顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報23号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました(写真を除く)
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。


写真①ポエム絵画展表彰式

  茶山ポエム絵画展回顧
         菅茶山顕彰会会長 高橋孝一

 本年「茶山ポエム絵画展」が二十回目の節目を迎えるにあたり、ポエム絵画展の二十年の歩みを回顧したい。

 神辺の人で菅茶山を知らない人はいないであろうが、茶山の事蹟、ことに漢詩については近寄りがたいと敬遠されがちであった。本会としても、より多くの人に、ことに児童生徒に茶山詩に親しんでもらいたいとの思いがあったが、茶山詩を児童生徒が理解することは容易なことではなかった。

 そのころ、「まんが物語神辺の歴史」(中山善照シナリオ・構成 神辺を元気にする会 一九九二年)が発刊され話題になった。そのまんが物語「菅茶山」の章に、中山氏訳の子ども向けに現代語訳された茶山詩が書かれていた。平成五年(一九九三)、これがヒントになり、このような茶山詩(茶山ポエム)を子供たちに提供し、詩をイメージした絵を描いてもらい、「茶山ポエム絵画展」を催す企画がもちあがった。

 菅茶山記念館との共催で、町内小中高の先生を含めて実行委員会を立ち上げ、茶山ポエムを八首作り、町内の児童生徒全員(五千部)に配布して絵を募集した。夏休み明けに六二七点の作品が集まった。
作品審査を縄稚輝雄先生にお願いし、「最優秀賞・優秀賞・入選」を選んで表彰も行い、入賞作品をすべて菅茶山記念館に展示して、第一回目の絵画展を開催することができた。

 以後、福山市教育委員会、深安地区医師会、神辺町歯科医有志、(財)義倉、(財)渋谷育英会、(財)ひろしま文化振興財団の格別のご後援をいただき、「茶山ポエム絵画展」は本顕彰会の最大の事業として毎年開催されてきた。
作品応募は福山市内はもとより、市外にも広がり、幼稚園も加わり、量質ともにその規模が拡大し出品数も三千点を超えるにいたり、市内の子ども文化として定着していった。

絵画展の会場も、菅茶山記念館から移動して、ふくやま美術館展、かんなべ町並み格子戸展、神辺文化会館展、町内医院・歯科医院展、県庁ギャラリー展・市役所ギャラリー展、さらに近隣の文化施設への移動展など近隣各地へ広がり、地域の風物ともなった。

 今回、諸々の事情により、本年の第二十回展をもって、一応の区切りをつけ、今後は新しい仕組みのもとに伝統あるポエム絵画展が継承されることになるが、二十年間にわたって審査員長をお務め頂いた縄稚先生、児童生徒にご指導いただいた関係の学校、さらに、共催・後援をいただいた各種団体に対し、深く敬意を表し感謝申し上げる次第である。

  「黄葉夕陽村舎」名称考  
                 菅波 哲郎

1.はじめに 
 「黄葉夕陽村舎の由来とその教育」(『広島県文化財ニュース 210号』所収・平成24年刊・以下「ニュース」と略称する)で、「黄葉夕陽村舎」について次のように記されている。

 「黄葉夕陽村舎」は「黄葉山の西側にある集落(黄葉夕陽村)の学舎という意味から名づけられたことが分かる。 
 現在、地元では、黄葉山と夕陽の美しいところから名づけられたとされる説もある。
これは、後世の作詞家葛原しげるの「夕日」のイメージと重ねられてのことであろうが、由来はこれまで述べたとおりである。

 筆者は「ニュース」の記す学舎や夕陽の由来については同意できない。その理由を明らかにしつつ、「黄葉夕陽村舎」の意味するところを考察する。

2「ニュース」説が根拠とする資料について
 「ニュース」は黄葉や夕陽の由来について、「茶(ちゃ)翁(おう)口授(こうじゅ)黄詩前(こうしぜん)後編(ごへん)」の次の部分を引用している。

 「黄葉」について、「山ノ名俗二紅葉山ト云。
 府志曰神南備ノモミチ万葉ニ黄葉トカク。
 六如詩集ニ此山ヲ黄葉山ト云。
 又柴博士 栗山五古ニ一臥黄葉村七絶ニ黄葉村
 中郷飲酒ト云モ、ミナ此山ノ下ノ村ヲサス也。
 サレバ黄葉ト カクヘクナリ」とある。 (中略)。

また、「夕陽」については、「釈名 山東曰朝陽、山西曰夕陽」とある。

「茶翁口授黄詩前後編筆記」の「府志」は菅茶山が編纂した『福山志料』(福山藩の命で編纂し文化六年(一八〇九)に完成した地誌)のことで、引用文中の下線部は『福山志料』と同文である。

3.「黄葉」と「夕陽」について
 菅茶山は「紅葉山」を「黄葉トカクヘク」と記載している。その根拠として、六(りく)如(にょ)上人や柴野(しばの)栗山(りつざん)が「紅葉山」を「黄葉山」とか「黄葉村」と記している。
六如上人は近江国八幡の出身の僧であり、柴野栗山は讃岐国の儒者であって、彼らが「紅葉山」を「黄葉山」と確定することは出来ない。
茶山は『福山志料』の「安那郡川北村」で、様々な項目で「紅葉山」の地名を使用している。例えば、次の事項である。
  廟 墓
 神辺大明神 紅葉山ニアリ。
  古 跡
 紅葉山城  陰徳太平記ニハ神辺道ノ上城トアリ。

 このように、紅葉山を「黄葉」と称しているのは傍線部のみである。さらに、ここで重要なことは茶山が「黄葉」なる名称を用いる以前から、神辺の地にその二文字があったか否かである。
筆者は茶山以前様々な資料を繙いてみた。文化六年、『福山志料』が編纂された以前では、天和三年(一六八三)安那郡川北村絵図には「城山」と記されている。
また、阿部氏が藩主として入封した翌年の宝永八年(一七一一)に、各村より提出させた指出帳を編集した『備後郡村誌』の川北村の項には、
 「一 古城跡壱ケ所 城主 福島丹波守」とあって、地名には「古城跡」と記されている。

福山藩士宮原直倁(みやはらなおゆき)(一七〇二~一七七六)が、元文末年(一七四〇年頃)より編集した『備陽六郡志』安那郡川北村の項では、「紅葉山」で記述されている。
向永谷村(福山市駅家町)馬屋(まや)原重帯(はらしげお)(一七六二~一八三六)が著した備後全域の地誌『西備名区』(文化五年・一八〇九)は、「安那郡川南村 楓山城」の項で「紅葉山城。又名、道上城」と記している。

さらに時代は下がって、茶山の塾生であった菅波信道が幕末期に編纂した自叙伝『菅波信道一代記』の「前編巻之八 菅波氏世代之略記」には、「福島丹波守殿同国神辺紅葉山居城」と記している。
このように公的な資料では「黄葉山」の地名は「城山」であり、私的な記述では「紅葉山」で記されている。

 「夕陽」について、「ニュース」は「茶(ちゃ)翁(おう)口授(こうじゅ)黄詩前(こうしぜん)後編(ごへん)筆記(ひっき)」記載の「釈名 山東曰朝陽、山西曰夕陽」一文から、「黄葉山の西側にある集落(黄葉夕陽村)の学舎」と記されている。
「ミナ此山ノ下ノ村ヲサス也」の「此山ノ下ノ村」が黄葉村であるから、「黄葉夕陽村舎」は黄葉山の西側に位置する事になる。
しかし、現状の「黄葉夕陽村舎」の位置からすると、黄葉山は西側でなく南側になる。
「山の西を夕陽と曰く」を、どのように解釈するかに「夕陽」の実像が明らかになる。
以上、「ニュース」の「黄葉夕陽村舎」の名称の由来説明は充分に尽くせていない。このことから明らかになったことは次の点である。

 ・茶山は「紅葉山」を何故「黄葉トカク ベク」としなければならなかったのか。
 ・村舎の南に位置する黄葉山に対して「夕 陽」を用いたのか。

4.茶山の「黄葉夕陽村舎」名称の初見
 「黄葉夕陽村舎」の名称が文献に見られるようになるのは何時か。
茶山と同じ神辺宿内に居住し、茶山の塾で学んだ藤井暮(ぼ)庵(あん)(一七六七~一八四四)は、安永四年(一七七五)「菅茶山先生ノ門ニ入テ教ヲ受」(「暮庵先生行状略記」)けた人物で、その略記によると天明五年(一七八五)の項に「金(きん)栗(ぞく)園(えん)寄宿 菅先生ノ別塾ナリ」とあり、寛政四年(一七九二)の項には「閭(りょ)塾(じゅく) 菅先生ノ塾ナリ」とある。
この年、頼春水が美作湯原への湯治に行く途中茶山の所へ立ち寄り、「黄葉村舎」の書画類を鑑賞している(頼春水記「壬子(じんし)作遊(さくゆう)日記」『随筆百花苑第四巻』所収)。
この記録が筆者の確認した「黄葉夕陽村舎」にかかわる最も古い記録である。

 ところが、「ニュース」には「廉塾志」に、「学館ニ扁シテ黄葉夕陽村舎ト云清人陳養山書也」と記るされているという。陳養山の詳細な事蹟は不明であるが、寛政二年(一七八六)、仙台藩儒者志村東州が九州からの帰りに「金粟園」で講義をしている。
このように九州や長崎に向かう儒者たちが山陽道を往来し、その人たちの中で茶山の意を受けて、陳養山に塾名の揮毫を依頼したか、あるいは茶山への土産として持参したかでのいずれかであろう。

5.中国清の「黄葉夕陽村舎」
 黄葉と夕陽の本来の字義から「黄葉夕陽村舎」の意味するところを考察することにした。
諸橋(もろはし)轍(てつ)次(じ)編『大漢和辞典』によると、「黄葉」は「樹木の葉が秋になって黄色となるをいふ」、「夕陽」は「ゆうひ。夕日」「山の西面。爾(じ)雅(が) 釈山 山西曰夕陽。山東曰朝陽」と記されている。
さらに「黄葉」の項で「夕陽黄葉村舎」があって、「清沈徳潛(しんとくせん)の居所の名。我が国の菅茶山も其の詩集を夕陽黄葉村舎詩と名づけた」と記されていた。
このことについて、郷土史家濱本鶴賓氏は『備後史談』第⒖巻第9号(昭和⒖年9月発行)「『葦陽』の雅称と茶山の『黄葉夕陽村舎』」と題した論文で、次のように記している。

菅茶山が塾を廉塾と称し、宅舎を黄葉夕陽村舎と称したことゝ共に、知らぬ人も居ないが、茶山は初め同地の黄葉山から思ひついて黄葉舎と名付け、後柴野栗山からの意見を容れて夕陽の二字を添へたものだと言われている。
之より先、清の康煕(こうき)頃の碩学沈徳潛が自ら黄葉夕陽村舎と称していたから、摸倣か暗合(偶然に一致すること)か。

要するに黄葉山は神辺城山を古くから紅葉山といふから、詩人の常套語なる黄葉に書き換へたもので、支那林疎黄葉墜(杜甫)、燕支黄葉落 (李白)、村落瓢黄葉(林逋)などのやうに紅葉とは書かぬ。
なお、夕陽とは山の西をいふ。詩経に「度其夕陽」。爾雅に「山西曰夕陽。山東曰朝陽」とあり。

さらに、この塾名について、中村真一郎著『蠣崎波響の生涯』(平成元年1月発行)は、次のように記している。
そして今も私は立って目の前の書棚から、久し振りに彼の部厚い『唐詩別栽』を引き出して、その巻頭の「原序」に視線を走
らせた。(中略)。すると、その末尾に驚いたことには、「康煕五十六年春正二十有六日、長洲沈徳潛題於黄葉夕陽村舎」とあ
る。
康(こう)煕(き)帝(てい)の在位五十六年は一七一七年、わが享保二年である。寛延元年(一七四八)生まれのわが詩人、菅茶山が、その生地、備後神辺の学舎に同じ「黄葉夕陽村舎」と名付けたのは、この沈氏の著述が当時、我が国で流行していた以上、偶然の一致とは思わない。茶山は徳潛の書斎の名前を借りて、自らのそれに移したのだろうか。
それとも、この「黄葉夕陽村舎」の語には、然るべき典故があるのだろうか。

写真右『唐詩別栽』原序の文末・部分(『唐詩別栽集』岳麓書社刊・長沙市 1998年)
「註釈」現代中国漢字 叶=葉 阳=陽

 筆者は本来「黄葉」は「紅葉」であり、「夕陽」が山の西面では無く南面に位置していることから、「ニュース」の見解には疑義が生じる。史実と現状との関連において整合性が成り立たないからである。
濱本氏や中村氏の説に同調するところがある。即ち、濱本氏の「沈徳潛が自ら黄葉夕陽村舎と称していたから、摸倣か暗合か」、或いは、中村氏の「徳潛の書斎の名前を借りて、自らのそれに移したのだろうか」と言う事になる。

6.沈徳潛と菅茶山の詩風
 茶山が沈徳潛の書斎の名前を模倣したり借りたりしたとすれば、茶山は徳潛の詩風に傾倒していたのであろうか。「黄葉夕陽村舎」と書斎を名付けた沈徳潛(しんとくせん)(一六七三~一七六九)は、「中国,清代中期の詩人,批評家。江蘇省蘇州の出身。
早くから江南の名士であったが進士及第は66歳と遅い。しかしその後は着々と昇進を重ね,とくに乾隆帝前半期の詩友として二十年余にわたる知遇を得,宮廷詩人の側から詩壇をリードし,民間の側にあった〈性霊説〉の袁枚(えんばい)と対抗した」(『世界大百科事典』平凡社刊)詩人である。
性霊説に対抗する格調説を主導していたのが徳潛であった。その説の基本は、詩の構成は詩情とともに同時に、唐代詩文の「格調」を模した擬古調で詩作することを主張し、中国伝統詩の原点に帰依することであった。著書に『唐詩別栽』・『唐宋八大家文』・『古詩源』がある。

 一方、茶山の詩について、「天明から寛政を経て文化文政期に至る頃、詩壇では、盛唐の詩の摸倣を事としていた時代の反動として、現実的、写実的であるとともに叙述的な宋詩を範とすべきことが唱えられ、一種の写実主義的な詩が行われた。(中略)。
やがて実作のうえで、六如や、菅茶山や、江戸では市川寛斎を中心とする江湖社の詩人たちが現われて、その宋詩に学んだ写実的な詩風が一世を風靡した」(『黄葉夕陽村舎詩』の序文より・児島書店刊)と、富士川英郎氏は記している。
さらに、同氏は「先ず、宋詩を尊ぶことと、詩材を身近な日常生活の中に求めて、実景を写し、実感を歌うこと」(『江戸後期の詩人たち』麦書房・昭和四十一年刊)であった。

 富士川氏が言う茶山の詩風は「唐代詩文の『格調』を模した擬古調で詩作することを主張し」た、沈徳潛の詩風を受入れることはない。即ち徳潛のそれではない。茶山は果たして詩人として、詩風が異なる詩人の書斎の名称を受入れたのであろうか。

7.おわりに
 茶山は「黄葉トカクヘク」とか「夕陽」(山の西面)を、非歴史的地名や地形的な矛盾を有する名称を塾名としたのか。
それは、茶山が儒者であり詩人(漢詩人)であるが故に、中国の学問や詩想への強い憧れからであろう。
頼山陽が「雲か山か。呉か越か。」と詠じた「天草に泊す」の詩は、中国への限りない憬れを表現している。呉と越は中国春秋時代の国名である。
中国の宋詩に傾倒していた茶山が、清すなわち同時代の著名な詩人沈徳潛の業績を知らない筈はない。そして徳潛がその居所を「黄葉夕陽村舎」と称していたことも知っていた筈である。

 にも拘わらず、住み慣れた生涯の地「神辺」に伝わる「紅葉」の地名を中国風の「黄葉」に変え、「夕陽」が「山の西面」であろうが、美しい「夕日」をやはり中国風の「夕陽」に変えることによって、神辺の地の夕陽は一層美しさを増したのであろう。
茶山晩年の文政9年作「夏日即時」に、次の一句がある。「黄葉夕陽村舎」東の山々が夕陽を直接浴びる美しさを詠じている。
写真②黄葉山遠望

東山仍在夕陽中 東山は仍(なお)夕陽の中に在り
 詩人の清水凡平氏(『路傍の詩』「黄葉山」毎日新聞1994・3・25)は、「秋が終わりを告げる頃になると、マキの樹木群はしなやかな枝々の黄葉で山を彩ることだろう。
その黄葉を見据えた茶山の感性が塾名となり漢詩集の題名となったように思える」と記している。

中村氏が「然るべき典故(故実)があるのだろうか」と問いかけているが、前述のことが神辺平野の西に沈む夕陽(夕日)を浴びながら、黄葉山(紅葉山)の麓で生まれ育った筆者の「典故」である。            
     (元県立歴史博物館副館長)
 新年、菅茶山記念館にて
           門田周一郎

 今年は菅茶山生誕二百六十五年に当たる。茶山先生の漢詩は、本場・中国では評価が高く、全作品をデータ化して研究が進められている。我が国においても、なかんずく備後福山において、かくあるべし、と願うのだが。 たまたま、癸巳年正月明けて間もない頃、ある新聞社の文芸担当の記者が、菅茶山記念館へ取材に来ていた。茶山の七言絶句を前にして、やり取りが始まる。

「漢詩は如何ですか。」
「面白いよ。」
「何処が面白いですか。」
「それはね、二十八文字という短い文学形態ながら、読み手に無限の想像を働かせる力を持っているからだよ。」
「本当ですか。」
「本当だよ。では、この一行(起句)を読んでごらん。」
「元旦なのに、結構人が大勢歩いているようですね、なんかあったんですかね。」
「一体なんなんだろうね。」
「あっ!初詣の人出を言っているのですね。」「そう。そのとおり。君も想像力が多少働き始めたね。」
こんな調子のやり取りが一時間を超えるほど続いた。どうやら向こうは取材そのものだったようだが、その熱心さに好感を持ちつつ付き合った。相手は次第に紅潮してきて質問も具体的になってくる。

 「そもそも漢詩は、どんな人が作っていたのですか。」
「うん、それはね、かくかくしかじかでね。」と話している内に、突然彼が、
「あっ!そういえば年末にある政治家が自分の心境を漢詩にしたためて語っていたのを思い出しました。ああいう人って今の時代では珍しいですね。」
「そうだね、昭和の後半くらいから、見かけなくなったね。ところで、君の感想はどうだったかね。」
「いや私はそういう場面を思い出しただけで、漢詩の内容までは、全く分かりません。」
「それはそうだよな。うろ覚えだが、ちょっと解説してあげよう。」
というとすぐ大学ノートとボールペンを差し出した。さすがは新聞記者だ。次のように書き留めた。

   偶 成
  朧月扶桑戰鼓鳴  寒天寡助計無成
  將軍功盡萬兵斃  粉骨砕身全此生
   壬辰十二月二十五日     萬里


 「題の偶成というのは、たまたまこの詩ができた、という意味。さて、一行目、これは七言絶句だから起句と呼ぶ。朧月は十二月の別称。扶桑は我が国、日本をいう。戰鼓は戦闘を励ます太鼓の音、それがうるさく鳴り響いている、と詠い起こしている。
さて君に聞くが、去年の十二月に国中戦鼓が鳴り響いた、とは、何を想像するか。」「衆議院の解散総選挙ですか。」「そのとおり。君も捨てたものじゃないね。

 では次、承句にいこう。寒天は寒い空のこと。今年の年末は平年よりかなり寒かったよね。寡助とは助けが寡(すく)ない、と読み、国民の支持・支援が少なかった。その結果、計を成し遂げることは無かった、と言っている。ところで、計とは具体的にはどのようなことを想像するか。」
「計は計略の計ですから、選挙の勝利ですか。」「うん、まあよかろう。もっと現実に即して言うと、過半数を超えたら勝利といえるが、この党の目標(計)は、そんな大それたものではなかった。比較第一党を目指していたのだから。つまり、比較第一党はおろか大惨敗した事を言っているんだよ。」
「ああ、分かります。その方が正確だと思います。」

「では次、転句は將軍功尽きて萬兵斃(たお)る、と読むが、将軍は時の代表のこと、では萬兵とは。」
「それは分かります。その党の落選した衆議院議員と立候補者でしょう。」
「正解。そこで作者は新代表に選ばれた決意を結句で述べる。身を粉にして、党の再建に政治生命をかけて責任を全うしたい。」と。

「漢詩の決まり事は全て正しく、詩語も適切。それに、誰が読んでも分かりやすく出来ている。時宜にかなった漢詩である。お分かりになっただろうか。」「有り難うございました。」
 当方も仕事があるので、これを以て切り上げた。

「我が国の江戸中期以降の文化・文芸の貴重な資料を有する菅茶山記念館なのに、行政の認識やいかに。世間の関心やいかに。せめて、ペンを以て世に知らしめてほしい。」との思いを、記者に伝えて別れの挨拶に代えた。

 当館主催の漢詩創作講座が明日だ。年末・年始にかけて添削作業に追われた。しかし、回を追うごとに上達の顕著な作品が増えている。評者としてこの上もない喜びである。又、講座の日を楽しみにしている会員もさぞや多いことだろう、と勝手に想像している。
            (菅茶山記念館「漢詩入門講座」講師)
   門田朴齋について
             会員 M生
 過日(2011/7/⒓)「門田朴齋『先生詩鈔』詳解一編・二編」(門田誠一郎編 吉備人出版発行)が発刊された。 この機会に手元の蔵書から朴齋の詩集を取り出して見比べながら読んでみた。

 門田朴齋(一七九七~一八七三)は、備後安那郡百谷村の山手右衛門重武(農業)の三男として生まれた。通称は正三郎、朴齋は号である。幼にして孤となり、母の里(安那郡西法成寺村)大庄屋の叔父門田儀右衛門に養われた。
写真③ 「朴齋葦北詩鈔」

 菅茶山の妻宣は、朴齋の実母多喜の姉である。朴齋が廉塾に入塾したのは文化五年(一八〇八)、十二歳の時である。文政三年(一八二〇)には茶山の養嗣子として、三代目の都講にした。文政十年(一八二七)、茶山から離縁された後は、一時、頼山陽の私塾「水西荘」に身を置いていたが、その後、福山藩の儒官に登用され、阿部正弘公ほか五代の藩主に侍講として仕えた。

 「ペリーが砲艦によって威嚇しつつアメリカ大統領国書の受け取りを迫り、老中首座阿部正弘が決断してこれを受け容れたとき、朴齋は、「これは国辱なり」と正弘に諫言した。正弘もこれには我慢がならず、侍講を解き朴齋を遠ざけた。朴齋は故郷に閉居するも、その志操はいささかもくじけることなく、尊皇攘夷の説を終始変えることはなかった。」という。(栗谷川紅著・「関藤藤陰伝」より)

 主君の代替わりもあって、再び官に復され、藩校誠之館教授、文学総理の要職を歴任し、明治維新を迎えるのであるが、明治六年(一八七三)一月十一日、七十七歳で歿し、葬儀は神式により行われ、西法成寺小向山に葬られた。

 朴齋の著書に、慶応三年(一八六七)及び明治元年(一八六八)刊の「朴齋先生詩鈔」、上下二編四巻並びに明治四年(一八七一)刊の「朴齋葦北詩鈔」二巻(写真右)がある。その詩風からみると、茶山、山陽両師の影響を見逃せない。朴齋の為人や、朴実飾らず、強毅不撓にして、しかも温柔敦厚なるは、その詩からも教えられるところである。天保三十六詩家にも名を連ねるひとりである。
(門田誠一郎編・「私の目に映る門田朴齋のプロフィール」参考)
   ***   ***   ***
写真④「新梧清晝」書軸

 「朴齋先生詩鈔」から「新梧清晝」の詩(書軸写真上)を紹介する。
桐の葉の一葉落ちるのを見て、秋の訪れを知ることから、「桐一葉」は、秋の季語とされているが、朴齋は、真夏の暑さに、若い青葉を茂らせた桐の木陰に昼寝を楽しみながらも、すでに秋の声を耳にするのであった。

  新梧清晝
 一株如蓋緑初成  一株蓋いの如く緑初めて成り
 紅日行天暑不生  紅日天を行くも暑さを生ぜず
 誰識個中安午枕  誰が識るや個の中に午枕を安じるを
 俄然驚耳是秋聲  俄然耳を驚かす是れ秋聲 

(大意)一株の桐の木にも若葉が茂って、緑の蓋いをしたようになり、真昼の太陽は赤く輝いてはいるが、桐の葉陰は暑さを知らないほどである。この中に昼寝を楽しんでいるのを誰が知るであろうか。知る筈がない。ふと驚いたことに、耳にする風の音は、もう秋の訪れを告げているのである。
(「門田朴齋『先生詩鈔』詳解より」
 宮父子の「白墓」
             武村 充大

 「白墓」(はく(・しろばか))いう墓石が、西中条の深水にあるというので訪ねて行った。「白墓」というのは、何の文字も刻まれていない無刻の墓石のことである。

 尋ねていくと、深水の町内会館近くの荒神社の境内を少し下がった茂みの中に、二十基ばかりの古い墓石が建っている墓所があった。宮家の墓所であるという。
「白墓」は、墓所の入り口に一基、奥に二基あった。地元の人に聞くと、この「白墓」は宮太立・宮太柱父子の墓だといわれているが確証はないという。墓所の下は宮家の屋敷跡で石垣が残っているし、荒神社の本殿の前に建てられている石灯籠の一基には、「宮太柱藤原誠之、安政五年」の刻字が見える。
宮家の本籍は西中条深水で、代々医者を勤めていた家柄である。

 宮(みや)太(たい)立(りゅう)は、後月郡与井村で代々の医家池田文祥の次男として、寛政十年(一七九八)に生まれ、宮松斉の養子となった。松斉は文祥の実弟である。姉は小寺廉之に嫁す。長崎で蘭学を学び、安政三年(一八五六)、福山藩主阿部正弘の侍医として出府している。
宮(みや)太柱(たちゅう)は菅茶山の歿年、文政十年(一八二七)、笠岡の州崎通りで医者を開業していた宮太立の次男として生まれ、宮家の十代目である。

 大江村(現井原市大江)の神官黑坂昌芳や高屋村(現井原市高屋)の本草学者中村耕雲に神学、国学、漢方医学を、父太立にオランダ医学を学び、蘭医となった太柱は、弘化年間の半ばころ、江戸へ出て、嘉永元年(一八四八)私塾を開いて国学を教え、尊皇思想を唱導した。
その後、笠岡で医院を開業。安政二年(一八五五)、二十八歳の時、大森代官屋代増之助の依頼で、石見銀山(島根県太田市)を訪れ、鉱山病防止対策の現地調査を行い、安政三年(一八五六)八月から通風機を銀山の各坑に施工し、安政五年に完成した。
通気管による「薬蒸気法」や「福面」などの装置を開発して鉱夫たち特有の呼吸器疾患の予防に取り組んだ。この医療技術は、報告書「済生卑言」に総括され、参考図面も添え全国の銅山、金山にも送られ、労務災害防止と併せて鉱山事業の発展に貢献した。

 一度帰笠して後、太柱は妻を残して江戸に行き、尊攘運動に加担。大木主水と名を変えて、慶応四年(一八六八)京都五条大橋近くで医院を開き、医業のかたわら尊皇思想を鼓舞した。
明治二年(一八六九)正月、京都で起こった新政府の参議横井小楠暗殺事件に連座して、三宅島阿古村へ終身流罪となり、明治三年(一八七〇)十一月二十日、三宅島へ渡ったったが、島で流行っていた疫病にかかり、八日後無念の死を遂げた。享年四十四歳。
主水の墓は、十年後、流人墓地から村の共同墓地に移され島の沖山美智子さんという女性によって大切な墓として代々丁重に供養されている。

 郷土史家岩山保志氏は、太柱研究の過程で宮一族の出身地とされる中条村で、村中の墓碑銘を片っ端から探索し、この白墓にたどり着いた。建立者は甥の太茂だとされているが、この白墓は、国事犯としての遠慮から、名前は刻していなかったという。
写真⑤宮家の白墓
  
 参考・「笠岡市史」「岡山歴史人物辞典」「栗谷川紅著・白墓の声」  (本会常任理事)
黄葉夕陽文庫スポット展示&解説会

 県立歴史博物館では「黄葉夕陽村舎詩」刊行から二百年を記念、夏の大企画展、記念講演会のほか、二階通史展示室では黄葉夕陽文庫関連のスポット展示とそれぞれの展示資料について解説会を開催。以下はイベント開催日・解説者・要旨。機会を逸した茶翁フアンの参考に供せれば幸いである。文責は編集子。

一、3/4「『黄葉夕陽村舎詩』ができるまで」
      西村直城主任学芸員

 江戸後期、茶山の詩は同時代の儒者亀田鵬齋、幕府大学頭林述齊らに高く評価されていた。茶山の名声を不動のものにしたのが、黄葉夕陽村舎詩の発刊であった。
題名の「黄葉」は廉塾南に臨む黄葉山、「夕陽」は諸説があるが「西側」の意味。文化九年、「黄葉夕陽村舎詩」(便宜上前編としているが、原題にはこの表記はない)
文政六年、同後編、天保二年。同遺稿、併せて三編二十三巻、二千四百首余所収。その倍数の五千首に及ぶ詩の中から選び抜かれたものと考えられる。

 展示作品「早春雑詩」は完成度の高いものを目指すため、校本から刊本までに九段階の校正が繰り返された足跡が残されている。五段階目で六如上人が批正、七段階目では、折から都講として来塾した賴山陽が茶山から「評と選」を一任された。山陽は六如上人より茶山の方が格上と見なしていたらしく上人の批正を前段階に戻したり、所謂「政治批判詩」についてはお上への危惧を寄せている。
一方、茶山は山陽の批正を全面的に受け容れ指摘を受けた詩については表現を和らげるか割愛している。詩題「早春雑詩」は八段階目で「寄佐渡中山子幹」と改題、詩の主人公を明示、最終稿としている。
 展示品の殿は「廉塾」備品を示す朱印が押され、茶山自らが何度も手にとり手垢に染まった「黄陽夕陽村舎詩」が締め括っていた。

二、6/3「茶山先生 塾を起こす」
       岡野将士主任学芸員

①茶翁口授黄詩前後筆記
「黄葉夕陽村舎」の呼称のうち「夕陽」の由来は「山東日朝陽山西夕陽」(釈名=中国の広辞苑)に、晋帥禮卿は「春秋左氏傳」(注釈傳)に依拠したことが記述されている。

②文恭先生年賦略
 茶山は十九歳のとき一念発起上洛したとあるが、それより以前、十六歳のとき痘瘡を避けるため、京都に行っている。
遊学後、「金粟園」という寺小屋形式の塾を開き、村童を指導。その後、天明八年、家の東北に黄葉夕陽村舎を開いた。
寛政六年、郷塾への申請をした。私塾のままだと、塾主個人の死によって塾が途絶えるのを避けたかったようである。
「廉塾」の命名者は柴野栗山、「廉」の由縁は諸説があるが、目下未詳。

③廉塾誌
 廉塾全体の見取り図。これまで槐寮とされていた中門東手前の建物は学館(講堂)に対して南の南寮(塾生の生活の場)で、槐寮は台所(学館西)であった。
学館内、講師筆墨の扁額などには損傷が甚だしく復元不可能なものもある。藩侯阿部正精自書の「不如學也」は保存状態が良い。

④廉塾規約
 初めに、「読書する人」には行儀作法第一、日々の読書が根本。
開塾に当たって作法など取り決めなかったが、年々、塾生も入れ替わっていくので、この「覚」(三十八箇条)を定めることとした前置き。

 塾での「学業並びに日常生活に関わる心得」は今も昔も同工異曲であることに気付く。
毎日、読書(予習・復習)を欠かさぬこと。講席に出られないときは、届け出ること。
学習は静粛に。中座や居眠りをしない。他人に迷惑をかけないように、平生から騒いだり、書物や机を跨いだりしない。

 詩文会は月六回。それ以外は妄りに作らず、読書に専念。詩文は余技、いくら上手くても駄目。詩文の日は幼い者は直ぐ飽きるから、詩文を書かして文学を習わすのが目的。

 講釈・輪講の予習、復習、質疑などによる反復学習が肝要。その人の情況・進度に合わせた習熟度別学習方法も行っている。「史記」、「春秋左氏傳」、「近思録」など児童用教科書の使用も便法の一つ。
年長者は手本として年少者を労り行儀を教え、決していじめなどしてはならない。
毎日の清掃、各々の学習道具なども手入れ、整理整頓を忘れないこと。

⑤村塾取り立てに関する覚書
 束修料は盆暮れに塾生の父兄から現物・金銭などで届けられるが、私こと不徳不孝者の自分勝手な学問に対する対価だから決して私することなくすべて学問(塾)に使用する。

三、9/2「菅茶山著作集」
         西村直城主任学芸員

 賴山陽が「茶山先生行状」に列挙している「著作名」(( )内は実際の表題))を軸に展示。「活字本」は配布されたレジメに提示。
①「黄葉夕陽村舎詩」(刊本)
 漢詩人茶山の評価を確固たるものにしたベストセラー。文化九年、前編(通称)全八巻、文政六年、後編全八巻、茶山歿後の天保二年、遺稿全七巻が刊行された。
復刻本:昭和五十六年 葦陽文化研究会

②「遊藝記」(藝遊日記)(草稿)
 広島・宮島厳島神社旅行中、四賴、春水、山陽、杏坪、春風(竹原)との交流を記録に留めた紀行文。
活字本:『広島県史』近世資料編Ⅳ

③「室町志」(未発表草稿)
 文政四年、茶山は京都在住の賴山陽に資料文献の入手を依頼している。足利尊氏から義昭まで室町幕府の盛衰を描いた歴史書。俗に「足利は鞆に興って鞆に滅ぶ」と言われていることから、茶山が関心を寄せたのかも知れないと。
(以下、編集子仮説→茶山のルーツ、菅波氏は足利義昭が深津村蔀山に来た時扈従した畠山氏の末裔。茶山のルーツ探しであった可能性は?)

④「福山志料」(草稿)
 福山藩の地誌。文化二年、阿部正精の命により実質茶山一人で編纂。文化六年に全三十巻が完成。明治四年の阿部藩百年に備えての事業と思われる。
 活字本:昭和四十三年「福山志料」刊行会
 昭和五十五年 芸備郷土誌刊行会 

⑤「冬日かげ」
 序文に天明八年の作とある。一揆で荒廃した社会を立て直す役人の心構えと民衆教育の重要性を随筆風に記述している。
 活字本:『広島県史』近世資料編Ⅵ収録

⑥「夏の木かげ」(未発表草稿)
 「冬日かげ」と同工異曲の内容の姉妹編と思われる。
 活字本:『福山市史』近世資料編Ⅱ収録

⑦「随筆」(「筆のすさび」か)(刊本)
 安政四年刊行。全四巻
 活字本:『日本随筆大成』第1期第1巻 吉川弘文館、『新日本古典文学大系』99
 現代語訳:平成十五年菅茶山顕彰会『現代文菅茶山翁「筆のすさび」』・同HPにも掲載

⑧「常遊記」(「常陸ミちのき」)(草稿)
 文化元年、在府中江戸から常陸への紀行文
 活字本:県歴史博物館研究紀要6号

⑨「大和行日記」(草稿)
 活字本:平成四年 菅茶山学習会

⑩「答問福山管内風俗」(「風俗御問状答書」)(草稿)
 文化末年幕府の問い合わせに応え茶山が作成した福山藩の回答書
 活字本:昭和四十九年 三一書房刊『日本庶民文化史料集成』9
 現代訳:平成四年 菅茶山学習会 

写真 廉塾風景
 中条で宮父子研究学習会 

 順逆になるが、一昨年の本会研修旅行を受け、昨年二月十八日、中条公民館で郷土史「石見銀山と宮太立・宮太柱」研究学習会が開催された。
講師は研修旅行に次いで武田武美氏。三十名を超える参加者が同氏の講話に熱心に耳を傾けた。
(以下、講話要旨。前稿と重複部分は割愛。文責 編集子)

①宮父子太(たい)立(りゅう)・太柱(たちゅう)の名前の由来
 「大倭(おおやまと)日高見國(ひだかみくに)を安國と定奉りて下つ磐根に宮柱太敷(みやばしふとしき)立て」(神道大祓、祝詞)に由来

②太柱、深水荒神社への寄進
 式石 十五枚宛(筆頭寄進者宮太立 天保甲辰夏六月) 
石燈籠 一対の内本殿右の一基(宮太柱藤原誠之連名 裏面 安政五戌午歳十月吉日)

③太柱の鉱山病研究報告書「済生卑言」
 その前書部分に「我が家は代々医を業とし、幼いときから父に教育を承け、父とともに数年間苦心惨憺二十八歳で鉱山病防止策を発明した。しかし、衆信を得られずその策を実用化できず徒に慨嘆していたところ、石州県令の知遇を得て安政三年八月から岩見銀山の各坑に器械など設置、同五年六月に完了した。
器械精巧効験著明。県令のお陰で宿志を遂げ、済生の微勲を立つことができた。」
 (現代語訳要旨 文責編集子)と紹介している。
   一目千本桜 再観
   「戌(ぼ)寅(いん)芳野(大和)行日記」抄
             上  泰二

 茶山は傘寿までの生涯を通じ、遠路・衰老を厭わず芳野の桜見物に二度までも足を運んでいる。
初訪、寛政六年、茶山(47歳)「北上歴(暦)」の旅では次配宣らを同道、「欲訪芳山萬樹春 首途検歴揀良辰」。しかしながら生憎の雨にすでに残紅が川面を埋め尽くしていた。
「芳野感事」(一)で初配為、次弟汝楩、父樗平らの相次ぐ近親者の他界を悼み、同(二)で生来、病弱にも拘わらず、知命近くまで生き永らえた自らの恙ない旅を忻びながら留守居の母に思いを転じ、同(三)で
 阿嬢往歳故来看  阿嬢(母)往歳故(ことさ)来り看る   
 時勸児曹作此觀  時に児曹に勸(すす)む此觀(ながめ)作(な)さんことを 
 阿嬢到日花方盛  阿嬢の到りし日花方(まさに)盛りなるも   
 今我来時較已闌  今我の来る時較(やや)已に闌(たけなわ)なり   

 と幼時から添い寝物話などで頻りに芳野の観桜を勧めた母の想い出を過ぎる爛漫の桜と比較、「余自ら芳(野)を尋ぬること較(稍)遅し」(「芳野歌」七言古詩 全四十六句)と口惜しがっている。

 このことが四半世紀を経た文政元年、茶山(71歳)「戌寅芳野(大和)行日記」の旅への契機となったものと思われる。
因みに、この日記の冒頭「余(薬を乞ふはんとして)医をたつねて大和に赴く 同じくは芳野の花候を過ごさじ」と、健康診断のため旧知の医者服部宗賢訪問と見頃の桜見物の二つの目的をあげている。

 前者は折悪しく宗賢が藩主に召され江戸勤番中で叶わなかった。代わりに、留守居役の息子宗侃と母堂に「浴室等の麗 数日旅館のいぶせかりしを忘る」邸宅で「盛膳嘉肴」の歓待を受けた。
後者は早くも二日目の道中、岡山宮内で報された武元登々庵の訃報に心を痛め、吉備津宮では桜が盛りだったが衰叟の旅なればこそ「花候纔かに違へて却って年を隔つ」と大事を取り、河内ではつい盛花に惹かれ「三芳野の花はいそげど鶯の関にはしばしとまりける」逡巡場面もあったが、旅程どおり「いやさきにさく折にあひぬる」ことができた。

 その上、二日間の芳野を含め、道中、来し方すでに幽明相隔つ朋友を偲び冥福を祈り、数多の文雅の人々と再会を歓び合い、又は行く末を担う新たな文人たちとの対面を精力的に果たした。実に八十二日間に及ぶ長期旅行を恙なく終えることができた。

 巻末には古稀にして漢詩、和歌などをふんだんにちりばめた日記の執筆動機として「衰耄わする丶こと常なれば 帰後日記をひろひ つづり あるはおもひ出でしことヾとも補ひなどしてしるし 重ねて見むとす 又客中交りし人々に たよりあらむ此 せうそこせむため 其名字 其事をものす もらせしこと多かるべし。」
恐らく「大和巡方角絵図」(黄葉夕陽文庫収蔵)などもよすがに、可能なかぎり完成度の高い作品を指向、備忘録として筆を執った経緯を付加し擱筆している。

 文政は四月二十二日に改元。正確に言えば、文化十五年三月六日、茶山は出立に先立ち、陽(帰?)谷を訪れ、先妻、父、次弟の墓前に稽顙、旅立ちの報告。
「花見んと急ぐ身にさへ旅立つといふ日はうらかなしはた」「花鳥の春の旅立ちの楽しさもさばかりならぬ老ひが身ぞうき」と心躍る反面、衰翁の身ならではの「楽しさも中位の」内奥を繰り返し和歌に託している。

 留守居は三年前茶山の懇望を受け入れ甥萬年と死別した姪敬を娶り一女を授かった都講北条霞亭に全権委任。その霞亭が郷里の弟碧山に宛てた書簡によれば、「伊勢詣も視野に五十日の御暇を願い出ての旅」。
外見的には「さぬきよりことさらきたりでとものふ」牧周蔵(東渚)、林新九郎(伯光)、臼杵(大友)直卿など気心の知れた弟子三人、それに偶然、上方へ出かけるという郷人別所有俊、出立に間に合わず、十二日、尼崎からは夜に日を継いで後を追って来た弟子佐藤謙助も道連れに加わった賑やかな一行の旅であった。

 何よりも、文化九年、ベストセラー「黄葉夕陽村舎詩」刊行で全国津々浦々に名を轟かせた知名人の旅立ちとあって、地元では国分寺、遠くは備中高屋駅まで見送り、別れを惜しんだ人々もいた。初日の宿は矢掛本陣。馴染みの主人石井源二郎兄弟、儒医山名永策が懇ろな接待。その後も、行く先々で、送迎する人、面会・揮毫を求める人、招宴を張る人が途絶えることがなかった。

 十五日、和暖なり。芳野到着。二十六年前の初訪時とうって変わって、旅館が「新しくし大きにして間数多き事おどろく計也」と印象を和文で日記に綴り、目的地を直前にして旅の疲れと衰躬を忘れ恰も童心に返ったような弾む心境を漢詩と和歌に託している。

 「峠 村」 在泉州車坂北数里(後編巻八)
 筍輿行覺近三芳  筍(じゅん)輿(よ)行くゆく覺ゆ三芳に近きを 
 風逓櫻花萬叡香  風は逓(おく)る櫻花萬叡(ばんがく)(谷)の香  
 一路雉鳴晴樹影  一路雉は鳴く晴樹の影(姿)  
 両崖蝶戯午川光  両崖蝶は戯る午川の光
     
 いくとせか おもひわすれぬ みねの雲
   またぞ分け入る 花の山口


 「黄葉夕陽村舎詩」後編辺りから枕に「衰老」の頻用が目立つ詩句とは裏腹に老いを感じさせない鋭敏な五感の躍動を自明にする一首で読者を留まることを知らないメルヘンの世界へ誘う。
北川勇氏は結聯部分について「吉野川の両岸の間をあっちへ行ったり、こっちへ来たりする蝶の真白い羽が、澄み切った川面に映っていて、空も飛んでいる。水の中でも飛んでいる。」(「茶山詩話」第三集)と読みたいと講演している。

 茶山自身も詩論について「三十歳前は頗る意を雕鐫(ちょうせん)(彫鏤)に用いたが、那波魯堂先生から『子佳詩を作らんと欲せば佳境を求めるべからず。佳境を求めんと欲せば虚指奇を競はざるを得ず。是れ詩に役せられるゝものなり。境に随って興を寄せなば必ず娯を取るべく、以て憂を遣るべし。他に求る勿れ』と言われ、爾来、意をこれに用いた」(「福山藩の文人誌」濱本鶴濱 葦陽文化研究会 1988年)と。

 また、晩年「吾が詩は縦ひ人が笑ふも 必ずしも補刪(ぽせつ)(加除)を費さず 自ら吟じ又自ら賞すれば 楽意其の間に在り」(「讀舊詩巻」)とも詠んでいる。
 賴叔甥撰述「茶山行状」に極めて簡潔に整理されている詩風「興に触れて吟哦し、努めて実際を述べ、虚説仮構を事とせず」。

 西原千代氏近作「菅茶山」によれば「茶山は『実事、実態を述べ、写す』詩風を徹底するために写生画のような確かな『構図』、適切な『色彩』の上に、更に『音声』と「動き」を加えようとしたのではなかろうか。」との考察。

 この詩に次いで、「六田より上る処花みな新栽、村上(義輝)碑あたりよりことに妙也。恨むらくは暮色模糊見へわかず。」の記述がある。同道の牧周蔵の「北上記」の「茶山は駕籠を捨て徒歩で吉野に入った。数百歩歩いたところに、碑があった。既に、昏黒、碑文を読むことができなかった。折から、清風が吹き、新月が山を離れ、桜花を照映。月花を愛でつつ、歩み、旅の労苦を忘れる」(原文、漢文・大意)で文理解釈が補完できる。

  「芳 野(一)」(後編巻八)
 名籃何處是蔵王  名籃何處ぞ是れ蔵王(堂)    
 萬樹新櫻拆夕陽  萬樹新櫻夕陽に拆(ひら)く       
 行客揚鞭遥指點  行客鞭を揚げて遥かに指點す  
 花差疎處晝甍光  花差々疎なる處晝甍の光     

 信者によって新たに植栽された品種も数多い桜が絶妙。声高に花見客が鞭を挙げて指し示す方向に目を移せば、稍々疎らな桜花の雲間に往昔の夢の跡を留める艶やかな色瓦が煌めいて垣間見える。その昔、「ここにても雲井の櫻は咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに」(後醍醐天皇)と敢くまでも華やいだ京を希みながら、この人里離れた山中の行宮で繰り広げられた南朝の哀史がふと茶山の脳裏を過ったのであろうか。

  「芳 野(二)」
 一目千株花盡開  一目千株花盡(ことごとく)開く       
 満前唯見白皚皚  満前唯だ見る白皚皚(がいがい)(純白)たるを
 近聞人語不知處  近く聞ゆる人語處を知らず     
 聲自香雲團裏来  聲は香雲團裏自(よ)り来たる   
 
写真⑥ 桜花爛漫の芳野山

 圧巻!一目千本。視界の及ぶかぎり、一面湧き上がる雲かと見紛うばかりのサクラ、さくら、櫻づくめの仙境。あちこちで上ずった行楽客の聲はすれども桜樹林に遮られ、所在を尋ね当てる術もない。ひたすら声をよすがに、そこはかとなく花薫の漂う山路を進む。
絶景に和歌も添え「千里へてわけ入る山のかひありていやさきにさく折にあひぬる。」と遠路遙々、しかも望みどおり将に花の最盛期に再訪を果たし、道中の労苦を忘れ去っている。

 山陽はこの四日後の「伏見道中」(巨椋湖邊昔遊回想)を「此行第一の絶唱なり」と絶賛しているが、茶山自身にすれば「峠村」及び次の「芳野」が自他共に認める自信作なのであろうか。紙本墨書屏風や軸装され、今日まで遺墨展や遺墨集などで一般に公開されている。

  「芳 野(三)」
 山背連塵作市閭  山背連(れん)塵(てん)(店)市閭(しりょ)(街)を作(な)す  
 入門凭檻即楼居  門に入りて檻(かん)に凭れれば即ち楼居  
 雲屯脚底皆花木  雲は脚底に屯して皆花木      
 欲把微吟学歩虚  微吟を把って歩虚を学ばんと欲す  

 この夜、高勝院という山伏の宅に宿を取った。門を潜るや手摺伝いに二階へ。目線を変え高所から眺める雲かと見紛う桜雲海は格別。酒なくて何がこの世の桜かな。興に乗って周蔵、直卿が笛を吹く。音曲に誘われてか飯女までが、「妓を呼びてきけよ」と勧める。
初訪時に較べ、時代の変化、聖地の俗化に驚きながらも、茶山一行は見渡すかぎり、サクラ、さくら、櫻に埋め尽くされた空中楼閣に車座になって詩酒の宴を心ゆくまで楽しんでいる。
希わくば、天空の桜雲団を踏み分け口占しながら空中散策を楽しみたいものである。

  「芳 野(四)」
 三芳山上白櫻叢  三芳山上白櫻叢り         
 日夜清香蒸半空  日夜清香半空に蒸す        
 誰信弧筇千里外  誰か信ぜん弧筇(きょう)(杖)千里の外   
 両宵宿材彩雲中  両宵宿して彩雲の中に在るを    

 十六日、晴暖。二日目。花は八、九分の盛り、彼岸桜、糸桜、それに八重桜も咲き初めている。
 朝食後、蔵王堂へ向かう途中、郷里の縁者河相保平、桑田定太郎と思いがけない遭遇。
「たび衣あふうれしさもわきてこのよしのヾ山の花のなかみち」
遠く故郷を後にして暫し、夥しい花見客の中から郷人と奇遇の喜びは格別。両人を帯同、竹林院へ。顧みれば、二十五年前、花は八重桜を残すのみ。あの折りの若い同伴者藤枝得中ももうこの世にいない。

 「人々にわかれて宿にかへる みちみちちりたる花をとりて人におくるとて
 まれにきて 盛にあへる うれしさを
   つつみて送る花ふさ
 きみならで 誰におくらむ みよしのの
   よしのの山の みねの白雲


 「七十の後もかわらず添いねせしそのたらちねをしのぶ」母半はさておき、茶山は拾い上げた桜葩の押花を一体誰に届けようとしたのであろうか。
午後は宿の主人が桜本房へ案内に立つ。茶店で品の良い夫婦に出会う。伊勢からやって来たという。一見怜悧そうな夫人に、四十余年「夜窓紡績書檠に伴ふ」「久しく衰窮を託す只一妻」宣を道連れに!の想いが脳裏を過ぎったことだろう。

 宿に戻っての夕べの酒食後、「月清くうるわし」爛漫の花霞と月光に誘われ、蔵王堂界隈を散策。「余、少年時、唐伯虎に傚ひて作る所、繊摩にして時様に似たるを以て棄て(黄葉夕陽村舎詩に)録せず」扱いしていた「花月吟」(二十首)をふと思い起こしながら絶妙な花と月の組み合わされた宵のそぞろ歩きであったのであろう。
これもまたえも言えぬ花月の競演に浮かれてか、保平、定太郎が泊りにやって来る。今宵最後の芳野宿、慌ただしく酒肴が取り寄せられたことだろう。
夜が明ければ、名残尽きない出立の朝を迎える。

「老ひらくの身のさちなれやよしの山さくらがもとにふたよひねしは」
二日間も、桜の香雲に抱かれ過ごした興奮にぐっすり眠ることができたのであろうか。

  「芳 野(五)」
 卅年前宿此山中  卅(二十四)年前此の山中に宿し  
 当日萱堂人未空  当日萱堂(けんどう)(母)人未だ空しからず  
 花下題詩報遊況  花下詩を題して遊況を報ず     
 拾将花片附書簡  花片を拾い将って書簡に附す    

 初訪の「北上歴(暦)」の旅を顧みて、「花下題詩寄阿嬢」に承句「拾将花片附書簡」と詠み添え、重ねて「潘輿憶ふ昔屢し追随せし」母への尽きせぬ思慕を寄せている。

 それから二年後の寛政八年、茶山は優しく賢明な母の最期を看取った。幼時から、是非にと勧めた芳野桜見物、「先生鄙僻に在りと雖も名海内(天下)に重し」功成った自慢の孝行息子、芳野再訪からの土産話にほっと一息、安堵の胸を撫で下ろしての不帰の旅立ちであったであろう。(中略)
次いで、「寄蘭軒」(前編巻八)などを思わせる手法で

 看花芳野山  花を看る芳野山       
 山月正満空  山月正に空に満つ      
 誰知当此夜  誰か知らん此の夜に当たり  
 身在此山中  身は此の山中に在り     
 想君亦尋花  君を想い亦花を尋ね    
 歩月墨水東  月に歩まん墨水の東     
 月自照雨處  月は自ら雨處を照らす    
 花香不相通  花香は相通ぜず       
 恰如心相思  恰も心相思はざるが如し   
 遊迹不可同  遊迹同じくすべからず    
 蒼々月輪傾  蒼々として月輪傾き     
 輝々花影融  輝々として花影融す     
 願君看花唱  願くは君花を看て唱ひ    
 逓響逐東風  響を逓りて東風を逐へ    

 と詠んで、「月花の興ひとかたならず、遠方の友さへおもひ出る中、」何故か「酔花墨川隄」(讀舊詩巻)同筵の伊澤蘭軒や蠣﨑波響ではなく「すぐれたるすき人なれば 更にゆかし」岡本花亭を思い起こし、互いに遠く東西に身を隔つとも仰ぎ見る月は同じ、せめて隅田川畔の花を詠み花信風に託しここ芳野へ届けて欲しいと書き留めこの日の筆を収めている。

 十七日、暖晴、よしのをいづ
 ふたよねていとヾたちうき袖の上にちりかかる花も名こりをやおもふ

 ここまで行を共にした周蔵、新九郎は一目千本で袂を分かち伊勢へ、保平、定太郎と浪花で一行に加わった謙介らは土田から高野山へ。
茶山は、臼杵、渡邊を連れ、もう一つの旅行目的、こし村、服部宗侃の家を目指した。「途中、遊人おびたヾし、その中をおしわけ」ながらの道中を進めた。

  ***   ***   ***   
 五月二十九日 神辺より輿丁二人来りむかへ 薄暮に家にかへる
 たびにあれば家のみ思ひ帰りては又ゆかばやとおもふ大和路
纔帰却作重遊計  纔かに帰りて却(ま)た重遊の計を作(な)す  
 意気盛んな茶山であったが、
自咲残躯更幾年  自ら咲う残躯更に幾年ぞ      
 これが最後の長期旅行となった。
            (本会理事)
 追 悼 岩川千年先生を偲んで
               目崎哲夫
写真⑦ 岩川副会長
     
 平成二十四年六月十五日、本会前副会長岩川千年先生が、八十九年の生涯を閉じられた。  
まことに惜別の情に堪えないが、ご生前のご懇情を偲びつつ、本会のために尽くされたご功績に対し、謹んで敬意を表するものである。

 先生は、市内の中学校教諭から校長を歴任され、退職後は神辺町の教育長も務められた教育一筋の方であった。

 本会が昭和六十三年(一九八八)菅茶山遺芳顕彰会(高橋令之会長)として発足するや理事に就任され、爾来、平成二十年、副会長を退任されるまで、多年にわたり本会の発展に貢献された。
中でも、「茶山詩話」と「ポエム絵画展」への貢献は実に大なるものがある。 

 平成四年(一九九二)、「茶山詩話編集委員長」として、昭和六十二年六月から四年余続いた「菅茶山学習会」の北川勇先生茶山詩話の出版を企画され、第一集(平成四年)から、第七集(平成十年)まで、「茶山詩話」の編集出版に尽力された。

 一方、本会の主要な事業として、平成五年(一九九三)、「ポエム絵画展」が企画され、岩川先生は実行委員会事務局を担当されて、この事業の推進に当たられ、第十回展のころには、作品応募数は三千点を超え、展示会場もふくやま美術館を皮切りに十会場にも及んでいた。そのご熱意には深く感動した。私も、ポエム絵画展に対する先生の熱意に動かされ、たびたび一緒に行動することがあったので幾多の想い出がある。

 ポエム絵画展の拡大のために、近隣の市町村に出向き、教育委員会や学校を訪問して、熱心にポエム絵画展の意義を説明され、協力を要請されていた姿は今も鮮明に記憶している。
また、初期のころは、大島祥丘画伯の色紙頒布会を開かれたり、先生所有の休耕田にイチジクを植えて、収穫したイチジクをアグリセンターに出荷されるなど、活動資金を捻出するためにも苦労されていたが、その熱心さには驚いた。

 平成十六年には、備後国分寺山門前に、茶山詩「上人好事」の詩碑を建立寄進され、その背面にポエム絵画展の由来記も刻まれている。

 奇しくも、岩川先生と共に歩んで来たそのポエム絵画展は、本年の第二十回展をもって一応区切りをつけ、今後、新たな構想への転換が考えられているところである。岩川先生のご遺志が消えることなく継承され続けることを願いながら、先生のご冥福を心からお祈り申し上げる次第である。 合掌 
                                             (本会代表理事)
   平成二十四年度
菅茶山顕彰会総会・記念講演

 平成二十四年度菅茶山顕彰会定例総会が昨年五月十九日(土)神辺町商工文化センターで開催された。
 高橋孝一会長は、翌々日に迫った金環日食からの連想か、茶山の「筆のすさび」についてふれ、先ず誰もが名を成すために、中央を志向する風潮の中、敢くまで地方に在住、地方の教育文化の発展に尽瘁した茶山の人間性並びに大震災、のちに「サザン」と命名された小惑星の発見など、全国各地から収集したその時代,時代の出来事・情報を詳しく筆に託し後世に伝えている点を高く評価。

 今にして判ったことだが、子孫の菅好雄氏は菅茶山記念館では収蔵不可能な大地図や巻物など一万点余の資料をありし日茶山自身が整理したその位置にきっちり残されることを切望、県立歴史博物館を寄贈先に選ばれた由。それを承け同館では専門の学芸員を置き鋭意研究を続けている。

「筆のすさび」について言えば、平成十五年、本会が発刊した訳注本に次ぐ「続編」を目下解読中、完了までに三十年の歳月を要すると開会の辞。

 議事では恒例の平成二十三年度事業報告・会計決算報告、次いで平成二十四年度事業計画・会計予算案などについて協議・承認。
その後、福山市中央図書館まなびの館ローズコム副館長早川邦夫氏による記念講演「福山市図書館の歴史を振り返る」があった。
 写真⑧ 記念講演

記念講演(要旨)

 福山の図書館史は文化元年、茶山が名付親の「義倉」を以て嚆矢とする。周知のとおり義倉は河相周兵衛らが飢饉等に備え住民救恤のために設立されたもの。平時にはその基金で書籍購入などの事業を行い、廉塾もその恩恵に預かっていた。明治四十三年八月、東町に私立義倉図書館(蔵書数一七、四〇〇冊)が設立されたが、昭和十九年空襲で焼失。

 市内公立図書館では明治四十三年創設の松永図書館が最古。
市立図書館は昭和二十三年、三菱電機福山製作所ボイラー室を改装。福山市民会館二階に図書室として発足。昭和三十五年、同会館を改装、独立図書館(蔵書数一六、二〇〇冊)として開設。平成二十年福山市中央図書館と改称、新装開館。
この間、昭和五十一年から平成十九年までに義倉文庫(約二、三〇〇冊)設置。昭和四十一年から合併等により順次傘下に加わった松永、東部、北部、沼隈、新市、かんなべの各図書館を統括、併せてIT化を進めた。(文責 編集子)
  茶山墓参の集い
 「黄葉夕陽村舎詩」刊行から二百年

 八月十三日(月)、茶山忌に井上副会長ほか十二名の理事が茶山墓所に集い、文化九年、茶山(65歳)が「黄葉夕陽村舎詩」を刊行してから二百年の記念すべき年を迎えた茶山の御霊屋の周辺、進入路などを清掃。その後、一同、「わが茶山先生」斉唱。順次、焼香、礼拝。

 折から県歴博で開催中の企画展「菅茶山と化政文化を彩る七人の巨人たち」など話題にしながら郷土の巨星を偲んだ。
 写真⑨ 茶山墓参を終えて

 茶山忌に寄せて
              井上 謙二

 茶山翁は文政十年八月十三日に亡くなられ、八月二十日に神辺の網付谷の墓地に葬られた。享年八十歳であった。
菅茶山顕彰会は毎年八月十三日を茶山忌として、会員を主とした墓前祭を行い、この日は早朝より墓地の清掃を行い、その後に茶山翁の遺徳を偲びつつ献花し線香をお供えした。

 茶山翁は八十歳の春頃より病状が重くなり、夏には遂に帰らぬ人となられたが、頭脳は明晰で、病床にあっても最後まで詩聖の名に恥じず詩を作り続けられた。

 老来歓娯少  老来 歓娯少く
 長日消得難  長日 消し得難く
 偶憶強壮日  偶(々) 強壮日の憶い       
 時把𦾔詩看  時に𦾔詩を把りて看る
 大耋心恍惚  大耋 心は恍惚たれども
 亦可想當年  亦 當年を想うべし
 欣戚如再経  欣戚再び経る如し
 病懐稍且寛  病懐 稍且く寛かなり

(大意)
自分は年をとって 楽しみも少なくなった。
一日が長く 無聊の日々を過ごしているが、
たまたま若かった昔を想い出して、
曾て作った詩を取り出して見ると、
八十歳の老人の心は恍惚としているけれども、
まだ昔の記憶は忘れてはいない。
喜びや悲しみが思い出されて、
病床の苦しみがしばらくは楽になる気持ちだ。

 この詩は「讀𦾔詩巻」の一部であるが、翁が病床にありながら、日頃から作り貯めた数々の詩を読み返しながら、若き日に思いを馳せられた様子がよく伺える。
 私は既に茶山翁の歳を越えているが頑張りたいと思う。そこで茶山忌に墓前で思い浮かべた禿筆を茶山翁に捧げたい。

  拝菅茶山翁塋      井上 謙二
 森然楠樹蓋驕陽  森然たる楠樹驕陽を蓋ひ
 一畝清陰冷石床  一畝の清陰石床を冷ややかにす
 詩聖茶翁埋骨処  詩聖茶翁の骨を埋める処
 低頭拝掃掬遺芳  頭を低れ拝掃して遺芳を掬す
   「註釈」塋→墓  驕陽→夏の激しい陽光  拝掃→墓参・墓掃除をする

(大意)
樹齢数百年の楠の大木が枝を繁らし、夏の激しい陽光を遮り厳かに立っている。
このお陰で墓地は涼しい木陰となり、墓石はひんやりと感ずる。
此処は漢詩の大学者である菅茶山翁の御遺体を埋葬した所である。
私は頭をたれ、お墓を掃き清めながら、茶山翁の遺徳を静かに汲み取るのであった。
              (本会副会長)
  黄葉夕陽文庫 
   目録Ⅲ 日記・草稿編 発刊 

 平成二十三年度本会定期総会記念講演で西村直城氏が言及した「黄葉夕陽文庫 目録Ⅲ」が昨春市立図書館に配架された。その概要によれば、この目録には日記三十四件、草稿六百十四件、計六百四十八件が収録されている。

 日記では現存する茶山最古の「第二北上日記」、(その名称から推量される「第一北上日記」の存在は未確認)。草稿では多数を占める「黄葉夕陽村舎詩」、茶山が藩から下命を受け作成した「福山志料」「風俗御問状答書」のほか、山陽が一定の評価をし「茶山先生行状」に列挙しているのに詳悉が不明だった「室町誌」四巻については、原題は「正天記」、「室町幕府の歴史」を記した未刊書であることが説明されている。

別録10/17「茶山が詠じた廉塾の風景」
    菅波哲郎氏 於 神辺宿本陣まつり

 伊澤蘭軒の「長崎紀行」にはありし日の廉塾風景が最も克明に描写されている。
「茶山の廬 駅に面して柴門あり。門に入って数歩流渠あり。圯橋を架けて柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟洒夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望むときは駅を隔て黄葉山園中に来るがごとし。園を渉って屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下(高屋)川あり。
(中略)屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。」(「伊澤蘭軒」森鴎外著) 

 柳、(講堂東側の)池については、「菅波信道一代記」や賴山陽「東遊漫録」蠣﨑波響「廉塾図」など絵画でビジュアルに、また、茶山と親交のあった賴春水、武元登々庵や茶山自身が文政九年、愛する妻宣(享年七十歳)の死を悼んだ次の詩にも描かれている。

 槐風竹露寂荒郊  槐風竹露荒郊(野)に寂たり
 柳徑莎階小石橋  柳徑莎(はますげ)階(段)小石橋 
 獨酌無人為温酒  獨酌人の為に酒を温める無し
 一池新月自良宵  一池の新月自ら良宵なるに

 講堂の竹縁で、傍らの池に映る満月をひとり寂しく酒を酌みながら愛でている茶山の頬を槐の木を吹き抜ける薫風が掠めて行く。
資料を精査「そんなありし日そのままの廉塾風景を正確に次世代へ伝えて行きたい。」と。
 

 茶山の足跡辿るポエムハイク
       主催 菅茶山記念館

 神辺宿界隈編 2012/3/10  JR神辺駅起点
①薬上山光蓮寺(茶山嶺松師交流寺)
②佛見山萬念寺 (菅家菩提寺)
 写真⑪萬年寺詩碑

③神邊本陣(県重要文化財)
④伝太閤屋敷跡・小早川文吾旧宅跡
⑤国特別史跡廉塾ならびに菅茶山旧宅
⑥普門山西福寺
 写真 ⑫西福寺詩碑

⑦神辺公民館(丁谷餞子成卒賦碑遺稿巻四)
⑧丁谷養老会館(鈴鹿秀満歌碑)
⑨丁谷梅林(茶山山陽餞飲之所・広川の清水)
 ***   ***   ***   
 小早川文吾と作字

 廉塾への道筋沿い百㍍ばかり西、神辺町七日市の中ほどの道路脇に、「小早川文吾旧宅跡」と記した木標が立っている。
小早川文吾は、天明二年(一七八二)神辺町川北に生まれ、名は?(トウ・コウ)。通称文吾。号は楽々齊。家の名は春秋園。文政年間頃までは七日市の街道に面して、東本陣の西隣に住いし、その後は道路の北側に居宅を構えていたといわれる。

 廉塾に学んで、賴山陽が都講を努めていたころは塾生であった。退塾後は家業の医者をしながら塾を開いて近隣の子弟の教育に当たり、失明後も続けていた。
学は和洋にわたり、ことに文字学に精通し、笠岡の関政御路、古川松軒らと親交。著書に「三光史」などがある。

 文吾は詩文に長けていたが、「作字」(合成文字)を作る趣味を持っていた。
天別豊姫神社の境内や下竹田の常夜灯に、文吾が作字した「アカクニ」(写真左)が石彫されている。「我が国はまことに立派な国柄だ」という意味であろう。
写真 ⑬作字

 明治十三年(一八八〇)、九十歳で歿した。
西福寺北西隅に、重政雄の記并書による下記の墓碑(昭和二十九年建)がある。
   ***   ***   ***
 小早川楽々翁

 菅茶山之門精励刻苦学大進俟興賴山
  陽藤井暮庵門田朴齊等交友尤敦茶山
  歿後開塾授徒以到明治維新後貢献地
  方文化実有大者俟晩年疾眼失明猶不
  廢講授明治十三年五月八日以病歿享
  年九十有九葬于西福寺配名政有一男
  通称文亀承祀
   昭和二十九年一月 重政雄記并書

  黄葉夕陽村舎詩校本などが里帰り
   茶山記念館開館二十周年特別展

「菅茶山へのいざない」
 昨年十月二十五日から一か月間、菅茶山記念館開館二十周年記念特別展「菅茶山へのいざない」が開かれ、菅茶山とその一族が収集した貴重な史料群が故郷神辺に里帰り、一般に特別公開された。

 展示品の中には、「黄葉夕陽村舎詩」9段階の成立過程を示す校本と茶山の備品を示す朱印が押された「刊本」二冊をメインに茶山の著作や廉塾関係資料。父樗平の詩集「三月庵集」版本、阿部正精書「不如學也」の扁額、藤井暮庵の義父藤井治郎左右衛門昭房寄贈の時鐘などこれまで未公開、垂涎の史料群が一堂に会し、見学者の目を十二分に楽しませた。
  第三十八回神辺の歴史巡り
  神辺地区小6生が受講

 神辺LC(広中登志治会長)は毎年三月、卒業を間近に控えた神辺地区小学校六年生に郷土の歴史を学んでほしいと地元の史跡や施設めぐりに招待する恒例の歴史講座を開講。

 昨年三月二日、数えてその第三十八回目。神辺地区小学校六年生約四百人が神辺LCの案内で本陣・廉塾・菅茶山記念館など地元の史跡や関係施設を回って「故郷かんなべ」の歴史を学んだ。
  茶山、テレビ新広島で放映
  ふくやま歴史街道紀行

 昨年三月三十一日、テレビ新広島が企画番組『街道を行く=ふくやま歴史街道紀行=ぶらり歩いて福山を楽しもう!』を一時間にわたって放映した。

 案内役は元盈進中学校長杉原耕治氏と森本久美子フリータレント。杉原氏の著書「忘れられた街道をたずねて」(現代教育研究所2007年)を下敷きに備後国分寺を起点に松永今津宿に至る歴史文学紀行。
廉塾ではボランティアガイド鵜野謙二氏が取材協力。講堂前の「筆洗場」では、次の詩の朗読で往昔の塾生の生活ぶりを紹介。

  即事(後編巻四)
 垂楊交影掩前檻  垂楊影を交へて前檻(手摺)を掩う
 下有鳴渠徹底清  下に鳴渠(溝)有りて徹底清し
 童子倦来閑洗硯  童子倦み来って閑かに硯を洗う
 奔流触手別成聲  奔流手を触れて(特)別に聲を成す

 視聴者があらためて神辺や廉塾の歴史を学ぶ一助になった。

 福山北署に廉塾平成版
  若手署員勉強会創設

 昨年四月二十六日、福山北警察署(森木徳夫署長 署員一六一人)講堂で若手署員勉強会「廉塾」が開かれた。
署長が約半数を占める対象者に所轄地域の歴史文化などを媒体に地域住民との共感的な理解を図りながら創設五年目の署の歴史を創り上げてほしいとの希いから茶山が開いた塾と同名にした由。
六月十八日には、鵜野謙二常任理事など三名を講師に招き、廉塾、本陣、葛原勾当・しげるについて学んだ。
 安全安心・公平公正の町づくりへ向け公僕精神がブラッシュアップされる「練塾」でもあってほしい。
 茶山ポエム絵画展第十周年記念
        (2002/10/14)
 「茶山ポエムの歌」 
         作詞・作曲 中山 善照
         合唱・編曲 奥野 純子

一、江戸の昔の神辺は
  神辺は―
  菜の花咲くと見えてくる
  茶山先生 野道を散歩
  蝶を追いかけついてゆく
  蝶の行く先 花いっぱい
  茶山先生 蝶とゆく
  *CHAZAN POEM
   CHAZAN POEM
   茶山ポエム歌おうよ
  (*以下くりかえし)

二、江戸の昔の神辺は
  神辺は―
  柳の風に見えてくる
  茶山先生 すだれをあげた
  ツバメが家に入れるように
  軒先高くすだれをあげた
  茶山先生 やさしいね

三、江戸の昔の神辺は
  神辺は―
  ゆかたを着ると見えてくる
  茶山先生 夜道を帰る
  ホタルの光で山橋わたり
  歌を歌ってみんなで帰ろ
  茶山先生 楽しいね

四、江戸の昔の神辺は
  神辺は―
  ススキの向こうに見えてくる
  茶山先生 子供と月見
  砂で囲った川辺の水を
  子供かきまぜ月影ゆれる
  茶山先生 楽しいね

五、江戸の昔の神辺は
  神辺は―
  霜降る冬に見えてくる
  茶山先生 とし七十五
  川や山にゃあまた春来うに
  髪ゃ短うなるばあじゃ
  茶山先生 頭をなでる
 第二十回茶山ポエム絵画展

 一月十二日、菅茶山記念館で第⒛回茶山ポエム絵画展の表彰式が行われた。
表彰に先立ち開式行事。高橋会長は「この絵画展は児童画の権威者縄稚先生が審査されいるることが誇り」と挨拶。
神辺町内の小学校長など十一名の来賓代表として深安地区医師会亀川陸雄会長は「毎年医療機関では皆さんの絵に来院者への心の安らぎを期待」と祝辞。

賞状と記念品を授与された受賞者を代表して、藤原尚美さん(城南中学校二年)が「学校の先生から受賞の報せを聞いたとき、びっくりして念のため確認した。絵と詩のイメージがぴったり合ったのが良かった。これを機に、今後は図工だけでなくいろんなことに挑戦したい。」と謝辞。

 審査委員長縄稚輝雄先生も「まず制作に当たって、皆さんを応援してくれた周囲の人々へ「ありがとう」の気持を忘れないように。良い絵は頑張っている絵。絵と同じように他の事でも頑張ってほしい。」と総評。
写真右⑭ 最優秀作品ポスター

 「月を迎える」 吉岡璃乃 竹尋小六年
 「晩秋スケッチ」高賀晴斗 御野小五年

*主催 菅茶山顕彰会
     茶山ポエム絵画展実行委員会
     (財)福山市かんなべ文化振興会
     菅茶山記念館
*共催 ふくやま美術館
*後援 福山市教育委員会
     深安地区医師会
     (財)渋谷育英会
     (財)義倉

*今回の詩題( )内は原題
「冬夜読書(冬夜読書)」「画山水(梅)」「蝶七首(ちょう)」「聯句戯贈如実上人(花と和尚さん)」
「夏の日(夏日雑詩)」「螢七首(ホタル)」「朝景色(路上所見)」「所見(月を迎える)」「雨後(天の川)」
「秋日雑詠(晩秋スケッチ)」

*出品校園
 ・誠信幼稚園・千鶴幼稚園
 ・神辺小・竹尋小・御野小・中条小・湯田小・道上小・宜山小・桜丘小・府中市栗生小
 ・神辺中・福山中・城南中・城北中・銀河学院中・中央中・誠之中
 ・神辺旭高(以上十九校園)

*出品点数 3,096点)
*入選点数 最優秀賞   9点
         優秀賞   121点
         入 選   470点

各学年別最優秀賞受賞者は次の皆さん
市原聡大(誠信幼稚園) 櫻田駿也(神辺小一年) 桒田祥平(神辺小二年) 藤村咲花(御野小三年)川畑楓(湯田小四年) 高賀晴斗(御野小五年) 吉岡璃乃(竹尋小六年) 豊田健三朗(福山中三年)秀平咲(神辺旭高三年)

*作品展示計画
 ・菅茶山記念館展(1/12~2/3)
   入選以上601点展示
 ・ふくやま美術館展(3/5~3/10)
   優秀作品130点展示
 ・各地移動展・特別展(随時)

お詫びと訂正
 本会報22号の記事に次の誤りがありました。お詫びして訂正します。
 3㌻上段 誤「嘉永」→正「壽永」、
 9㌻下段 誤「歎斎」→正「歎齊」
   
編集後記
◇年末恒例の「今年の漢字」は「金」でしたが、政界の方は「乱」の一年でした。
◇本顕彰会も、ポエム絵画展の見直しや仕組みが検討される時期に来ているようです。
◇今号はご労作の長文を数々いただきましたので、初めて二十頁だての大部なものになりました。ごゆっくりご愛読いただければ幸いです。
◇どうか次号へも一人でも多く玉稿をお寄せくださいますようよろしくお願いいたします。

◎会報編集部
 武村充大(福山市神辺町上御領746)
  ℡・fax 084―966―2091
 上 泰二(福山市神辺町湯野23―8)
  ℡・fax(084―962―5175)
◎顕彰会事務局
 渡辺慧明(福山市神辺町川南230―1)
  ℡・fax(084―962―0953)