顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報25号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました(写真以外)
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。

写真朗読劇「天明の篝火」一場面
   朗読劇「天明の篝火」
  神辺ふるさと会らが熱烈後援

昨年三月十六日、神辺文化会館大ホールで、藤井登美子原作・大元光代脚色・演出の「天明の篝火」の朗読劇が上演され、収容定員を超える八百有余名の観客を感動させた。

 神辺が福山市に合併されて八年、誇りうる郷土の財産の風化を防ごうと地元教育・文化・観光団体が義倉財団の支援を承け、「神辺ふるさと会」(会長 高橋孝一)を結成。その二か月後の結成記念公演。
会長が、「江戸時代、かんなべという小さな邑落で、衆望を背に死罪覚悟の上、百姓一揆の指揮を執った義民が五名も出たことを誇りに思う。この劇を観て、是非、家の人や子ども達にも伝えてほしい」と開演のあいさつ。

冒頭、詩吟「天明の飢饉」(藤井游作 吟詠 橋本征竜師範)など劇の時代背景、梗概、主人公を漢詩三題で紹介。

   徳永徳右衛門   瀬尾杜石
 常時 衆を慈しみ 荒饑を患い
 熟慮 敢為 才幹を揮う
 苛斂誅求は 篝火を烘す
 仁彊の義士 春暉に浴す


 未曾有の天災と為政者の失政で窮乏、進退窮まった備後福山藩五郡の全農民、約五万人が一斉に決起した。足かけ二年に及ぶ天明の一揆を一人の犠牲者も出さない類い希な戦術で、見事勝利に導いた徳田村の庄屋 徳永徳右衛門に、儒学者 菅茶山、 義倉創設者 河相周兵衛、恵蘇郡の義民 川北左衛門の孫と噂される茶山の弟子 新四郎を配した歴史物語。

地元の吟詠家、蔵王はね踊り保存会、フルート奏者、福山市立湯田小・南小学校児童、福山市立大学生、各種文化団体有志などオールスターキャストで熱演。
江戸表から放たれたと思われる刺客に闇討ちに遭い、臨終間際、駆けつけた周兵衛らに息も絶え絶えに「百姓衆のためにも、わしの死を病死とするように」と言い含め息を引き取った徳永徳右衛門。フィナーレに、瞼を熱くする人も。
成功裡に旗揚げ興行を締め括った。
  福山藩の治山・治水
   福山大学名誉教授 尾島 勝
 
 戦国時代が終り、日本国の政治・経済・社会が安定したのは、江戸幕府が生まれて士農工商の身分制度が確立し、いわゆる中央集権の社会が動き始めてからであろう。
 先史時代より国づくりに秀でた傑物は沢山いるが、近世・近代に於いて名を残した傑物も多い。福山藩にも傑物がいた。

 私は京大で土木工学を学び、卒業後は特に河川工学、地下水工学に係る研究に従事してきた。住まいは備前国岡山市であるが、職場は備後国福山市である。仕事柄、芦田川との付き合いは早や三十年近くになる。

 傑物・水野勝成は、一六一九年(元和五)、備後の地に転封され、この地を福山と呼称し、こうもり山に城地を定め、築城に着手した。二代目勝俊は、一六三九年(寛永十六)に藩主となり、父勝成の政治を引き継いだ。その第一の目的は国づくり(干拓)であった。

 福山平野芦田川流域の特性は、意外に脆弱な風化花崗岩地と変動の激しい降雨条件によって、上流部から土砂流出量が極めて多い河川である。
江戸時代の洪水災害は一六〇〇年代は五回、一七〇〇年代は二十一回、一八〇〇年代は十四回を数える。特筆すべき大災害は、一六七三年(延宝元)五月十四日に始まる梅雨長雨であった。高屋川支流堂々川の氾濫により、国分寺・国分尼寺の流失、芦田川の大洪水による青木端堤決壊、城下町水没、中世に栄えた草戸千軒町の埋没、この遺跡は以後おおよそ四百年、歴史からも消えていた。

 福山藩の国づくり(干拓)は、寛永年間から始まり、慶応年間まで綿々と続いた。すなわち、およそ二百五十年間、治水工事と土地造成が続けられたのである。

 勝成の町づくりのもう一つの根幹は、飲料水の確保であった。町は干拓された新開地であるから、井戸を掘っても真水は得られない。そこで、勝成は城づくりと同時に水源を城の北西約二十町(二・二㌖)の本庄村高崎の地の芦田川本川に求め、清流を引き、一条の開渠を堀り、城の西方の池に導いた。これが現在の蓮池であり、面積は約一・二㌶であり、水量調節と同時に不純物を沈殿させる浄水池の役目も兼ねた。この蓮池の水は調節樋門を通り、城の周りにある武家屋敷及び商家などにも給水された。幹線(旧福山水道)となる水路網は長さは約三里半(十四㌖)にも及び、各戸に配水される仕組も考案されていた。

 さらに勝成の目指す長期政治の根幹は、石高の確保、すなわち、農業水利・農地開発であった。府中五ケ村用水井堰の構築である。一六三一年(寛永八)に勝成から総奉行に任じられた神(かん)谷治部(やじぶ)の指揮の下に、町村、広谷村、府川村、高木村、中須村の庄屋達によって、一六二四年から二十年かけて完成させたとされる難工事であった。芦田川の右岸側から三本の粗石積み斜め堰が左岸側まで延びていた。恐らく大洪水の度に改修を繰り返したものであろう。

 例えば広谷村の知行高は勝成入封時は四百七十八石、勝成自身による検地では五百九十二石であったが、一七〇〇年(元禄一三)の備前藩主池田綱政による検地では八百二十四石に増加している。この時の福山藩全体の石高は、十万石から十五万石に増加している。また、一六四三年(寛永二十)には神谷治部に命じて、服部川を堰止めて周囲四㌖、面積十七㌶のため池(服部大池)を造らせ、下流の農地の農業用水を開発した。勝成は隠居後も勝俊の治水・干拓事業を陣頭指揮、八十八歳まで生きた。

 さて、最後に福山藩の治山・治水の主題としての砂留めについて記す。
 徳川幕府は、漸く政治が安定して山林保護・治水対策を「掟」として定めた。四代将軍家綱は一六六六年(寛文六)二月に「諸国山川の掟」を発布、五代将軍綱吉は一六八四年(貞享元)三月に「再度山川の掟」を発布した。幕府よりおおよそ二十五年も先駆けて、岡山藩の池田光政は一六四二年(寛永十九)に「かくひ堀り」停止令を出し、山林保護を命じた。
 福山藩では、一六四一年台風による土砂大災害、一六七三年の梅雨大雨による未曾有の大災害、一七〇二年風水害、一七〇八年大洪水、一七一〇年芦田川浚渫、一七一二年大洪水と混乱が続いた。
 目を日本国に転ずれば、一七〇七年(宝永四)十月四日大阪大地震(M八・七)、圧死者三千人、津波死者一万人、同年十二月十六日、富士山大噴火、宝永山誕生など、天変地異が全国に及んだ。
 写真 堂々川六番砂留











 このような地域社会の混乱が続くなか、福山藩では、一六九七~九八年(元禄十~十一)にかけて神辺東中条村において、砂留実施計画が起こった。しかし、その計画は藩の都合により、一七七二年までの二十数年にも及ぶ長期にわたり延期された。享保の改革を進めた八代将軍吉宗(一七一六~四四)の時代になり、福山藩主が八代阿部正福に変わり、治山・治水のための土砂留めや川除け普請が積極的に行われることになる。「東中条明細帳」によれば、一七三四年(享保十九)までに十七基の砂留、「西中条誌」には十六基、「湯野村誌」には十七基が記録されており、うち四十基はすでに確認済みである。
 福山藩には他所にも砂留群が数多く発見されており、芦田町福田の別所砂留群は最大級であり三十六基が調査済みである。

 平成九年に広島県土木建築部が発行した「福山藩の砂留め」によれば、福山藩の砂留築造の技術的指導者が誰かということは明確ではないとしている。しかし敢えてその名をあげるとすれば、菅茶山に師事した神辺町川北の人、漢学者藤井暮庵であろうとしている。    
                  (芦田川下流水質浄化協議会会長)
  山陽の額 
   「野島泰治遺稿集」より
             武村 充大


 福山市役所神辺支所のロビーに、五人の元名誉町民の肖像写真が掲げられている。
 その中の一人、野島泰治先生は、日本のみならず世界でも有数のハンセン病医師として知られている。
 因みに、先生の略歴をたどると、・明治二十九年十一月十日 安那郡川南村(現神辺町川南)に出生
・大正三年 福山中学(誠之館)卒業
・大正十年 大阪医科大学卒業。その後医師として各地で勤務
・昭和三十八年 国際らい学会正会員。第八回学会へ出席。日本らい学会会長
・昭和四十三年 国際らい学会(ロンドン)出席、途中ローマ法王に謁見
・昭和四十五年 三月三日、逝去(享年七十三歳)従三位勳二等旭日重光章受章
・昭和四十五年 神辺町名誉町民(その後合併により福山市名誉市民の称号を贈られる。

   ***   ***   ***
 過日、M氏から、野島泰治遺稿集「祈る」(昭和四十八年(一九七三)野島富美発行)を拝借した。
 この遺稿集は、野島泰治先生がハンセン病医師として、多くの障害を克服しながら世界各地のハンセン病患者を訪ね、国際学会へ参加し、ハンセン病医学の交流に努めつつ、患者に「慰めと力づけ」をされた海外紀行文である。

 西村真二氏(元大阪大学教授)は「序文」の中で「古代から現代に至るまで世界人類を悩まし続けたらい病が、地球上から消え失せたあかつきには、日本のらい医師が書き綴った世界のらい病史として人類文化史の一ぺージを飾るものとなるであろう。」と書かれている。
また、序文の後半に、野島先生のエピソードとして「賴山陽書簡のいきさつ」という一文がある。その大略は次のとおりである。

 西村氏は当時、大阪大学ハンセン病研究部の責任者として、大島青松園野島園長らとともにハンセン病の研究をされていたので、毎月大島を訪れ園長官舎へ泊めてもらうこともたびたびあった。 
あるとき、当時阪大病院長であった佐谷氏と一緒に官舎に泊めてもらった翌日、佐谷氏が「西村君、これまでこの座敷に大事に掲げてあった賴山陽のあの有名な書簡がもうなくなっているだろう。あれは野島君がローマへ出掛けた時の借金を返し、そのお礼として某篤志家に差し上げてしまったんだよ。」とポツンと語られたのを思い出した。西村氏は野島先生の歿後、その「賴山陽書簡についてのいきさつ」を富美夫人に問い合わせたところ、次のような返事に接したという。

「賴山陽は神辺廉塾の塾頭をしていましたが、
若い頃なのでよく笠岡あたりへ夜遊びに出掛けていたため、茶山先生に勘当されました。
破門された山陽は、塾の襖に「山は凡、師は愚、川もつまらない川だ」との意味の詩を残して出奔したそうです。私の家にありました額の手紙は、その勘当が許された時の山陽の謝辞で、お酒一樽を添えて御礼として添えております。

 この手紙が野島の郷家にありましたのは、茶山の子孫の方が、ある日、古手紙などを焼き捨てようとしている所へ、野島の父や村の有志の人が行き会わせ買い受け取ったものということです。その中に山陽の手紙も数あったそうで、その一つを主人がもらって島に持ち帰っていたものです。主人は帰国後、某氏からお借りしていた旅費をお返しした折、家の中で一番価値があると思うこの『山陽の額』をお礼に差し上げた訳です。」(「 」内は原文どおり)
 野島先生のお人柄を偲ばせるエピソードである。

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 平成二十三年五月二十二日、ハンセン病補償法施行十周年を記念して、患者への追悼や国の反省の言葉を刻んだ石碑が、厚労省前に建立され除幕された。(本会会員)
  菅茶山顕彰会定例総会
   備後国分寺横山師が記念講演

 平成二十六年度菅茶山顕彰会定例総会が昨年五月二十一日(水)備後国分寺で開催された。国分寺所蔵の「茶山書屏風六曲一双」(注*綾瀬舟遊即事三首ほか)を背に、鵜野謙二会長が就任一年目を顧みてのあいさつ。茶山生誕二六五年祭事業、県文化財協会からの団体表彰受章、茶山関係資料の国の文化財指定など相次いだ慶事に触れ、今年度も本会活動の継承と発展のために会員各位の更なる協力を求めた。

 続いて、議長に武村充大氏を選出。議題①平成二十五年度事業報告及び決算報告並びに監査報告、②平成二十六年度事業計画案及び予算案について審議。原案どおり満場一致で承認された。懸案事項、①菅茶山の遺芳・遺徳についての学習会開催、②菅茶山顕彰会ホームページの継続については今後の理事会で検討することになった。

本堂で記念講演

 総会後、備後国分寺住職横山師による「備後国分寺の歴史と文化」と題して詳細な資料に基づく講演。出席者一同、興味深く静聴した。(以下、要旨&註 文責編集子) 

 天平十三年(七四一)、当時の多難な内憂外患事情を承け、聖武天皇が、留学僧玄昉から唐の寺院制度に学び、金光明最勝王経の理念、国土安穏、萬民豊楽、五穀豊穣を希い、奈良東大寺を総国分寺とし日本国全土に国分僧寺尼寺建立の詔を発した。
その後、天平宝字元年(七五七)、聖武太上天皇の一周忌法要までに、仏像・仏殿を作り終えるべきことを諸国に令し、七六〇年頃までには、全国六十六州の造営工事は完了したものと思われる。

 備後国分寺が、何時どこに創建されたか、その後の興隆を明確に記す記録は残っていない。天文七年(一五三八)大内・山名氏による神辺城合戦で焼失、永禄四年(一五六一)神辺城主杉原理興によって本堂が再建された。しかし、延宝元年(一六七三)五月十四日、この地方を襲った集中豪雨で大原池が決壊、堂々川が氾濫、大洪水のため、川下の民家、田畑、住民六十三人が犠牲となった。国分寺も草堂一宇を残してすべて土砂に埋没した。

 快範上人が再興の大任を担った。元禄四年(一九六四)、水野家四代目藩主水野勝種侯の外護により、本堂の再々建を果たし、元禄十三年(一七〇〇)、六十二歳の生涯を閉じた。
二代目快隆上人は梵鐘鋳造、三代目道海上人は仁王門、茶山と親交のあった四代目如實上人は方丈などを建るなど長期に亘って寺刹の体裁を整えた。しかし、その寺域は「昔(現山門前六〇〇尺四方、法起寺式、東に塔、西に金堂を配置)の二十分の一にも及ばなかった」と。

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 注*「綾瀬舟遊即事(後編巻二)」題及引「文政八年(茶山七八歳)十月、老菅晋帥謹識、東門大夫余の書数枚をもてあそび、近頃六枚屏風一双を出して余に命じてその不足を補写せしむ」とあるので、此の詩はその時書かれたものらしい。(「茶山詩五百首黄葉夕陽村舎詩抄解 島谷真三・北川勇共著」から引用)。なお、前半の三首「大森」「小西湖看花」「茗水即事」はいずれも後編巻六所収)     
  「聯句 贈如實上人」前後の茶山と拙齋
    日々、是詩酒徴逐
                        上  泰 二

備後国分寺門前に「茶山詩歌碑」二基がある。歌碑「訪ひ寄れば」は、一九八六年(昭和六十一年)、詩碑「聯句贈如實上人」は、二〇〇四年(平成十六年)に建立された。

 僧如實 茶山詩 縁起
 是呈如實上人聯句、事在四十年前、今此蒼然、文政辛己仲冬 菅晋帥再行
 如實歿後十六年、拙齊歿後二十三年、茶山歿前六年。

 この詩が詠まれて四十年後の文政四年(一八二一)、如實上人歿後十六年、拙齊歿後二十三年、茶山は想い出の聯句を半切に墨書して国分寺へ寄贈。茶山歿年六年前のことであった。
また、茶山は「福山志料」に、「如實は紀州の産、和歌を好み草花を愛して無欲なり西山拙齊と善し、拙齊が贈りし聯句に唯愛名花不愛銭と云う句あり」と記述している。
平成の碑はその直筆を写して刻まれたもの。

この二つの詩歌が詠まれた前後の菅茶山と西山拙齊との交流について、「菅茶山と西山拙齊との交情」(濱本鶴賓 備後史談 第十五号 一九三九年(昭和十四年)・「菅茶山と西山拙齊」(北川勇 本会報第四号 一九九一年(平成三年)などがある。これらを参考に天明時代にタイムスリップしてみた。

 諸国各藩が閉鎖的な時代の真っ直中にあって、文人墨客が身分・藩域を超えて自由に交流、政治的にも少なからぬ影響を及ぼしたものと思われる。

友誼の詩歌
 
 「聯句戯贈如実上人」 西山拙齊・菅茶山

 上人好事為花顛  上人好事花の為に顛ず 
 唯愛名花不愛銭  唯名花を愛して銭を愛せず  
 為昰年年購奇種  是年年奇種を購うが為に 
 下山時乞衆生縁  山を下りて時に乞う衆生の縁 

 この聯句は、前二句を拙齊、後二句を茶山が詠んでいる。

「花と和尚さんの歌」(現代語訳)
            訳詞 中山善照 作曲 永柴義昭
国分寺の和尚さん 花が好き 花が好き
お金なんかほしくない ほしくない
ところが和尚さんお金がいるの
どうしてどうしてお金がいるの
毎年 新種の花買うために そこで
時に山から降りて
お布施集めにちょいと里まわる
お布施集めにちょいと里まわる


  和 歌     菅茶山 
 「如実上人を訪ひ侍りし時、
  庭の花草盛りなりしかば」

 訪ひ寄れば 袖も色濃くなりにけり
  籬の露の 萩の花摺り」


 大の花好きの如実上人が手ずから植栽したものであろうか、楚々とした萩に彩られた国分寺の秋の朝を詠んでいる。

国分寺山門前の茶山詩歌碑

茶山・諸友往来抄

 天明四年甲辰(一七八四)
☆潤一月十六日 茶山、笠岡小寺清先(国学者・笠岡稲荷神社祠官)母堂年賀・傘寿賀筵に出席。西山拙齊、京都加茂の祠官梨木田祐為に会う。

 「賦得花契多春壽小寺奉祠令堂八十」 茶山

 北堂櫻樹幾回春  北堂櫻樹幾回の春
 上壽筵開属艶辰  上壽(八十歳)筵開くは艶辰に属す
 不獨年々花相似  年々花相似るのみならず
 花前無恙断機人  花前恙が無し断機の人(賢夫人)

 孟母のような賢夫人の母堂が、傍の桜花と同じように相変わらず無事息災であることを慶祝している。
☆一月十七日 茶山、拙齊、祐為、東西に別れる。
☆一月二十三日 茶山、鴨方・拙齊を訪ね至楽居に逗留。
☆一月二十四日 道光上人、拙齊を訪ねる。これを聞いて姫井桃源も岡山から拙齊を訪ねて来る。
☆一月二十八日 茶山、道光上人を帯同、神辺へ帰る。拙齊、桃源が天神艸まで見送る。道光上人、廉塾を訪ね逗留。

☆三月十七日 拙齊は、道光上人が愈々上方へ発つと聞いて、早朝、上人の送別と吟遊をかね泊まりがけで廉塾を訪ねる。いつものとおり、拙齊は鴨方~笠岡~西浜間は海岸伝いに竹兜(駕籠)で、有田~押撫~坪生~竹田間の山路は徒歩でやって来る。夕方、諸客、うち揃って高屋川周辺を散歩。その夜、送別の宴。
☆三月十八日 茶山、拙齊、それに耻庵(当時、拙齊の門下生)が、道光上人を鶴ケ橋へ見送る。上人は鶴ケ橋から、舟で芦田川を下って鞆に出て、大阪に向かう。

 「横尾送道光上人」 茶山
 猫児山畔鳥聲愁  猫児山畔(さんぱん)鳥聲愁(うれ)う
 鶴子橋邊柳色稠  鶴子橋(鶴ケ橋)邊柳色稠(おお)し
 送者不如橋下水  送者は如かず橋下の水に
 随君直到緑簑州  君に随いて直ちに到らん緑簑州(簑島)
 
「橋下の流水であれば、君に従いて簑島まで行くことができるのに」と、尽きぬ別離の情を詠込んでいる。
☆三月二十日 茶山、拙齊、耻庵、国分寺へ如實上人を訪ね、前栽の花を賞し、「聯句戯贈如実上人」を贈る。その後、文学問答遊戯に耽る。

 ・カンナベ(燗鍋=神邊)、ゴリヤウ(五両=御領)、何物カ十両ナル      拙齊
 ・ツボオ(坪生=(色)壺) ヤイロ(八尋=八色) 何物カ四色ナル 茶山
 ・十一寸為寺(十一寸と書いて寺)、得日成時(日をつけて時)、得牛成特(牛をつけて特)、
  何関寺事(何ぞ寺の事に関せん) 拙齊

☆三月二十二日 茶山、拙齊、耻庵、光蓮寺へ鳳霊上人を訪ねる。日が特定できないが、この滞在中、拙齊は、茶山らと藤井暮庵の招宴に赴いている。
☆三月二十四日 拙齊、俗事に染まらない僧侶との交遊が多い茶山の悠々自適の生活ぶりを羨んだらしく、次の詩を詠んで鴨方に帰る。

「寄懐」 西山拙齊

 川南川北探餘花  川南川北餘花を探る
 日日逢迎酔紫霞  日日逢迎して紫霞(酒)に酔う
 羨爾平生無俗累  爾(君)を羨む平生俗累の無きを
 交遊強半是僧家  交遊強半是れ僧家
  御領山登山中、国分寺で雨宿

 廉塾の教育内容として、きめ細やかな生活指導「廉塾規約」をバックボーンに、教科指導①読書・講釈②詩文会③野外活動④外部講師招聘⑤出前講座に大別される。
③野外活動は息苦しい座学からの解放と気分転換、それに体力づくり目的であったのかも知れない。夏の観螢と重陽の節句の登山を定例行事としている。御領山登山時は国分寺を小休止や雨宿りの場所としていた。

 文政三年(一八二〇)九月九日
 茶山 七十三歳 御領山登山 午後雷雨
「九日 二客諸子、遊 鼟々澗、値雷雨入国分寺、晴後再入澗,飲石上、分得韻文」
 北条霞亭、風荘上人、小野泉藏、塾生三十人許

 二客 風荘上人(八月十五日、來訪)、小野泉藏及び在塾諸子と鼟々澗に登高し雷雨に値いて、国分寺(五代目 光蓮上人)に入る。
(まず酒瓢を倒して酩酊を拌ち、旦く詩韻を闘わせて吟哦を費す。= 風荘上人の詩による編集子補完)既にして晴れ、再び澗に入りて沙上に飲む。(「備後史談」第一巻 第六号 大正十四年六月十五日 猪原薫一)
 
 檐聲纔斷未開雲  檐聲纔に斷へて未だ雲開かず
 旦犯餘飛入翠氛  旦く餘飛を犯して翠氛に入る
 俄頃夕陽呈明眉  俄頃に夕陽明眉を呈し
 攀林弄水客幾群  林を攀じ水を弄す客幾群
 登高候晴還此厄  登高晴を候って還た此の厄あるも 
 亦喜山野屢改觀  亦喜ぶ山野の屢々觀を改むるを
 歸鞋後先踏月光  歸鞋後先にして月光を踏む
 人影在沙沙路長  人影沙に在りて沙路長し
 避雷入寺歡較損  雷を避け寺に入り歡較損するも
 此遊終非悪重陽  此の遊び終に悪重陽に非ず
  菅茶山忌、理事、墓参の集い
  地元子ども会児童らも初参拝

 昨年八月十三日早朝、茶翁の命日に鵜野会長ほか理事十三名が菅家墓所に参集。茶山の御霊屋など墓域の清掃。この日、会長の呼びかけに応じて、廉塾の所在地、七日市の朝日子ども会児童・保護者八名も初参加。協同作業後、文政十年(一八二七)、八〇歳で亡くなった茶山の墓前に向かい、順次香を手向け、冥福を祈った。常日頃、子どもたちに優しい視線を注いでいた茶山、忘れがたい一日になったにちがいない。
 
菅茶山御霊屋 (右の墓は菅自牧斎の墓)

 お墓参りを終えて
            河合 里紗


 今朝、私たち朝日子ども会は菅茶山先生のお墓参りに行きました。墓前で鵜野先生から、茶山は一七四八年二月二日、私たちが住んでいる神辺で生まれ、生涯、神辺に住み、漢詩人、教育者として全国にその名を知られ、一八二七年の今日、八月十三日、八十歳で亡くなられた との説明を受けました。
学校でも、「原詩朗読」などで、茶山先生についていろいろと学習しています。茶山先生が神辺に生まれてよかったな。そして私も同じ神辺に生まれてよかったな と思いました。
(福山市立神辺小学校六年生)
   HP顕彰会ニュース再開
  キングパーツ(株)サイト掲載・協力
 
 墓参後、神辺公民館で、理事会が開かれ、春の定期総会で積み残されていた懸案事項①ホームページの再開②研修会について協議。
鵜野会長・猪原副会長・武田事務局長同席のもと毎月一回、担当者合同会議を開催、協議を進めることになった。

①ホームページ
担当 藤田、渡邉、園尾、白神、上
・本顕彰会情宣活動として、渡邉慧明理事の好意で個人用HP(二〇〇一年八月~二〇〇三年五月)が開設され、70号「平成二十四年度本会定期総会」を最後に休止されていた。今回、キングパーツ(株)の協力で七月十一日、№71から再開、現在№84まで掲載中。

②研修(学習会)
担当 延近、安原、上
・折りからの「マッサンブーム」にあやかって竹原研修旅行が急浮上したが、それはそれとして、来年度から、毎月一回程度、肩の凝らない学習会(九〇分程度)を開講する予定。
   茶山資料5369点国重文に
   歴博、慶祝「指定記念展」開催
 
昨年八月二十一日、文部科学大臣は平成七年に遺族が歴博に寄贈した菅茶山関係資料(漢詩集の草稿、日記類、典籍類、書状類、茶山に贈られた書画・器物類など五三六九点)を国の重要文化財として指定した。

 地元七日市町内会でも日常的な茶山顕彰活動の旗手でもある鵜野謙二会長は「これを触発剤に、茶翁さながらに、茶山や「国の特別史跡 廉塾並びに菅茶山居宅」と茶山の遺芳を更に全国津々浦々に発信していきたい。」と。

 歴博では国重要文化財「菅茶山関係資料」指定記念 近世文人の世界―神辺に花開いた文化―」展(七月十一日~九月十五日)開催「黄葉夕陽村舎詩」(草稿)、茶山の幅広い交友関係を裏付ける文書、絵画などの紹介と併せて記念講演会、展示解説会などを開催した。
 また、八月三十日には福山市内のホテルで「指定記念の集い」が開かれた。本会からも鵜野会長ほか四名が出席。
平成五年、歴博が菅家から「黄葉夕陽文庫」を受託して以来今日まで二十年、膨大な資料の整理、調査研究、展示や資料目録の刊行など、関係者の営々とした取り組みに出席者一同、深甚の敬意と祝意を表した。
写真 指定記念展ポスター
   竹原賴山陽・菅茶山顕彰会 交流会
    県歴博で記念展示鑑賞と講演

 七月十二日、指定記念展に合わせて賴山陽竹原顕彰会と本顕彰会の交流会が開催された。当日、竹原賴山陽顕彰会(竹鶴壽夫会長)一行三十五名は鵜野会長らの案内で、特別許可を得て、廉塾内部も見学、茶山墓所参拝、町内で昼食を共にしながら本会理事十一名と交流した。
 
 竹原賴山陽顕彰会ご一行

 鵜野会長は歓迎の辞で本会の主な活動を概略紹介。竹鶴会長は、賴棋一氏と同級生、主要事業として毎年研修旅行を催行、本年は日帰り旅行の年、五月の定例総会で菅波哲郎氏に講演を依頼した縁もあって、神辺を選んだ。
竹原顕彰会では主要事業として毎年五月GW中の「竹まつり」に、賴山陽広場で神事・献吟、賴山陽踊りなどを行っている。是非一度足を運んでいただきたい とあいさつ。隣り合わせた同士、会食しながら情報交換。

 県歴博ではまず展示会場へ。岡野将士主任学芸員から、茶山ゆかりの絵画書籍等の展示物について懇切丁寧な説明を受けた。その後、記念講演会「菅茶山関係資料の魅力」(文化庁主任調査官 岡部幹彦氏)に臨んだ。
また、八月九日には、「菅茶山と賴山陽」(明治大学専任講師 小財陽平氏)の記念講演があった。
   重文指定記念講演要旨

 その一「菅茶山関係資料の魅力」
           文化庁主任調査官 岡部 幹彦氏


・菅茶山関係資料は白川藩主で元老中、松平定信のもとに蹊をなす全国第一級の文化人たちと茶山との交流が産んだ屈指のコレクションと言える。

・文化十二年、定信が「からうたこわハんとて、よびたる也」茶山を浴恩園に招待したのを機縁に茶山の人脈が一気に増幅する。これより前、安永九年、茶山は拙齋とともに賴春水によって、中井竹山に紹介され、以後、老年期まで交流を続けた。竹山は天明八年六月、定信が近畿巡検中、住吉大社で「被召呼。二時計」対談。その後、定信の諮問を受け「草茅危言」を著わし献上した。一方、茶山は定信の指示で、日本最初の古文化財図録「集古十種」に関わった広瀬蒙齋・大野文泉ら数多の学者、画家たちとの交流で人脈を広げて行く。

・定信は「銅版世界地図」作製について大きな関心を抱き、最終的に亜欧堂田善に命じオランダのエッチング技法を学ばせている。茶山自身も幾多の贈呈された貴重な資料に学び、自らのアイデアを加え「御問状答書」「答問福山風俗記」(文政二年(一八一九))を編纂、幕府に提出。

・鎖国下にも拘わらず、定信の権威とflexibileな異国観・国家観と相俟って中国地方の拠点、茶山の知名度と嫋やかな人間性が伊能忠敬の「銅版の万国地図」や近藤重蔵の「松前えそ図」、アイヌ工芸品など全国ネット、想定外の資料蒐集の門戸を広げ今回の指定への道に繋がったものと考えられる。
・斯くて文人仲間のプッシュで異国の脅威と蘭学が近世社会を成熟させ、庶民文化が新たに「真景図的な」流れを帯びて行く時代へと移って行く。
    
その二「菅茶山と賴山陽」
    明治大学専任講師 小財 陽平氏


・茶山が「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿歳前後の人の様に候」と評した山陽は、文化六年歳末、茶山の廉塾の都講となった。
・茶山の代講を務めるかたわら、茶山の詩集の「校理を嘱され」、「水竹を隔てて相対す」茶翁と山陽の居室に在って「評論有る毎に、童生(門田朴齋)をして巻を擎げて往復」させ校正に当った。
・茶山は詩の完成度を高めるため最終校正段階ギリギリまで、山陽のほか、那和魯堂、六如上人、末弟、耻庵、頼春水、柴野栗山などできるだけ多くの人に斧正を求めた。

・詩の中には、「歎齊」(田沼意次の子、意知を誅殺した義士を称える)「歎晋」(将軍の豪盛な日光社参のお供を命じられた諸侯が経費捻出のため課した新税に領民が苦しめられている)など、所謂、幕政批判詩も含まれていたが、最終稿では、山陽の「恐らく忌を干さん」などの忠告を全面的に受け入れ、詩の修正や思い切った詩集からの削除を行っている。(文責 編集子)
   「茶山先生に学ぶ講座」収録集
   
その一 九月六日 神辺中央CC
     「近世文人の世界―神辺に花開いた文化―」
            県歴史博物館主任学芸員 岡野将士氏


・菅茶山(一七四八~一八二七)
 儒学者、教育者、漢詩人。当時、「菅君詩をもって、世に鳴る」(亀田鵬齊)、「詩は茶山」(林述齊)と評された日本一の漢詩人。「廉塾」の創設者。「廉塾並びに菅茶山旧宅」は宮島と並んで県下で二つしかない国特別史跡。在りし日の姿をそのまま現在に伝えている。

・茶山関係資料(五三六九点)の効用
 茶山の思想・思索並びに文人たちの交友を具体的に知ることができる。

・指定までの経緯
平成五年、茶山の子孫、菅好雄氏が「茶山関係資料」(黄葉夕陽文庫。茶山が存命中に蒐集した資料)を寄託。
過去四回(平成七・十・十七・二十四年)、調査・研究・整理済み資料の企画展を開催。

・茶山関係資料の内訳

1 著述稿本類  673点
 ①書付(村塾取り立てにつき)+遺書
  学問が好き。自分の学問は人に教えるようなものではない。勉強に来る者が、年二回、謝礼を持っ   て来るので、受け取っている。決して私しない。
  講師は人格者でなければならない。適格な人材がいなければ、塾は閉鎖すべきである。
  何を教えるか。どう人を育てるかが肝要。存続だけを考えているわけではない。
 ②筆のすさミ稿本
  混沌社詩友、葛子琴について、「若いとき美少年でもてもてであったが、私と会った頃は大男であっ   た。」と書いている。

2 文書・記録類 631点
 ①神村出土銅鐸拓本
  銅鐸の実物は存在しないが、備後南部唯一の出土例とされている。
 ②菅家往問録
  文化二年四月二十日、仙台藩儒大槻平泉から始まり茶山歿後も続き、昭和六年十月十七日、
  徳富蘇峰の記帳で終わっている。

3 書画類    331点
 ①茶山にとっても忘れがたい思い出を凝縮した「月下巨椋湖舟遊図」(寛政元年 蠣﨑波響画)
  「対嶽楼宴集当日真景図」(文化元年 谷文晁画)「浴恩園図并詩歌巻」(文化十二年 星野文良画)  や「文武忠孝」(寛政十二年 松平定信書)などから茶山と超一流の文人との交流ぶりが窺える。
 *「浴恩園図并詩歌巻」のホスト松平定信からゲスト茶山が和歌を添え賜った「一枝の梅」にまつわる  物語は割愛しがたいが、紙数の関係上、歴博のHP「学芸員だより」に譲りたい。

4 書状類    936点
5 典籍類   2706点

 ①「四書五経」を識り、その時代背景を考えるため、「史記」「左伝」を読むことを勧めている。また、
  「重要須知訓字帖」も「行儀を知るによし」としている。
 ②「補訂擲註経」表紙に「伊能勘解由所贈」の書き込みがある。文化六年十一月二十七日、第七次
  測量途上、二人は東本陣で対面している。
 ③「源氏物語」「枕草子」なども含まれている。

6 絵図・地図類  44点
 ①「松前えそ図」

7 器物類     71点
 ①「アイヌ工芸品」は日本最古級品である。

・まとめ
 ①事蹟及び思想・作品を理解するうえで最も重要な資料である。茶山と文人等の交友関係を具に
  伝えているので重要であり、文学史並びに文化史研究上でも評価が高い。
 ②今後も調査研究を継続的に行い、個人的には「教科書に(茶山の)名を載せたい」と願っている。
  その二 九月二十日 神辺中央CC
      
「近世文人の世界―神辺宿を訪れた文化人たち―」
             芸備近現代史研究家 佐藤一夫氏


① 近世山陽道の宿場町神辺には菅茶山が京坂での修学中、もしくは江戸出府中できた友だちが
  茶山との交流を求めて訪れている。
② 天明三年(一七八三)、古川古松軒(備中新本・地理学者)は九州旅行の際、著書「西遊雑記」で
  当時の神辺駅について「農家のミ、十丁ばかり町をなせり。」備後国分寺については、「見所もなき   小院なり。」と記述している。茶山の家塾の記載はない。因みに、二人は、後に藤井暮庵夫婦の仲人  を務めている。
③ 全国からの来訪者は一七七六年から一八六〇年までに六〇カ国、五九〇名。茶山も認めるハイレ  ベルの文人たち。賴春水、西山拙齊・道光上人、賴杏坪・姫井桃源・賴春風ら、錚々たる文人が神辺  の叙景や茶山の人物像を詩に託している。
  春水は詩「礼卿作也追録干此」の結聯で茶山について「回頭海内論交道 獨有山陽菅礼卿」と珍し  く氏名を織込み最大級の賛辞を贈っている。
④ 茶山を敬慕して全国から集まった弟子は「諸生預かり銀差し引き算用帳」に残されている名だけで  も三三〇名。そのうち、帰郷して,それなりの地位に就いた知名人は整理できただけでも三八名。
⑤「菅家往問録」には、文化二年から文政十二年までの存命中、二十二年間に四一二名が記録して
  いる。
⑥ 文化八年(一八一一)伊勢志摩の儒学者北条霞亭は人付合いを嫌い、京都、嵯峨でも隠遯生活を 送っていた。菅茶山に自著の詩集「嵯峨樵歌」の序を乞った。それが縁で、茶山の人柄に惹かれ、遂 に茶山に懇望されるまま、廉塾の後継者・都講として招聘され、茶山の姪敬と結婚、新居で女子二人 を授かった。
 文政四年(一八二一)、福山藩に召し抱えられた霞亭は江戸出府を命ぜられ、妻子を連れ江戸に引っ 越した。文政八年(一八二三)年、病歿した。女子二人とも夭折。
 文政十年、(一八二七)茶山歿後、姪孫菅三(惟縄・自牧斎)が菅氏を嗣いだ。
  その三 十月二日 神辺公民館
     「廉塾の文化」~菅茶山に学ぶ
               菅茶山顕彰会会長 鵜野 謙二氏

1 菅茶山の「遺芳・遺徳」の足跡
 ①今夏、国特別文化財指定された「菅茶山関係資料」は神辺の宝であり、国特別史跡「廉塾並びに
   菅茶山旧宅」は、茶山が全国に誇りうる偉人であることを裏づけている。
 ②黄葉夕陽村舎・廉塾で、学種を育てた儒学者・教育者・漢詩人である。
 ③八十年の生涯は、野に咲く蓮華草、中庸の美徳を旨とした。
 ④塾の教育内容は講堂東側に設けられた手水鉢に象徴される。水を人間の意識、方円の器を人間    の生活環境に見立て、人は環境や教育、交友などによって善くも悪くもなる と。

 方円の手水鉢

 ⑤旅行好きで、長期旅行六回、紀行文を残している。文化十二年、「東征歴」の旅。帰国直前、八代
  将軍徳川吉宗の孫、寛政の改革を断行した老中松平定信に招かれ浴恩園に赴く。先述の「一枝の  梅」の物語の発端である。このほか、茶山の知名度を裏づける資料に「菅家往問録」がある。茶山の  訪問客「芳名録」である。

2 菅茶山と賴山陽
 ①茶山と山陽は、お互いを高く評価していた。
 ②二人は対称的な性格で、茶山は静の人、山陽は動の人。文は人なり。茶山は「滲み出る」ような、
  山陽は「弾み出る」ような文章を書いた。
 ③茶山は、父、樗平(雅号)母、半の長男として誕生。幼名は喜太郎。元服して百助と名乗った。幼時  から病弱だった。俳諧を嗜む父、歴史・文学に詳しい母の影響もあってか、幼時から、周囲の子ども  達のように野山を駆けずりまわることをしないで、専ら読書に励んだ。
   当時、神辺宿は遊興の街で、地元のお偉方ですらもその気風に染まっていた。茶山も例外では
  なかった。十九歳の時、一念発起して京都へ遊学。生涯、六回、京坂で勉学に努めた。その間、
  備中鴨方藩西山拙齋、大阪・青山社賴春水、彼に紹介を受けた混沌社、葛子琴ら多くの社友と親交  を深め、「当代第一の漢詩人」と称せられる礎を築いた。
 ④茶山・山陽 往問録 
  一七八〇年 大阪で父、春水、母、静子(雅号 静颸)の長男として誕生。この吉報は春水から茶山  経由で拙齋にも伝えられた。
  一七八二年 広島藩儒に任用された父に伴われて広島へ引越す。
  一七八八年 自宅を訪れた茶山と初対面。茶山は山陽の神童ぶりを詩と日記に託している。
  一七九八年 江戸遊学途上、翌一七九九年の西帰途上、廉塾に茶山を訪ねる。

  賴久太郎寓尾藤博士塾二年
   帰路過草堂因賦此為贈 菅茶山

 千里遊方何所成  千里の遊方 何の成す所ぞ
 談経二歳侍陽城  経を談じて二歳陽城に侍す
 歸来有献尊親物  歸来尊親に献ずる物有り
 不獨奚嚢珠玉盁  獨り奚嚢に珠玉の盁つるのみにあらず

 一八〇〇年 脱藩。京都から護衛付で西下途上神辺宿で一泊。茶山も藤井暮庵と警護役を務める。
 一八〇七年 座敷牢幽閉・謹慎明け直後の竹原で、詩宴に招待された茶山と出会う
 一八〇九年 廉塾都講として招かれ再出発を期した。
 一八一一年 実質一年二カ月で茶山の許を去る。

  子成將東行 菅茶山

 僻處偏悲歳月移  僻處偏へに悲しむ歳月の移るを
 擔簦千里訪親知  簦(笠)を擔ひて(遊学)千里 親知を訪はんとす
 由来上國饒才子  由来 上國(上方・京都)才子饒し
 誰伴樊川作水嬉  誰か樊川(唐詩人杜牧)を伴うて水嬉(舟遊)を作さん

 一八一四年 藩主阿部正精に召され江戸出府途上の茶山を大阪で出迎え、和解が成立。
 一八一六年 父、春水歿。それを転機に、親友の親代わりの役を担う茶山の不機嫌が完全に氷解、           山陽が帰省時の往復路、心おきなく茶山の許を訪ねることが可能になった。
 一八二四年 二人は「丁谷に子成を餞りて卒やかに賦す」(神辺公民館前詩碑)で語り伝えられる
          尽きぬ別れを惜しんだ。

  丁谷餞子成卒賦 菅茶山 
 數宵閑話毎三更  數宵の閑話 毎(つね)に三更(丑三つ刻)
 未盡仳離十載情  未だ盡さず仳離(別離) 十載(十年ぶり)の情
 送者停筇客頻顧  送者(茶山)は筇(つえ)を停め 客(山陽)は頻りに顧る
 梅花香裏夕陽傾  梅花香裏 夕陽傾く

詩碑 丁谷餞子成卒賦

一八二五年 叔父、春風歿。竹原へ往復時、廉塾で宿泊。これが二人にとって最後の出会いになった。

おわりに 
 PP「神辺の偉人 菅茶山先生と廉塾」で分かりやすく総整理。詩吟「冬夜讀書」朗詠で結ばれた。

  冬夜讀書        菅 茶山
 雪擁山堂樹影深  雪は山堂(書斎)を擁して樹影深し
 儋鈴不動夜沈沈  儋(たん)鈴(れい)(軒先の風鈴)動かず夜沈沈(と更けて行く)
 閑収乱帙思疑義  閑(しずか)に乱帙(らんちつ)を収めて(書物をかたづけ)疑義を思う
 一穂青燈萬古心  一穂(いっすい)の青燈萬(ばん)古(こ)(古の賢人)の心(が浮かぶ)

*HPふくやま観光・魅力サイト(⒑月㉛日掲載)の鵜野氏インタビュー企画「福山の土地が育てた、地元愛と学びの精神」も検索してもらいたい。
「茶山詩」は参考までに編集子が添えた。
  その四 十月十八日 神辺本陣
      「茶山の二つの塾―金粟園と廉塾―」
                郷土史研究家 菅波哲郎氏

はじめに
 平成七年、菅好雄氏から寄贈された「茶山関係資料」を廉塾から県歴博への搬出作業に関わった。その折、菅先生が「乞われて幾多の貴重な資料を見せてあげていたが、その辺に置いておくといつの間にか失くなってしまう。在る処からものを動かさないのが最善の策と考え、その後非公開とした」と貴重な文化財管理面での苦労話をちょっぴり打ち明けられた と。

1 廉塾開設―天明元年説
 ①「天明年間ヨリ文政十年迠ハ菅晋帥・・・」(「日本教育資料」(文部省編 明治二十三~二十五年    明治十六年菅晋賢回答)に依拠
 ②安永九年、最後の京都遊学を終え帰郷。内海為と結婚。「家事を其の弟に委ね、益々書を読み
  村童に教授す。後、其の家の東北河堤下竹林の下に」村塾(黄葉夕陽村舎)を築く。(「菅茶山先生  行状」賴山陽)それが定説の天明元年であれば、それ以前に「村童に教授」していることになる。

2 安永四年、藤井暮庵入門の茶山塾
 「金粟園寄宿。菅先生の塾なり」(「暮庵先生行状略記」 天明五年)などから、その存在が裏づけられ る。文化四年、神辺宿大火で「金粟園」が被災。以後、茶山は「廉塾」へ居を移す。文化七年頃、金粟 園は再建され、甥萬年の居宅として使用されていた。

3 閭塾=廉塾
 最近発見された「廉塾屋敷図」(文政七年作成)への書き込みから、寛政二年、福山藩によって新屋  敷の検分が行われ、寛政四年、茶山が福山藩へ仕官した寛政四年、「閭塾 菅先生の塾なり」との
 記述と寛政四年以降、講は閭塾のみで行われ、金粟園は訪問客の接待の場として使用されたことが 判る。(「暮庵先生行状略記」)また、この年の賴春水の紀行記にも「黄葉村舎」の表記がある。

おわりに
 最近、台湾を旅行中、新幹線の電光掲示板に「廉能(清廉・才能)は行政の要で公務員は廉潔を堅持、貪腐(汚職)を拒絶しなければならない」との趣旨の字幕が流れた。
 国内外、今も昔も歴史は繰り返す。ふと茶山が二つの塾を開いた要因を探り当てた気がした。

 茶山存命中、福山藩に四回、百姓一揆があった。天災・凶作の連鎖に加えて、福山藩の場合、藩主  が代々幕府の重要ポストにあったことから政治資金調達のため苛斂誅求の賦課を繰り返し一向に
 自藩を顧みぬ失政で領民は退廃ムードに染まった。この末世的危機を人材育成で克服するための
 開塾であった と。

*詳細は「菅茶山の「自宅」と「塾」について―金粟園・閭塾・廉塾・黄葉夕陽村舎―」(広島県立歴史博物館研究紀要第⒗号 平成二十六年)をご一読願いたい。
   「廉塾を守る会」結成
   誇るべき文化遺産の早期修復を

 昨年四月、老朽化して行く「廉塾」保全のため、有志による「廉塾を守る会」が結成された。発起人の一人、本会鵜野会長は「廉塾は郷土自慢の宝。広島県内では宮島・厳島神社と同格の国特別史跡。官民協力で修復を急ぎ、在りし日の姿をそっくり、そのまま、次世代へ伝えて行きたい」 と。
 八月二十五日~二十八日、福山市教育委員会が現地調査。漸く、修復に向け第一歩を踏み出した。

 修復が急がれる「廉塾」

 新聞報道等によれば、来年度から二年かけて保存修理計画、二〇一九年度、修理に着工、最短で二〇二二年度完成見込みとのこと。日暮れて、道なお遠しの感がある。文化財にもかけがえのない生命が宿っている。工程表の超ジャンプアップが望まれる。
   葛原旧宅も改修工事へ
   GWに名残りの見納め会

 昨春GW、五月一日から四日間、葛原文化保存会が七月から一年間に及ぶ改修工事を前に「葛原勾当・しげる」の生家の見納め会を行った。
母屋では床の間に置かれた「しげる」の肖像写真などに見守られ、時代小説作家藤井登美子先生の「神辺城をめぐる二人の武将」と題する講演、しげるの随筆の朗読や、ハーモニカ・オカリナの演奏に合わせて、童謡「夕日」などを合唱するなど、来場者が終日、楽しい刻を過ごした。

 また、六月二十二日、旧葛原邸で生誕祭も行われ、しげるの福山中学時代に書かれた作品の展示や朗読、フルート・琴の演奏もあった。

 「葛原しげるの生涯」出版
   佐々木龍三郎氏、二作目の労作
 
昨年十一月、葛原しげるの研究家で知られる佐々木龍三郎氏によって「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む 童謡詩人葛原しげるの生涯」が出版された。平成十二年出版「童謡詩人葛原しげる」に次いで、二作目。参考文献や遺族など関係者から新たに寄せられた資料を基に十有余年の歳月をかけ、神辺町名誉町民第一号の実像・事績に迫った
    茶山ウイーク2014
    廉塾、菜園産のうずみ御膳

 神無月、神辺の秋、リピーターを呼び寄せる茶山ウィークに、神辺宿・歴史まつり実行委員会を中心に町内各所で記念行事が行われ、好天にも恵まれ、期間中、過去最多の来訪者(主催者側発表六千人)で終日賑わった。

 廉塾では七日市上自治会が額に汗した秋の菜園の収穫祭、「元祖神辺うづみ御膳」「廉塾大学いも」「ふれあいおでん」の模擬店が終日、春夏冬二升五合。
三日市、七日市の町家では「茶山ポエム秋の町並み格子戸展」。
写真 元祖神辺うづみ御膳

 本陣では、その昔殿様お成りの間で、定番シリーズ「歴史講演会」、青空ステージでは、一揆の指導者たちを称える「義民踊り」(神辺ふるさと会創作)が披露された。

神辺文化会館では、「茶山ウィーク2014公募俳句展」(⒑月⒙日~㉖日)が開かれた。一般の部のほか、福山市内六校の小学校児童、五校の中学校生徒を含む二八三〇点の応募があった。
選者 竹下陶子(日本伝統俳句協会理事)

 廉塾を織り込んだ入賞作品は次のとおり。
特選
 廉塾を閉じし日日や水澄めり
         三原市 成末知歌子

秀逸
 竹縁に座し廉塾の秋の声
         神辺町 世良正子
 廉塾の菜園に育つ甘藷かな
         尾道市 日田富恵


 菅茶山記念館 特別展「菅茶山の廉塾を支えた人々」(十月十六日~十一月二十四日)には、国重要文化財指定後、初の故郷に錦を飾る里帰り。ホスト菅茶山については、お馴染みの岡本花亭賛の柳をバックにした肖像画に次いで、当時のベストセラー「黄葉夕陽村舎詩十三巻」、茶山三十二歳の政治批判詩「御領大石歌」。歌道の嗜みのあった父樗平の「三月庵集」。後継者と恃むも叶わなかった弟耻庵、妻宣の甥門田朴齊、姪敬の夫北条霞亭の書、塾頭賴山陽、三都への宿望を訴えた「上菅茶山先生書」。茶山を重用した藩主阿部正精賛「蘭竹図」。寛政の三博士柴野栗山、弟子藤井暮庵、鈴鹿秀満、小早川文吾ら、茶山と廉塾を支えた人たちの遺作が展示されていた。
  写真 特別展ポスター

 めでたい今回の指定文化財、庶民にとって高嶺の花にならないように、またの里帰りを心待ちにしている。
  廉塾CGを歴博へ寄贈
   福山工高生の苦心作

 昨年二月、福山工業高・計算技術部員が協同製作した廉塾CG「蘇る廉塾 菅茶山が愛した学問所」(約四分)が、県立歴史博物館に寄贈された。当館では、三月から展示資料として活用する一方、希望者にCGを配布。
 顧問の長谷川勝志先生によれば、同部は、すでに一昨年、被爆七十周年事業として国連NPT再検討会議で上映されるCG「被爆以前の水主町」を製作している。
 写真 福工生製作「廉塾」CG

今回は、「老朽化の一途を辿る国の特別史跡を映像で残そう」と部長のハンジ・ジョゼ君ら部員九人が、「町の誇るべき宝、廉塾を前面に魅力ある町づくりを進めている」鵜野会長を始め、地元七日市町内会の古老の話や郷土史家から提供を受けた参考資料を基に約半年かけて完成した。
  「不如学也」大書パフォーマンス
  明王台高書道部指定記念を祝う
   「不如学也」筆痕、気迫鮮烈に


昨年九月七日、県歴博玄関前で、好評で二週間延期された「菅茶山関係資料」国重要文化財指定記念展を祝って明王台高校書道部(広川弥生部長ら十七人)が大書パフォーマンスを披露した。
3㍍×6㍍の和紙一面に茶翁さながら伸び伸びと書き上げられたのは文化元年(一八〇四)第五代福山藩主阿部正精が親ら筆を執り茶山に贈った「不如学也」。柴野栗山書「廉塾」(扁額)とともに廉塾に掲げられた。

論語「衛霊公」第十五
 吾嘗終日不食   吾嘗って終日食らわず
 終夜不寝、以思  終夜寝ず以て思う
 益無 不如学也  益無し 学ぶに如かざる也

(大意) 思索も大事だが、書物や先生によって学ばなければ駄目である。学ぶことに及ばないのである。

写真 明王台高大書パフォーマンス作品
   中条小六、茶山文化の誇りを糧に
    創作劇「中条の未来プロジェクト」
  
 昨年三月十日、神辺中央CCで「かんなべ未来創り交流会」が開かれ、中条小学校六年生二十九名が創作劇「中条の未来プロジェクト」を熱演。
時恰も、少子高齢化、若者の大都市一極集中が加速する時代趨勢、中条の未来、地域創生に賭けて、大人から子どもたちまでが「チーム中条」に結集、2080年オリンピック・パラリンピック地元招致を合い言葉に、その昔菅茶山が掘り起こし種を蒔いた土壌に今もなお継承される中条ならではの文化、四季折々の伝統行事など誇るべき遺産をプレゼンテーションに盛り込み、見事2080オリンピック・パラリンピック開催地「Chujo」をゲットする という筋書。
底流に日々、子ども達を慈しみ育ててくれる大人への感謝の気持ちが窺える。

 写真 中条小六 創作劇の一場面

 なお、同小学校は昨年末、ミクロネシア連邦ポンペイ島の小学校へ、同小学校支援の会代表羽原美代子さん(笠岡市在住)を通じて、「中条百景」と題した絵画六十六点(四年生三十一名、五年生三十五名)を寄贈した。

 現在、同校職員室前には、グローバル時代の幕開け、一昨年ミクロネシア親善旅行を終え帰国した2014年茶山ポエム絵画展最優秀賞受賞作品三点が、ホタル、雪など常夏のミクロネシアでは体験できない「日本の四季のすばらしさ」を報告している。
  ***   ***   ***
 菅茶山と中条
  「茶山詩話」から茶山詩「ふるさと中条」へ
  昭和から平成へのバトンタッチ


 郷土の偉人、菅茶山・茶山詩研究目的で、「菅茶山学習会」が、昭和六十二年六月から四年余、毎月第一土曜日午後、神辺商工文化センターで北川勇氏を講師に迎えて開講。その講演録集は、平成四年一月、「茶山詩話(第一集)」として、茶山詩話委員会の手で、発刊。平成十年三月、第七集の刊行を以て完結した。平成九年三月に発刊された第六集は「茶山と中条」のサブタイトルで自明のごとく「中条」を舞台としている。

 北川氏によれば、中条は茶山八十年の生涯の中で、若い頃から六十代半ば過ぎまでの、かなりの長い間深いかかわり合いを持った。
 
 松風館十勝碑林

昔から「村聲有趣聴逾好」教育熱心な土地柄、若い自分を「狂痴従世棄 尊酒有人同」(世間は狂痴扱いするが酒仲間にはしてくれる)心中密かに「雲松随處在」「吾道幾時窮」(いつの日にか学種を育てるという願望を実現する機会が訪れる)と。
諸国から茶山を訪ねてくる数多の文人墨客を案内、晴雨、寒暖、早暁・深更を厭わず中条への路を足繁く往来、寒水寺、黄龍山遍照寺の上人、松風館(河相君推客殿)などの主人と頻繁に交流、中条文化の礎を築いた と。

 この詩話に惹かれ、声楽家奥野純子さん(東中条在住)が中条小学校PTAコーラス指導中(平成八年~二十一年)、茶山の漢詩を題材にオリジナル曲「ふるさと中条(全六曲 後掲 訳詩略)」に着手、平成二十三年、そのCDを完成、地元の子ども達やコーラスグループと一緒に自慢ののどに託し紹介に努めている。

  上寒水寺路上     菅茶山
 寺見飛禽外  寺は見ゆ飛禽の外
 泉鳴雑樹中  泉は鳴る雑樹の中
 狂痴従世棄  狂痴 世の棄つるに従せ
 尊酒有人同  尊酒人の同にする有り
 尋徑追牛跡  徑を尋ねて牛跡を追い
 班荊待午風  荊を班って午風を待つ
 雲松随處在  雲松随處に在り
 吾道幾時窮  吾が道幾時か窮まらん

上寒水寺路上(寒水寺に登る路で)
  訳詞 佐々木龍三郎 作曲 石橋元嗣
  補・訳詞 奥野純子


 飛んでいる鳥よりも高く
 寒水寺が見える
 深い木々の合間から
 水音が聞こえる

 「やれ暑い しんでぇなあ」
 小道をさがし 登る途中
 草を敷いて ひと休み
 涼しい風がふいてきた

 「やあれのぅ 登るかのう!」
 ぐるり 辺りを見渡せば
 あちらこちららに
 雲につつまれた松林


  登黄龍山         菅茶山
 彩翠模糊晩照春  彩翠模糊として晩照春く
 不知何處是黄龍  知らず何れの處か是れ黄龍
 狂謌直蹈危巖上  狂謌直ちに蹈む危巖の上
 屐底驚濤萬壑松  屐底濤に驚く萬壑の松

(意訳)春山のみどりがかすみ、夕陽が沈みかねている。どこが遍照寺かはっきりしない。鼻歌まじりに登っていると危うく岩を踏みはずしそうになった。足下の松の濤、肝をひやした。
 
  所 見         菅茶山
 登山待月生  登山待月生
 夕陽紅未衰  夕陽紅 未だ衰えず
 上上身漸高  上り上りて身は漸く高く
 月在歸禽背  月は歸禽の背に在り

(意訳)月見に遍照寺へ登った。夕陽は未だ鮮紅色。漸く月が高くなった。ねぐらへ急ぐ鳥の背にかかっている。

  即 事         菅茶山
 晨気褰林霧  晨気 林霧を褰げて
 晴光満野堂  晴光 野堂に満つ
 雀鳴何唶唶  雀鳴 何ぞ唶唶たる
 早稲已登場  早稲 已に場に登る

(意訳 朝まだき霧が少しづつはがれて、陽光が野堂に満ち満ちている。雀が忙しげに囀っている。早稲の穂先が顔を覗かしている。  

  中条歸路        菅茶山
 郊雲醸雨夜山低  郊雲 雨を醸して夜山低し
 家指長松亂竹西  家は指さす長松 亂竹の西
 十里野程人不見  十里の野程 人見えず
 秧鶏角角隔林啼  秧鶏角角 林を隔て啼く

(意訳)村に雨雲がかかり山の稜線がぼやけている。目指す家は丈の長い松と竹藪の西に見えている。十里の野路に人っこ一人見えない。くいなが林の向こうで啼いている。

  黄龍山        菅茶山
 來時望衆峰  來時 衆峰を望めば
 奇絶令人躍  奇絶 人を躍ら令む
 來顧來時路  來たって來時の路を顧みれば
 郊原亦不悪  郊原 亦た悪しからず

(意訳)やって来る時衆峰を眺め、絶景に心が躍る。頂上に立って辿った路を振り返ると、町外れにある田園風景も悪くはない。
   神辺小生ら、茶山詩の魅力を発表
   福工高生、廉塾CGで開幕

 昨年九月十四日、県立歴史博物館講堂で、好評につき期間延長した「菅茶山関係資料」国重要文化財指定記念イベントがあった。会場入口正面二階に一週間前明王台高校書道部員が大書した作品「不如学也」が入館者を歓迎した。

 岡田圭史館長が「茶山詩が若い感性でどのように受け止められ、表現されているか」に注目してもらいたい と開会のあいさつ。
県立福山工業高校電子機械科の皿谷創基・塚本克紀さん両名が廉塾CG「甦る廉塾 菅茶山が愛した学問所」の上映・解説で開幕。
写真 神辺小六年「茶山讃歌」発表

第一部では、2014年度茶山ポエム絵画展「最優秀作品」と受賞者六名が各自の作品製作に関わる工夫・感想などを発表。第二部では神辺小学校六年生八十名が「神辺の四季」と題して日頃学校で行っている「菅茶山の原詩の素読」を織り込んだ「茶山ポエムの歌」(作詞・作曲 中山善照 編曲 奥野純子)を発表し、客席から盛大な拍手を浴び幕を閉じた。
  「最優秀作品」受賞者と感想(要旨)
  氏名(敬称略)・校名・現学年・詩題

諏澤璃子(御野小二年)蝶
 自分の作品がポスターになった。とてもうれしかった。 
木村実愛(御野小三年)ホタル
 堂々川でホタルを見たときの感動を思い起こし、大好きな絵で表現した。
川井裕斗志(湯田小四年)ホタル
 小枝を使って川にかかる橋などつくるのに苦労した。
山中裕翔(神辺小五年)ホタル
 月とホタルの光の色を出すのに時間がかかった。茶山先生にこの絵を見てもらいたい。
北村竜馬(中条小六年)夕日
 友だちの家と学校のグランドから見た夕日、中条にある寒水寺を詠んだ茶山詩など自分の体験をもとに描いた。
馬場真樹也(城北中二年)廉塾
 ひい祖母ちゃんの家に行ったとき見学した廉塾の風景、柳は実物をよく見て画いた。このような発表の場を設けてもらってうれしい。
         (文責 編集子)
  画「廉塾正門」再見
  茶山記念館特別企画長谷川樹展

昨年八月二十七日から九月二十三日まで、菅茶山記念館で、「茶山ポエム絵画展」の審査員を務められた故長谷川樹先生の個展―愛と平和を求めてーが開催され、先生の七回忌に「廉塾正門」など油彩画のほか、彫塑、水彩、版画など六十点が出展された。

 「廉塾」を描いた作品と言えば、神辺公民館にもある。平成十七年、同僚の本会渡辺慧明監事が同館長時代に依頼された「神辺黄葉学級文化講演会」で出席者を前に急遽用意された画布なみの大きな紙面に一気に画筆を揮われた作品。速筆の本人にとっては、「しんどいからこれ以上描けない」と言われた未完と思われるもう一点の作品。渡辺氏が大事に額装、同公民館の宝物として二階ロビーに常時展示、来館者を歓迎している。
   書「牡丹宿蝶」 茶山樵
   江草有山 福山文連芸術展に出品
 
 昨年三月十九日~二十三日、ふくやま美術館で第8回福山文連芸術展が開かれ、洋画、日本画、書、工芸、彫刻など二五五点が出展された。
写真 江草有山書「牡丹宿蝶」

 書一一七点の中に茶山詩「牡丹宿蝶」江草有山氏・芦田町下有地)があった。山陽が現今にも通ずる「世の人の戒めをこの花に託したものであろうか」と評した茶山詩である。
 菅茶山記念館も春季特別展で記念館所蔵作品の一つとして公開した。

  牡丹宿蝶 菅茶山
 牡丹将欲歛  牡丹将に歛(かん)を欲し
 1蝶尚依依  1蝶尚(なお)依依たり
 恐被花包裹  恐るるは花が包裹(か)を被るを
 通宵不得歸  通宵 歸るを得ず

(大意)
 牡丹が蝶と戯れたがっている
 一蝶がなおも名残を惜しんでいる
 恐いのは花が包裹を被せるのを
 夜通し家に帰れなくなってしまう
  「みどりの愛護」功労者
  堂々川ホタル同好会が大臣表彰
   図鑑「堂々川の生きもの」出版

 昨年五月二十四日、堂々川ホタル同好会(高橋孝一会長 会員八十七名)が国土交通大臣賞を受賞した。
 江戸時代、この流域・周辺に福山藩が築造した防災事業、砂留群は国の登録有形文化財に登録(二〇〇六年)された八基のほかに四十基の砂留群が現在も砂防ダムとして住民の生命・財産を守り続けている。二〇〇四年、土肥徳之事務局長ら有志がごみの不法投棄などで荒れ放題になっていることを憂い、「満渓螢火黄昏」「ホタルが飛び交う美しい砂留」を合い言葉に、附近一帯の公園や河川周辺の清掃・整備に着手、ホタルの宿る清流と桜、彼岸花、松のみどりに彩られる自然を復元した。その功績が評価されたもの。

この息の長い活動に、その昔、相次ぐ治山・治水事業に粒々辛苦した地元村民の末裔、御野・中条小学校の児童が協力していることも心強い。
 なお、同時展開されていた図鑑「堂々川の生きもの」(土肥事務局長撮影 八月二十九日発刊)が近隣の小学校に寄付された。
 写真 冊子・堂々川今昔
  ***   ***   ***   
「堂々川今昔」より
  高さ三間の烏岩、二丈下の川底に
   延宝元年堂々川氾濫で埋没


 茶山翁「筆のすさび」巻之三「川之説」・「福山史料」巻之十四 「安那郡下御領村」 に「国分寺西トウ々川中流ニアリ今埋モレテミエ」ぬ烏岩が紹介されている。高さ三間(五・四米)余柱のように直立した石で人が登攀不能。烏が毎年巣くうのでその名がついた。
延宝元年(一六七三)五月の洪水で、川筋が埋没、田地より凡一間五尺(三・三米)位高くなった。(「安那郡湯野村風土記」)

五十年前(「福山史料」献納点時から遡及)川浚いのとき役夫が竹竿で埋没地点を探り当てようとようとしたが、叶わなかった。当時、八十歳の老翁によれば、「今は二丈(六・〇六米)ばかり底にあるだろう」と云われ、探索を諦めた と。

「福山史料」では、「トウ々川、別名百瀬川(水源東中条村大原池ヨリ出平野村界ニテ高屋川ニ入ル谷口ヨリ八百二十間)普段は乾涸しているが、一旦雨が降れば、暴漲して所構わず漂没させたことは窺えるが、この大洪水を契機に始まった全国的にも類を見ない砂留については何故か記載がない。

 砂留の定義について「是は山欠崩砂出候は堤を築、又は松など植候にて砂を留め申候儀に御座候」(細野忠陳著『地方名目・地方品目解』)と。今日のダム治水事業と同工異曲、ダム本体と併せて河川流域を含む山野一帯の維持管理が必須。就中、堂々川砂留群は当時の領民の安寧な生活保障に加え、石州街道、山陽道、笠岡道の三街道の要衝であったことから幕藩の要職にある藩主の面目にかけ等閑にせず、積極的に技術革新並びに予算措置を講じ防止対策を進めてている。
粒々辛苦、それを支えた主人公は誰あろう名も残されていない周辺の領民、地域住民の先祖である。
    2014茶山ポエム絵画展
   公開初日に表彰式

 本年一月十日、菅茶山記念館で、2014年度茶山ポエム絵画展が開幕。公開に先立ち、表彰式が行われ、(公財)福山市かんなべ文化協会理事長三好雅章氏が、四季折々の自然と農村生活を詠んだ茶山詩に寄せて、本年度、幼稚園児から中学生まで三千点近い応募があったことと、公平・公正に審査に当られた縄稚輝雄先生のご労苦に深謝。一階ロビーに詰めかけた大勢の来賓、保護者などが熱い視線を送る中、最優秀賞、優秀賞に選ばれた子どもたちが、喜びと緊張の入り交じった表情で、三好理事長から表彰状と金メダル・記念品を受け取った。
 写真 表彰式








 最優秀賞受賞者八名を代表して、高橋紗菜(誠信幼稚園)さんと司会者との一問一答。
Q「高橋さんの絵の気に入っているところは」
 A「わらの家です」
Q「むずかしかったところは」
 A「お弁当箱です」
Q「何をしているところを描いたのですか」
 A「お花見をしているところです」

 なお、高橋紗菜さんの絵は2014年最優秀作品ポスターに選ばれた上、今年の世界児童画出品作品に推薦される。
 写真 2014年度茶山ポエムポスター







2014茶山ポエム絵画展
*主催 公益財団法人福山市かんなべ文化振興会・菅茶山記念館
*共催 菅茶山顕彰会
*後援 神辺美術協会・福山市教育委員会

*「詩題(原題)」現代語訳者
 ①「梅(画山水)」中山善照 ②「蝶(蝶七首)」中山善照 ③「夕日(所見)」中山善照 ④「朝景色(路上 所見)」矢田翠 ⑤「螢(螢七首)」中山善照 ⑥「天の川(雨後)」矢田翠 ⑦「廉塾(即事)」武村充大
 ⑧「晩秋スケッチ(秋日雑詠)」中山善照 ⑨「雪の日(雪日)」本安俊三 ⑩「冬夜読書(冬夜讀書)」 
 岩川千年

*出品校園
 ・神辺千鶴幼稚園・誠信幼稚園 ・神辺小・御野小・湯田小・中条小・道上小・府中市栗生小
 ・神辺東中・神辺西中・福山中・城南中・銀河学院中・誠之中・駅家南中・済美中

*出品点数 2968点
 ・幼稚園   120点
 ・小学校  2516点
 ・中学校   332点

*入選点数 入賞総数 600点
       最優秀賞   8点
       優秀賞   121点
       入 選    471点

*各学年別最優秀賞受賞者の皆さん
・高橋紗菜(誠信幼稚園)「梅」
・中村莉子(湯田小一年)「雪の日」
・藤吉愛菜(神辺小二年)「蛍」
・安原聡基(神辺小三年)「梅」
・渡邉哲也(湯田小四年)「天の川」
・松岡唯奈(中条小五年)「天の川」
・土井寛瑛(栗生小六年)「晩秋スケッチ」
・迫田里奈(城南中二年)「梅」

*作品展示計画
 ・菅茶山記念館展 入選六〇〇点以上  1/10(土)~2/1(日)
 ・各地移動展・特別展(随時)

お詫びと訂正
本会報24号の記事に次の誤りがありました。お詫びして訂正します。修正済み
3㌻中段 正 廉塾偶作  誤 廉塾愚作
⒗㌻上段 正 掩前楹(玄関)誤 掩前檻
⒗㌻下段 正 被暗香牽 誤 被暗香索
 
 
 
     編集後記
◇広島を元気に。昨夏、広島市大規模土砂災害で犠牲になられた方々に深く哀悼の意を捧げるとともに、被害に遭われた人々に心からお見舞い申し上げたい。
◇治山治水は中国大禹治水に遡るまでもなく古来、日本でも為政者の最優先課題であった。福山藩砂留群は全国的にも希有で誇るべき有形文化財として名もない領民たちの血と汗と涙の結晶の歴史を今日に伝えている。
◇本号は河川工学の専門家尾島勝教授のご快諾を得て特別寄稿をいただいた。紙面を通じて深甚の謝意を捧げたい。
◇茶山関係資料もまた身近な先祖の「往」(過去)を彰らかにして現在を照らし、「来」(将来)に活かす研究上、多くの示唆がある。

会報編集部
 上 泰二(福山市神辺町湯野23―8)
   ℡・Fax(084―962―5175)
顕彰会事務局
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