女祠前(しぜん)(竹生島弁財天) 湖月清し
 湖心乗月棹空明  湖心月に乗じて空明に棹さす
 風來波浪生哀響  風來って波浪哀響を生じ
 舟在琵琶弦上行  舟は琵琶 弦上に在りて行く

(大意)弁財天の前は一点の雲もなく晴れ渡り月がいよいよ澄み渡って湖面を照らしている。月光に金波、銀波のさざめく湖面に漕ぎ出して行く。
折しも、一陣の風が起こり、波が舟を叩いて、哀しい音を響かせる。まるで舟(琵琶)が湖上の弦を奏でているようだ。

  時子珞叔姪東遊     菅茶山
 村居無伴日相求
  村居伴(とも)無く日に相求む
 喜與群賢此宴遊  群賢と此に宴遊することを喜ぶ
 繞砌軽煙花影亂  繞(じょう)砌 軽煙 花影亂る
 隔簾古木鳥聲幽  簾(れん)を隔てて古木の鳥聲幽(かすか)なり
 大杯令行誰堪罰  大杯を行(めぐ)ら令(し)む 誰が罰(しおき)に堪えんや
 穿韻知難還欲鬮  穿(さく)韻(いん)の難(かた)きを知る還(ま)た鬮(きゅう)せんと欲す
 二阮今朝酔何處  二阮(にげん)(竹林の七賢 阮籍・阮咸叔姪)今朝 何れの處のか酔わん
 春深京洛酒家楼  春深き京洛酒家の楼

(大意) 田舎住まいは話し合える友人もなく、日々相手を求めている。
ここ京都は知識人も多く宴席で遊ぶことができてうれしい。庭や石畳を包む春霞が朧で鳥の鳴き声が微かに聞こえてくる。
宴たけなわ、大杯が回ってくるが、果たして飲み尽くすことができるだろうか。
引き当てた韻字は字数が少なく詩を作るのが難しい。もう一度くじを引き直すことはできないだろうか。二阮(子珞・子蘭(子珞の姉の子))は今日何処で飲んでいるだろうか。春も深まる京の街の料亭の離れ座敷あたりであろうか。

 この二基の碑は2001年、西中条松井義典氏別邸高居寮の外庭に建立された。子珞は茶山と五つ違い。年齢的にも近い気の置けない弟子であり友人であった。
高居山麓にある墓碑は、早世を悼んでのことであろう。茶山の書と伝えられている。

 多くの「学種」を育てた茶山は「がっしりした田舎老爺のような外観から一見、気難しくとっつき憎い人のように見えるが、謙遜で温和。有名人だからと云って、偉らそうぶるところもなく、誰とでも分け隔てなく冗談を交えて愉快に談笑された。
だから、藩の役人も土地の人々も新旧雅俗の差別なく誰にでも好かれ親しまれた。」(賴杏坪・賴山陽撰 要旨)。

 また、教育者として、自らが唱導する「学種」を育てることとは、儒学の教授と併せて、後継者を育てること、換言すれば、弟子を大切にすることでもあった。

 茶山は弟子の帰幽に接し、鄭重な弔文や墓碑などを多く撰書している。
茶山墓所には、弟子三谷尚玄(1786~1809 讃州金倉 享年23歳)を葬っている。衆目の一致する愛弟子だったらしい。御霊屋は茶山に侍るような位置にある。茶山は幽冥異にする三年前、徹暁読書する聲を聴いて喜んだ詩を思い起こしながら、碑文を書いている。
「修了を直前にして、忽然として病気で他界した。長身、沈敏、苦学篤行、諸生の中で医と詩に秀でていた存在だった。才子薄命は少なくないが、この人ほどの秀才にして夭折を免れることはできなかったのか。噫。」

安永7年(1778)茶山31歳 仲秋、篁大道、松井子珞、河相子蘭、桑田元厚と永冨充国と遍照寺に登り、大空上人と交わる。
 「黄龍山呈充国」「中秋登遍照寺作」

人物註
・河相子蘭 (?~1828)西中条村大坊谷、豪農、屋号「大坊」の河相家3代目。土居河相家(河相君推)の分家。号 静音 
      文政11年8月23日歿(墓碑がある)
・桑田元厚(?) 芦田郡福田村 春水の門下生
・大空上人(?)高野山の僧。一時、遍照寺住職として来任、 のち、また高野山に帰任。
・篁(高村)大道(?) 中条村 茶山の弟子
・松井子珞 (1753~1780)西中条高居の庄屋松井治兵衛の末子で医者。茶山の弟子。
      姉が河相子蘭に嫁いでいる。安永9年4月、28歳で死歿 
・道光上人(1746~1829)日蓮宗詩僧 出雲国平田報恩寺 聴松庵は号でもある。


安永8年(1779)茶山32歳「中秋登遍照寺作」
  松井子珞、河相子蘭両家を往訪する
  後述の寛政10年(1798)「黄龍山呈充国」の序奏。黄葉夕陽村舎詩には不掲載。
 同題で篁大道、河村子蘭、永富充國、桑田元厚(賴春水門下生)の詩が残されている。

 貴重な三人の詩、共通の詩題「中秋登遍照寺作」は「備後史談」第十巻 第八号、会報第14号(2004年)に掲載されている。
「去年中秋雨作祟 今歳中秋成無月 明年陰晴誰預知」(菅茶山)は「筆のすさび」の筆者ならではの詩文、
「月暗雨陰陰」(永富充國)、
「檐角雨逾酒」(篁大道)、
「暗澹高天玉露秋」(河相子蘭)、
「飛雨茫然月転濠」(桑田元厚)から、当日は雨模様で月見は叶わなかったと思われる。

もっとも、「花はさかりに、月はくまなきものを見るものかは」。幾日も前から満月の宵を心待ちにしながら、霖雨に妨げられ、祈りが届かなかった年もあったこともあるだろう。また、茶山にとって、同じ時間帯でも場所によって差異があることは合点済みであった。

天明3年(1783)茶山36歳「七月十六日同道光上人登遍照寺途中」巻二
 北川勇氏は高野山へ登られる大空上人の送別の詩宴だったのではないかとしている。
 西山拙齋、桑田子重、大空上人が来訪する。
「子雅子重空公訪分得韻寒」 道光上人と遍照寺に登る。(道光上人とは海道士(牛海)を介して初めて知り合う)
「雪日還自中条」

天明5年(1785)茶山38歳「河相君推宅即事分得雨字呈 西山先生 姫井仲明 頼千琪」
 河相君推の松風館で賞月する。「中秋飲河相君推宅」賴杏坪、西山拙齋、姫井桃源、末弟耻庵と河相子蘭を訪ね、遍照寺に登る。

  歳杪寄大空師      菅茶山
 荒歳村居事亦紛
  荒歳村居事も亦紛(みだ)れ
 隣閭警盗譟宵分  隣閭 盗を警めて宵分に譟(さわ)がし
 遥知姑射峯頭月  遥かに知る姑(こ)射(や)峯(仙人が住むという山。→中条山)頭の月
 寺寺経聲咽白雲  寺々の経聲白雲に咽(むせ)ぶ

(大意)飢饉の年には村の暮らしも乱れ、隣近所では夜盗を警戒して夜間は物々しい。
遥かに姑射の峯の月に照らされて寺々からは白雲に咽ぶような経聲が流れている。

天明6年(1786)茶山39歳 西山拙齋、西山孝恂、志村東嶼、河相君推宅に遊ぶ
 道光上人が来訪する。「同道道光上人登黄龍山分得一字」ほか

寛政2年(1790)茶山43歳 西山拙齋と河相君推の招宴に赴く
寛政4年(1792)茶山45歳 賴春水と河相君推の松風館に招かれる
(賴)春水「河相保之松風館同菅礼卿賦」

寛政5年(1793)茶山46歳 河相君推の松風館を訪ね、中秋の月を賞でる
「癸丑仲秋十五夕既午訪松風館酒間書二首」
「與(小原)業夫諸子(山内叢亭、水田福州)訪松風館」
「與佐藤子文同往中条路上口号」

人物註
・小原業夫(1775~1832)岡山藩儒 号 梅坡 詩と書画に秀でていた。
 武元登々庵と親交があった。「黄葉夕陽村舎詩」の序文を書いた。
・佐藤子文(?)伊勢 伊勢神宮御師
・志村東嶼(1752~1802)陸中羽黒堂 仙台藩儒
・西山拙齋(1735~1798)備中鴨方 那波魯堂弟子
・西山孝恂(1761~1840)拙齋次男 儒者
・水田福州(?)備前福岡
・山内叢亭(?)号 梅顚 岡山藩儒
 

寛政9年(1797)茶山50歳河相保之、菅波武十郎が梨木祐為に和歌を所望する。

寛政10年(1798)茶山51歳「松井子珞」(巻五)
副題 (永富)充国、此処に遊ぶこと今を距たること二十年允(安永7年(1778)茶山31歳、充国22歳)。
当時、唱和する者、篁(高村)大道、大空上人、松井子璐、諸人(桑田元厚)、今は皆在らず。独り河相子蘭及び余存す。
充國と河相子蘭を訪ねる。

  黄龍山呈充国      菅茶山
 長松大石𦾔林邱
  長松 大石 𦾔林邱
 二十餘年感壑舟  二十餘年 壑舟を感ず
 嘆息當時携手者  嘆息す 當時 手を携えし者
 幾人相對説曾遊  幾人か相對して曾遊を説くや

(大意)背の高い松、大石のある丘の上の古色蒼然とした邸宅 もう二十有余年が過ぎていることに無常を感ずる。
当時、共に詩を吟じ合った仲間たちのことを思い起こすと溜息がでる。
充国さん、今はもう、あなたと河相子蘭と私が残っているだけですよ。

  同充國訪子蘭       菅茶山
 楚雲湘水二十年
  楚雲 湘水二十年
 屈指同遊半九泉  指を屈すれば同遊 半ば九泉
 𦾔侶獨存君與我  𦾔(きゅう)侶(りょ) 獨り存す君と我と
 尊前道故賀華顚  尊前 故(ふる)きを道(い)って(語って)華顚(かてん)(白髪頭)を賀す

(大意)世渡り二十年 指折り数えてみると、一緒に遊んだ仲間が半分はあの世へ逝ってしまった。昔の仲間はあなた一人だけ。

*寛政10年(1800)茶山52歳 白雲上人・大野萬平が来訪。河相君推の?の巻尾を画く。
*享和3年(1803)茶山50歳 菅波武十郎、西福寺上人、河相君推と廉塾で賞月し歌を作る。
*文化6年(1809)茶山62歳 小原業夫、水田福州、山内梅顚と松風館に遊ぶ。「與業夫諸子訪松風館」
*文化7年(1810)山陽31歳 佐谷惠甫、西山孝恂と共に松風館、遍照寺に遊ぶ。
 山陽、河相君推、弟子たちと湯野村鼟鼟山に登る。
 「九日同諸兄友登高鼟鼟山分得還字」

*文化8年(1810)茶山67歳 武元登登庵来訪、共に「松風館」を訪ねる。
 「武元景文將徒平安故來告別」

*文化10年(1813)茶山66歳 牛海、河相君推、小野維貞、藤井暮庵、佐藤泰順、頼春水、北條霞亭らと菅恥庵追善詩会を開く。
 河相松風に佐藤子文を同行して訪ねる。

 與佐藤子文同往中条路上口号令  菅茶山
久留詞客臥田家 久しく詞客を留めて田家に臥す
偶値晴和命鹿車 偶たま晴和に値うて鹿車を命ず
澗涸白沙全解凍 澗は涸れて白沙全く凍を解き
野喧黄菜誤生花 野喧にして黄菜誤って花を生ず
村聲有趣聴逾好 村聲趣有り聴きて逾好し
山路無程興也加 山路程無し興也(ま)た加わる
但恐荒涼使君厭 但だ恐れる 荒涼 君をして厭わしむるを
都人平日慣豪華 都人 平日 豪華に慣れる

(大意)暫く文人(子文)を田舎の家に泊めて寝起きしてもらった。偶々、晴れて外気も和らいだ。
水が涸れ白沙の谷川の氷が溶けた。野原では菜の花が時知らず咲き出した。村人の会話は品が有り、聴いていて好感が持てる。
山路に差し掛かると一段と興味が湧き、はてしなく続いて行くように思える。ただ、あなたが厭きてしまうのではないかと。
都会に住むあなたは平素贅沢な暮らしに慣れていらっしゃるから。

 佐藤子文は伊勢神宮の御師、神官としての身分は低いが、学識の高いグループ層。毎年、歳の暮れに新年の暦やお祓いを配るため廉塾にもやって来て長逗留していたらしい。
この年、文化10年11月入塾。年末年始にかけ、近郷松永、尾道、糸崎、三原、府中、鞆、福山に遊び、翌文化11年2月14日、福山で見送る と記録が残されている。この詩から、茶山にとっては大事な客であったようだ。この年、帰省後の佐藤子文は茶山の意を体し、北條霞亭の配偶(姪 敬)を恒心社友に謀っている。

 順逆になるが、茶山夫婦は子宝に恵まれず、生涯後継者問題に悩んだ。早くから家督を譲った末弟耻庵が32歳で、甥萬年を養嗣子としたが萬年も28歳で夭折。萬年と結婚した姪敬との間に授かった三人の子のうち、三男菅三がのち菅家を継いだ。
その間、賴山陽、北条霞亭、門田朴齋を後継者と望んだが、山陽は出奔、漸く後継者問題が一段落したと思われた霞亭は江戸詰め中病死、再婚の敬との間にできた二女も幼くして亡くなった。
妻宣の甥、朴齋は茶山が病歿の直前、離縁、最終的に菅三(惟縄・自朴齋)が後継者となったが、子がなく、最終的には朴齋の次男晋賢が明治維新の学制改革まで、廉塾を看取ったのである。
そのような事情から、道すがら一抹の不安を抱きながらの中条路であった心境が窺える。

*文化12年(1815)茶山68歳 河相君推が来訪し北条霞亭宅で月見する。「十五夜分得韻侵」
*文化15年(1818)茶山71歳 大和行日記の旅行中 於京都 松風館主人(河相君推)が大坂より来る。
*文政元年(1818)7月22日、河相君推歿(享年62歳)

 最後に、声楽家奥野純子さんが自らも見慣れた中条ゆかりの詩六首を選んで、オリジナル曲「ふるさと中条(全六曲)」
を編曲されたが、それに組み入れた原詩を紹介し、結びとしたい。

 黄龍山        菅茶山
來時望衆峰 來時 衆峰を望めば
奇絶令人躍 奇絶 人を躍ら令む
來顧來時路 來たって來時の路を顧みれば
郊原亦不悪 郊原 亦た悪しからず

(意訳)やって来る時衆峰を眺め、絶景に心が躍る。頂上に立って辿った路を振り返ると、町外れにある田園風景も悪くはない。

 登黄龍山       菅茶山
彩翠模糊晩照春 彩翠模糊として晩照春く
不知何處是黄龍 知らず何れの處か是れ黄龍
狂謌直蹈危巖上 狂謌直ちに蹈む危巖の上
屐底驚濤萬壑松 屐底濤に驚く萬壑の松

(意訳)春山のみどりがかすみ、夕陽が沈みかねている。どこが遍照寺かはっきりしない。
鼻歌まじりに登っていると危うく岩を踏みはずしそうになった。足下の松の濤、肝をひやした。
 
 所 見        菅茶山
登山待月生 登山待月生
夕陽紅未衰 夕陽紅 未だ衰えず
上上身漸高 上り上りて身は漸く高く
月在歸禽背 月は歸禽の背に在り
(意訳)月見に遍照寺へ登った。夕陽は未だ鮮紅色。漸く月が高くなった。ねぐらへ急ぐ鳥の背にかかっている。

 
 上寒水寺路上(寒水寺に登る路で)
        訳詞 佐々木龍三郎 作曲 石橋元嗣
        補・訳詞 奥野純子
飛んでいる鳥よりも高く
寒水寺が見える
深い木々の合間から
水音が聞こえる
「やれ暑い しんでぇなあ」
小道をさがし 登る途中
草を敷いて ひと休み
涼しい風がふいてきた
「やあれのぅ 登るかのう!」
ぐるり 辺りを見渡せば
あちらこちららに
雲につつまれた松林




参考:河相邸跡 
松風館十勝碑林
   
 金比羅様と地神様   象山献燈