顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報22号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました(写真を除く)
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。

写真農功詩碑
         漆山と碇山
                       
会長 高橋 孝一
 
 昔、神辺平野は「あなのうみ」と呼ばれていた。日本に文字が入ってから、「うみ」に「海」という字が充てられたが、「あなのうみ」が「海」であったという証拠が見つからないから、「うみ」は「湖」のことで、昔の人は海や湖や川を船で行き来していたことだろう。

 神辺町川南王子の田園に「猫児山(ねこやま)」と呼ぶ小山がある。猫・錨、同音であることから「碇山(いかりやま)とか、所在地名から「王子山」(おうじやま)ともいう。
同じように「片山」を「漆山(うるしやま)」ともいう。私が子どものころまであって、今は完全になくなってしまった地方病の片山病は、病原が分からなかったころ、片山沖に漆舟が沈んだのが原因だとささやかれていた。それが「漆山」の起源であろう。
 このあたりの情景を詠んだ茶山の詩がある。

    
農 功
 農功五月急如弦
  農功五月 弦(つる)よりも急なり
 牟麦纔収已挿田  牟麦纔(むばくわずかに)かに収めて已に田 に挿(さ)す  
 一夜園林濯枝雨  一夜園林 濯(たく)枝(し)の雨
 猫児山下水涵天  猫児(びょうじ)山(ざん)下水天を涵(ひた)す

(大意)
五月の農事強く張った弦のように張り詰めた忙しさだ。大麦を刈り取ったと思ったら、もう田植えが始まった。 ある晩、庭の大樹を梅雨の大雨が洗うと、猫児山のふもとの田野は一面に水を張り大空を映している。

 この詩は茶山が廉塾の裏を流れる高屋川堤を散策中、松浦正明氏邸(川南王子)附近から猫児山(現皇子山神社鎮座)を臨み詠んだものと思われる。
松浦正明氏の思い入れも深く2002年4月、私費で自宅『木籠庵』の庭にこの詩碑(写真上)を建てられた。珍しい屏風型の碑で、左に原文右に読み下し文が添えられている。
神辺平野も穴の海も別名がなくなった今、漆山と碇山の呼び名も消えてしまった。

       漢詩創作を楽しむ    
                         門田周一郎

 日本人が最もよく知っている漢詩の一つに、中唐の詩人・張継の旅愁の名作がある。

写真②「楓橋夜泊」拓本掛軸

  楓橋夜泊       
張継(ちょうけい)
 月落烏啼霜満天 
 楓(ふう)橋(きょう)夜(や)泊(はく)
 江楓漁火対愁眠  
江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対(たい)す
 姑蘇城外寒山寺  
姑蘇(こそ)城外の寒(かん)山寺(ざんじ) 
 夜半鐘声到客船  
夜半の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る

「月が沈み、烏が啼いて、霜の気が天に満ちわたる。岸の楓と漁り火が、うつらうつらとする旅愁の目に映る。そこへ、姑蘇城外の寒山寺から、夜半を告げる鐘の音が、この船にまで聞こえてきた。」と。  

 一つの名作が世に出ると、後世の詩人達に大きな影響を与える。八世紀後半以降、紅葉の季節になると文人墨客が次々に寒山寺を訪れ詩文書画を残してきた。その一つの例を見てみよう。

 南宋随一の詩人、陸游が四十六歳(一一七〇年)の五月、四川省虁州(きしゅう)通判(つうはん)(副知事)に任ぜられ、赴任地へ旅立つ。山陰から長江を遡って虁州までの五ヶ月の船旅を綴ったのが「入蜀記」である。その中の一節に、出立して一ヶ月、陸游は寒山寺を自身七年ぶりに訪れて感慨を新たにする。と同時に、しんみりした気分にも浸る。遥か彼方の赴任地、四川省虁州まであと四ヶ月の多難な旅が控えている。のんびりしてはおれぬ。船中泊して翌十一日の夜明け前にはもう旅立つことになる。その前日、十日の夜半に詠じた詩に云う。

  宿楓橋   楓(ふう)橋(きょう)に宿(やど)る     陸游
 七年不到楓橋寺  
七年到らず楓橋の寺
 客枕依然半夜鐘
 客(きゃく)枕(ちん)依然たり半夜の鐘(かね)
 風月未須軽感慨  
風月未だ須(もち)いず軽(かろ)がろしく感慨(かんがい)するを
 巴山此去尚千里  
巴山(はざん)此より去って尚千重(せんちょう)

「七年もこの寺にやってこなかったが、旅寝の枕(客枕)には昔のままに夜半の鐘の音が伝わってくる。だが、風月にたやすく感慨を催してはおれぬ。四川(巴山)へはこれから尚、無限に重なる山々があるのだから。」

 物見遊山の旅ではない。赴任地、四川省虁州までは道のり遙かである。のんびりと感慨に浸っている訳にはいかない、と転結で詠っている。まぎれもなく「楓橋夜泊」を念頭に置いた詩である。また、漢詩人としてその名は清国にまで轟いていた副島種臣の「楓橋」もよく知られている。このような例は、他にも沢山ある。

 さて、結びに急ごう。先人の優れた詩に共感した時、その作品を念頭に置いて詩を作るのも一興である。撫詩で恐縮ながら、

  歯落戯作 歯(は)落ちて戯(たわむ)れに作る    門田 杜斎

 
又牙軒豁損紅顔   又(さ)牙(が) 軒豁(けんかつ)たれば 紅顔を損(そこ)ね
 
顛倒余存漱水患  顛倒(てんとう)せる余存(よそん) 水に漱(すす)ぐに患(うれ)う
 
捨我動揺乗遂落  我を捨てて動揺し 乗じて遂に落つれば
 
誰知意気似崩山   誰か知らん 意気 崩るる山に似たるを

「欠けて隙間のできた前歯は、滑稽で男前を下げ、後に残ったブラブラの歯は水で口を漱ぐ時におびえる。長年の付き合いを見限って、揺れ動いた勢いで遂に抜け落ちてしまった時といったら、崩れ落ちる山のような私の気持ちを誰も分かってはくれない。」

 これは中唐の詩人、韓愈の「落歯」(五言古詩・全三十六句)に倣ったものである。というより、「パロディ版」といった方がよかろう。詩作に根を詰めている時、少しそこから離れて、先人の詩をモチーフにして作ってみるのも気分転換に楽しいものだ。
  (漢詩入門講座講師)
          生田の森紀行       
                          井上 謙二

写真③石碑生田之森

 「生田の森」は神戸市中央区下山手通に位置し、生田神社の社殿背後の鬱蒼たる社叢をなしている。昔は広大な森であったと思うが現在はその面影を留めるのみで、周辺は高層ビルなどで取り囲まれている。  
 「生田之森」と刻まれた石碑を見ながら一歩森の中に足を踏み入れると、そこには巨大な楠の老樹が群生し、その枝は天を覆い昼なお暗い深山幽谷を感じさす様相を呈する。 
 生田の森は古来、歌枕、古戦場として知られ「新古今集」に藤原家隆が『きのふだにとは人と思ひし津の国の生田の社に秋は来にけり』と詠む。

 嘉永三年(一一八四)二月、西方から進出した平家の軍勢は、西の一の谷に城郭を構え、東は生田の森を大手の木戸口とした。源範頼が率いる源氏の軍勢がここを攻め、平知盛を総大将とする守備の平家の軍勢との間で大激戦が繰り広げられた源平合戦の古戦場である。
 時代は移り、建武三年(一三三六)九州から東上する足利尊氏の軍とこれを迎え撃つ新田義貞・楠木正成の軍との激戦で、正成兄弟は湊川で戦死し、義貞は五千余騎の残存勢力を引き連れて生田の森の東より丹波路へと落ちて行った。

 森の東出口に五百年の年輪を数える楠の切り株がある。昭和二十年六月の神戸大空襲で被害を受けたものだが、株元から新しい芽が出て成長を続けている。
 北上歴によれば、茶山翁は吉野・奈良方面へ旅に出て、舞子浜、須磨、生田へと向かい寛政六年(一七四九)三月二十二日の夜生田に投宿したとある。
 現在私が眺めた神戸地方の風景や生田の森などは茶山翁が眺められたものとは全く異なるわけだが、楠の巨木、楠公墓碑などを見て六百年前の源平合戦や楠木正成兄弟の七生報国を誓う忠魂は茶山翁の心を深く打つものがあったのであろう。次のような漢詩が賦されている。

  
 宿生田  生田に宿す
 千歳恩讐両不存  
千歳の恩讐両つながら存せず
 風雲長為弔忠魂  
風雲長えに為に忠魂を弔う
 客窓一夜聴松籟  
客窓一夜松籟を聴く
 月黒楠公墓畔村  
月は黒し楠公墓畔の村

 私は平成二十三年十月二十五日に生田の森に来て、空襲で戦災に遭い、平成七年には阪神淡路大震災に遭遇したにもかかわらずその巨体を生き続ける楠と、見事に復興した生田神社社殿に感慨一入のものがあった。そこで茶山翁に真似て稚拙な詩を賦してみた。

  過生田森    生田の森に過る
 
 仰視喬樟立夕陽  
仰ぎ視る喬樟夕陽に立つ
 龍争無跡野花香  
龍争の跡無く野花香し
 七生報恩楠公魄  
七生報恩楠公の魄
 八百星霜豈可忘  
八百の星霜豈忘る可けんや
                                                    (本会副会長)

     茶山の著書        
                        武村  充大

 茶山先生の著書については年譜等でも紹介されているが、百年祭の際、配布された小冊子に詳しく説明されている。この小冊子は三十一頁の手帳型のもので、編集・発行者は深安郡北辰会会(代表今西健三)・発行日は百年祭当日、大正十五年四月十八日。

 先生の著書は「茶山先生行状」に次の通り擧げてある。

一、 黄葉夕陽村舎詩 三編凡二十三巻
  前編 八巻四冊 
  附録 二巻一冊 先生の弟耻庵の詩集
  合計、十巻五冊 出版 文化九年 編者

  賴山陽 序小原業夫 跋小寺廉之
  後編 八巻四冊・前巻拾遺二巻 
  遺稿 七巻二冊 
  附録 先生養嗣子萬年の詩四十二首 出版 天保三年 編者賴山陽及び菅惟縄

一、 文稿二巻 (黄葉夕陽村舎文 全二冊の事である)
  附録 賴山陽撰「茶山先生行状」
  出版 黄葉夕陽村舎詩遺稿と同時

一、 遊藝記
  (先生が天明八年六月に安藝国に旅行せられた時の紀行文で、未だ出版されていない)

一、 室町誌

一、 福山志料 三十五巻
  〔阿部公の命により先生が六か年の歳月を費して編纂したもので、我が備後郷土史中最も浩瀚な
  ものである。出版 明治四十三年四月〕

一、 冬日影
  (天明八年、先生四十一歳の時の著作で流暢な和文を以て書かれた随筆である。全一冊の小本と   して福山西備新聞社が発行。出版 大正十五年七月)

一、 随筆 三巻
  (これが有名な「筆のすさび」の事である。脱稿したのは文化十一年、先生六十七歳の時。
  出版 安政四年正月)

一、 常遊記 一巻
  (文化元年五月,先生五十一歳が江戸詰中休暇を得て常陸に遊行せられた。其紀行文である。
  出版 不明)

一、 大和行日記 一巻
  (先生七十一歳(文政元年)の三月花盛りの芳野より其附近の地を遊行され其年九月に帰られた、  旅日記である。流暢にして簡明な和文に多くの詩、歌が交えてある。
  出版 大正五年五月 福山西備新聞社

一、 答問福山管内風俗 五巻

一、 歌集 一集

上の外に
一、 東征暦(文化十一年、先生六十七歳、二回江戸詰(二カ年)中の日記)
一、 花月吟(唐伯彪の花月吟に真似て自ら一小冊作ったものである)

 尚この時代の福山藩内の出来事など詳しく書いた書に「阿部野童子問」〔十巻附録一巻〕というのがあって著者不明であるが或は茶山先生の筆になったのではないか、と思われる節があるといわれている。 (以上原文のまま、仮名遣いなど改めた)

写真④「花月吟」表紙

補遺「花月吟」について
 
 茶山の詩の最も早い時期のものに「「花月吟」(桜花と月を主題とした七言律詩二十首)がある。
これは茶山の京都遊学のごく早い頃の作であるが、茶山自身「花月吟二十首、余少年時、倣唐伯虎所作・以繊摩以時様、棄而不録」(花月吟二十首は、余が少年の時、唐伯虎に傚ひて作る所。繊摩して時様に似たるを以て、棄てて録せず)と述べて、詩集「黄葉夕陽村舎詩」には載せなかった。

 京都遊学初めの頃の茶山は古文辞学を学んでいた。従って、この頃の茶山は、江戸時代中期に漢詩の主流であった蘐園学派の詩風の影響を受けて、美しい辞句を連ねた繊摩な詩をつくっていたようだ。
この詩は茶山の友人である中村圃公(備前藩の藩儒)の強っての願いによって、文政七年に小冊子『花月吟』として出版された。(以上、西原千代著「菅茶山」より) 

 出版当時の冊子で残存するものは僅少と言われるが、M氏(本会会員)の所蔵する「菅茶山先生花月吟 完(忠雅堂刊)」は縦20㌢・横13㌢・31㌻の小冊子で、次のような当時の文人による序文が多く載せられている。

 田浦晋撰「菅茶山先生花月吟序」、「備前・中村耘圃公校「花月吟序」、
眉山外史山岐善太積善撰・浪速 落合昶伯通書「茶山先生花月吟序」、篠崎粥「跋文」。

  『花月吟』より一首

 花満芳園月満空  花は芳園に満ち月は空に満つ
 花姿濯濯月波融  
花姿濯濯(たくたく)として月波融(と)く
 花延月色来池北  
花は月色を延いて池北に来り
 月轉花陰在檻東  
月は花陰に轉じて檻東に在り
 弄月簫傳花外閣  
月を弄んで簫は傳う花外の閣
 護花鈴響月前風  
花を護って鈴は響く月前の風
 恨無好句酬花月  
恨むらくは好句の花月に酬いる無きを
 抱月聊眠花気中  
月を抱きて聊か眠る花気の中           
                                           (本会常任理事)

  「福山の文化財」の写真撮影を終えて
  文化財協発足五十周年記念事業

                              高本 正人 

 福山市文化財協会は一九六一年に発足して五十年を迎えることになり、記念事業の一つとして『福山の文化財』を本年五月三十一日に改訂新版を発刊いたしました。

写真⑤『福山の文化財』表紙

 本誌の特色としては、既刊の二冊を一冊にまとめ、写真全面をカラー図版とし、福山市に所在する三二八件の指定文化財のすべてを撮影し直したこと(写真四○五点)。市内を九地区(①中央部・南部北②南部南③南部西④東部⑤西部東⑥西部西⑦北部西⑧北部中⑨北部北・東)に分け、それぞれの地区の初めに地図を付け、また各項目には所在地を示す座標「経緯度」を設けて便を図り、文章を平易に親しみやすい内容にまとめました。

 編集にあたっては、会員から編集委員を募り(編集委員十九名)、委員を地域別に分担し、取材や資料収集、担当地区の撮影・原稿のまとめを致しました。
 私の担当は⑨北部東地区(神辺町)でしたが、主として指定文化財の写真撮影の依頼を受けました。表紙(四点)・口絵(五点『国宝明王院五重塔・本堂』『国重要文吉備津神社本殿』『県無民蔵王はねおどり』『市無民能登原とんど』『県天記上原石灰岩巨大礫』『市重文松永上之町観音堂地蔵菩薩像・観音像』、(以下編集子補遺、茶山関係では『廉塾ならびに菅茶山旧宅』(国特別史跡)廉塾『竹縁と方円の手水鉢』、『茶山の墓』(県史跡)、)等四○五点中、九四点掲載されています。

 文化財の撮影は今まで何回か撮影をしたことはありますが、こうした本格的な撮影は初めての経験で、務まるかいささか不安な面もありました。まず問題なのは撮影器具。照明器具です。持参のカメラは所謂三五㍉のデジタルカメラ・レンズは一八―二七○㍉のズームレンズ二本。照明は五○○㍗のブルーランプ二個・スピードライト四三一基。明王院等の建造物の全体像等の撮影ではどうしても広角レンズを使わなければ入らない。広角レンズで撮れば、必ず被写体にひずみや傾きができる。また、五重塔初層内部の撮影では電源がなく照明は自然光とストロボ一灯。これで果たして撮影が出来るのか、大変不安な点もありました。最近ではカメラはデジタルカメラ、処理はパソコンで何とか見られるように出来ましたが、恥ずかしい次第です。

 次に大事な点は、(これが一番大事な点かもしれません)何を(建造物・仏像・資料等)どう撮るかということです。福山城全景の写真を撮影した時のことです。先ず季節は桜花爛漫に彩られた福山城ということで場所探しを行いました。東よりから、西よりから南・北と周囲からの観察。また、新幹線ホームから、ニューキャッスルホテル十六階からの撮影場所を決めるのも大変でした。一枚これはと撮りましたがクレームがつきました。それは上り新幹線ホーム東よりから撮影したものです。満開の桜に福山城が映えて良い写真に見えましたが、肝心な国の史跡『伏見櫓』や『筋鉄御門』が見えにくい。写っているのは鉄筋コンクリート造りの天守閣や月見櫓、これでは文化財の写真にはならないと。ちょっと考えればわかるものをその時には気がつきませんでした。「何をどう撮るか」一番初歩的で大事な点です。前もってそのことをよく話し合い確認しておくことが大事です。

 教育委員会文化課のご指導の下、何回も原稿の調整・加筆修正、写真の撮り直しを行い、やっと発刊の運びとなりました。編集委員は皆さん専門家ではなく未熟な点も多々あると思いますが、「親しみやすくて、皆さんに役立つガイドブックを」という熱い気持ちで作成に当たりました。

 終わりに撮影に当たっては事務局を初め多くの編集委員さんにご指導ご便宜を図っていただきありがとうございました。
 どうか本誌がよりよく活用され郷土の文化財への関心を一人でも多くの方が持たれることを期待いたします。                            (本会副会長)

     御領山大石歌      
 
                     上  泰 二

 安永八年(一七七九)茶山(32歳)は最後となる京坂六回目の遊学を翌年に控え、大石が多いことで有名な御領山に登り、石を一つには鉄心剛膓の士、もう一つに仙境の人に見立て、時の幕藩政治の在り様に憤懣やるかたない胸中を吐露した。

 御領山頭大石多 或群或畳闘嵯峨
 大者如山小屋宇 遙如萬牛牧平披


 まずは御領山全景をクローズアップ。遙か眼下の高屋川河川敷で時に巨軀を擦り合わせ時に角を突き合わせながら悠々草を食んでいる放牧牛の群れさながらの岩石群に語りかけた。

 吾嫌世上多猜忌 楽子無知屢来過
 此日一杯発幽興 吾且放歌子妄聴


 兎角、この俗世間には煩瑣なことが多い。私はそんな俗事に染まないお前たちが羨ましく、屡々、ここに足を運び刻を過ごすようになった。今日も一杯機嫌で、常日頃鬱積している幽懐を思いのたけ発散するので、酔っ払いの繰り言としていい加減に聞き流してもらいたい。

 如今朝野尚因循 苟有所為觸渠䐜
 憐子剛膓誰采録 不如聾黙全其身


 全体、当今この非常時に官民ともども進取の気に欠け古くからのしきたりを漫然と踏襲、百姓を心身ともに断崖へ追い込んでいる。かりそめにもそのことを糺そうとしようものなら、たちまち彼らの逆鱗にふれる。彼らは将に「飢烏嚇腐鼠 怒鵬博層穹 群情各有執」自らの利権のみに執着し大義を断行しようとしない。

 先年、備中国閑谷学校を訪れ、その感を深くした。この国では「時聞堈夫語 亦及文宣王」時に駕籠かき人夫の会話にも孔子のことが話題になるくらい「村民皆朴直 猶見𦾔流風」藩主池田光政の文政の余光が垣間見える。

「宇宙軌非異 君民體固同 誰能反其本 推恩蘇三農」、換言すれば、「法度をよく守らせ風俗をよくせしめんとならは百姓を富ませよと申す事」が普遍の真理である。
 石よ。お前たちがよく理を弁えた気骨漢だとよく分かっていても誰もお前たちの意見を取り上げてはくれまい。情けないことだが、三猿で身の保全を図るに越したことはない。

  石兮石兮林栖野處得其所
 韜晦慎勿近囂塵
  (以下、筆者文理解釈)
 逢仙化羊已多事  
(余計なお節介である)
 参僧聴経非子真  (本懐としない)
 況作建平争界吏  (似つかわしくない)
 況為下邳授書人  (真骨頂でない)

 ここ御領山のお前たちは俗塵を離れた似合いの仙境に住んでいると言える。なまじ正義感に駆られ、俗世の理非曲直を糺そうとしようものなら、身を危険に晒す。決して俗世間に近づいてはならない。
 結聯で神通力を持つ仙人と石に纏わる中国の故事四つを援用、再度、俗事に関与せず、名利に囚われない清廉潔白な生き方を補完してこの詩を結んでいる。

 恐らく年齢的にもこれが最後と決めた近々の遊学の意義について「嗟我平生懐憂慮 目耕何似窮好」治政と自分史を顧みて「学問=在京」か「農業=帰郷」か、二者択一の答えを問い糺そうとしていたものと思われる。

 昨秋、かんなべ図書館で目に止まった冊子「大石会だより」に触発され、熟老の身には少々きつい道程であったが、徒歩でこの詩の生誕地を訪ねることにした。

 茶山の観桜詩「閑行」で知られる湯野山東福院に近い自宅から旧山陽道伝いに東上、

         
写真⑥八丈岩登山口碑

 国道313号線井笠バス停「八丈岩入口」からの登山口を選択。「陽和製粉」横小路を通り抜けると、伝説「赤鬼八&青鬼権」が「御領八丈岩1200m」の案内。澗流沿いの坂道にさしかかると、往昔この附近一帯の治山治水の辛苦を物語る相次ぐ二つの砂防堤がある。その直下澗橋をそれぞれ西、東に渡ると程なく黒御影石の石碑「御領山大石歌」が視界に入って来る。件の鬼が再登場。「頂上まで500m・⒛分」の道案内。
舗装道路から一変つづら折り胸突き八丁の登山道へ。道すがら地元「御領山大石を愛する会」によって植栽・育成されたつつじが爛春の訪れを待ち望んでいる。荒れた山を「景観大賞」受賞までに蘇らせた地元有志の労苦に思いを馳せながら老軀に鞭打ってやっと山頂を極め、早速鉄梯子を伝って巨岩の上に立った。

 伝説によれば、八丈岩は「元は八龍岩と呼ばれ、往時此岩の處より龍蛇昇天せし」。「福山志料」によれば、「上御領村の大平野山にある」九つの巨岩の横綱にこの岩をあげ、「東西五間半二尺五寸(約10㍍)南北七間半(約13・5㍍)高二間半(約4・5㍍)面席ノコトシ」と紹介している。
 また、鈴鹿秀満は神職らしく「上御領村道上なる山のつかさに、名たたる(十二の)大石」の筆頭に八丈岩を挙げ、「山の上に小山をたたみ上げたるかとあやしまれけるになむ」天地創造の神々が額に汗して手造りした崇高な岩として記録に留めている。

 その昔、茶山や数多の文雅人が眺望を楽しんだ眼下の風景はスモッグに視界を妨げられ、後年郷土の詩人、葛原しげるが旧「御野小学校校歌」(昭和十一年制定)に詠み込んだ「深緑の若松・姫松」の松林は無残にも松食い虫に殲滅され、今もなお往時の巨軀を雑木林中に横たえたままである。峠近くの路傍では晩秋には不似合いな毒々しいまでの黄衣を纏ったセイタカアワダチ草が飛鳥川の淵瀬常ならぬ時代の流れを物語っている。

 安永九年(一七八〇)茶山は最後の遊学を終え帰郷・結婚、翌天明元年、私塾「黄葉夕陽村舎」を開き「学種」を蒔いて青少年を育くむ社会貢献の道を歩みはじめた。
 折しも、天明六年(一七八六)福山藩は藩校弘道館開校に際し、茶山(39歳)を教授に迎えようとした。しかし、茶山は表面的には病弱を理由に断っている。その偽らざる心中は次の詩に託されている。

 已成我貌醜  已に我が貌の醜を成し
 又作此心頑  又此の心の頑を作す
 時被吏人問  時に吏人の問わるるは
 何由栖碧山  何に由って碧山に栖むと

 時恰も明和五年、下竹田村北川六右ヱ門ら三名の庄屋が犠牲になった一揆から疾うに二十年。一向に改善の気配すら見えない幕藩政冶に対する批判・反発が民衆の間にも再燃、茶山自身も益々碧山隠遁の念を強めていたように思える。

 当時、藩主阿部正倫は幕府の要職に上り「江府にありて国郡の栄枯、年の凶豊、民の苦楽を知らず」(安部野童子問)、一方、国許を預った家臣、就中、遠藤弁藏は藩主の覚えめでたく臨時職惣郡之御用係惣纏役に抜擢され主君在府と栄進に伴う多額の資金を捻出することのみに腐心、その年虫害・長雨・大風雨による追い打ちをかけた天を仰いでいる「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出る」とばかりに、主君の威光を笠に、理不尽な貢租収奪、新税賦課を繰り返した。

 遂に、追い詰められた民衆は「寧作亂民不欲為偸児 寧斃矢石不欲死鞭笞」の決断のもとに決起。「天明六年、冬国中蜂起期せずして会するもの数万人山河に曝露すること六十余日綱紀全く崩れ殆ど無政府状態になれり」「禍根は総支配人元締役遠藤弁藏なる一小人の苛政虎よりも猛かりし」(沼隈郡誌)により、「遠藤弁藏に百姓致させ六、七月頃に御米上納致させて見たし」のほか三十か条の要求を掲げお上の沙汰を待った。

 翌天明七年正月、拙斎から福山藩の失政を譏る「為是東風吹未遍 依然永雪錮遷鶯」の詩文を受け取り、義憤遣る方ない、茶山「先生出私蓄」、「擬領斗賑窮隣」。率先して飢饉に苦しむ人々に救いの手を差し伸べようとするが、貧民の夥しさに「慚我救荒無異術」、焼け石に水で成す術もなく「半生辜負読書身」これまでの遊学は何のためだったのか、折から商本主義も台頭する中、生涯、農本主義を貫いた頼杏坪と同様、朱子学の理念と目を覆うような厳しい現実との乖離に懊悩している。

 一揆は一人の犠牲者も出さず、民衆の要求が丸呑みされたばかりか、一旦は捕縛されていた一揆の首謀者十七名が「弁藏追放の功労者」として恩赦、藩から褒賞されるという余録までつけて収束した。とは言いながら、権力者の常套手段、憎き遠藤弁藏の断罪で民衆の怨念の矛先を交わし藩自体は無傷であった。

 寛政七年(一七九五)茶山(48歳)が福山藩御家人として召し抱えるとのお達しをこれも病弱を理由に断ったとき、拙斎もあくまでも処士として生涯を貫こうとした自らの来し方にも想いを重ね、

 白石清泉君自適  白石清泉君自ら適う
 名崖利藪我何求  名崖利藪我何をか求めん
 百年同占升平楽  百年同じく占む升平の楽
 肯向廟廊分国憂  肯て廟廊に向かい国憂を分かたんや

と茶山の選択に賛意を示す詩を贈っている。

 しかし、茶山は再三にわたる藩からの要請を断りきれず、徐々に儒官に準ずる扱いを受け容れ出仕するようになって行った。これを変節と揶揄する口がさない輩もいたようだが、
寛政八年、「郷塾取立てに関する書簡」提出にいたる過程の中で、壮年次までの血気盛んで生一本の理想主義を脱皮、所謂「学種」による世直しという迂遠法、或いは自ら藩の中に身を置き周囲の信望を得る中で長期的展望に立脚した幕政・藩政改革への転換を志向したものと考えられる。

    平成二十三年度定期総会と記念講演

 昨年五月二十一日(土)神辺町商工文化センターで平成二十三年度菅茶山顕彰会定期総会が開催された。開会に先だって三月十一日、突如東日本を襲った大震災による犠牲者の冥福を祈って、出席者一同黙祷。次いで、会場正面に掲げられた菅茶山の肖像画に向かって敬礼。
開会挨拶で、高橋孝一会長は初代高橋令之会長から引き継いだ来し方二十年を顧みて、西原千代氏「菅茶山」出版、神辺町出身の書芸家中江星雪氏(埼玉県在住)の「月を迎える」の中央書壇での受賞など、近年とみに菅茶山顕彰活動が身の周りで広がりを見せていることを祝福。

 議事では二十二年度事業報告・会計決算報告、次いで二十三年度事業計画・会計予算案が上程され、いずれも満場一致で可決成立。
 事業計画では、特に、茶山の命日、八月十三日、「茶山墓参の集い」への一般会員の参加が呼びかけられた。

 総会後、県立歴史博物館主任学芸員西村直城氏による記念講演「『黄葉夕陽村舎詩』の成立」があった。講演後、関連質問が相次ぎ、講師への謝辞で高本正人副会長が「郷土の至宝・誇り」と締めくくった故郷神辺が国内外に誇る高峰茶山への関心の深さを窺わせた。

写真⑦西村氏講演

講演『黄葉夕陽村舎詩』の成立」要旨


 平成七年、「黄葉夕陽村舎詩」を含む「黄葉夕陽村舎文庫」は茶山の子孫によって県歴博へ寄贈された。爾来、同館西村・岡野主任学芸員らによって鋭意、研究調査整理が進められ、近々、同文庫収蔵資料を概括した研究紀要が出版の運びになっている。この日はそれらの中で根幹資料が演題に選ばれている。

 江戸後期、茶山の詩は江戸の儒者亀田鵬齊や幕府大学頭林述齊にも高い評価を受けていた。その名声を不動のものにしたのが文化九年(一八三一)の「黄葉夕陽村舎詩―前編・附録菅耻庵詩集」の刊行である。次いで文政六年(一八二三)の「同後編・前巻拾遺」、天保二年(一八三一)の「同遺稿」。併せて三編二十三巻、二千四百首余から成る詩集が出版された。

 当時、詩集の刊行は、自費出版が通例であった。しかし、この詩集は出版元が経費負担、仕様は茶山の希望どおり。それに弟耻庵の遺稿を附録とするという好条件で持ち込まれ出版された。出版元は発売を急ぐあまり、未校正の「悪本」を発売した。次の校正済の「善本」は巻尾に武元登々庵の五言古詩が掲載されていて識別可能になっている。
とまれ、さそこそのように待望久しい出版で、案の定当時のベストセラーになった。

 茶山は納得の行く作品を出版するため、出版直前まで草稿から刊本に至るA稿からJ稿まで繰り返し校正を重ねている。その間、名波魯堂(A稿)、六如上人(E稿)、頼山陽(G稿)などを筆頭に多くの人々に批正、校正を求めている。
書名「黄葉夕陽村舎詩」はD稿から採用されている。それまでは「金粟園集」(B稿)、「菅茶山樵響」(C稿)などの仮題がある。また、最初は漢詩の種類別・作成年代別などの分類が試みられている。

 また、西原千代氏の謂う「政治批判詩」に関しては、刊本「有鳥三首有感而作」に所収予定だった思われる四首(例 歎斎)が草稿本では浮かんでは消え、最終的に割愛。西山拙齊の「休否録」には所収されている茶山詩、十七編のうち三編(「窮貧」「即事」「丁屋路上」)のみが刊本に掲載されている。校正を委ねた頼山陽の「お上を慮る」意見を忖度したものと考えられている。
                                    (文責編集子)
  茶山忌、理事恒例の墓参
   
秋彼岸、篤志家供花   

 茶山の祥月命日、八月十三日(土)に高橋会長以下十七名の理事が恒例の茶山墓所の清掃。その後、それぞれ墓前に進み線香を手向け、冥福を祈った。定期総会で呼びかけられた一般会員の参加は次年度へ持ち越された。
 また、秋の彼岸には今年も篤志家(匿名希望)による心のこもった生花(写真)が供えられ、訪れる人々の胸を熱くした。

写真⑧墓前に供花

    宮太柱の業績
     顕彰会岩見研修旅行
 

 昨年十一月十七日(木)高橋会長以下十四名の会員が第二回顕彰会研修旅行に参加した。茶山の時代の往路の一部は部分開通の自動車道、尾道北~世羅IC間で時間短縮、石州街道沿いに赤名峠を経由、目的地岩見銀山へ。中途、三瓶小豆原埋没林公園を散策、三瓶山の噴火で四千年の眠りにつき僅か十年ほど前目覚めたばかりの巨大地底林と邂逅。茶山文化も「とこ永久に、かくあれかし」と祈った。

 石見銀山の町、大森町並み保存地区入口の食事処で昼食休憩。石見銀山世界遺産センターへ。
係員が展示を追って「石見銀山のすべて」ガイダンス。間歩コースは割愛。ガイドの案内で、町並み保存地区散策。「歩行中の喫煙・吸い殻のポイ捨て禁止」「電柱の埋設」「格子囲いの自販機」などに世界遺産規格を体感。珍しく神社仏閣、役所、武家、商家などが混在する当時の町並みをぶらぶら。

 最後の見学地石見銀山資料館で、菅茶山の弟子西中条の蘭学者宮太柱との思い設けない遭遇。参加者一同、偉大な郷土の先人の足跡を興味深く学んだ。

 当時、鉱山労働者は石塵と照明の油煙が原因で眼病・気絶(ケダエ)・よろけに罹り平均寿命三十と言われた。太柱は時の大森代官からこれら鉱山病予防対策の依頼を受け自ら入坑現地調査、病因を特定。唐箕を改良した通気管を通して風と四種類の薬草を含む蒸気を坑内に送り込む装置を開発、梅肉を含んだ福(覆)面の着用を促すなどして罹患率を改善。労務災害防止と併せて鉱山事業の発展に大いに貢献した。

 同道の武田武美氏による提供資料及び解説と「笠岡市史」(第二巻)を総合すると、宮太柱の本籍は備後国安那郡西中条村、代々西中条で医者を勤めた。旧宮家は深水荒神様の南にあった。近くに父(太立)子の白墓も現存している。
安政五年閏五月、太柱は大森代官から褒賞金二十両をもらっている。それを充てたものか、翌年十月、宮太柱・藤原誠之連名で荒神様に石灯籠を一基寄進している。この前後、笠岡を経、妻を笠岡に残したまま江戸に移り住んだ。

 催行が危ぶまれた研修旅行、天候にも恵まれ、往路はバスガイド、復路は高橋会長の「びんごばあ」談義などを楽しく聞きながら有意義な日帰り旅行を恙なく終えた。岩見銀山、小豆原埋没林の発見、鉱山病対策に貢献した宮太柱の業績、いずれも一市井人の素朴な疑問が埋もれたまま看過されたかも知れない大発見に繋がったことを身に沁みて学んだ一日でもあった。
              (担当理事・白神直考 資料提供武田武美)
写真⑨石見銀山資料館前で

    石見銀山と三瓶埋没林と
                      白神 直考

 石見銀山は十六世紀初頭再開発され、天文年間に日本及び東アジアを代表する世界で最大級の銀山へと発展。一千六百年頃に最盛期を迎えたが間もなく衰退した。一九二三年休山。その抗山の中の暮らしは、初期の露天堀りや地表近くの採掘の時は条件も良く採算も良好であった。
しかし、徐々に地下に深くなると鉱石の質も下がり、労働条件も悪化。銀山の衰退とともに労働条件も悪化し労働は過酷になり幕末には厳しくなった。

 坑道は垂直断面約百二十㌢、横約六十㌢。これを昼夜にして一尺掘らねばならない。換気も必要だった。行き止まりで曲がりくねり。上下も自在に掘られた坑道。石を掘れば粉塵が出る。油を燃やす煙なども籠もりがちである。送風装置や坑道内部の換気設備やそれらの連結も行われた。
当初は高収入ではあるが、健康のリスクとともに収入も急減して行くのが鉱山堀りの常である。江戸時代の後半には坑内労働は寿命三十年とまで言われるようになった。

   ***   ***   ***
 三瓶山(一一二六㍍)の北側山麓、島根県太田市三瓶町多根小豆原(標高二二〇㍍)で水田の下に埋没し直立した状態の巨大な杉の木が多数発見された。公表されたのは一九九九年一月であった。
この三瓶小豆原埋没林は高さ十㍍を超す長大な杉が立ったまま、即ち、過去の林のまま埋没保存されている点で、国内はもとより世界的にも前例のない埋没林である。また、この埋没林が三瓶山から流れ下った火砕流の堆積物中に埋積しているにも拘わらず、火砕流の流下エネルギーによって倒壊されなかったという事実も極めて異例のことである。

 この埋没林は高さが十三㍍以上に達する多数の樹幹が直立したままの状態で、今から約三千五百年前の森林の姿をそのままに留めている。紀元前五世紀まで約一万年にわたり日本列島に続いた縄文時代は日本人の基盤となった原日本人である。森林を構成する樹木の殆どはスギであるが、トチやカシ類、シイなど他の樹種も混生しており、当時の表土も保存されている。
この土の中には樹木の葉や草の種実、花粉だけでなく昆虫の遺体なども含まれており、当時の自然環境の全てを埋蔵保存した、将にタイムカプセルと言える。

 
   「茶山詩話」寄贈
   北川精美堂から一千冊 

 
 昨夏、神辺町川南の精美堂印刷所から菅茶山顕彰会へ先代北川又氏が生前、将来のためにと増刷されていた「茶山詩話」約千冊を寄贈していただいた。

写真⑩「茶山詩話」集

 「茶山詩話」は、昭和六十二年六月から四年余のわたって続いた「茶山学習会」(神辺町教育委員会・神辺文化連盟・菅茶山先生遺芳顕彰会共催)の講師北川勇先生の講演録である。
 平成四年から十年まで毎年一集、テープ起こしして発刊され、平成十年の茶山生誕二百五十年祭には、七集セットが箱入れされ頌布された。

 第一集「神辺宿・修学」、第二集「交友」、第三集「田園閑適」、第四集「梅・蝶・蛍」、第五集「茶山と山陽」、第六集「茶山と中条」、第七集「茶山晩照」の全七集からなる。難解な茶山詩が分かりやすく、親しみやすく解読され、茶山研究の好適書である。

 編集は、岩川千年、草浦孝、北川又、矢田翠、林多恵子(敬称略)の諸氏。印刷は精美堂印刷所北川又氏。発行は菅茶山顕彰会。
 この「詩話」出版に関わって、本会員松岡幾雄氏は自著「御影九重坂日記」の中で北川氏の為人について「編集者のうちに(温厚で学問好きな)又さんがおられなかったら、度重なる校正作業はうまくいかなかったろう。
他の印刷業者だったら採算があわないと投げ出したに違いない。たくさんの本が精美堂から出た。まさに精美堂は神辺文化の拠点であった」と回想している。惜しい人を失って早や七年の歳月が流れる。

  御野小が茶山詩素読     
  
全校一斉ことば朝会で

 福山市立御野小学校(小畠八重校長、児童数三百十九名)では平成二十三年四月からことばの教育「聞く・話す・読む・書く」の四技能のうち、「読む力」を涵養するため茶山詩の素読を教育内容に取り込むユニークな取り組みを行っている。十月四日(火)、早朝、本会から武村、鵜野、上の三名が授業参観に訪れた。
 案内の渡邊哲博教頭によれば、全校児童が一斉に茶山ポエム絵画展の画題詩の中から十二月を除き月毎に歌題を変え、毎週火・木曜日のSHRで「文意を考えず声に出して読む」ことに力点を置いて朗読している。
この日の詩題は「月を迎える」(原詩「所見」)元気溌剌、声量も変化させての斉読・グループ・個別朗読、学級によっては朗読に併せて立腰や腹筋に力を入れるなど姿勢にも様々な工夫を凝らしている。半年を経て効果のほどを「自分の意見をはっきり発表できる児童が育っている」と。次世代に向けた学種への期待も寄せられる取り組みである。

 
伝統と文化を育てる教育 「ことば朝会」について
             福山市立御野小学校 校長 小畠八重

 本校の教育活動は、学級からのまとまった力強い素読の声からスタートします。今年度から、火曜日と木曜日の「ことば朝会」で、素読を実践しています。主に菅茶山先生の漢詩を読んでいます。素読を教育活動の一端として取り入れたのは次のようなことからです。

 教育基本法には「伝統と文化を尊重してそれらを育んで来た我が国の郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際平和と発展に寄与する態度を養うこと。(教育基本法第2条五項より)」とあり、それに伴い学習指導要領も伝統と文化を重んずる方向が示されています。

 また、子どもたちが、これから先、どの地で活躍するにしても、生まれて育った神辺の地を思い、良い文化を引き継ぐことが大切なことであると思います。
さらに、大きな声で気持ちを一つに漢詩をよむこと、全校児童が同じことをやり切る力は将来に子どもたちの生きる力になるであろうと考えました。

 四月から継続しておりますと、子どもたちは日々伸び伸びと表現できるようになりました。全校児童の前でも学級の授業のなかでも自分の考えを持ちしっかりとした話し方ができる児童が増えてまいりました。漢詩のもつよさ、日本語のリズム・語感・韻などを体感しながらやりきったという達成感をもつことができているように思います。
   ***   ***   ***
  「所見」 (「月を迎える」原詩)
 登山待月生  山に登りて月の生まるるを待つ
 夕陽紅未衰  夕陽紅未だ衰えず
 上上身漸高  上りて上りて身は漸く高く
 月在帰禽背  月は帰禽の背に在り

写真⑪茶山原詩を素読する児童

茶山ウィーク2011&神辺宿・歴史祭り
 華やかに文化の秋を彩る


 昨年も菅茶山を生んだ神辺宿、秋恒例のフェスティバル、市かんなべ文化振興会主催「茶山ウイーク」が十月二十六日から十一月三日まで、新に組織が結成された運営委員会主催「神辺宿・歴史まつり」が十月十五日から十七日まで、町内各公共文化施設や神辺本陣、廉塾、三日市通りなど旧山陽道界隈など諸所で華やかに文化の秋を彩った。

茶山詩「中条編」&ニコピン童謡
 茶山記念館ロビーコンサート


 菅茶山記念館でのメイン展示は第19回特別展「生誕125年葛原しげる~ニコピン先生の足跡」(十月十三日~十一月二十三日)。 
十月二十九日(土)には同館ロビーでかんなべ浪漫コンサートが開かれ、声楽家奥野純子さんが高橋元子さんのピアノ伴奏で葛原しげるの歌「とんび」ほか五曲、次いで、奥野さんの「ふるさと中条」を舞台とした茶山詩「登黄龍山」(後編巻二)など地元の要望に応えCD化された六首の現代語訳詩を地元の子ども達と一緒に自慢のどに託して紹介。

写真⑫茶山詩を歌う子どもたち

  特集「茶山を語る講座」

①「茶山が接した異国の文物」

       講師 元県歴史博物館副館長菅波哲郎

数多の廉塾史料の中、『南京船の図』、『エリザベス女王図』『ゼルマニア郭中図』などから、これまでの我が国の鎖国の認識を修正する必要がある。一六三三年からの全面的な鎖国令下にあっても日本には長崎など四か所、外国との窓口があり外国の文物との接点があった。
寛政九年(一七九七)、長崎遊学に発つ弟圭二(耻庵)への餞詩から積極的に外国事情に目を向けるように勧めていることが窺える。
   ***   ***   ***
   
送人之長崎
 西指青蜒欲盡頭 
 西指青蜒(せいてい)(秋津島)盡きんと欲するの頭(とう)
 羨君逢矢志堪酬  
羨む君が逢矢(ほうし)志酬ゆるに堪えたるを
 如逢色目重媞譯  
如し色目(しきもく)(外国人)に逢うて媞譯(ていやく)(通訳)をかさぬれば
 海外傳聞幾九州
  海外傳聞す幾九州(世界各地の事情
               (十月十五日  於 神辺本陣)

②「見上げれば要害山」 
        講師 佐藤一夫


 戦国時代、要害山(周防大内方・毛利元就軍)と神辺城(出雲尼子方・城主山名理興)の城攻防の歴史と茶山が雅号に因んだ要害山(別名、茶臼山、秋円山)城下西側、徳田村の宝泉寺住職恵充上人、備後天明一揆を一人の犠牲者も出さずに成功に導いた義民徳永徳右衛門、箱田村出身で伊能忠敬の「大日本地図」測量に弟子として貢献した箱田良助などの茶山と交流のあった人物像について紹介。
「こうした数々の歴史をもつ要害山環境プロジェクト事業の推進」を訴え講演を締めくくった。
         (十月十五日 於 神辺町湯田公民館)

③「菅茶山と朝鮮通信使」
     講師 県立歴史博物館主任学芸員西村直城


 正徳元年(一七一一)九月、六代将軍家宣の将軍職襲封を賀すため来朝した朝鮮通信使上官八人が鞆・福善寺対潮楼に宿泊、酒を酌み交わしながら歓談した。八人が口を揃えて、「朝鮮でも耳にしている評判どおり、日本の東地区でこの地の景色が一番美麗である」と評した。
それを従事官の李邦彦が「日東第一景勝」の六字に書した。また三人の正使がそれぞれ詩を詠んだ。

 茶山は「筆のすさび」で「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なきこと甚だし」と朝鮮人観を述べながらも、これら通信使が残した文化遺産については高く評価していた。
文化九年(一八一二)、茶山は当時鞆に在住していた親類の菅良平(長獻)を介して、鞆の豪商大坂屋主人三島新助に経費を負担してもらい、先ず「日東景勝第一」などの木彫額を制作、以後、朝鮮通信使が残した文化遺産と併せて名勝「鞆の浦」を広く世間に発信しようとした。

 こうした茶山の遺志を継いで沼隈郡藤江村庄屋山路機谷は、嘉永六年(一八五三)三月、対潮楼を舞台に「未開牡丹」という詩題で詩筵を張った。その参集者は二日間で百余人、一八九首の詩が詠まれたという。
 今日なお続く鞆の津の賑わいの仕掛け人は「茶山を以て魁と為すべし」とも言える。
(十一月二十日 於 鞆歴史民俗資料館) 
      
④「菅茶山と廉塾 ~私塾における人づくり」
        講師 菅茶山記念館職員 矢田笑美子


写真⑬歴史講座


 本庄屋三代目菅波久兵衛好永の養女半(旧姓佐藤)と養子樗平(旧姓高橋)夫婦の間に三男三女が授かった。その長子が晋師(茶山)である。
 父樗平は東本陣職、のちに農業兼酒造業を生業とした。和歌・俳諧に造詣が深く、句集「三月庵集」がある。母半は国史に通暁し、わが子たちをよく訓導した。父母の血を受け継いだ茶山は幼時から病弱であった故もあって、近所の子ども達との交遊よりも唐詩選の朗読に夢中だった。

 茶山が青年時代の神辺は「宿場町」で風俗が乱れていた。茶山自身も「呑む、打つ、買う」の悪弊に染まりかけていた。しかし、病弱と父譲りの趣味の俳諧が幸いして深みにはまらず、遊学を思い立つに至った。

 茶山は京坂での六回の遊学を経て、帰郷。早速「学種」、即ち、教育による世直しを企図、天明元年、私塾「黄葉夕陽村舎」を開設した。その永続的な経営に専念するため家業を末弟に譲り、次いで、寛政八年、塾を福山藩の郷校とする願いを申請、翌年認可。校名を「廉塾」・「神辺学問所」と改めた。廉塾の「廉」は「つつましい・倹約」の義で、それを旨とした生活指導上の逸話も語り継がれている。
 
 廉塾は儒学の教典(四書・五経)の読書・講義・会読を中心とする学修を行った。茶山のほか藤井暮庵、賴山陽、北条霞亭など後世に名を残す著名な学者が指導に当たった。

 塾生は全国各地から身分や貧富の区別なく受け入れ、毎年三十名前後の塾生が在籍、原則として寮生活を送った。塾の経営は塾の小作米などで賄い、入学金・授業料は徴収せず、食費・書物代など実費のみを徴収した。貧しくて諸費用が支払えない者は塾の仕事や家事を手伝いながら学ぶことができた。(十二月十日 於 神辺中央CC)
                        (以上敬称略、各講演要旨の文責は編集子)

  高橋会長、鵜野理事、市善行表彰
   文化部門での顕著な功績

 昨年十二月十日、リーデンローズで福山町づくり推進大会が開かれた。席上、本会会長高橋孝一・同常任理事鵜野謙二両氏に対して「善行市民」として賞状と記念のメダル(写真)が贈られた。

 高橋会長はこれまでの地元の歴史文化の調査研究、就中、備後福山地方の方言辞典「びんごばあ」(一九八六年 非売品)などの出版を通じて郷土文化の普及発展、並びに県境を超えた「ロマンチック街道313」の提唱者として街道沿いの魅力ある町づくり振興に。
鵜野理事は町内自慢の国特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」、菅茶山顕彰活動を基底に据え町民が一丸となった魅力ある町づくり活動の核的存在として功績があったことが評価された。

両氏の受賞は本会としても誇り、会員一同心からお祝詞を申し述べたい。
  茶山詩を篆刻で刻字

 昨年六月二十七日(月〕朝日新聞に河相彰丘さん(曙町84歳)が茶山顕彰を願い、茶山詩を篆刻で板に刻む記事が掲載された。
 河相さんは、現役時代大工仕事で刻字や彫刻を担当。引退後、田中蘆雪さんに書を学び師範資格を取得。目下、自らが主宰する「刻字の館」の仲間とともに米寿記念に茶山詩を篆書で刻字した作品展を計画している。
 因みに、茶山は病臥中の遍照寺大空上人を見舞った際、「香篆艾烟岑寂甚し」と静かに立ち上る香の烟を篆字のようだと詠んでいる。

   遍照寺
 撫松拝石入雲霞  
松を撫で石を拝して雲霞に入る
 漫路清風紫楝花  
漫路清風紫楝の花
 香篆艾烟岑寂甚  
香篆 艾烟(がいえん) 岑寂(しんじゃく)甚し 
 緑陰堆裡病僧家  
緑陰堆裡 病僧の家
   2011茶山ポエム絵画展 *写真4葉

街並み格子戸展 春 5・1~5 秋 10・11~14
福山市役所ロビー展 9・11~14 
廉塾展       10/15~17
神辺文化会館展   10/26~11/5 


  第十九回茶山ポエム審査会
   応募総数3,068点 

 昨年十二月十四日(水)菅茶山記念館で第十九回茶山ポエム審査会が行われた。審査委員長に委嘱された縄稚輝雄先生(写真右端)の下、十八名の役員が補助。

総数三、○六八点の応募作品が一点一点丁寧に審査、入選作品六○三点が選定された。九時から昼過ぎまで一度だけ小休止。
終始中腰の姿勢のまま齢を感じさせぬ縄稚先生の専念ぶりに一同ただただ感服。

写真⑭茶山ポエム絵画審査風景

 年が明けて一月十四日、菅茶山記念館ロビーで表彰式が行われた。来賓祝辞で、深安地区医師会会長亀川陸夫氏は「毎年、皆さんの作品は病院の待合室に飾られ、患者の心を和らげるのに役立っている」と祝辞で感謝。次いで、表彰式。高橋会長から受賞者一人ひとりに賞状と記念品が贈られた。
縄稚審査委員長の言葉を借りれば、「皆さんが生まれる前から始まったこの絵画展、今回も山のように積み上げられた作品を一生懸命描いた皆さんの姿を想像しながら一枚一枚丁寧に審査した」
見事最優秀賞を獲得した生田飛翔さん(中条小六年)は「これまで一年から六年まで、『ホタル』を画題に選んだ。今年は小学校最後の年なので力が入った。最高の賞をもらってうれしい」と喜びの謝辞。

 最優秀賞受賞者は次の皆さん。
小林流晟(誠信幼稚園) 中山綺良(湯田小一年) 谷本愛美(御野小二年) 
橘高愛(湯田小三年)  冨田修弥(道上小四年) 河合彩愛(神辺小五年) 
生田飛翔(中条小六年) 西本美喜(城北中三年) 小堀早貴(神辺旭三年)


 第十九回茶山ポエム絵画展

写真⑮ポスター 

最優秀作品
「ホタル」中条小六年 生田飛翔
「天の川」城北中三年 西本美喜

*主催 菅茶山顕彰会 茶山ポエム絵画展実行委員会
      (財)福山市かんなべ文化振興会 菅茶山記念館
*共催 ふくやま美術館
*後援 福山市教育委員会 深安地区医師会 (財)義倉 (財)渋谷育英会

*今回の詩題 +今年度から変更した詩題
「冬夜読書(冬夜読書)」「画山水(梅)」「蝶七首(ちょう)」「聯句戯贈如実上人(花と和尚さん)」
「+夏の日(夏日雑詩)」「蛍七首(ホタル)」「+朝景色(路上所見)」「所見(月を迎える)」
「雨後」(天の川)」「秋日雑詠(晩秋スケッチ)」

*出品校園
・誠信幼稚園・千鶴幼稚園
・神辺小・竹尋小・御野小・中条小・湯田小・道上小・芦田小・有磨小・桜丘小・府中市栗生小
・神辺東中・駅家中・福山中・城北中・松永中
・神辺旭高(以上十八校園)

*出品点数 3,068点)
*入選点数 最優秀賞 9点  優秀賞 121点  入選 473点

*作品展示
・菅茶山記念館(1・14~2・5)
・ふくやま美術館(2・28 ~3・4)
 いずれも9・00~17・00)
・各地移動展・特別展(随時)
  編集後記
 
東日本大震災の揺れを残したまま新しい年を迎えましたが、「おめでとう」ということばが今年ほど心に痛い年はありません。さすがに今年は「おめでとう」の詞のない年賀状が多く届きました。
 お陰をもちまして、会報第二十二号をお届けいたします。茶山詩のない会報は考えられないとのおことばを大切にして、今号は茶山詩を多く載せました。今後もそのように努めたいと思います。
 茶山顕彰誌として中味が薄いと感じられるかも知れませんが、会員内外からも郷土の先人、歴史を含め、資料、原稿などをお寄せいただければ幸いです。

◎会報編集部
 
武村充大(福山市神辺町上御領746)
  ℡・ 084―966―2091
 上 泰二(福山市神辺町湯野23の8)
  ℡・084―962―5175
◎顕彰会事務局
 
渡辺慧明(福山市神辺町川南230―1)
  ℡・084―962―0953