顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報24号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。


茶山生誕265年祭で
「神辺の四季」合唱(神辺小児童)

  茶山生誕二六五年祭にあたり
     
菅茶山顕彰会会長 鵜野謙二

「菊薫るかぎり 茶山の文化あり」


今年は菅茶山生誕二六五年祭にあたります。菅茶山顕彰会は、発足以来、神辺における教育と文化の先駆者菅茶山の「遺芳・遺徳」を、五年目ごとの「菅茶山生誕祭」を基軸として顕彰活動を継承しております。その功績に対し、昨年十一月十六日、広島県文化財協会より表彰状を贈られました。

 さて、ここ神辺平野は、今年も豊穣の秋でしたが、気候変動、異常気象により、全国各地に猛暑、台風、局地的な大雨洪水、竜巻等、甚大な災害をもたらしました。また、2011・3・11の東日本大震災の復興は遅々としておりますが、復興支援活動とその支援ソング「花は咲く・・生きていく絆」は全国各地に広がり歌われております。茶山の思想、人物像(中庸の美徳の精神)と重なるのではないでしょうか。

 菅茶山が拓いた「黄葉夕日村舎」の塾名は、南に聳える故郷の山「黄葉山」と神辺平野に沈む美しい夕日から名づけられたといわれております。菅茶山の感性ではないでしょうか。
 菅茶山は「黄葉夕日村舎」の存続を福山藩に願い、郷塾「廉塾・神辺学問所」として、明治維新の学制改革まで約百年間、学問と文化の種を蒔き、全国各地から学問を志して訪れた塾生を「学種」として大切に教育してきました。この学問所で学んだ学種が全国各地に咲かせた教育・文化の花は、全国各地の研究者によって顕彰されております。

 神辺町内の各小学校では、毎年、「史跡めぐり」(神辺ライオンズクラブ主催)で菅茶山の遺芳・遺徳を偲び、また、毎日、授業前に茶山詩の素読をしております。将に、廉塾及び菅茶山の「遺芳・遺徳」は神辺の歴史的文化遺産であり、誇りうる宝ではないでしょうか。
 記念すべき生誕祭には記念講演会を開催しました。講師は現代教育研究所代表(元盈進中学校長)杉原耕治先生。演題は、「神辺の歴史と文化~菅茶山の歩いた道」。神辺文化会館小ホールはほぼ満席で「分かりやすく、楽しく拝聴できた」と好評でした。地域各位のご支援、顕彰会理事の原動力に感謝申しあげます。

 平成二十五年度菅茶山顕彰会の会長を受け継ぐことになりました。顕彰会活動の継承と更なる発展に寄与していきたいと思っております。各位には今後とも、ご支援、ご鞭撻、ご協力をよろしくお願いいたします。
 廉塾の東池  ―詩に詠じられた荷沼―
           
菅波 哲郎 

「廉塾・養魚池の『政』は寛政か文政か」と自問自答して、養魚池の設置年代は文政八年(一八二五)の「酉」との結論を出した。以前は、その設置年代は寛政元年(一七八九)の「酉」が通説であった。大正期から昭和の戦前期にかけて、菅茶山研究の第一人者であった浜本鶴濱氏(一八八三~一九五〇)は、その著『廉塾と菅茶山宅』【福山学生会雑誌第90号より・昭和十五年八月(一九四〇)記】で次のように記されている。


中門近く左側菜園中に方一間半の小池がある。四方石畳で、三尺の深さの底に水を湛え、向岸に石標が立ち『廉塾養魚池、政酉抄冬為』の十字が二行に彫ってある。政酉とは寛政元年(一七八九)己酉の略称で、為の字はツクルと読ませるものらしい。
浜本氏は「寛政元年己酉」とされた根拠を示されていない。当時の廉塾伝来資料の公開状況について、「今日では廉塾跡平屋一棟が依頼によって公開せらる外は総て非公開である。依って(中略)倉庫等の数多くの建物、並びに所蔵品。茶山の遺物等何れも伺い知ることを許さない。」と、同誌で記されている。

 伝来資料を閲覧出来ない状況では、「寛政か文政か」と言えばより古い年号を選択されたのであろう。平成五年、菅家から伝来資料が広島県立歴史博物館に寄付され、伝来資料に基づく調査研究が行われるようになった。その資料中の『菅茶山日記』は文政八年末の頁に「東池を浚い、小魚数十を移す。新池に鯉を放つ。」と記している。このことによって「政酉」は文政八年であることが確定したが、文政八年以前に「池」に関る詩や文章は現存している「養魚池」ではなく、既に埋め戻され庭に転じている「東池」になる。「東池」の往時の姿を彷彿させるのは、寛政九年頼山陽が描いた「夕陽黄葉村舎図」(『東遊漫録』所収)である。この東池の様子を題材にした茶山詩に次の詩がある。

頼山陽画「夕陽黄葉村舎図」(部分) 中島に石橋が架られた東池の様子


 夏日雑詩 十二首  『黄葉夕陽村舎詩 後篇巻八』文政2年】

 聞香已認渚蓮開 香(か)を聞(き)いて已(すで)に認(みと)む渚(しょ)蓮(れん)の開(ひら)くを
 万葉交加乱翠堆 万葉(まんよう)交加(こうか)して乱翠(らんすい)堆(うずたか)し
 風定静看波底影 風(かぜ)定(さだ)まりて静(しず)かに 波底(はてい)の影(かげ)を看(み)れば
 一双紅艶爛相偎 一双(いっそう)の紅(こう)艶(えん) 爛(らん)として相(あ)い偎(わい)す

※聞(もん)香(こう)  においをかぐ。交(こう)加(か) 入り混じる(いりまじる)。
  相偎   あいよりあう。


第一句の渚蓮の渚は『角川漢和中辞典』には「水が陸地に入り込んでいる所」とあり、水と石垣の「養魚池」では「渚」は不釣合いであるが、頼山陽の描く「東池」であれば理解出来る。現存の「養魚池」の水面は常に見下ろす視線になるが、「東池」のそれはより目線と等しく、水面の蓮や水草の動きがより身近にしかも親しみを感じる。そして、渚と趣を同じくする詩に「蛍」の詩がある。

      【『黄葉夕陽村舎詩 後篇巻七』文化十三年】

 風収荷沼気逾香  風(かぜ)は荷沼(かしょう)に収(おさ)まりて気(き)逾(いよ)いよ香(かんば)し
 雲圧茅檐夜未涼  雲(くも)は茅檐(ぼうえん)を圧(あ)して夜(よる)未(いま)だ涼(すずし)からず
 蛍火亦知明日雨  蛍(けい)火(か) 亦(ま)た知(し)る 明日(みょうにち)の雨(あめ)
 両三相遂入山房  両三(りょうさん) 相(あ)い遂(お)うて山房(さんぼう)に入(い)る

※荷沼 蓮の生い茂る沼。茅檐 茅の軒端。山房 山家。

茶山はここでは池を沼と称し蓮の花の麗しい匂いに浸りつつ、沼(東池)の渚の一隅から飛び上った蛍に気候の移り変わりを感じる。
 この池に接した訪問者の一人である武元登々庵(備前国和気の儒者)は、文化四年(一八〇七)の春、次の詩を詠じた。

 廉塾偶作 神辺駅茶山先生塾

 一区幽築了烟霞  一区(いっく)の幽築(ゆうちく) 烟(えん)霞(か)を了(りょう)す
 暫寓如歸興日加  暫寓(ざんぐう)なるも歸(かえ)るが如(ごと)く 興(きょう)日(ひ)に加(くわ)ふ
 新竹牆頭全解籜  新竹(しんちく)は牆(しょう)頭(とう)に 全(まった)く籜(たく)を解(と)き
 青荷池面半開花  青(せい)荷(か) 池面(ちめん) 半開(はんかい)の花(はな)
   (後略)
※幽築 閑静な住居。烟霞 霞に烟っている。
 牆頭 垣のほとり。解籜 すっかり皮が剥けている。
 青荷 青い蓮。
 
ところで、廉塾東側の「竹縁」は幅が2mあり、普通の縁側からすれば非常に広い。その竹縁に接して東池があり、茶山や武元登々庵そして訪問者たちは、この竹縁から眺めた東池の様子を詠じたのであろう。

講堂の竹縁から庭(元東池跡)を見る

 筆者は『広島県文化財ニュース 219号』で「廉塾の池と寮について」と題して、茶山詩「悼亡 三首」(『黄葉夕陽村舎詩 遺稿巻六』所収・文政九年作)の内の一首を紹介した。

 槐風竹露寂荒郊  槐風(かいふう) 竹露(ちくろ) 荒郊(こうこう)に寂(せき)たり
 柳径莎階小石橋  柳径(りゅうけい) 莎(さ)階(かい) 小石橋(しょうせききょう)
 独酌無人為温酒  独酌(どくしゃく) 人(ひと)の為(ため)に酒(さけ)を温(あたた)むる無(む)し
 一池新月自良宵  一(いっ)池(ち) 新月(しんげつ)自(おのず)から良(りょう)宵(しょう)

この詩について次のように説明を記した。この詩は文政九年五月に亡くなった妻宣を悼んでの詩である。槐風とは槐の木を吹き抜ける風のことで、槐寮すなわち茶山の居間に吹き込む風である。「一池」について、「新月が写る池は文政八年に築かれた養魚池である」。
 すなわち「養魚池である」と記したことが、間違いであったことが、後に茶山の文政九年作「夏日即時」で明らかになった。

 暑威才霽未生風  暑(しょ)威(い)才(わずか)に霽(は)未だ風(まだかぜ)を生(しょう)ず
 荷沼苔階露気通  荷(か)沼(しょう)苔(たい)階(かい)露(つゆ)気(き)通(つう)ず
 斗喜嶺松鮮可数  斗(たちま)喜ぶ(よろこぶ)嶺松(れいしょう)鮮(あざ)かに数(かず)うべく
 東山仍在夕陽中  東山(やま)は仍(なお)夕陽(ゆうひ)の中(うち)に在り(あり)
※才 わずかに。荷沼 蓮池。
 
東池の「荷沼」と新池の「養魚池」は茶山が没して後も並存した。しかし、現在東池は埋め戻されている。その時期が何時であったのかを明らかにすることが今後の課題である。

付記 東池の痕跡

現在、東池の痕跡が東西に貫流している用水路の側壁に見られる。講堂東南の用水路に架かる石橋下の水底に長方形の排水口があり、そこから上流へ11mの所に吸水口がある。講堂南側の縁側の踏み石として、石橋であったと推定できる長石が設置されている。

【参考文献】
富士川英郎著『菅茶山』福武書店 一九九〇年
島谷真三・北川勇共著『茶山詩五百首』
            児島書店刊 昭和五十年
水田紀久著『菅茶山 頼山陽詩集』
  (新日本古典文学大系)岩波書店 一九九六年
黒川洋一『菅茶山・六如』
(『江戸詩人選集』四)岩波書店 平成二年
 早熟の天才と晩学の異才
                      門田周一郎

 私が「漢詩講座」に入門したのは、定年退職した平成十四年四月からである。与えられた課題を月一首作り提出する。全くの初心者だったが、テキスト(呂山 太刀掛重男著「詩語完備・だれにもできる漢詩の作り方」)と漢和辞典さえあれば、漢詩らしきものは簡単にできた。いつも二重丸をもらい、お褒めの講評を書いて頂く。しかし、喜びも感動も覚えていない。何故なら、詩想を練ったり、詩語を探したり、推敲をしたり、という勉強・努力をしていなかったからである。しかし、三、四年経つ内に、先輩方の詩の善し悪しを感じるようになり、少しは力を入れてみようかと、本腰を入れることになった。

 その頃読んだ漢詩の中で、特に十代の少年期に作られた七言絶句二首に衝撃を受けた。白居易の七言絶句「王昭君」は歴史的な中国四代美女の一人を詠ったものだが、十七歳の作で早熟な才を発揮している。また、王維の「九月九日憶山中兄弟」は、教科書に載るほどの名作である。山西省の田舎から科挙の登第を目指し西安に上京したのは十五歳の時。それから三年目の重陽節に詠んだのがこの詩。
 特に後半の「遙かに知る兄弟 高きに登る処、遍(あまね)く茱萸(しゅゆ)を挿(さ)して一人(いちにん)を少(か)くを」は、東京で浪人生活をした者にとって、胸に響いてくる。書画、音楽、詩文に才能溢れる人であっても、十七歳の作とは驚きである。

 ところで、我が国でも同じ例が幾つかある。中でも、群を抜く漢詩は菅茶山にゆかりの深い頼山陽であろう。五言古詩を読んでみよう。

 癸丑歳偶作  癸(き)丑(ちゅう)の歳(とし) 偶作(ぐうさく) 頼山陽

 十有三春秋  十(じゅう)有三(ゆうさん)の春秋(しゅんじゅう)
 逝者已如水  逝(ゆ)く者(もの)は已(すで)に水(みず)の如し(ごと)
 天地無始終  天地(てんち) 始終(しじゅう)無く(な)
 人生有生死  人生(じんせい) 生死(せいし)有り(あ)
 安得類古人  安(いずく)んぞ古人(こじん)に類して(るい) 
 千載列青史  千載(せんざい)青史(せいし)に列する(れっ)を得ん(え)

*「癸丑」は、みずのとうし。寛政五年の年。
 「春秋」は歳月。「逝者」は「論語」子罕(しかん)に、孔子は川の畔(あぜ)で「逝く(ゆ)者(もの)は斯(か)く  の如きか、昼夜を舎(お)かず」と詠嘆したという。「天地」は曹植(そうち)の「応氏を送る」詩に、
 「天地終極無く、人命朝露(ちょうろ)の如し」とある。「青史」は歴史の書物をいう。

 大意は「十三年の歳月は、水の流れのように過ぎ去った。天地には始まりも終わりもないが、人生には生もあれば死もある。何とかして僕も古人のように、千年の後までも歴史に名を連ねるようになりたいのだ。」と結ぶ。寛政五年(一七九三)山陽十四歳の作。最後の二句に「安んぞ古人に類して、千載青史に列するを得ん」と力強い。この頃既に大志を抱き、ライフワークらしきものが芽生えていたようだ。正に早熟の天才といえる。後に「日本外史」を著すことになるのである。
 (揖斐(いび) 高(たかし)著「頼山陽詩選」を参照)

 頼山陽とは対極的に、晩年になって独学で漢詩人になった人の作品を紹介する。 それは、京都大学経済学部の教授であった河上 肇(一八七九~一九四六)である。日本にマルクス主義経済学を紹介したことで知られる。彼は、昭和八年(一九三三)、近代史上悪名高き「治安維持法」によって投獄され、獄中でも読書は厳しく制限される。従って専門の領域の書物は一切許されず、漢籍は許された。陶淵明、王維、李白、杜甫、白居易、蘇軾などの全集を差し入れてもらう。足かけ五年間の獄中生活で次々と読破してゆく。出獄した翌年、昭和十三年頃から漢詩を作り始める。それも我流ではなく、平仄などの規則を独学で学び、後に、中国文学の専門家からも高く評価される作品を残していくことになる。漢詩を作り始めて三年目、昭和十六年、作者数え年六十三歳の作品を読んでみる。

 辛巳春日偶成 辛巳  春日 偶成 閉(へい)戸(こ)閑人(かんじん)

 形容枯槁眼眵昏  形容(けいよう)枯槁(ここう) 眼(め)は眵昏(しこん)
 眉宇纔存積憤痕  眉宇(びう) 纔(わずか)に存す(そんす) 積憤(せきふん)の痕(あと)
 心如老馬雖知路  心(こころ)は老馬(ろううま)の如く(ごと) 路(みち)を知る(しる)と雖(いえど)も
 身似病蛙不耐奔  身(み)は病(びょう)蛙(あ)に似て(にて) 奔(はし)るに耐えず(たえず)

*題の「辛巳」(かのとみ)の年は、昭和十六年のこと。
 「偶成」はふとできあがったという意味。
 「閉戸閑人」は作者河上肇の雅号。
 「形容枯槁」は、体が痩せ衰えている様。(屈原「漁父」)。
 「眼眵昏」は、目がかすんで暗く、よく見えぬこと。(韓愈「短灯檠(たんとうけい)歌(うた)」)。
 「眉宇」は、眉の辺り。「積憤」は、積もりに積もった憤り。
 「老馬」は、年老いた馬。経験を積んで物事によく通じている者の譬え。(韓非子)。
 「病蛙」は、病気のカエル。ちなみに、終わりの二句は、宋の詩人、陸游の「自述」に基づいて作って
 いることを、自注に記している。

この詩の表面の意味は次の通り。
「体は痩せ衰え、目はかすんでよく見えぬ。だが眉の辺りに積もり積もった憤りの痕が、かすかに伺える。心は年老いた馬のように、路をよく知っているのだが、体は病気の蛙のようで、勢いよく走り出すことが出来ぬ。」
表面上の意味で読むと、単なる痩せ衰えた老人のボヤキの詩にしか見えない。しかし、一つ一つの詩語は意味の深い典故を踏まえて作られていることと、作者の置かれている状況、及び世相を合わせて読むと、読者の心を揺さぶる詩に変わる。「愚かな権力への痛烈な批判精神」が込められているからである。これぞ晩学の重厚な詩風である。
 (一海(いっかい) 知義(ともよし)著(ちょ)「漢詩(かんし)入門(にゅうもん)」参照(さんしょう))

 終わりに、菅茶山記念館の「漢詩講座」は、晩学の詩人たちの集まりである。しかし、回を追うごとに上達がめざましく、今年の初夏頃には漢詩集を発刊する運びになっている。
  (菅茶山記念館「漢詩講座」講師)
 鵜野謙二会長 武田恂治事務局長 就任
     菅茶山顕彰会新旧役員交代

 平成二十五年度菅茶山顕彰会定例総会が昨年五月十八日(土)神辺町商工文化センターで開催された。
 高橋孝一会長から開会挨拶に続いて、平成九年(一九九七)から十六年間にわたる会長としての想いを込め、退任する役員を代表して退任の挨拶があった。
 議事では恒例の①平成二十四年度事業報告・会計決算報告並びに監査報告に次いで②役員改選が行われ、新役員が次のとおり選任された。続いて、平成二十五年度事業計画・会計予算案について審議承認した。

事業計画では、本年、茶山生誕二百六十五年に当り、五年毎に開催している茶山祭を開催すること。ポエム絵画展を本年の第二十回展をもって一応の区切りをつけ、今後は新しい組織で継承すること。ミクロネシア・ポンペイ島で行われる国際交流画展に、ポエム絵画を出展することなどが承認された。
(写真 鵜野会長 就任あいさつ・マジックショー)




菅茶山顕彰会新役員
 ・会 長   鵜野謙二
 ・副会長  猪原文夫
 ・代表理事 高橋孝一
 ・理 事   白神直孝 園尾俊昭 武田武美 延近隆弘 堂西孝賢
         小林貞子 三宅真一郎 安原美津代 渡辺元治 上泰二
 ・事務局長 武田恂治
 ・会 計   藤田卓三
 ・監 事   北村陽介・渡辺慧明

議事終了後、記念講演として「菅茶山の楽しい手品」と題する小川吉延氏の手品を楽しんだ。(B)
  茶山廟墓参
   祥月命日、欠かさぬ集い

 茶山忌にあたる八月十三日(月)、恒例の茶山廟墓参の集いが行われ、鵜野会長ほか十二人の理事らが集い、菅家墓所と茶山御霊屋を清掃した後、佛式により礼拝した。
その際、菅家墓所の配置が話題となり配置図により確認した。
また、茶山御霊屋の近くに葬られている三谷尚玄(讃岐の人、茶山弟子)の墓碑の碑文を解読した。(碑文と漢詩の解読は、「菅茶山」下 富士川英郎 福武書店 一九九〇年 参照)
***   ***  ***   ***
讃州三谷尚玄墓
 文化六年正月九日
(碑文読み下し)
三谷は其の姓、尚玄は其の称、名は巽、字は子功、讃州金倉の人。来たりて、余が塾に、備後神辺駅に学ぶ。業成りて将に帰らんとして、適(たまたま)病みて没す。文化己巳正月九日なり。権(かり)に駅の東南網付谷に葬る。年二十三、人となり方面長身、沈敏にして才あり。苦学篤行、傍ら医及び詩を能くす。翹翹(ぎょうぎょう)、諸生の秀でたり矣。才を抱きて夭するは古より少なからず。斯人の善を為し、亦免る能わざる邪(か)。噫(ああ)。

即事贈三谷尚玄子功諸子
 
 寒夜衰老夢易驚  寒夜衰老夢驚き易し
 愁心空伴一燈明  愁心空しく伴う一燈の明るきに
 書寮頼有君曹寓  書寮頼(さいわい)君曹の寓する有り
 喜聴伊吾徹暁聲  喜び聴く伊吾(読書)暁を徹する聲

(大意)寒い夜、私のように衰えた翁は夢を見ても驚くほどで、一燈の明かりにも、どこかもの悲しさを感じる。書寮(塾)には、幸い君が在籍しており、明け方にも書物を読む声が響いている。
「黄葉夕陽村舎詩」前篇巻八-十二所収(茶山六十二歳)       
    (B)
(写真 茶山墓参を終えて・三谷尚言の墓)

  「菅茶山の歩いた道」杉原耕治氏講演
      茶山生誕二六五年祭主行事
  
菅茶山生誕二六五年にあたる本年十二月一日、茶山祭記念講演会が、菅茶山顕彰会・公益財団法人かんなべ文化振興会・菅茶山記念館共催で神辺文化会館小ホールで開催された。
先ず、講演会に先立ち、「茶山ポエム・神辺の四季」をテーマに、神辺小学校六年生の児童が茶山詩の「素読」と「ポエムの歌」の合唱を発表した。
素読暗唱では、茶山詩「蝶七首」「雨後」「月を迎える」「雪日」の四首と合唱「茶山ポエムの歌」(作詞・作曲 中山善照)と「花と和尚さんの歌」(作詞 中山善照 作曲・永柴義昭)の二曲を組み合わせて発表した。

その後顕彰会の鵜野会長が開会挨拶。続いて記念講演が行われた。
記念講演では、「神辺の歴史と文化~菅茶山の歩いた道」の演題で杉原耕治先生(現代教育研究所代表)による講演があった。
寺島実郎氏が雑誌「世界」(六月号)で高く評価した「銀の道ものがたり」(山陰中央新報社 二〇一一年)や「忘れられた街道をたずねてー福山歴史文学紀行」(現代研究所 二〇〇七年)など先生の著書をベースに、先生自らの足でも辿った長い道程の案内。

茶翁、八十年の生涯中、徳川家光の時代、参勤交代で整備された街道を一日十里平均、春は梅や櫻、夏は螢、秋は紅葉、冬は雪、四季折々の自然を味わいながら、頭と体と心の旅を繰り返した。  
江戸へ二回、(うち一回は水戸へ)、京坂へ六回(うち一回は名古屋へ、櫻の名所、嵐山、芳野へも屡々)の長旅。当時、異邦人から、「正直、礼儀正しく、忍耐強い」日本人評を受けていた日本は、一番安定し、安全な国で道中危険な目に遭うこともなかった。
行く先々、いずれも茶山を敬慕する夥しい人々と分け隔て無い交流を重ねた。近隣では、笠岡・小寺清先、鴨方・西山拙齊と神辺の往来に足繁く通った坪生経由笠岡街道。尾道・橋本竹下・平田玉蘊、竹原・賴家などを訪ねた鶴ケ橋、中津原、大渡橋経由の西国街道。新たに神辺から福山へ移された城や城下への出講、鞆の浦などへの詩酒徴逐時に往来した千田大垰・藪路街道、最後を「石見銀山街道」で締め括った。(以上講演要旨、文責は編集子)

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「銀の道ものがたり」グリンプス
甲山路上(後編 巻一 所収)
   於 鳥越峠(甲山宿~宇津戸宿)

 雑樹夾渓昏  雑樹渓を夾んで昏く
 帰雲抱石屯  帰雲石を抱いて屯す
 鳥身看不見  鳥身看れども見えず
 聲大似人言  聲を大いにして人の言うに似たり

この茶山詩のほか、三次では「賴杏平と運甓居」について案内。尾道では郷土史家財間八郎氏の「尾道散策」を引用、当時の港町の繁栄と文化を支えた豪商と茶山ら文人墨客との親交ぶりを紹介している。


(写真 杉原先生講演)
 「菅茶山の華麗なる友人たち」
  ―備後、四人の著名人―     藤井登美子氏講演

 昨年二月二十二日、神辺文化会館で、かんなべ文化連盟主催の文化講演会が開かれ、「天明の篝火」など郷土の歴史作家として著名な藤井登美子氏による演題「菅茶山の華麗なる友人たち」、特に備後で菅茶山と親交のあった四人の友人について講演があった。

①徳永徳右衛門(一七四九~一七八七)
 JR福塩線湯田村駅北寶泉寺に義民徳永徳右衛門墓碑銘・境内に「義民碑」がある。徳右衛門は第四代福山藩主阿部正倫治政下の天明の一揆を類い希な戦略と戦術で全面勝利に導いた。他の一揆の首謀者とは異なり無罪放免となったが、正倫老中昇任の一週間後、闇討ちに遭い、臨終に周囲の者に「病死」とするよう念を押しこの世を去った。享年三十八歳
 この一揆の正月、茶山(四〇歳)は「慚我救荒無異術 半生辜負読書身」(「窮隣」前巻三)と自らの無力さを慨嘆している。

②河相周兵衞(一七六四~一八三三)
 茶山の遠縁。深津村庄屋石井武衞門盈比(周兵衞の弟)から臨終に託された六十貫(現価一億円)を元手に豪商・豪農の協力を得て三百貫を貯え、村邑対象の社倉ではなく福山藩全般を視野に入れた救恤基金制度「義倉」を設立。茶山に「福府義倉」と命名してもらい、藩に役料を支払って運用。明治維新、昭和の農地改革など激動の時代を乗り越え、現在もなお「秋田感恩講」と併せて社会福祉、文化教育活動として命脈を保っている。

③賴杏坪(一七五六~一八三四)
 三賴と称される春水、春風、杏坪、賴三兄弟の末弟。茶山より八歳年下だが、茶山と性格が似通っていた故か、うまが合っていたらしい。茶山が引き留めたいため、杏坪の刀を隠したという逸話が残っている。
 文化十年(一八一三)杏坪(五十八歳)は学者から「難治の貧郡」と言われる広島藩北辺の行政官に任ぜられ、天保元年(一八三〇)七十七歳までの十八年間生涯現役を通した。その間、瀬戸内沿海諸郡との経済格差を解消するため、多くの意見書、建言を行ったが、やむなく不条理の現実を肯定、年貢の取り立てと騒動の鎮静化を主務とする役人から冷笑を浴びながら、杏坪柿、三千本の植樹、煙草・綿の栽培、牛の放牧、社倉の設立など、貧民の生活向上のため心血を注いだ。しかし、茶山と同様、「民草に惠の露はかけもせで冷ゆる笘を置くが悲しき」朱子学の理念と現実の狭間で呻吟。菅茶山の墓碑銘を撰書した十年後の天保五年(一八三四)不帰の人となった。

④平田玉蘊(一七八七~一八五五)
 平田玉蘊は、故郷尾道で「賴山陽に袖にされた女性」として肩身の狭い生涯を送った。
山陽が脱藩事件による謹慎が解かれて二年後の文化四年(一八〇七)九月、竹原で賴一族の法要が営まれ、春風館に春水、春風、杏坪三兄弟一族が集まった。山陽(二十八歳)はその席に招待された玉蘊(二十三歳)、玉葆(十八歳)姉妹、就中、「淡粧素服風神超凡」の玉蘊に惹かれ、相思相愛の仲になった。
文化六年十二月末、山陽は茶山に廉塾の都講として迎えられるが、三都への憧憬を捨てきれず、文化八年二月、廉塾を出奔。この際事前連絡を承け、六月ごろ、玉蘊は母・妹を同伴、上洛。山陽からの連絡を心待ちにし八月ごろまで京都に滞在した。しかし、山陽が父の親友、金山重左右衛門の諌言に従い、再度の脱藩騒動の危機を回避するため、彼女の「実に背きしまいぬ」故に傷心を抱いて尾道へ戻って来た。その帰途、茶山に皮肉にもこれも山陽を慕い弟子になった美濃の江馬細香が描いた磁杯を贈っている。
近隣の好誼、春風門下生ということもあって、茶山は早くから玉蘊に何かと目をかけていた。その上、今回の醜聞で女絵師としての画才が葬り去られることを惜しんでか、茶山は彼女の絵に自らの漢詩の賛を保証、杏坪は編集を委ねられた「芸潘通史」に彼女を紹介、また尾道の豪商橋本吉兵衛は、天保の大飢饉に社会福祉事業として菩提寺慈観寺本堂の建て替えを行い貧民の救済を行う一方、玉蘊には本堂の襖に一対の「桐鳳凰図」を描かせるなど彼女を物心両面で支援した。
(以上講演要旨。文責編集子)

参考図書
 藤井登美子著「天明の篝火 郁朋社 平成二十二年」
          「北僻に立つ 郁朋社 平成十七年」
          「花かたみ 鳳尾蕉の夢 (株)綜合印刷出版 2000年」

***   ***   *** ***
  茶山への莫大な恩誼 
   山陽と玉蘊 結ばれぬ恋の行方   上  泰 二

 「黄葉夕陽文庫」には玉蘊・玉葆姉妹の絵も載せた「菅家諸家書画帳」や玉蘊から茶山へあてた年賀のコレクション「玉蘊画帳」がある。
茶山は玉蘊にとっても山陽と同様「推輓藝場(学問・芸術)上」の恩誼を蒙った恩人・後援者。新春、平素の愛顧に感謝、年賀として描き初めの絵を届けていたのであろう。文政七年から十年にかけて描かれた六点の絵が巻物として表装されている。また、「四皓図賛」(「黄葉夕陽村舎詩」文編四―十七所収)など絹本着色軸装され現代に伝えられている逸品もある。

 玉蘊は尾道で木綿問屋福岡屋を営む父平田新太郎(号五峯)、母峯の二女として誕生。名は豊(または章、号玉蘊)。画技は妹庸、号玉葆とともに、父の師、福原五岳を経て八田古秀に学び、花卉、牡丹を描くことに長けていた。また、詩歌は賴春風の薫陶を受けていた。
 茶山も早くから玉蘊の画才を認め、目をかけていたのであろう。文化三年(一八〇六)には玉蘊(二十歳)の牡丹の絵に次の賛詩を贈っている。

  豊女史畫牡丹

 国色凝霞彩  国色(牡丹)霞彩を凝め
 天香湿露華  天香 露華(露)を湿う
 深閨無限思  深閨限り無き思い
 畫出牡丹花  畫き出す牡丹花

逐語的には「深閨無限思」は「玉蘊の限りなく牡丹を愛する思い」であろうが、池田明子著「頼山陽と平田玉蘊」によれば、「この年の十二月十三日に他界する父親の病状を憂慮したものと思われる」とも深読みしている。
 次いで茶山は文化四年(一八〇七)四月刊行の「黄葉夕陽村舎詩」冒頭を次に詩で飾っている。

常盤雪行抱孤図 
 
 潜行犯暗雪漫空  潜行暗を犯す雪は空に漫し
 家國存亡在此中  家國の存亡此の中に在り
 小弟啼飢兄泣凍  小弟(牛若)は飢えに啼き兄(今若・乙若)は凍え泣く
 誰知他日並英雄  誰か知る他日並に英雄
 
 茶山は玉蘊が父亡き後、残された母妹を抱え画を生業としてけなげなに生きて行こうとする姿に常磐御前の生き様を重ね激励のメッセージに代えたものと解釈されている。
丁(てい)卯(ぼう)文化四年(一八〇七)九月二十一日、竹原賴家で家翁・叔翁の法要が営まれ、春水(六十二歳)、春風(五十八歳)、杏坪(五十二歳)三兄弟が安永七年以来三十年ぶりにうち揃って郷土竹原春風館に集まった。
二十四日、春風の勧めで玉蘊(二十三歳)、玉葆(十八歳)姉妹も一連の催事に招かれ、初めて山陽(二十八歳)と対面。二十五日、龍山照蓮寺書会、二十六日には、石井儀卿の誘いで床浦(忠海)舟遊を共にした。二十七日、玉蘊は「竹原床浦図」を描いて竹原を後にした。

この時、山陽は春水・春風の勧めで「竹原舟遊記」を書し姉妹の印象を「淡粧素服、風神超凡なるものは玉蘊二十三歳」、「袨衣靚飾、光艶外射するもんは其妹玉葆なり」と語った。就中、姉玉蘊に理想の女性像を発見、二人はお互いに惹かれるものを感じ合い詩文と絵画を通じて急速に交際が深まった。

龍山会題玉蘊女史画牡丹 賴山陽

 絶塵風骨是仙姫  絶塵の風骨是れ仙姫
 却画名花濃艶姿  却って画く名花濃艶の姿を
 應知今夜空門空  まさに知るべし 空門の会
 欲向香龕供一枝  香龕に向いて一枝を供えんと欲す

 この日、山陽は姉妹のために詩を贈っている。
  丁卯暮秋遊竹原     賴山陽

 連萼新開木筆花  連萼新らたに開く木筆花(辛夷)
 嬋妍玉浦水之涯  嬋妍たる玉の浦の水之涯
 浦頭風色曾遊地  浦の頭の風色は曾って遊びしの地
 筆下描成寄我家  筆下し描き成して我家に寄す

 長期間の謹慎が明けて間近にする二人の知的で嫋やかな姉妹(木筆花)の画技とそこはかとなく漂う移り香に強烈なインパクトを受けたにちがいない。
 文化六年(一八〇九)九月十八日、春水は茶山から山陽を廉塾の都講として招聘したい旨の書状を受け取った。図らずも、一週間後の九月二十五日、玉蘊二十三歳は母・妹と廉塾に茶山を訪ねている。「菅家往門録」に「季秋廿日従萱堂同来 平田豊 同庸」の記録が残されている。
そして年の瀬も押し迫った十二月二十九日、山陽が廉塾の門を潜った。

 真偽はともあれ、茶山は山陽の廉塾寄寓中の逸話として現在に語り継がれている傍若無人の言動や「老婆のこまごと申やうに候」事を鬱憤も含め、伊澤蘭軒、それに賴杏坪への書簡で「令兄弥太郎様へはいふてよい事計申可被下候」と断ってぶちまけている。一方、春水は茶山への書簡で「玉蘊と山陽との間を尾道の何某地仙(慈仙)というものが取持ち関係が余程濃厚になっているから警戒してくれ」と依頼している。

 文化七年(一八一〇)九月十三日、山陽は今津薬師寺で遊び、夜、尾道まで足を伸ばし二泊している。恐らく玉蘊と逢瀬を楽しんだものと思われる。
 文化八年(一八一一)閏二月六日、賴山陽が塾生白岩三省と神辺を去る。出発の直前、山陽は三省を尾道の玉蘊の許へ使い出し今後の段取りを伝えさせた。この事前連絡を承け、桒田翼叔から小原梅坡への書簡に「玉蘊もその後広島の才子を慕い、上京いたし、登々主人などもかれこれ心配もこれ有り候」とあるように、玉蘊は六月ごろ、母・妹を同伴、上洛。八月ごろまで京都に滞在した。しかし、「姻事諧はずして終にその郷に帰り、爾後、これを恥じて再び京に至らず」。山陽とすれば、今回の上洛を広島藩からの再度の脱藩騒動と受け止められかねない危機を回避するため、やむを得ない対応であったが、結果的に玉蘊の「実に背きしまいぬ」結末を迎えた。

 十月二十八日、平田玉蘊が来訪、茶山に江馬細香筆の磁盃を贈った。ついでながら、文化十年十月、山陽は尾張、美濃方面を旅行した際、大垣でその細香にも玉蘊と同じ「淡粧素服」に加え「風韵清秀」の賛辞を贈り、結婚を申し込んだ。細香の父、藤江藩医江馬蘭齋の猛反対で果たさなかった。しかし、表面的には兎も角、心穏やかならざる正妻梨影の心情をよそに二人は終生親密な師弟関係を続けた。

 一方、玉蘊は「山陽を追いかけ、袖にされた女」として周囲の醜聞に晒されながら、絵筆一本で家と母と妹を守るのに懸命だった。

  玉蘊画西施五湖図

 西施仍艶容  西施なお艶容
 范蠡未衰老  范蠡未だ衰老せず
 同是沼呉人  ともに是れ呉を沼にせし人
 成功何許早  功を成すこと何ずれが早きか

 文化九年(一八一二)、茶山は玉蘊の絵に賛詩を詠んだ。さしずめ、傾国の美女、西施に玉蘊を喩え、范蠡に自らの心情をも重ね、山陽への鬱積した意識下の怨嗟を無意識の中に詩に託したものと思われる。
その後もうち続いた膠着状態に風穴を開けようと、文化十一年(一八一四)五月、山陽は一人では心細かったのであろう武元登々庵を同道、江戸出府途上の茶山に面会を求め、廉塾脱去以来の非礼を謝罪、宥恕を得て、石場まで見送った。

  勢田途上

 蹄輪絡繹路弯環  蹄輪絡繹路弯環
 不識何邊送者還  識らず何れの邊をか送者還る
 只有恨人行且顧  只恨人の行きて且つ顧みる有り
 満湖烟雨暗逢山  満湖(琵琶湖)の烟雨逢山を暗うす

 この詩に「是日與送者別干石場」の注がある。
 「恨人」(送者との別れを惜しむ者=茶山自身)  「送者」(=山陽、武元登々庵)、
他の詩のように姓名を敢えて明示していない。このことで、和解に応じたとは云いながら、収まりかねている茶山の内奥が見え隠れしていると山陽自身も推察している。

 八月二十三日、父春水病気見舞いのため、上京後初の帰省。神辺へ出立以来、実に五十七ヵ月ぶりの広島であった。二十日間余の広島滞在、妾梨影の存在と妊娠を告白している。その後竹原を経て九月二十二日、尾道へ。数日間の滞在中、玉蘊と会っている。この頃、尾道に後に玉蘊の「良人」となる「伊勢の白鶴鳴という蕉門の美少年、画も少し出来申し候が筆端にて挑み」し相手が、やがて玉蘊と結ばれたらしい。

 文化十二年二月二十六日、茶山は江戸出立三月二十九日に帰郷しているが、出発に先だって在府中頻繁に交流のあった蘭軒の姉幾勢からの餞のお返しに「御入用候はば(尾道女画史豊の絵を)またさし上げ可候」と云っている。ここで鴎外は「竹田荘師友画録」の記述を引用、豊とは他ならぬ玉蘊と推測している。

 文化十二年、景譲が二十六歳の生涯を閉じた。山陽は四月七日、広島着、帰京途上、尾道に立ち寄っている。玉蘊と会ったかどうか分からない。
 同年九月、玉蘊は広島に滞在。二十二日、杏坪が尾道に帰る玉蘊のため送別の宴を開いた。その席に春水・静子夫婦が同席している。不実な息子山陽に成り代わっての贖罪の念が籠められていたものと思われる。

 文化十二年十月五日、茶山は尾道に女画史(玉蘊)及び山田を訪ね、油屋で昼食後、亦た来た女史と出会っている。
 文化十三年(一八一六)一月十一日、茶山の日記に「玉蘊女史、其の良人鶴鳴を携えて来り,二物を恵む」

 文政二年(一八一九)二月、「西遊記」の旅を終えた山陽は母静子を伴って上京途次、尾道に立ち寄り、竹下の求めに応じ、「題玉蘊画」を記す。五月十三日夜、山陽は母を広島まで送った帰り、広村に立ち寄り、そこから舟で尾道へ。この折、「為女玉蘊題其所弆古鏡」を詠み、翌年、竹下への手紙にこの詩を紹介している。所々錆びついた古鏡に山陽との恋に破れた玉蘊を孤鸞として配し、玉蘊の傷心を憐れんでいる。

  為女玉蘊題其所弆古鏡

 背文緑繍雑珠斑  背文緑繍 珠斑を雑う
 猶覺銅光照膽寒  猶覺ゆ銅光膽を照らして寒きを
 一段傷心誰得識  一段の傷心誰が識るを得ん
 凝塵影裡舞孤鸞  凝塵影裡孤鸞舞う

 茶山はすでに廉塾で良人白鶴鳴の訪問を受けていることから、「孤」の表現を「要らぬお節介」として挑発している。
 文政八年(一八二五)八月、賴杏坪らが編纂した「藝藩通誌」百五十九巻が八年の歳月を費やして完成した。その中に、菅茶山、江芸閣(清国の商人)、賴杏坪の三人が玉蘊が生涯大事にし手放さなかった古鏡の歌を掲載した。

 就中、杏坪のそれは長編古詩(三十聯)なので、紙面の都合上、要約すると、「かって尾道に豪商がいたが、没落。品格のある「古鏡」だけが残った。落ちぶれた玉蘊という娘が母に仕え独身(杏坪は彼女の結婚は知っていたはずであるが、それを頑として認めたくなかったようである)を通している。年を経るにつれ彩色画の技が冴え、その名声が全国に轟くようになっている。白い華奢な手でよくもあんな力強い絵が描けるものだ。

 時期を同じくして亀山士綱によって編纂された「尾道志稿」には賴山陽も前述の古鏡歌を寄稿している。
 結婚運にこそ恵まれなかったが、こうした多くの著名人に讃歌、否、応援歌を贈られ、寛政二年(一八五五)六月二十日、六十九歳の生涯を閉じた。歿後、尾道持光寺の墓石は初恋を裏切った山陽の依頼で宮原節庵が筆を執っている。        (本会理事)

参考図書「賴山陽と平田玉蘊 池田明子 亜紀書房 一九九六年」
      「賴山陽と女弟子たち 北川勇 昭和六十年」
   「茶山先生に学ぶ講座」収録集

①九月七日 於 神辺中央cc
 「菅茶山と黄葉夕陽村舎」           
講師 西村直城氏


はじめに
・菅茶山 「茶山」の読み方。「サザン」説もあるが、地元での通説「チャザン」を尊重したい。主として通称「太中」は書簡に、名の「晋帥」は署名に使用している。
・儒学者・漢詩人・教育者と呼ばれる茶山だが、詩集「黄葉夕陽邨舎詩」は出版前から「早く詩を見たい」と評判だった。中国でも北京・首都師範大学趙敏俐教授が高く評価、最近、中国語版を出版しているほどである。
・黄葉夕陽村舎については「日本教育史料」(文部省編 明治23~25年)「私塾寺子屋表」では名称を空白にしているが、儒学を教えていたことから私塾と区分すべきである。
・開業、天明元年。廃業、学制が発布された明治六年となっているが、明治七年説や明治中途まで教育活動がなされていたと思われる。

黄葉夕陽村舎開く
・天明元年(一七八一)頃、茶山34歳
・「黄葉夕陽村舎」は「黄葉山の西側山麓」
の意。
・最初、寺子屋と大差がなく、「小児共相集め素読等仕り候処」(神辺閭塾記録)であった。

郷塾「廉塾」へ
・「自分だけでいつまでやっていけるか将来を懸念、宅地、建物に田畑も添え、経費も自己負担するから郷学にして欲しい。」と藩へ願い出る。
・藩が許可。学問所支配世話人によって運営。廉塾、神辺学問所と呼ばれるようになった。

塾生の生活
・飯料と書籍代(年四両二分)。
・寮生活が基本。茶山の人柄と名声を慕い全国から塾生が集まった。
・金銀は預けられ、必要に応じて手渡された。
・在塾期間、二、三年。

廉塾の講義
・四書五経。漢籍の講釈。
・毎年正月十日に始業。
・月に六度の詩文会。

茶山の学問観
・学問による乱れた社会の再建。
・学種(塾生・講師とも)を絶やさないようにする。
・講師は徳行を第一とする。
・算(術)は日用の事。茶儀は少しは教うべく候。
・読書のみ学問にあらず。自然科学、考古学にも、関心を寄せている。

郷塾とする意義
・塾を永久に存続させる。
・親方日の丸的な意図は微塵もない。貢租の免除。自分の扶持も運営経費に充当。
・学問の種を絶やさない。
・大方の上方志向と異なり、神辺に開塾したのは、地域に根ざし地域を担う人間づくりを指向したからである。

廉塾の経営基盤
・塾田の利米、福府義倉から儒学料の援助、藩から茶山への扶持(二十人扶持)により講師料、書籍購入費、修繕費などを賄う。(写本を含む蔵書は約5000冊。長崎に注文。)
・経営の才があり、文政三年(一八二〇)には塾田畑を三町三反五畝二十九歩に増やしている。また、「備後国名勝箋」(便箋)なども販売、経営の多角化を進めている。

文人が集う場所
・自然発生的に廉塾が地方の文化センンター的拠点になった。
・茶山の名声と人柄を慕って全国から多くの文人墨客が面会を求める。人好みをせず、変わり種の高山彦九郎、近藤重蔵などとも交流している。
・柴野栗山に倣って、文化二年~万延元年(一八六〇)「菅家往門録」を置き、来訪者に姓名など記録させているが、昭和六年、徳富蘇峰・秀子の署名が残されいる。

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  徳富蘇峰の「廉塾訪問記」
    大阪毎日新聞転載記事   武村 充弘
 
昭和六年十月十七日、徳富蘇峰氏は神辺と福山を訪問した。その時の氏の感想が、同年十一月十一日、十二日発行の大阪毎日新聞に掲載された。得能正道氏(備後郷土史会)が「備後史談」(第七巻第十二号)にその新聞記事を転載されているので紹介する。

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 福山駅には重政神辺町長、及び諸有志に出迎えられ、直ちに神辺町に赴いた。秋晴れに村社の祭礼日とて、途中は世間の不景気を裏切りて賑わしかった。米のなる木の側には、浴衣の若者の担うたるお神輿が左右に動揺し、烏帽子朱衣の神官は人力車にて随従した。

 神辺は竹原と同様、予にとりては久しき憧れの地だ。明治二十七、八年戦役、予が東京と広島大本営とを往復の際、故森田思軒君から、神辺の菅氏に当てたる添書を受け取りつつそのまま往訪を果たさなかったが、今回初めて茶山先生の所謂夕陽黄葉(黄葉夕陽)村舎を見舞うを得たのは、予にとりて三十年振りに古借銭を払うたる気持ちがした。

 神辺は予想したよりもその町並みが整うていた。予は正直のところ肅然たる寒村であろうと想うたが、田舎町としては先ず中以上であろう。しかし、先生の夕陽黄葉(黄葉夕陽)村舎は、その門は町の街道に面したるも、その住宅即ち廉塾の跡は奥へ引き込んでいる。
 時はあたかも晩秋だ。日はすでに晩景だ。如何にも夕陽黄葉(黄葉夕陽)村舎を訪ねるには好き頃合いだ。ただ当日は十月十七日の午後で、今三週間の後、十一月中頃ならばなおさら好かっであろう。
 屋敷は五百坪乃至七八百坪、とても千坪はあるまい。家はいかにも質素だ。

 山陽先生が、「野橋分径斜通市 村塾臨流別作家」の状態は、今なお百二十四歳を隔てて依然たる光景だ。而して「秋圃日喧生菊気 午林風定起禽声」の句に至りては、あたかも今日の光景そのままだ。茶山先生手栽の五柳の一株は、老大ながらも繁茂してその葉は疎黄を帯びている。籬の菊、庭の柿、圃の野菜、何れも茶山先生当時と何らの相違はない。相違はただ先生その人を見ざるのみ。

 塾と住宅との間を貫流する小渠の水は、流れはいるが附近の染め物屋に煩わされてその清澄さを失うた。然も老先生と山陽先生とが、これを隔てて相対し、吟嘯し、読書し、応酬したる光景は端なく活現し来るものがある。
 家屋は質素なれども、如何にも率のない気の利いたものだ。茶山先生その人の性格丸出しという可きものであろう。我等は先生の遺室に入り遺物を拝見した。その中にも訪問名簿は実に奇中の奇、珍中の珍であった。
 簿中には名士が直筆にて、宿所姓名、及び訪問の月日、時としては感慨も記している。梁川星厳、紅蘭夫婦の記名は紅蘭女史の筆であろう。また、田能村行藏、高椅草坪の名があった。古賀毅堂のには、大酔して去るとの文句が添えられてあった。更に意外であったのは、村田四郎左衞門、即ち清風先生の名があったことだ。

*徳富蘇峰(一八六三~一九五七)評論家。熊本県生まれ 蘆花の兄 同志社中退後自由民権運動に参加 後民友社設立 日清戦争後は政府と結び国家主義の鼓吹者となる。

*村田四郎左衞門(一七八三~一八五八)。
簿中に「文政七年五月十五日 長門 村田四郎左衞門 名将之 字士則 号紫冥」と記されている。長州藩士。祖父の時代から代々、藩の財政実務担当者。藩主毛利敬親の時、登用され、思い切った藩政改革を行い、莫大な藩債の解消に努めた。長州藩の松平定信といわれ、吉田松陰、周布政之助、高杉晋作らが、その影響を受けた。

*記事中、蘇峰の「意外感」とは何か。茶山往問目的であれば、「立派な経済学者であった」(本会報21号「秋堂先生遺稿より」)偉大な先輩茶山に、自らの財政再建手法に助言を求めようとしたのではろうか。
*記事中(黄葉夕陽)は新聞社の注。字体、仮名遣いは現代用法に改めた。(本会会員)
 ②九月二十一日  於 神辺中央cc
 社倉から福府義倉へ~茶山の相互扶助~
  講師 芸備近現代史研究会 佐藤一夫氏

 「廉塾」入口の案内板に「菅茶山は困窮時に供えて米麦を蓄えておく『朱子社倉法』を実践した社会事業家でもあった。」とある。儒学者、漢詩人、教育者であるとともに、社倉・「福府義倉」の設立に関与した社会事業家であった。過日、開催された菅茶山記念館第二十一回特別展「菅茶山の思想とその親交」と併せて、その実像に触れてみたい。

時代背景
・幕府の軍事的・経済的優位を維持するための施策(参勤交代など)で、諸藩は財政が窮乏。農民から苛斂誅求の搾取を繰り返した。その上、度重なる天災飢饉のため、福山藩にも百姓一揆が頻発した。

府中社倉から福府義倉へ
・福山藩は他藩の例に倣って、享保二十年(一七三五)、民間の有志による救恤(富籤、炊き出しなど)を経て、天明八年(一七八七)府中社倉、寛政八年(一七九六)に千田村宝講、「福府義倉」が創設された。「義倉」は茶山が名付け親なので、藩も粗略に扱わなかった。
「義倉規則」(明治七年改正)は、教育、殖産事業補助の方針を打ち出している。

茶山の社倉
・「郷塾取り立てに関する書簡」「菅太中存寄書」「茶山先生菅君之碑」「茶山詩」などから、その存在を知ることができる。

   窮 隣
 
 擬頒斗米賑窮隣  斗米を頒って窮隣を賑わさんと擬し
 自笑山厨未太貧  自ら笑う山厨未だ太だしく貧ならざるを
 事変歓虞三世治  事変 歓虞 三世の治
 病深草莽五朝臣  病は深し 草莽 五朝の臣
 社前林麓偏含雨  社前 林麓 偏えに雨を含む
 蝗後村閭亦入春  蝗後 村閭 亦春に入る
 慚我救荒無異術  慚ず我荒を救わんとして異術の無きを
 半生辜負読書身  半生辜負す読書の身
   菅太中存寄書

 凶年に晋帥頭取いたし、自身三苞を出し、志ある人をすすめて同しく出させ、村中に贈せしこと二次ふたとせ也、寛政後は農穣つつきてやめたり

  茶山先生菅君之碑(抜粋・読み下し文)
  ・・・天明の飢荒、先生私蓄を出して、里豪に率し賑救する者再び、・・・
 ③九月二十九日 於 ふくやま文学館
  備前・大森黄谷画「黄葉夕陽村舎」図
      講師 福大人間文化学部 柳川真由美氏

 福大文化フオーラムで、備前国大森黄谷(一七八六~一八五二)の「黄葉夕陽村舎」図が紹介された。
柳川氏は「地域文化と旅する文人」をテーマに大国家(岡山県和気町)の文書を調査研究中、
同会誌「光基」(発行責任者菅波哲郎氏)の論考「大森(おおもり)黄谷(こうこく)『(「)済勝(さいしょう)漫録(まんろく)」の追体験』に学んだ。

(写真 大森黄谷画「黄葉夕陽村舎」図

 件の論考によれば、文政六年(一八三五)八月末、大森黄谷は岡山藩士中村(なかむら)嵒州(がんしゅう)と長崎へ向かう旅道中記を書画で綴った。
九月二日、黄葉夕陽村舎を訪ね、「二夜宿」。その時に「黄葉夕陽村舎」と刷り込んだ箋に「山水画」(写真上)を描いている。

④十月十九日 於 神辺本陣
  菅茶山の居宅と塾・廉塾の由来
     講師 郷土史家 菅波哲郎氏

 菅茶山関係の文献「元来拙者も自宅にて出勤いたし候へ共、(文化四年(一八〇四)、失火類焼の後塾ニ居候なり」(菅太中存寄書)などから、現在の「国特別史跡廉塾並びに菅茶山旧宅」以前の別の居宅があり、その一部に「金粟(=木犀)園」という別の塾を開いていた。
塾名の木犀は朱子学を大成した朱熹に肖って庭に植栽したものと思われる。失火以前の居宅は山陽道を挟んで筋向かいの西南、現在の駐車場付近一帯辺りと考えられる。

 次に、廉塾の「廉」の由来について書き記された文献は見つかっていない。菅波氏は先年の中国旅行での見聞を基に次のような推論を下している。
朱熹(別号紫陽)が教えた白鹿洞書院(中国江西省廬山)内には、「紫陽手植丹桂(木犀)碑」のほかに、岳麓書院講堂(中国湖南省長沙)には、朱熹筆の「廉節」(=清く正しい節操)などがあることから、朱子学を奉じ、幕府儒官、柴野栗山、古賀精里、尾藤二州、それに西山拙斎、賴春水らとともに(「寛政異学の禁」実現に尽力した茶山の教育方針(其の経を説くに、一に伝註に循い、自ら異説を立てず)を名実ともに示唆したものと考えられると。

(以上、①~④講演要旨、いずれも文責編集子)
   菅茶山顕彰会、県文化財協から表彰
   地域文化振興に尽力

 昨年十一月十六日、県文化財協議会から本顕彰会が」団体表彰を受けた。広島大学千田校舎で行われた式典では賴禎一代表から鵜野謙二会長が会を代表して賞状を受け取った。

 本会は昭和六十二年(一九八七)発足以来、菅茶山の歿後祭(のち生誕祭)や記念講演会の開催、会報誌や訳注本の発行など、菅茶山の遺芳・遺徳を顕彰する幅広い活動を続けて来た。また、菅茶山の詩の世界を絵で表現する「茶山ポエム絵画展」を二十年以上続け、神辺町内を中心に多くの児童・生徒が菅茶山の遺芳・遺徳に触れる機会を作るなど「地域文化の教育・普及に尽力している取り組みが評価された。
(写真 鵜野会長に表彰状授与)



 山ポエム絵画ミクロネシア親善旅行
  ポンペイ島の子どもたちと交流


 昨年十二月二日から丸一週間、茶山ポエム絵画二十二点がミクロネシア連邦の幼稚園と小学校を訪問した。引率は笠岡市在住の羽原美代子さん(ミクロネシアポンペイ島小学校支援の会代表)。帰国後、鵜野会長宅を訪問された羽原さんから寄せられたその報告と礼状を紹介したい。

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茶山ポエム国際交流展に参加して
           羽原 美代子
 
 ミクロネシア連邦は西太平洋赤道より北にある四つの州を持った国です。その中の一つポンペイはポナペとも呼ばれ、大小二十五の小さな島々から成る州です。その中心となるのが首都パリキールのあるポンペイ島で、直径二十粁ほど、因島と同じくらいの島です。
ポンペイには約三十の公立小学校があります。小学校は一年生から八年生まで、日本で云えば、一年生から中学校二年生までです。

 私達はそれらの中で四つの小学校と一つの幼稚園を訪問します。今回、菅茶山顕彰会のご好意でお借りしたポエムコンクール入賞作品はアワック小学校RSPソーケス幼稚園で紹介しました。これまで数年間、この二カ所に私達はクレヨン、絵の具等の支援をしています。ポンペイの公立学校には絵の授業がないからです。音楽の授業もありません。

 絵を紹介する前に、簡単にコンクールの説明をしました。「二百六十五年前、日本の学者である菅茶山は、多くの詩を残しました。その詩をイメージして絵にしたのが、茶山ポエムコンクールです。」と。
次に、絵のテーマを共通語の英語で話し、先生がそれを現地のポンペイ語に訳します。
訳さなくても分かる絵と、絵には感動しま内容が理解できない絵もあります。
大海原に沈む雄大な「夕日」は日頃見慣れていますが、特に、日本ならではの四季折々の変化に彩られる「花と和尚さん」、「ホタル」「雪」などは、高温多雨、マングローブ林の生い茂る現地では別世界です。
それは文化や生活環境の違いによるものです。情報の少ない子ども達に少しでも異文化に触れる機会を提供する意味でも沢山の絵を見るお手伝いをしたいと思っています。今回お借りした絵は、子ども達はもちろん先生にも刺激があったように思われます。
これまで福山市立光小学校、駅家東小学校、笠岡幼稚園、それに個人有志の絵などお借りし絵画展を開いてきました。
年を重ねる毎に、一本の筆、一枚の紙、絵を描く手段すら知らなかった子ども達の絵に少しずつ変化が現れていることに気づき喜んでいます。先生の説明に、子ども達からはため息が出たり歓声が出たりしました。

 来年は、クレヨン、クレパス、ペンテルを贈る準備を進めています。併せて、皆様には、現地へ置いて常日頃子ども達の目に触れる絵、現地へ贈る絵のご協力も願えればと思っています。

(写真中 羽原美代子氏)

今回は、ご無理を聞き届けて、大切な絵を貸していただきましたことに深く感謝いたします。本当にありがとうございました。
 第三十九回神辺地区小6史跡めぐり
   郷土の歴史文化をじかに見聞

 昨年三月三日、神辺地区小学校6年生四四〇人が神辺ライオンンズクラブ会員の案内で神辺の名所・旧跡をめぐり、故郷の歴史文化を学習した。小学校卒業を前に、次世代を担う児童たちに地元への愛着と理解を深めてもらおうと今年で三十九回目の催行。生憎の雨にも負けず、ガイドの説明に耳を傾けた。廉塾では茶山ポエムの画題や「原詩朗読」でお馴染みの「廉塾」(「原詩 即事」)など在りし日の「菅茶山の世界」にタイムスリップした。

  即 事
 垂柳交影掩前楹  垂柳影を交えて前檻を掩う
 下有鳴渠徹底清  下に鳴渠の有りて徹底清し
 童子倦來閑洗硯  童子倦み來って閑かに硯を洗えば
 奔流触手別成聲  奔流手に触れて別に聲を成す
  「鶴瓶の家族に乾杯」 
    廉塾・本陣など電撃訪問

 NHKの長寿番組、「鶴瓶の家族に乾杯」が昨年の春分の日に収録され、五月二十七日と六月三日に放映された。
 前編は、鶴瓶がゲスト出演の関ジャニ8の村上信五と最初の収録地鞆の浦で顔合わせ。その後、鶴瓶は廉塾を訪れ、偶々居合わせた鵜野謙二・雅子夫妻らに初対面。

後編は鵜野夫妻や近隣の人々に付き添われ、大講堂東側の竹縁と方円の手水鉢を見学。鵜野氏が荀子の「水随方円器」を引用、茶山が目指した廉塾の教育方針と考えられると説明。次いで、閉館間際に駆け込んだ本陣ではボランティアガイド倉田義朗氏が札の間の全国大名の「藩札」など在りし日の大名専用宿舎風物の一端を紹介した。
(写真 鶴瓶の案内役を務める鵜野会長)

 特別展示 菅茶山」
   遺墨作品と文具公開


 昨年四月二十七日から六月十六日までエフピコRimふくやま8階「ふくやま書道美術館」で菅茶山が「黄葉夕陽村舎詩」に収録した漢詩の中、筆墨で遺した作品二十一点と文具三十六点が公開され、生誕二百六十五年の節目に、生涯故郷備後国神辺で全国に学種を蒔き続けた漢詩人の遺墨、初公開三点を含む二十一点を鑑賞した。作品の中には菅茶山記念館も所蔵の「梅」があった。

  梅(九) 

 四野梅開二月天  四野の梅開く二月の天
 吾筇日被暗香牽  吾が筇(杖)日々に暗香に索(ひ)かる
 客来若問吟遊處  客来って、若し吟遊の處を問わば
 多在村橋石澗邊  多くは村橋石澗の邊に在り

 また、有名な健康法を説いた詩も出展された。

 酒人某出扇索書 酒人某扇を出して書を索む
 一杯人呑酒  一杯 人が酒を呑む
 三杯酒呑人  三杯 酒が人を呑む
 不知是誰語  是誰の語か知らざれど
 我輩可書紳  我が輩は紳に書すべし
   かんなべin Good Old Days回顧
   観光冊子・油彩画展・かんなべ百景

 昨春、昔懐かしい両備の観光地の歴史を顧みる二つの取り組みがあった。それに呼応してか、神辺町観光協会が今は見る由もない景色や建物を懐かしみ、「かんなべ百景 散策マップ」(神辺町観光協会十周年事業)復刻プロジェクトを企画中と広報誌「かんなべ浪漫」に発表。

 両備の観光冊子発刊
 平成二十五年三月、観光冊子「両備軽便鉄道に見る歴史のロマン―神辺・駅家・新市の歴史観光トレイル―」(B5版、七〇㌻)を公益社団法人福山市観光協会が発刊。両備軽便鉄道沿線を彩る歴史を平地緑、川島鮎美氏による写真を添えコンパクトに紹介した。執筆陣に本会役員の高橋孝一氏や園尾裕氏が加わっている。

三笠博通油彩画展
 昨年四月二十七日~五月二十六日。「菅茶山記念館特別展―三笠博通油彩画展 郷土の心~素晴らしき神辺」が開催された。今は失われてしまった懐かしい郷土の風景を絵画で紹介。「あらためて地域の文化や歴史を見つめる機会となれば幸い」と主催者の弁。
 菅茶山座像原型塑像がお出迎え
   廉塾見学時にご挨拶を

 昨年十月吉日、神辺宿・歴史まつりのあとから、廉塾西隣の御菓子司谷口屋さんに、菅茶山座像が展示され、廉塾を訪れる観光客の話題を集めている。
(写真 菅茶山座像)













 この座像は、昭和五十六年、地元の彫刻家高橋睦男さんが制作された原型塑像。主の居なくなった工房に取り残されていた試作品を「一人でもたくさんの人に見てもらいたい」と、高橋さんから譲り受け、特製のケースに収め、一時的に当店に預かってもらっている。
人好みをしない茶山翁、江戸在住の刎頸の友、賴春水を偲んだ詩「駅馬門前日来去 幾時能載故人還」さながらに、どなたであれ来塾を心待ちにしていることだろう。
   茶山ポエム絵画展二十年の軌跡
       遺芳を次世代への歩み
 
 「茶山ポエム絵画展」が二十年の節目に、主催団体が、本会から公益財団法人かんなべ文化振興会・菅茶山記念館へ継承されることに伴って、本会会報などを参考資料に、来し方二十年の歩みを辿ってみた。

 淵 源
 茶山ポエム絵画展の淵源は平成四年発刊の「まんが物語 神辺の歴史」(シナリオ構成 中山善照 神辺を元気にする会 三宅真一郎)に遡る。中山氏は備後輩出の数多の文学者の源流を*菅茶山ととらえ、その源流を未来につなげたいとの思い入れから、同書、第八章「菅茶山」で茶山詩を子ども達にわかるように現代語に訳した。

*「茶山、葛原勾当、福原麟太郎、井伏鱒二、木下夕爾と続く系列である。さらに、その孫の葛原しげるとその友人の宮城道雄というふうに流れている。」(郷土の文人達 松岡幾雄 会報6号)
 翌平成五年、これをヒントに、「茶山詩を更に多くの人に、殊に小中高校生徒にふれ親しんでもらいたい」との考えで、菅茶山先生遺芳顕彰会と菅茶山記念館が共催で第一回絵画展(十一月十七日から十二月五日まで)を企画した。
 先ず、中山先生に、児童生徒一般向きに茶山詩八首を選んで現代語訳してもらい、「茶山ポエムの絵を描こう」要項を夏休み前、町内小中高校の先生・児童生徒(五千部)と福山市域の高校に配布。九月末、応募締め切りとした。
その前宣伝として、八月末、神辺公民館で、茶山詩の朗読をベースに、トーク、タップ、和太鼓をミックスしたアトラクション「茶山ポエム イマジネーション・パーティ」が華やかに開催され、マスコミの報道が巷間の話題を呼び、予期以上の宣伝効果をもたらしった。

 軌 跡
☆1993年(平成五年)秋、待望の第一回の応募作品は地域の小中高校生から六三七点。予想を超える収穫であった。八首の詩題(現代語訳)で、最多は「螢」二三五点、次いで「蝶」「夏の思い出」「花吹雪」「花と和尚さん」「山と夏雲」だった。
 審査委員長は只今現在も現役の縄稚輝雄先生(日展会友)。厳正な審査の結果、最優秀賞三点、優秀賞二一点、入賞三五点、佳作三〇点が選ばれた。
菅茶山記念館で全作品を展示、四三四名の入館者が記録されている。ふくやま美術館では廊下展示場に約二〇点が初公開された。

☆1994年 第二回 一六七二点
 第二回の応募作品は前年の約三倍の一六七二点。
☆1995年、第三回 二三一五点
美術館員から作品が秀れていることが認められ、第三回展からはふくやま美術館ギャラリーでの共催展となり、優秀作品約四〇点が展示された。
縄稚審査委員長が「江戸時代の漢詩人が眺めた風物を、現在の子ども達がここに再現しています。こんな素晴らしい活動は日本中探しても他には何処にもないでしょう」と来場者に解説した展示会の幕開けである。

☆1996年 第四回 二八二八点
茶山ポエム絵画展実行委員会事務局岩川千年氏の報告によれば、この年、神辺町立中条小学校でのポエム絵画指導の実践記録が、美術教育専門誌「教育美術」に掲載されるなど、地元教育現場でも大きく取り上げられ、町内医院歯科医院展、ぬまくま町民会館・神石郡三和町公民館でも、移動展が開催された。
☆1997年 第五回 二七五二点

☆1998年 第六回 二六八三点
 菅茶山生誕二五〇年祭のこの年、十月十八日、「町並み格子戸展」が始まった。十日市、三日市、七日市通りの四十軒の民家が快く協力。八十六点の絵画の傍らに、高橋孝一会長手造りの竹筒に、奥様とお嬢様が用意された楚々とした草花が活けられ、展示作品に文字どおり華を添え、今に受け継がれるようになった。

☆1999年 第七回 二六三八点
☆2000年 第八回 二六八七点
この年から年度末の三月に発刊されるようになった本会会報の第八回展の出品校園に、矢掛町矢掛小学校・美川小学校名が連ねられている。
また、特集記事「ポエムアルバム」欄には、1999年の「第六回ふくやま美術館展」「第二・三回かんなべ町並み格子戸展」、それに「かもがた町屋公園交流展」、「県庁ロビー展」、「井原町並み展」の写真が開催順に並べられ、2000年の「第七回菅茶山記念館展」で締め括られている。

☆2001年 第九回 二六四〇点
本会会報特集記事「ポエム広場」欄に、新たに「キングパーツ展」「神辺文化会館展」「やかげ郷土美術館展」「ぬまくま町民ギャラリー展」「井原鉄道沿線ふれあい展」などの移動展が追加されている。
 この年、菅茶山記念館には、最多の二二七二名、ふくやま美術館には一七三五名が展示作品鑑賞に訪れている。

☆2002年 第十回 二七三二点
 これらの中、優秀作品七十点が、「ポエム絵画回顧展」と銘打って廉塾の土塀や七日市上集会所に展示された。 また、鳥取県佐治天文台長香西洋樹氏が一九七六年に発見した六八四六番目の小惑星が「kansazan」と命名・登録されたことを記念して、八月、「格子戸展」に合わせて、初の「茶山ポエム七夕祭り」。竹笹の短冊には町内六小学校児童たちが「茶山の星」への希いを託した。
十月には誠信幼稚園幼児教育研究集会に合わせて、同幼稚園併設の展示ホールで「誠信こども美術館展」が開かれ、中四国や全国各地から集まった二〇〇名以上の教師達を感動させた。

 十周年を経てからの十年間、2010年度 第十七回 三三九三点を最多に、応募作品は毎年三〇〇〇点以上に達している。
今更ながら、約半日、ほぼ中腰の姿勢で、行きつ戻りつ、審査に専念される縄稚審査委員長のご労苦に頭がさがる。 

☆2003年 第十一回 三〇〇四点
 絵と同じ目標で茶山ポエムを音楽に替える取り組みもある。
本会会報に二つの歌が紹介されている。一つは「茶山ポエムの歌」(作詞・作曲 中山善照 合唱・編曲奥野純子)。もう一つは「茶山讃歌 茶山の星」(作詞 中山善照 作曲 高月啓充)。併せて、お馴染みの「わが茶山先生」(作詞 辻みのる 作曲 八丈けい)の歌も忘れてはならない。
ところが、ポエムを物語にするのも興趣画あると思うが・・・。

☆2007年 第十五回 三三七七点 
 この年、神辺町が福山市に編入合併されたのを記念して、初の市役所ロビー展(九月十二日から二十九日まで)が開催され、優秀作品五十点が多くの来庁者の足を誘き留め、生涯郷土神辺に在って、儒学者、漢詩人、教育者、社会事業家として全国的にその名を馳せた菅茶山の存在を再認識させた。

☆2008年 第十六回 三三一七点
☆2009年 第十七回 三三九三点
☆2010年 第十八回 三一〇四点
☆2011年 第十九回 三〇六八点

☆2012年 第二十回 三〇九六点
 二十の齢を重ねた「茶山ポエム絵画」代表団が、2013年秋、ミクロネシア連邦ポンペイ島国際絵画展で大きな節目を刻んだ。

 遺芳顕彰の輪
 菅茶山の遺徳を末永く顕彰する活動は「菅茶山生誕二六三年祭記念誌 菅茶山顕彰の歩み」に詳しい。「茶山祭」「研修会・交流会」「刊行物」「茶山詩碑」「ポエム絵画展」など写真など写真を多く入れたアルバム形式で整理されている。また、ホームページ「顕彰会ニュース」(2001年8月~)も、折々のホ
ットニュースが簡潔に纏められている。

 巨峰菅茶山への取り組みの一環として、本会は「茶山詩話集」(平成四年第一集~平成十年第七集)「筆のすさび」訳注本(平成十五年)、「備後国福山領風俗問状答」訳注本(平成十六年)などのほか、労作「大和行日記(復刻版)菅茶山学習会 平成四年)、「若き日の茶山詩 西原千代 平成二十年)などを刊行している。

 北川勇講演録「茶山詩話」(第五集)で、北川先生は「詩文の真意を探る四通りの手続」として、一、目で読むこと(黙読)。二、口で読むこと(朗読)。これは耳で読むことでもある。三、手で読むこと(書写)。四、足で読んで仕上げる(現地踏査)。要約すれば、謂わば、「全身読書・鑑賞術」を勧めている。

 地元及び近隣の保幼小中高校生を対象とした「茶山ポエム絵画展」と併せて「原詩素読」「茶山ポエムミュージカル」「茶山詩コンサート」「史跡めぐり」など営々として継承されている視聴覚教育・体験学習など総合的な学習への取り組みの輪・絆こそ二昔前の児童生徒が中軸に成長している現在、更には将来へ向けての消えずの燭光であり願求そのものである。

 エピローグ
 結びに当って、折りに触れてのマスメディアの報道、一般市民や深安地区医師会、公益財団法人渋谷育英会、義倉財団、神辺町、神辺ライオンズクラブなど諸団体の物心両面にわたる支援に背中をおされ今日に至っていることに、深甚の謝意を表したい。
 教育界でも、強い関心を寄せている。2002年には福山教育事務所管内市町村教育委員会の教育委員並びに社会教育委員視察があった。2003年、常磐豊広島県教育長の廉塾視察も、その証左であろう。

学術的にも、安田女子大学大西道男教授が茶山ポエム絵画展を「地域ぐるみの古典鑑賞教育実践」として、高く評価、日本国語学会(機関誌「月刊国語教育研究」NO.363号)の論文に発表(ホームページ「顕彰会ニュース」(2002年7月参照)して久しい。
地道な継続こそ力、それにさらなるイノベーションの取り組みがきっと将来への夢を拓いてくれるだろう。

   2013年度茶山ポエム絵画展
   文化振興会などがバトン受け継ぐ

 一月十一日(土)、菅茶山記念館で、装い新たに本顕彰会からバトンを受け継いだ第二十一回茶山ポエム絵画展の表彰式が行われた。
関係中小学校長など来賓や会場一杯に詰めかけた保護者などが見守る中、最優秀賞に輝いた子ども達が、一人ひとり、吉川公益財団法人かんなべ文化振興会理事長から表彰状と記念品を受け取った。

 最優秀者を代表して、諏沢璃子(御野小学校一年)さんが、「小学校に入学して以来、始業前、全校一斉に、茶山先生の原詩の素読をしている。今回は先生のポエム絵画で最優秀賞をもらって大変うれしい」と全身に喜びを溢れさせて謝辞。
なお、諏沢璃子さんの作品「蝶」は今年の世界児童画展出品作品に推薦される。

(写真 最優秀賞作品ポスター)

*主催 公益財団法人かんなべ文化振興会 菅茶山記念館
*後援 菅茶山顕彰会  神辺美術協会  福山市教育委員会  深安地区医師会

*「詩題(原題)」現代語訳者
 ・「梅(画山水)」中山善照・「晩秋スケッチ(秋日雑詠)」中山善照・「蝶(蝶七首)」中山善照
 ・「冬夜読書(冬夜讀書)」岩川千年・「夕日(所見)」中山善照・「朝景色(路上所見)」矢田翠
 ・「廉塾(即事)」武村充大・「螢(螢七首)」中山善照・「月を迎える(所見)」・矢田翠
 ・「雪の日(雪日)」本安俊三・「天の川(雨後)」矢田翠・「花と和尚さん(聯句戯贈如實上人)」中山善照

*出品校園 19校園
 ・誠信幼稚園・神辺千鶴幼稚園・南部保育所
 ・神辺小・竹尋小・御野小・中条小・湯田小・道上小・戸手小・桜丘小・府中市栗生小・旭小
 ・神辺中・福山中・城南中・城北中・中央中・誠之中・銀河学院中

*出品点数 3011点  ・幼稚園  122点 ・小学校 2640点 ・中学校 249点
*入選点数 入賞総数 600点  最優秀賞 8点  優秀賞 121点 入 選  471点

*各学年別最優秀賞受賞者・学校名・詩題
 ・那俄性琉偉(誠信幼稚園)蝶
 ・諏沢璃子(御野小一年)蝶
 ・木村実愛(御野小二年)ホタル
 ・川井裕斗志(湯田小三年)ホタル
 ・山中裕翔(神辺小四年)ホタル
 ・北村竜馬(中条小五年)夕日
 ・猪原颯太郎(竹尋小六年)冬夜読書
 ・馬場真樹也(城北中2年)廉塾

*作品展示計画
 ・菅茶山記念館展 入選以上600点  1/11(土)~2/2(日)
 ・各地移動展・特別展(随時)
 お詫びと訂正
本会報23号の記事に次の誤りがありました。お詫びして訂正します。
6㌻上段 誤「朧月」→正「臘月」
9㌻上段 誤 石灯籠寄進者「宮太柱藤原誠之連名」→正「・・・連名」(削除)
⒚㌻下段 誤 藤原尚美さん(城南中学校二年)→正 吉岡璃乃さん(竹尋小学校六年)
編集後記

◇茶翁、傘寿、伏沈中の詩「元日」の結聯「和鳴連作報春聲」。希望か祈願か。来し方、簡潔な詩語に凝縮された内奥に迫りきれぬもどかしさに猛省しきり。
◇さりとて、取っつきにくい茶山詩・筆墨抜きに茶山は語り継げそうにもない。様々な手法で永続的に次世代を担う児童生徒から現世代を支える人々へ継承される取り組みもその一つである。
◇人は到底、ひとりで立つこと能わない。幸いにも、本号も新旧の寄稿者・写真家、それにありがたいことに毎号、斧正を寄せられる読者の皆様の「輪」に支えられ、無事、発刊に漕ぎ着けることができた。
◇支援者の皆様に満腔の謝意を表するとともに、茶山詩の諸処に詠み込まれている未来志向に背中を押され、チャップリンの謂う「Next One」に夢を繋ぎ止めたい。

◎会報編集部
 上 泰二(福山市神辺町湯野23―8)
  ℡・Fax(084―962―5175)
◎顕彰会事務局
 武田恂治(福山市神辺町西中条2115)
  ℡・Fax(084―967―1172)