顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報27号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました(写真以外)
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。

〔表紙〕 
・画像:茶山の閭塾にて學文の図(「菅波信道一代記」菅波信道著 より)
・巻頭言:菅茶山辞世の詩歌に想う
・PDF画像:表紙一覧表(リンク)

   菅茶山辞世の詩歌に想う
         菅茶山顕彰会会長 鵜野 謙二

 今年、平成二十九年(二〇一七年)は菅茶山没後百九十年の節目の年に当る。命日は八月十三日である。
 文政十年(一八二七年)、八十歳を迎えた茶山は多くの人々から祝賀を受けたが、五月に入り病(胃癌)に臥した。茶山には三人の妹と二人の弟がいたが、三女好(よし)(まつ、みつ)以外は皆他界していた。妹好と姪の敬の二人が茶山の最期を看取った。
 敬(きょう)(次女チヨの子)は萬年(次男汝梗(じょべん)の子)と結婚、萬年に病気で先立たれ、廉塾の都講として招かれた北条霞亭と再婚したが、霞亭も若くして歿している。子も殆どが早世し、当時残っていたのは、萬年の子、菅三のみであった。茶山の死後、菅三が菅自牧齋と称し、廉塾を継いだ。
 死期を悟った茶山は、好と敬に対し「臨終訣妹姪」と題する別れの漢詩に和歌二首を添え、現身故に叶わぬ同胞への参商之隔の想いを自らの筆に託している。
「うき世とハ けふ(今日)をかき(限)りにへた(隔)つれと 人のなさけは わすれかねつも」
臨終(りんじゅう)訣(けつ)妹(まい)姪(てつ)   (遺稿 巻七所収)
身殲固信百無知 身殲(ほろ)ぶれば固(もと)より信ず百(すべ)て知る無きを 
那有浮生一念遺 那(な)んぞ浮生(ふせい)一念の遺(のこ)る有らんや
孝養除非存妹姪 孝養 除(た)非(だ) 妹姪を存す
奈何歓笑永参差 奈何(いかん)せん歓笑 永く参差(しんし)するを
「身なけれは こころもなきハ かねてしれと たたはらからの 名残をそおもふ」
(「菅茶山の世界―黄葉夕陽文庫」から)
 この詩歌を鑑賞しながら、菅茶山八十年の遺芳・遺徳、豊かな感性、人物像を改めて偲ぶとともに、我がふるさとの巨峰、茶山が国内外へ託した不滅のメッセージを末永く次世代へ継承すべく努めめたい。

江戸後期の福山藩儒学教育について
―誠之館、廉塾を主に―

                      福山大学孔子学院 蒋 春紅
①福山藩の歴史 
 ・その昔、備後国は神辺に拠点があった。備後国福山藩は元和五年(一六一九)、大和国郡山藩から転封された水野勝成を開祖とする。
元和五年(一六一九)、安藝・備後両国(49万8千石)の大名福島正則は奥州津軽藩に改易された。後任に淺野長晟が安芸国と備後国六郡(42万石)の広島城主に、水野勝成が大和国郡山藩から転封され備後国残り七郡及び備中国二郡(10万石)の神辺城主に任ぜられた。

 ・水野勝成は一旦、神辺城に入った。家康と従兄弟同志、新規築城禁令下、元和八年(一六二二)、常興寺山に福山城を新築、拠点を福山へ移した。斯くて神辺は「黄葉山前古郡城」下町から参勤交代の宿駅へと変遷の歴史を辿った。水野家は元禄十一年(一六九八)五代勝岑で無嗣断絶した。

 ・元禄十三年(一七〇〇)、天領時代、出羽国山形藩主松平忠雅が一代限り10万石の藩主、讃岐国丸亀藩主京極高或(縫殿)が城番を務めた。

 ・宝永七年(一七一〇)、初代藩主阿部正邦が入封、明治二年(一八六九)、第十代藩主正桓まで実に十代百六十一年間、阿部家が藩政を掌握していた。

②阿部時代の儒学教育
 水野時代の藩内教育は、藩主の侍講佐藤直方によるご進講に陪席する二、三の重臣の範囲に限られていた。阿部時代に入って、家塾委託から藩校弘道館、江戸学問所、誠之館、郷校廉塾などが藩の中高等教育を担った。

③弘道館の創設
 天明六年(一七八六)、四代藩主正倫は福山城西下に弘道館を創設した。弘道館は「人能弘道也 非道弘人也」(人間こそ道を広めることができるのだ、道が人を広めるのではない。)(論語)に由来、正倫も教育理念「形の武より心の武を励むに如かず」を掲げた。
当時、全国的に大飢饉が起こり、藩財政も窮乏し、百姓一揆も頻発した時代、学問に注目し、侍臣太田全齋ら著名な儒者を登用して教育に当らせ、儒教精神によって、綱紀粛正を図ろうとしたのである。
写真② 孔子銅像

五代藩主正精は「詩書画三絶」と謳われた文官であった。文政二年(一八一九)江戸詰め藩士子弟のため丸山藩邸内に学問所を開校した。開校に当って、「孔子銅像」(写真)を下賜、「学問の事は心のほしゐままならざるやうに身を修るを第一とすべし」と、修身を教育目標に明示した。

④設置学科と儒学
 弘道館には文学所と十カ所余の稽古場が設置された。前者は儒学や詩文、後者は馬術、弓術、剣術、槍術、砲術を教授した。儒学教科内容は詳細不明だが、一般的に四書五経、孝経、小学などが採用されたものと思われる。

 儒学教授は儒者、儒者格、儒者見習などの職階が敷かれ、菅茶山、鈴木宣山、衣川寛斎、伊藤貞蔵、伊藤文佐、北条霞亭などが名を連ねた。更に、山室如齋学術世話取り(弘道館総纏)の下に、会読・読書・御書物預かり掛かりを置き、事務運営の円滑化を図った。

⑤弘道館の教育制度
 入門資格、御家中、組の者、庶民有志としているが、出講時、「麻裃着用」を義務づけていることから、有資格者を村役人など富裕層に限定していることが判る。授業料 不要。文武奨励法として、賞詞、酒肴、賞金、俸禄加増、役儀昇進を定めている。
しかし、師弟関係が順逆、出席も自由、その上、どんなに文武が優れていても、世襲制に阻まれ、昇進や俸禄に反映されないとあって、学修意欲を削ぎ、出席率も低迷、期待された効果が上がらなかった。

⑤誠之館の建設
 七代藩主正弘は、異例の老中筆頭に昇進,内憂外患の真っ只中、自藩の学術奨励と時代の変化に耐えうる人材育成のために学制改革を決断、嘉永六年(一八五三)新学館建設を命じた。名も誠者天之道也、誠之者人之道也。(誠は天の道なり、誠之は人の道なり。誠は天から授かった正しい道である。これを誠にするのは人の道である。)「中庸」に依拠、「誠之館」と改称、江戸城西の丸造営指揮の功により加増された一万石を追い風に私財を資金に充て、満を持して学舎建設に着手した。

 嘉永六年(一八五三)冬、江戸丸山藩邸に江戸学問所、次いで、安政元年(一八五八)冬、福山城下西町道三口(現霞町)に名実ともに新たな学舎「誠之館」を竣工させた。総面積四二〇〇坪、附属練兵場一八〇〇坪。広大な敷地に、正弘の「誠之館」教育に託す意気込みが窺える。

⑥誠之館の教育制度
 誠之館は弘道館の反省を踏まえ、事前に侍臣関藤藤蔭などに諮問、世襲制に依らない昇進制度と時代の変化に即応した教育内容、前者は文武の到達度が俸禄・昇進に反映される「仕進法」、後者は「漢学」中心の教育に「洋学・医学・数学」など新たな学科を採用した。儒学教授陣に、側近の江木鰐水、関藤藤蔭、門田朴齋など錚々たる侍講が選ばれた。

 明治五年(一八七二)、藩校「誠之館」は学制改革で、一旦、幕は引かれたが、その歴史と伝統を伝える当時の重厚な建造物、玄関はそのまま現在地に移築され、今もなお福山誠之館高等学校に承け継がれ、創立以来百五十年余の齢を重ねている。
   ***   ***   ***

①廉塾の設立
 ふるさと神辺宿は「町を歩く人はみな博徒で、酒飲みは多いけれど、本を読んで勉強する人は一人も見当たらない」と慨嘆した茶山は末弟耻庵や最初の弟子藤井暮庵の実指導経験を通じて「学種(学問の種を蒔くこと)=教育」で世直しを図ろうとした。
「天明元年ころ、居宅から山陽道を隔て斜交い、高屋川沿いに私塾「黄葉夕陽村舎」を開設した。」とされている。しかし、安永五年、「藤井暮庵、菅先生の門に入り教えを受く」(「暮庵先生略記」)などから、茶山28歳は「黄葉夕陽村舎」以前、すでに自邸内に村童対象の寺子小屋形式の塾「金粟園」を開き、教育に当っていたものと考えられている。
寛政四年、茶山45歳は塾の経営に専念するため、耻庵に家業の酒造業を譲った。寛政八年十月、茶山は塾永続の必要性を認識、福山藩に、私塾「黄葉夕陽村舎」の建屋に田畑を添え、塾を郷塾にしてもらいたいと上申した。寛政八年冬、茶山49歳、申請は聞き届けられ、郷塾となった。以後、「廉塾」「閭塾」「神辺学問所」と呼ばれた。

②廉塾の教授陣
 指導陣には、塾主茶山に加え、都講(塾頭)として、生え抜きの藤井暮庵や頼山陽、北條霞亭らが名を連ねている。加えて茶山に面謁を求めて訪れた文人たち、一流外部講師の特別講釈や出前講座も傾聴に値する。
「朱子学」を標榜、私見を挟まないあくまでも原註に忠実な教育内容に徹し、期待される教師像として、「徳行第一」を旨とし、「芝居小屋と違って流行らずともよい」と明言している。
一方、藩校に民間学者登用の道を拓き、北条霞亭、門田朴齋、北条悔堂や賴山陽の弟子、自牧齋、江木鰐水、関藤藤陰、門田重長など、巨峰茶山に連なる弟子たちを藩校教授に送り出している功績も見逃せない。

③「廉塾」の教育制度
 廉塾は主に士族対象の藩校と異なり、職業、身分、出身地に関係なく塾生を受け入れていた。茶山の名声と人柄を慕って、四国、九州、近畿、東北地方など全国各地から若者たちが集まっていた。在塾生、常時、およそ20~30人。その総数はおよそ2000~3000人と推測されている。

束修料(授業料)は無料。原則、全寮制、食費及び書籍代として年間四両二朱。これは当時の奉公人一年分の給金より遙かに高額な教育費。茶山も「一郷一村に幾千百人かが居住」していると雖も塾生は極く稀な存在、親兄弟への報恩を籠めて厳しい自己研鑽を説いている。塾生の所持金は預かり、貧しい塾生には塾の仕事を手伝わせる奨学措置を講じていた。
廉塾はお上から預かっている施設と認識、自らの扶持金を含め、福府義倉教育教科料など、塾の財産として、世話役を選び、資金の運用に当らせている。子孫にも私的な流用を厳に諌めていた。

④「廉塾」の教育内容―教科等と生活指導
 教科書・・・中庸、周易、礼記、書経集伝、詩経集伝、孟子、荘子、佐傳、杜律、近思録、蒙求、古文真宝、唐詩選などを採用している。 
教科指導・・・素読、講釈・・・素読(ひたすら音読を重ね暗誦、文意に辿り着く)、講釈・輪講の予習・復習の繰り返しである。
詩文会・・・月六回(必修)に限定、敢くまでも、読書が基本、濫作を戒めている。初心者に漢字を覚えさすのが所期の目的とか。
野外活動・・・夏の観螢、重陽の節句の登山を年中行事とし、詩文会を織り込んでいる。座学からのリフレッシュメントも図った活動と思われる。
特別講座・・・出前・外部講師招聘による講釈・詩文会。藩の重臣や寺社、村役などから招聘を受け催行されることも多い。

 廉塾規約・・・「本来、読書家は礼儀正しい」ので不要としながら、塾生の増加・心得違いもあって塾生活心得を成文化している。
学 業―遅刻・欠席・外出届の励行、講釈中の居眠り・中座・無駄話禁止、図書貸し出し規則など。
学習用具・生活必需品―整理・点検・管理の日常化。大切な備品・器物の扱い
日常生活―質素倹約を旨とし、礼儀作法・あいさつの励行、いじめ・ひやかしの禁止。

 寮生活  小雑司(当番)制により、火の用心、盗難予防・戸締まりなどの日課に当らせている。
金銭の所持・貸借禁止、所持金は「預り銀差引帳」に記入して塾が預かり、塾生の必要に応じて支出していた。

⑤結び
 二〇一八年は茶山生誕二百七十年。廉塾は、茶山の希いどおり、茶山没後も、菅三(惟縄・自牧齋)―養嗣子晋賢(門田朴齋三男)によって承け継がれ、明治五年、学制改革まで存続、今もなお国特別史跡「菅茶山旧宅および廉塾」として、国重要文化財「茶山関係資料」とともに自らが唱導した「学種」の源泉として「不舎晝夜」の湧出を続けている。
  雪に耐えて梅花麗し
   茶山・しげる・博樹の梅小路

                         上  泰二

 十一月五日、広島市で、四十一年振り、広島カープの優勝パレードがあった。沿道の平和大通りに、31万3千人、世界一のフアンが押し寄せ、車上の選手たちに全身で感謝・感激の喜びを伝えた。パレード後、マツダスタジアムでのV報告会。3万余人の招待客が詰めかけた球場一面、身も心も真っ赤一色劇の終幕。前年、米大リーグ破格のオファーを蹴り、古巣カープに復帰、今季限りで引退、永久欠番となる背番号15、黒田博樹投手の勇姿が15回宙に舞った。唯一人その場に残った黒田がおもむろに20年間慣れ親しんだマウンド前に跪き、頭を垂れ、涙しながら、「敬天人愛」の祈りを捧げ、球場を後にした。

 「耐雪梅花麗」。黒田が高校時代に学び感銘を受け、以後、自らの座右の銘とした。名門ニューヨークヤンキース、そして、広島東洋カープのチームメイトに紹介、その生き方を範とし、完全燃焼しようと呼びかけた。意気に感動、広島東洋カープは選手・フアンが一丸となって、「神ってる」快挙を成し遂げた。
「花は盛りに月は隈なきものを見るものかは」。日本シリーズ優勝は来季へ持ち越されたが、これが黒田引退劇の天意であったのかも知れない。

偶成 示外甥(市來)政直  西郷南州 
一貫唯唯諾 一貫 唯々(いい)の諾
従来鉄石肝 従来 鉄石の肝
貧居生傑士 貧居 傑士を生み
勲業顕多難 勲業 多難に顕(あらわ)る
耐雪梅花麗 雪に耐えて 梅花麗し
経霜楓葉丹 霜を経て 楓葉丹(あか)し
如能識天意 如(も)し能(よ)く天意を識らば
豈敢自謀安 豈(あに)敢て自から安きを謀らんや

 梅は、奈良時代、中国から日本へ持ち帰えられた。古来、菅原道真の「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花あるじなしとて 春な忘れそ」で人口に膾炙している。幼時、道真は自宅で月下の梅花を眺め「月耀如晴雪、梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨」と容姿・芳香への憧憬を詠んでいる。
時移り、異国情緒な花の姿・香から転じ、厳寒下、開花に至る艱難辛苦の道程に感動の視線が向けられたようになったものと思える。 
江戸文政期、傘寿を全うした菅茶山も梅に多くの詩を寄せている。茶翁の梅に寄せる想いを辿ってみたい。

   即 事
山童持紙道書詩 山童紙を持って詩を書せと道ふ
老懶揮毫人所知 老いて揮毫に懶きは人の知る所
今速應求吾有意 今速やかに求に應ずるは吾に意有
明朝願拗早梅來 明朝願はくは早く梅を拗して來れ

 子ども好きの茶山を承知の上での童の使いに親の計算が憎らしい。それにしても、翌朝早く、訪れる賓客でもあったのであろうか。茶山の梅癖を自明にする詩である。

   梅 一
微雨成烟靄遠林 微雨烟と成って遠林靄たり
羅浮芳信已関心 羅浮(梅)の芳信已に心に関はる
偶従江北傳書礼 偶々江北従り書礼を傳ふ
上道春遅下深雪 上は春遅しと道ひ下は雪深しと

 通信手段とてままならぬ時代、この梅だよりにも、「筆のすさび」や「地誌」編纂などの資料収集と同じ全国ネット情報基地を掌握する茶山ならではの太い人脈が垣間見える。

   人 日
早掃梅邊雪 早く梅邊の雪を掃き
衝門手自開 衝門(冠木門)手自ら開く
今朝是人日 今朝は是れ人日[正月七日]
應有韻流來 應に韻流の來たる有るべし
廉塾の「濯濯門前柳 郁郁園中梅」。(正月)七日、当番の塾生も休日。寒気も厭わない。自分で梅周辺の雪掻き、門を開けておいた。きっと風流の仲間たちが我が家の観梅にやってくるにちがいない。接待の用意万端を整え、今か今かと首を長くして待ち望んでいる。
   梅花七首 二
見説龍泉寺畔梅 見る説く龍泉寺畔の梅
今朝始覩一枝開 今朝始めて一枝の開くを覩る
屐痕斜印幽蹊雪 屐痕 斜めに印す幽蹊の雪
知有吟朋先我來 知んぬ 吟朋 我に先じて來る有るを

 廉塾と目と鼻先の龍泉寺、亡友、蘭水が永眠している。雪の朝だったが、開花と知って、一番乗りを目指したが、ライバルの詩友に先を越されてしまった。口悔しい。来年こそは。

  梅 二
暗裡尋香折一枝 暗裡香を尋ねて一枝を折る
林頭路滑雪消時 林頭路滑らかなり雪消ゆるの時
人間何処無娯楽 人間何れの処か娯楽無からん
恐使花神笑許痴 恐らくは花神をして許の痴を笑はしめん

 梅を尋ねるのは払暁に限らない。暗夜雪解け路に難渋しながらも香を頼りに一枝手折って持ち帰ることもある。元夜、西福寺(新市町金丸)からの「帰路梅花枝上月」に心を清められたこともあった。「素袂青裾玉作顔」の花神が老翁の酔狂ぶりを微苦笑していることだろう。

  挿梅三絶 一
相呼乗酔共尋梅 相呼びて酔に乗じて共に梅を尋ぬ
數里前村水石嵋 數里の前村水石の嵋
病客怯寒回半路 病客寒に怯へ半路を回り
憑人為拗両三枝 人に憑んで拗を為さしむ両三枝

 今日は、病身を押して友と誘い合い観梅に出かけたものの中途寒気がして、友に二、三本、梅の枝を持ち帰ってくれるように頼み、中途で引き返した。せめてそれを枕辺近く花瓶に差入れ清楚な姿と淡い香を愉しみたい。

   先妣十七回忌祭従郷列行涙餘賦
𦾔夢茫々十七春 𦾔夢茫々十七春
梅花細雨復芳辰 梅花細雨復た芳辰
墳前稽顙頭全白 墳前稽顙頭全く白し
曾是懐中索乳人 曾って是懐中乳を索めし人

雨後梅花處々披 雨後梅花處々披き
潘輿憶昔屢追随 潘輿憶ふ昔屢し追随せしを
花開花落春如𦾔 花開き花落ちて春𦾔の如し
空向墳前供一枝 空しく墳前に向ひて一枝を供す

 梅花の時節、花が咲き花が散る。亡母十七回忌を迎えた。自分もすっかり頭が白くなった。幼時、乳を索め何かにつけ後を追い縋った優しい母のことを想い出す。母も慈しんだ梅一枝を供え虚しく墓前に頭を垂れる。

   梅 九
四野梅開二月天 四野梅開く二月の天
吾笻日被暗香牽 吾が笻 日々暗香に牽かれる
客來若問吟遊處 客來って若し問吟遊の處を問わば
多在村橋石澗邊 多くは村橋石澗の邊に在り

 二月が来ると、どこの梅も満開。清香に惹かれ吟遊三昧の老翁を扶助してくれる杖が忙しくなる。今日も探梅、訪問客があれば、いつもの村橋石澗の辺りにいると伝えてほしい。

 「酔月迷花七十年」。そう言えば、「誘客尋梅遠」遠く尋梅に熱中するあまり「愆妻炊麦期」夕飯時を違え、留守居の今は亡き愛妻宣を戸惑わせてことが想い出される。

 梅花七首 五
人道山村梅已翻 人道(い)ふ山村已に梅翻る
直衝泥道不辞遙 直に泥道を衝いて遙なるを辞せず
奈何昨夜三更雨 奈何せん昨夜三更の雨
漂去前渓獨木橋 漂い去る前渓の獨木橋

 すでに梅が散り初めていると聞き、泥んこ路をものともせず、足を運んだが、昨夜の雨で丸木橋が流され、近づくこともできない。
  梅 十二
高枝低枝影漸残 高枝 低枝 影漸く残し
西片三片春将闌 西片三片 春将に闌
與君動作經年別 君と動すれば經年の別を作す
休怪孤笻日來看 怪しむ休し孤笻日々來り看るを

 君(梅)の装いから、別れの時が迫っている。また一年経たないと再会できない。だから、毎日々々一人だけで君に会いに来るからと言って、変に思わないでもらいたい。

   偶 成
今歳梅花何太遅 今歳梅花何ぞ太だ遅き
節臨春社未全披 節は春社に臨んで未だ全く披かず
却期素豔氷肌影 却って期す素豔氷肌の影
留及残紅賸紫時 留めて残紅賸紫の時に及ばんを

 何故か梅の開花が遅い年があった。もう春の社日なのに未だ満開に至らない。遅れついでに、一層のこと清純で気品のある梅花を百花が咲き乱れる時節まで散らせずにおきたいものだ。

   丁谷尋梅 一
樹樹香風逐歩深 樹樹の香風 歩を逐ふて深し
斗逢生境好荒尋 斗ち生境に逢ふて好し荒尋するに
従前愧我称梅癖 従前 愧ず我梅癖と称するも
未識隣村有此林 未だ隣村に此林有るを識らず

        二
暗香狂我五十年 暗香 我を狂せしめて五十年
眼看梅林亦変遷 眼に看る梅林も亦変遷す
丁谷幾叢開満岸 丁谷の幾叢か開いて岸に満ち
鴨村千樹墾成田 鴨村の千樹 墾いて田と成す

 のちに秀作「丁谷餞子成卒賦」の舞台となる丁谷梅林は廉塾の南方、黄葉山を挟んでその南山麓、麓村、東西に伸びる谷間にある。

 自称「梅癖」、梅に恋い焦がれて五十年の茶翁、刎頸の友、西山拙齋と尋ねた三原西野の梅林などと異なり、直ぐ目と鼻先の名所、「この存在を識らなかったことを愧る」とは、「当時、茶山が編纂した『福山志料』にこの梅林を紹介しなかったことを口惜しがっている」とする郷土史家もいる。

 鴨村大林寺(加茂町粟根)、栄谷(郷分町)の梅林は瞬きの間に消滅の運命を辿ったが、茶山の弟子鈴鹿秀満の「わけいれば袖もかをるなりよほろの谷の梅の中道」が道標の丁谷梅林だけは、幸いにも遺芳を慈しむ地元有志の献身で現在もなお往時の情景を年々歳々偲ばせてくれている。深甚の敬意を表したい。

   元旦二首 一
馬歯今朝八十盈 馬歯 今朝 八十に盈つ
回頭志業一無成 頭を回せば志業一つとして成無し
蝋梅香裡東囱日 蝋梅 香裡 東囱の日
又見春來帯笑迎 又見る春來って笑を帯びて迎ふ

 茶翁、生涯最期の元旦。八十歳の春、伏枕中、東窓から、希望を届ける梅に微笑みかけられながら新春を迎えている。

梅花七首 一 菅茶山
自愛孤根抱暗香 自ら愛す 孤根 暗香を抱くを
寧随百卉競時粧 寧ろ百卉に随いて時粧を競わんや
多年悪雨狂風裏 多年 悪雨 狂風の裏
獨立寒雲冷石傍 獨り立つ寒雲 冷石の傍

 多くの詩歌は梅花の清らかさや得も言えぬ香に心を惹かれているが、この詩に至って初めて、その強靱な生き様「耐雪梅花麗」が注視されている。

   詠 梅   賴山陽
一株臨水静龍蟠 一株水に臨んで静龍蟠まる
擬養孤芳傲歳寒 孤芳を養ひ歳寒に傲らんと擬す
自有松篁足相伴 自ら松篁の相伴ふに足る有り
休過檣去索人看 檣を過ぎ去って人看を索むるを休めよ
 この詩は寛政五年、山陽14歳の作品。厳寒の候に霜雪を凌ぎ、敢えて水辺に臨み、ひとり芳香を漂わせ、人目を惹くような、さもしい態度をとることを慎んでいる。龍のように毅然とした佇まいを詠み、「癸丑歳偶作」に次いで自ら権門に媚びない確固たる信念として一生を貫いている。
 「淡粧素服・風神超凡(玉蘊)風韵清秀(細香)」理想の妻と目しながら結ばれなかった二人の才女、玉蘊・細香の姿をも彷彿させる。
   梅 五
逼観偏好臨流影 逼り観て偏へに好し流れに臨む影
遙望逾佳倚竹姿 遙かに望んで逾々佳し竹に倚る姿
一歳會心何日是 一歳の會心何れ日か是なる
野航微雪訪君時 野航の微雪君を訪ふの時

 茶山が求める理想の梅の修景か。茶山の詩風にも類似している。流れに臨み竹に凭れる梅に野を渡って来る微かな粉雪が掠めて行く。
茶山・山陽、一時代を画した師友の詩に相通ずる趣を感ずる。

 昭和二十一年四月、至誠高等女学校を設立。初代校長に葛原しげるが就任した。
しげるは校章に「梅花」を選び、友人の清水良雄画伯にデザインを考案してもらっている。その考証に際し、古歌「難波津に 咲くやこの花 冬こもり 今を春辺と 咲くやこの花 此の力 人にあたりし 梅の花」を紹介、梅は竹と並んで「歳寒二雅」、「五清 梅、竹、松、蘭、芭蕉」の一として珍重されている と述べている。さらに、校歌については、終節に(日夕 諷詠 以て座右の銘となす)と付加している。

 校 歌  葛原しげる作詩 小松耕輔作曲
  第一節
よろづの花に 魁け咲きて
色香めでたき 白梅 紅そめ
雨を 風を 霜を 雪を
凌ぎたえて 強くはしく
しめすまことは 誠の使命
はたすと かさすは ほこりの印

 梅について言えば、しげるは鈴鹿秀磨翁遺詠「梅のうた」(備南文化協会 昭和二十三年三月)を出版している。父二郎の遺志を継ぎ編集・出版した。
祖父葛原勾当の日記によれば、天保九年(一八三七)四月九日、勾当27歳は秀満宅を訪ね、和歌の指導を受けている。師弟の縁で葛原家に収蔵されていた秀満の和歌を貴重な文化遺産として後世に伝えようとしたのであろう。

 茶山と勾当、直の接点はないが、「耐雪梅花麗」梅・秀満を通じて茶山と結ばれている。備後教育・文化に繋がる不思議な縁の糸に驚くばかりである。
  菅茶山顕彰会定例総会開催
   佐藤昭嗣氏アンコール記念講演


 五月十八日、真夏日、神辺商工文化センターで平成二十八年度菅茶山顕彰会定例総会が開催された。
 鵜野会長が①廉塾、保存・活用計画については策定委員会が来年三月を目途に検討協議中②本会は来年結成から三十年目を迎える。
茶山の遺芳・遺徳・為人の持続的伝承のため、昨年度から研修を実施、会員の増加も視野に顕彰会の灯を絶やさない努力を続けているが一定の成果を治めている とあいさつ。

次いで、武村充大氏を議長に選出、議事に入った。①平成二十七年度事業報告②平成二十七年度会計決算報告③平成二十八年度事業計画安④平成二十八年度予算案と円滑に議事が進められ、満場一致で承認された。
 本年度は①会報 内容についての忌憚のない意見と寄稿依頼②研修 菅茶山学習会ご案内③その他 茶山ポエムart&music コンクールについてはそれぞれ窓口から補足説明があった。
写真③ 定期総会記念講演

 一旦休憩後、佐藤昭嗣氏による「近世古地図川北村絵図から解ること」と題した講演があった。佐藤氏は十三年前、平成十五年度本会総会「神辺城の頃」に次ぐアンコール出演。

平成十九年に入手した「安那郡川北村絵図」(天和三年)、それに「地籍図」(明治三十年)を重ね、地元の人たちのみが使っている地名(小字)やその後の発掘調査などから、新たに解明された「神辺城下町」そこかしこについて語られる内容に、出席者一同、現地を訪ね当てながら終始熱心に耳を傾けた。

   神辺駅  菅茶山
黄葉山前古郡城 黄葉山前 古郡城
空濠荒驛半榛荊 空濠 荒驛 半ばは榛荊
一區蔬圃羽柴館 一區の蔬圃は羽柴の館
數戸村烟毛利營 數戸の村烟は毛利の營

佐藤昭嗣氏記念講演(要旨)
 元和五年、福山藩の始祖水野勝成によって、黄葉山・神辺城と城下町は福山へ全面移転。武士は各地へ分散。農工商民が根づいた。
神辺大明神(天別豊姫神社)周辺は大銀杏の傍に杉原屋舗など、一帯は古屋(小屋・固屋とも書く)の地名が残る「武家屋敷」群。堀が重々にあったが、新開(農地)になった。高屋川南土手沿い太閤屋敷裏から妙立寺裏にかけての低地は濠田と呼ばれ、堀跡と伝えられている。
現神辺本陣近くの「掛の橋」は湯野に通ずる幹線、木製の太鼓橋が架かっていた。天文十二年四月から天文一七年九月まで足掛け六年におよぶ神辺城合戦(尼子方山名忠興vs大内方平賀隆宗・茶臼山)攻防の激戦地。「かけ」は「弓矢を掛ける」、それとも、「駆」「駈」か。川北には厩舎跡か、「馬屋分」の地名も残っている。

 強者どもの夢の跡は、戦略上、鈎辻の多い通りをそのままに、羽柴館や毛利營伝説を遺す西国街道の宿場町に変身した。かんなべは鄙僻にあったが、巨人茶山の住む宿場町として国中で知らぬ者は無かった。(文責 編集子)
  茶山ゆかりの地を訪ねて
  丁谷梅林と西福寺


 二月七日、前年度掉尾を飾る「茶山ゆかりの地訪問」が行われた。猪原副会長以下、一般からの有志も含め21名が参加した。

講師は郷土史研究家武田武美理事。スタートの神辺公民館前茶山詩碑を背に、先ずは自分が手にした竹製の杖からオリエンテーション。この詩にも詠まれている茶山愛用「九節杖」の銘がある逸品と同じ四川省産。文政十年(一八二七)、茶山葬儀後、賴山陽が形見分けにもらったが、上洛途上、船中で紛失、大塩平八郎に探してもらったという逸話が残されている と。

①茶山詩碑「丁谷餞子成卒賦」
  数宵閑話毎三更 未盡仳離十載情
  送者停筇客頻顧 梅花香裏夕陽傾

父春水と親友の茶山の計らいで、廉塾の都講として神辺にやって来た山陽、僅か一年余で後足で砂をかけるように茶山の許を去ってしまった。
それから十三年の歳月が流れ、文政七年(一八二四)山陽は広島から京都へ向かう途中、茶山77歳を訪ね、三日間逗留、連日、夜更けまで旧交を温める。それでも名残りが尽きず出立の日、丁谷梅林まで見送り、酒を酌み交わしながら別れを惜しんだ。その場で唱酬した一連の詩の一首。
梅林では石碑「茶山山陽餞飲之所」に集まり、寒空の下、未だ三分咲きの梅花を愛でた。 

②養老公民館前 鈴鹿秀麿の歌碑
 丁谷梅林への復路、鈴鹿秀麿の歌碑の前に立った。

「わけいれば 袖もたもとも 薫るなり よほろの谷の梅の中道」

歌人鈴鹿秀麿は天別豊姫神社の神官で茶山の弟子、国学・和歌を笠岡・敬業館の小寺淸先・清之父子に学んでいる。

③西福寺「菅茶山詩碑&小早川文吾の墓」
 結びは県立神辺高校真裏の普門山西福寺。本堂前に「西福寺賞梅」の詩碑がある。廉塾から直近の場所柄、茶山も詩友を誘って屡々訪れたようである。菅波信道が「菅波信道一代記」にこの時の「西福寺にて詩会の図」(左)を残している。
 写真④ 西福寺にて詩会の図
(「菅波信道一代記」菅波信道著 より)

   西福寺賞梅   菅 茶山
  品茶琢句坐斜陽 閑事偏知春日長
  暮鳥還棲驚有客 梅花花底小僧房

「同好の仲間と梅花下を占拠、我が物顔に茶を嗜み、詩を詠んで、のんびり長い春日を過ごしていたら、夕暮れが迫り、塒を求めて帰ってきた小鳥を驚かしたらしい。ゴメンネ」の詩を残している。弱者への茶山の優しい心づかいが瞥見される。

 本堂西には、小早川楽々翁こと小早川文吾の墓がある。彼の業績を偲んで、昭和29年、菅茶山研究家として著名な重政雄造(雅号黄山)撰書の墓誌が建立されている。
   ***   ***   ***
小早川文吾
 小早川文吾は、天明二年(一七八二)神辺町川北に生まれた。名は戇(オロカ)、字は景汲、通称文、楽々翁、楽々齊と称した。文政年間頃まで七日市街道筋、東本陣の西隣、屋号春秋園に起居、その後、街道西斜め筋向い、現「小早川文吾旧宅跡」(木標)に居住。
茶山・山陽の弟子で藤井暮庵、門田朴齋、菅波信道らと親密に交流。詩文に長け、作字(合成文字)を余技としていた。
退塾後は家業の医者をしながら塾を開いて近隣の子弟の教育に当っていた。晩年、失明したが、それでも講義を続けた。
明治十三年五月十三日、99歳で病歿した。
  菅茶山墓参に地元児童も
    鵜野会長 菅家墓所案内


 八月十三日、恒例の菅茶山墓参の集いが行われた。
鵜野会長以下24名の理事並びに地元帰南・朝日会の児童が参加、御霊屋周辺の清掃作業後、茶山の墓に線香を供え、霊を弔った。あいさつで、鵜野会長は子ども達に茶山とその近くに眠る近親者の墓について説明した。

菅家墓地は西に黄葉山を背負い、南北に長い長方形。小路を登ると墓地入口、樹齢200~300年と推定される巨大な楠樹の傍らの儒教式御霊屋に祀られている茶山の墓がある。両脇に廉塾の後継者、姪孫菅三郞(自牧齋)とその母、姪敬、その南東、末裔菅禮太郎(菅好雄の父)の墓に見守られている。

 日田咸宜園広瀬淡窓の弟旭荘は、歿前の床に伏していた茶山の許に二カ月滞在した。日田から備後に帰るという僧にその当時を回想、墓前に託した詩がある。

黄葉山前黄葉秋 黄葉山前 黄葉の秋
師今帰處我曾遊 師 今帰る處 我曾て遊ぶ
傷心最是詩翁墓 傷心 最も是 詩翁の墓
復有人来澆酒不 復た人の来りて酒を澆ぐ人有や不や

 子ども好きの茶翁、この日、酒を澆ぐ人こそいなかったが、日頃、見かけることの少ない地元の子どもたちに囲まれ大層ご満悦だったにちがいない。

 菅茶山先生のおはか参り
   福山市立神辺小学校四年 小林伸輝

 今日、八月十三日は、菅茶山先生の命日です。
僕は、去年も行ったので、お母さんをさそって菅茶山先生のおはか参りに行きました。僕は線香を立てて、手を合わせました。
菅茶山先生は、貧しい人には安く勉強させたと学校で習いました。
菅茶山先生の学問を広めることで、神辺の町を良くしたいという考えを知り、すばらしいと思いました。
菅茶山先生の教えのとおり、僕も勉強をがんばります。

写真⑤ 茶山墓参の集い
   菅茶山をとりまくひとびと
   講師に藤井登美子先生


 七月十三日、菅茶山記念館で歴史小説家藤井登美子先生の講演「菅茶山をとりまく人々」があった。
最新作「草魂の賦」などで油の乗りきった先生の講演とあって会場を埋め尽し聴衆が「楽しく分り易い話」に耳を傾けた。

 江戸後期、日本一の儒学者、漢詩人、教育者として神辺を日本全国に知らしめた菅茶山をとりまく多くのひとびとの中から、隣国の西山拙齋、賴春水の二人が選ばれた。
拙齋、春水なくして茶山なし。水魚の交わりを通じて、ともに朱子学者として十字架を背負っていた。
就中、明和一揆という未曾有の飢餓時代真只中、拙齋は尊皇の立場から藩儒を固辞、私塾「欽塾」主として、春水は廣島藩シンクタンクとして藩儒を拝命、茶山は郷塾と一度は遜辞した藩儒として、三者三様の道を選んだ。
その志向は軌を一にしている。「無知であるが故に権力に振り回されている」社会を是正し、社会と人々との融合を目指して学種を蒔き続けようとした。鴨方に三人の刎頸の契りを証す西山處士之碑が遺されている。
   茶山ゆかりの詩碑めぐり
   龍泉寺から東福院へ


 十一月二十六日、茶山学習会の一つ、茶山詩の舞台めぐりがあった。この日の参加者 は8名、武田恂治事務局長、武田武美理事の案内で、車に乗り合わせ次の町内二カ寺を回った。

 龍泉寺では、詩碑「龍泉寺櫻」を見学、神辺城合戦で自刃した総大将目黒新左衛門秋光の墓、藤井暮庵一族の墓などを礼拝した。
東福院では詩碑「閑行」、本堂で読経後、金尾英俊住職の特別な計らいで客間に通され茶山自筆の軸装「閑行」を鑑賞させてもらった。

①新宮山龍泉寺

  龍泉寺櫻 寺有忘友蘭水墓 
老樹移來幾百春 老樹移し來って幾百春
年々麗艶占芳辰 年々麗艶芳辰を占む
林東有墓生苔鮮 林東墓有り苔鮮を生ず
曾是花前闘酒人 曾て是れ花前酒を闘わせし人

蘭水は茶山最初の弟子藤井暮庵の父藤井治郎左右衞門、この寺の「車返しの櫻」、京から移植、花見客が「車を引き返させ、もう一度眺めた」と伝えられる美しく艶やかな櫻花とは裏腹に墓には苔が生えている。
生前、毎年、この櫻を眺めながら詩酒を汲み交わしていた相棒だったのに と故人を偲んでいる。

写真⑥ 茶山詩碑 龍泉寺櫻 

②目黒新左衛門秋光最期の事
 戦国時代、天文十二年から始まったここ神辺での出雲尼子方山名忠興(神辺城・村尾城)・周防大内方(毛利)平賀隆宗(要害山城・天神城)合戦で、勝敗の目途がつきそうにもない長期戦に終止符をつけようと、隆宗は忠興に自らを的に二筋弓矢を受け、もし外れたら城を明け渡すことを提案、忠興も快諾した。

天文十九年十月十三日、月光下の城外、両雄の決闘。音に聞こえた弓矢の名人忠興、最初の矢・・・。見事に隆宗の胸に命中したが、隆宗は痛みを堪え大音声に「外れた」と嘲笑った。動揺した忠興は二の矢を外してしまった。
忠興は約束どおり城を明け渡し、月山富田城尼子晴久の元へ退却して行った。

中途、忠興は晴久の命を承け援軍を率い南下中の総大将目黒新左衛門秋光と出会った。
秋光は事の次第を聞き「平賀をうち破れなければ、二度と雲州へは帰らない」と約束した主君晴久へ顔向けができないと全軍を返し、単独で神辺城に向かい、敵将隆宗に介錯を求め、城近くの寺で自刃した。

後に福島正則の家臣として神辺城にやって来た末裔政貫が龍泉寺を中興、墓地に秋光と殉死した家臣の霊を弔った。

③湯野山東福院

  閑 行(一)
経邱渡水惜春闌  邱を経(て)水を渡り春の闌(たけ)るを惜み  
毎見櫻花轍就看 櫻花を見る毎に轍(すなわ)ち就いて看る
東院一株全爛々 東院の一株全く爛々
南池三樹半摧残 南池の三樹半ば摧(さい)残(ざん)す

写真⑦ 茶山詩碑 閑 行

 東福院來由記(住職覺本 文政五年 得能正能編)によると、覺本とその弟子教道も茶山に学び、覺本の師 央本法印は耻庵と同じく京都に学び、親交があった。

 詩の櫻樹については、「枝葉繁茂し、花殊に美麗なり、之を臨めば一株の雲の如し、近鄕比ひ稀なり」更に「東福院本尊 此村湯迫ト云所ニ温泉出シ時ノ湯薬師」との言い伝えから「温泉の霊に比すべからずと雖も、然も亦如来の余光なる歎」と述べている。詩中、「南池」とは「平田池」としている。
閑行(二)の存在は余り知られていない。
  出雲神話の郷めぐり
   須佐神社から出雲大社へ


 十一月二十九日、鵜野会長以下二十四名が研修旅行に参加した。運良く雨を車中でやり過ごし、福山東ICからやまなみ街道経由、神話の国への旅を楽しんだ。

 写真⑧ 出雲大社御正殿にて

往路、鵜野会長と白神直孝理事が研修講座。会長は初の参加者向けに「略年表」による分かりやすい茶山八十年の生涯、白神直孝氏は「杵築神社」こと「出雲大社」についてのトーク。

 八岐大蛇退治で有名な素戔嗚尊を祀った須佐神社参拝に始まり、島根ワイナリーで工場見学・昼食・ショッピング、古代出雲歴史博物館見学。出雲市荒神遺跡で発掘された419点の銅剣・銅鐸・銅矛(国宝)に驚嘆。
結びは茶山生誕の四年前、延享元年、出雲藩主松平直政によって造営された現「出雲大社」。祭神は大国主命。
年格好から大方の参加者が孫の良縁を祈願しての「二礼四拍手一礼」であったように思う。
 「まんが福山の歴史・神辺編」発刊
 茶山ポエムart&music作品募集

   
 九月初旬、「まんが福山の歴史・神辺編」(中山善照著 神辺創成の会 代表三宅真一郎)が発刊された。
平成四年に発刊された「まんが物語り 神辺の歴史」の改訂版。待望久しい「廉塾」が修復されるのを機に、茶山文化を中心に神辺を広く全国に発信、神辺の活性化を図りたいの希い。
前回、頁数の関係で割愛せざるを得なかった菅茶山・葛原しげるをメインに、とっつきにくい茶山詩を子どもにも分かるように、やさしい言葉に意訳し、それを題材にした挿絵・書・カリグラフィ・曲を懸賞金付で公募している。
第一回目は二〇一七年二月締め切り、四月初旬入選発表。本顕彰会をはじめ、町内関係文化団体が協賛、菅茶山記念館が後援する。
  『菅波信道一代記』を読む
   末孫 哲郎氏が七連続講座


 平成二十八年九月十六日から翌年三月まで、神辺公民館でシリーズ教育講座「『菅波信道一代記』を読む」が開講された。
講師は信道の末孫菅波哲郎氏。全七回、近世神辺宿の歴史と併せて、パワーポイントでふんだんに紹介される秘蔵の映像に魅せられ、夜間を厭わず出席者が精勤、熱心に傾聴した。

 菅波序平信道は備中国連島の人、「医業を求めん」と茶山の門人になった。茶山に勧められ、文化八年、20歳で尾道屋菅波家に入婿、第十一代序平を襲名した。当時、酒造業を営んでいた尾道屋は多額の借財を抱えていた。序平は「旦那心をうち捨て」懸命に働き遂に尾道屋を再興させた。

 天保六年、序平44歳の厄年に突然失明、天保十二年、50歳を迎え、万延元年頃まで、自らの生き方、家風、当時の世情、天災地変などを口述筆記させ、その場面を小川元彦に描かせた一代記を編纂した。

 目録、巻之序、前編33、後編4,自叙伝、挿絵(宿周辺の風俗、日常生活など)326点。
信道が口述。記述 佐藤義秀、画工 平安俊点、書画 石井盈武が協力。
序文 小早川文吾、鈴鹿秀磨。全編、七五調の和文で記述されている。小早川の書作、鈴鹿の和歌も収められている。

 菅波氏によれば、宿駅制度により都市基盤の整備が進められている。神辺宿は、廉塾・茶山を核とする全国ネットの文化交流・ソフト面の遺産に留まらず、往時の建造物・本陣などが現存、その内部装飾、掛け軸(登龍図・東方朔図・降龍図)・屏風(表 揚羽蝶 裏 桐葉散らし模様)・襖(千鳥群飛)・戸袋(四季山水図)などハード面の遺産も往時のまま保存、後世に継承されている。神辺宿に散在する歴史的遺産の存在意義は計り知れない と。
   義民定藤仙助の墓案内板除幕
   二五〇年ぶりの法要


 三月十五日、神辺町竹尋小学校南の山中にある明和一揆義民定藤仙助の墓前で案内板の除幕式が行われた。
「埋もれた郷土の歴史や文化を掘り起こしたい」主催団体「神辺ふるさと会」
この日は重政隆人事務局長、仙助の子孫貞任邦広さんら80名余が見守る中、墓地周辺整備に尽力された原田進さん、藤井登美子先生の手で案内板の除幕、次いで明正寺藤間祐淳住職による法要が行われた。

定藤仙助については、藤井登美子先生の歴史小説「草魂の賦」に詳しい。
江戸時代、享保、宝暦、明和、天明、天保年間に飢饉が続発した。
明和一揆は明和五・六・七年、長雨その後の干ばつで大凶作。それに明和七年、三代藩主正右、大殿正福の死去、急遽、家督相続となった四代藩主正倫はこれより前の明和三年、松平信鴻息女おみち姫との豪勢な婚儀、阿部屋敷の火事など出費が重なった。
老中正右は自藩の一揆を想定、厳格な弾圧令を発していたが、病歿。四代藩主正倫は父への孝養心から心ならずも厳令に則り一揆の首謀者に厳罰を処した。

渠首固知夷三族 渠首は固より三族を夷るるを知る
號哭唯希達九閽 號哭して唯九閽に達するを希む

 一揆終結後の安永二年二月、仙助は北川六右衛門、渡邉好右衛門とともに打ち首、獄門の極刑に処せられたばかりか、首謀者として彼の家族も闕所、財産没収、所払い、坂瀬川(神石高原町)に移った。しかし、巷間では「逃げた」という不名誉な噂が広まっていた。
前日までの雨があがった、この日、一族郎党が蒙った汚名が実に二百五十年ぶりに雪がれた。青空がひろがる穏やかな春日であった。
   ***   ***  ***

  義民小林嘉忠治が騒動の全責任
   未遂の天保一揆で打首


 九月二十三日、道上公民館主催の歴史講座が同館2階で開かれた。講師は藤井登美子先生。
急遽、補助椅子が用意されたるほど満員の聴衆を前に、地元道上村の義民小林嘉忠治について講演。以下は講演要旨。

 福山藩では享保・宝暦・明和・天明・天保年間に五度に及ぶ百姓一揆が勃発している。  
五代藩主阿部正寧治政下、天保二年大雨大洪水にも拘わらず藩は無策で、藩内安那・深津・沼隈・品治・芦田郡で一揆を誘発する農民の不穏な動きが頻発した。
蛇園山山頂に狼煙が上がったり、夜な夜な一揆の(蓑笠)装束をした者が出没、東福院や国分寺の鐘を撞いたり、各戸の戸を叩き回って一揆に誘い、応じなければ戸など打ち砕かれたなどの情報に、捕り手も躍起になって情報収集、凡そ百人許が拘束され、昼夜拷問を受けた。

百姓一揆は天下の大罪、在任中、享保・宝暦・明和の一揆に直面した三代藩主正右の弾圧令強化で首謀者は死罪、科は家族にまで及ぶ。それを覚悟の上で、衆望を承け、進退窮まった農民の苦衷を黙過するに忍びずこの一揆収束のため我が身命を挺したのが義民小林嘉忠治である。

 小林嘉忠治「屋号表庄屋小林安右衛門の子、
安右衛門を襲名し、精悍にして気骨あり、雄弁にして事理に通じ、正義の念強く、義侠の人たり」(道上村史)
 当初、嘉忠治は穏便な「代官所」ルートで①検見の要請②年貢納期限の延期もしくは軽減③お助け米の放出④未納の年貢の納入期限延長など救貧策を直言、一揆は未遂に終るかに見えた。

 その直後、藩に対する二十一カ条の願い事を掲げた貼り紙事件が起こり、逮捕者が続出、冤罪・拷問に苦悶した。これらの犠牲者を救うため、嘉忠治は自ら一切の責任を負い入牢、天保三年十二月二十六日、吉津の刑場で死罪となった。
嘉忠治は密かに晴曜山寶鏡院浄光寺(道上)に葬られた。こうした犠牲者のならい、墓石に天保三年二月歿と刻まれている。

 翌天保四年夏、蝗が大発生、農作物が大きな被害を受けた。明治十四年にも蝗の大群が襲来した。人々はこれを嘉忠治の化身「嘉忠治虫」と呼び、村々に祠を建てその霊を慰めた。
しかし、不惜身命の義人を「虫」呼ばわりするとはいかがなものか・・・。(文責 編集子)
   宮原直倁顕彰会発足
   一心寺で転墓開眼法要


 十月八日、福山市寺町一心寺で福山市重要文化財「備陽六郡志」の著者宮原直倁顕彰会(会長 池口義人)が、無縁仏の中に保存されていた宮原直倁墓石を境内入口に移転、開眼法要を行った。

 墓前では、高橋孝一氏の草笛の序奏、一心寺加藤宣敬住職読経の後、参列者の焼香、橋本征四郎神辺文化連盟会長献詩吟詠、続いて本堂で読経。
あいさつで、加藤住職は、短い準備期間で直倁命日、十月六日直近の本日、開眼法要に漕ぎ着けた藤井登美子・神谷和孝両氏の熱意と尽力に敬意を表した。
池口会長は、昭和二年、原本校正・活字出版時の「序文」(刻苦精励数十年、完成された四十余巻、備後の郷土史として空前の大著、後年、菅茶山、福山志料編纂に本書引用していることからその価値が窺える。
賴山陽幽閉されて日本外史あり、翁不遇にして六郡志の著あり。古今その軌を一にすること斯くの如し)を引用、あいさつを結んだ。
神谷事務局長は、「草魂の賦」出版を起点に初対面。僅か半年ばかりの二百四十回忌に、墓石開眼・記念碑建立の希いを一つにした加藤住職と「備陽六郡志」原本市文化財認定の労を執った池口会長に謝意を表した。
その後、本顕彰会発足と開眼法要の端緒を掘り起こした最大の功労者、藤井先生の記念講演など盛り沢山の行事があった。

   ***   ***  ***

  御領古墳群と堂々川砂留めと
   湯田公民館がさわやかウオーク


 三月六日、七十五名もの参加者が「さわやかウオーキング」(主催 湯田公民館)を楽しんだ。
講師は土肥徳之御領発古代ロマンを蘇らせる会代表。永年にわたる日常的な奉仕活動で知り尽くした我が庭先同然のガイドコース、立て板に水、水を得た魚顔負けの説明に耳を傾けながら、山頂から眼下に広がる神辺平野とスケールの大きな御領古墳群を堪能。参加者一同感激した。

 今は昔、門田朴齋は正方元治元年(一八六四年)十月十八日、九代藩主阿部正方公、初の領内巡視に随行、同じ八畳岩に登った。人里離れた不便な片田舎、村中総出の老若男女が出迎える中、農事視察のため八丈巖までの曲がりくねった路を登った藩侯、期待される人間像「剛直者」とは朴齋自身の自画像でもあろうか。

八畳巌 門田朴齋
戴白垂髫擁轡銜 戴白垂髫轡銜を擁す
孤村遠野問鋤芟 孤村遠野鋤芟を問ふ
誰知更愛剛直者 誰か知らむ更に剛直者を愛するを
迂路登観八畳巌 路を迂げて登り観る八畳巌

   ***   ***  ***

  堂々川ホタル同好会
    福山ブランド登録活動に認定


 五月十日、市都市ブランド戦略推進協は第二回の「福山ブランド」十三件の一つとして、「堂々川ホタル同好会」(代表 土肥徳之)の活動「堂々川 ホタルと花と砂留と」を認定した。
第一弾の「廉塾ふれ愛ボランティア絆の会」や「御領の古代ロマンを蘇らせる会」四団体と連帯して、神辺ブランド発信のため頑張ってもらいたい。

 五月二十三日、「朝日新聞」に「竹田のゲンジボタル復活」のニュースが載った。
地元の高橋順二さんら「竹田ぼたるを守る会」(吉岡正勝会長)が県内唯一の天然記念物「竹田のゲンジボタル及び発生地」として一九五八年指定)、茶山詩にも遺されている夏の風物詩復活のため、四年ほど前から「堂々川ホタル同好会」の協力を得て、下竹田狭間川流域の清流を取り戻す取り組みの努力の賜物。
 茶山も天国で在りし日の想い出に耽りながら「竹田夜帰」や「螢七首」など𦾔詩巻を読み返していることだろう。

   竹田夜帰
漁伴携帰咲語喧 漁伴携え(一緒に)帰り咲語喧し
水禽驚起出林翻 水禽驚き起ち林を出て翻る
竹田村畔渓橋路 竹田村畔 渓橋の路
蛍火群飛夜不昏 蛍火群れ飛んで夜昏からず
   全国砂留シンポ
  三小学校児童の活動発表も


十月九日、神辺文化会館で「御領の古代ロマンを蘇らせる会」(高橋孝一会長)主催全国砂留シンポジウムが開催され、小学生から後期高齢者まで三世代が一堂に会し、「今、三世代が守る堂々川 砂留は時代を超えた宝もの」をテーマに、来し方、行く末を語り合った。
福山市立大学宇佐見春乃さん、原田明穂さん両名が総合司会。

高橋会長が、東日本、広島に相次ぐ熊本大地震と、近年、災害は忘れない中にやって來る。
ここ神辺でも江戸時代、堂々川が氾濫、63人もの犠牲者が出た。現在、悲しい歴史を伝える日本一美しい砂留が残されている。その背後にある諸課題とその持続可能な解決方法を探りたい とあいさつ。

第一部―「歴史と自然と環境」では民話、鬼の「ゴンとハチ」DVD放映と市内三小学校児童の活動報告。

①西小学校
 生命をつなぐ福山の史跡学習の中で 堂々川への遠足を通じて不法投棄に実態を知り、「美しい姿のまま未来へ」を希い行動へ。二〇〇六年、彼岸花の球根を植える作業などに参加。熊本地震では思いを形にするための行動、支援カンパに立ち上がった。

②中条小学校
 中条環境プロジェクト 日常的に、地元の人々の活動に参加。ホタル、花、砂留をテーマにポスター・砂留近くの寒水寺への古道案内標識など作成、水質調査、カワニナの放流、彼岸花を植える作業などに協力。
最近では中条の自然を守るため、校内・校庭のゴミ拾いからスタート、現在では一斉下校途上の活動に広げている。校内外の実践を通じて、「意識すると、これまで気付かなかったことが見えてくる。」

③御野小学校
 「承け継ぐ伝統、新しさに挑戦」が校昰。百三十年の歴史を誇る。校庭にある欅の巨木をモチーフに愛称「ケヤッキー」キャラクターとダンス付愛唱歌も創り誇るべき校史を伝えている。
堂々川ホタル同好会に互して、彼岸花の植え付け、水質調査などに協力している。
「だれかでなくて、僕がする」地域をきれいに!をモット―に、日々、下校途上のゴミ拾いやパンジー花壇で広く地域を飾るなどの活動を行っている。ゴミは先占ゴミがない所には捨て憎いのが人間心理と学んで。

第二部 記念講演「芦田川下流域 神辺地区の御領遺跡と砂留遺構の歴史伝承」
      講師 尾島勝福山大学宮地茂記念館館長
 備後福山の母なる川、芦田川は縄文前期河口部では海水が神辺平野の奥深くまで侵入、穴海と呼ばれ、高屋川、加茂川、神谷川は、直接海に注いでいた。
河口部の洗谷貝塚、宮脇遺跡、亀山・大宮・御領遺跡などが、貴重な古代文明の証を今に伝えている。

御領遺跡は縄文後期~、BC一〇〇〇年~、環濠集落、初期農耕集落。南北14km、東西1.6km、日本屈指の広さと内容を有している。昨年、卑弥呼時代の船絵土器の発見で話題になった。
芦田川流域の遺構には、草戸千軒遺跡、福山城下の上水道施設(開渠)、堂々川・別所・金名砂留(砂防堰堤)などがある。

延宝元年、堂々川の氾濫により国分寺が流失、63人もの犠牲者が出た。
砂留普請は水野時代から洪水防禦対策として周辺村民の願いであったが、約二十四年間、手つかずのまま、漸く、享保七年、阿部正福時代に着工された。構造形式は三種類。一番規模が大きく美しい六番砂留をはじめ八基が平成十八年に登録有形文化財に指定された。

写真⑨ 全国砂留シンポジューム

「歴史的砂留の伝承こそ教育」と結んだ講演後、パネルディスカッションが行われた。コーディネーターは向井厚志福山市立大学教授。
パネラーはボランティア、加藤輝和牛伏鉢友の会長(長野県)、田中保士田倉川暮らしの会代表(福井県)、地元から別所砂留を守る会光成良秀会長(芦田町)、御領の古代ロマンを蘇らせる会代表土肥徳之事務局長(神辺町)、行政から友道康仁広島県東部建設事務所長、蒲原潤一長野県建設部参事兼砂防課長の五氏。

 博物館の中ではなく、自然環境の中にある人気のない文化財の砂留、放置されたら崩壊の一途を辿る。
長野県牛伏川階段工(重要文化財)の成功例は別として、何処のボランティアも寄る年波に耐えながら毎日が問題点の山積。砂留の認知と保全は如何にあるべきか。現状は、不法投棄との戦い。自然を見ながら永続的に歴史的な現役の防災・減災遺産を守り育てる。情報発信、学習会、イベントなどによる啓蒙と維持管理活動。次世代を巻き込むため学校、地域、行政と連携が急務 と。

 地元堂々川では、日常的なゴミ拾い・不法投棄監視、彼岸花の植栽などの整美活動。ホタルの飛び交う砂留に連動する水質・生き物調査などフィールドワーク、出前講座など。
年に一度のフェスティバル、時に大学生とノミニケーション(獣肉バーベキュー)、小学生とはスイカの種飛ばしコンテストなどのアトラクションも。都市部からの協力会員(老若男女不問)募集にも取り組んでいる。

 翌十日には、フィールドワーク、別所砂留(芦田町)、堂々川砂留、御領古墳巡りをした後、御野小学校で行われた古墳祭りにも参加、一連の行事を大成功裡に締め括った。

 神辺歴史民俗資料館では九月三十日から十一月二十七日まで「2016年秋季企画展 国登録有形文化財 堂々川の砂留」が開催され、解説パネル、砂留の今昔・模型・周辺の四季などの写真が展示された。
昭和三十四年、至誠学園創立二十五周年誌に、葛原校長が、天災が少ない故郷に「産んで下さった」両親に感謝を呼びかけているが、近年、福山市にも福山北・鞆・長者ヶ原と三活断層が確認されている。
地域住民の日常的に安心安全、防災への備えが不可欠である。
   生誕一三〇年葛原しげる展
    孫眞氏の記念講演も


 六月二十二日から七月二十四日まで、菅茶山記念館で「生誕一三〇年葛原しげる展」が開かれ、しげるの肉筆原稿や手書きの譜面、著作などが公開された。
七月二日には、孫の葛原眞氏が帰郷、「祖父・葛原しげるのこと~戦前・戦後の足跡をたどって」と題し、唱歌「夕日」で全国ネットのしげる七十五年の生涯で、後世に誇りうる業績ベスト6を選び思い出を語った。

①「翠渓歌集」大正2年発刊
 しげるは明治十九年六月二十五日、神辺町八尋で、父二郎(重倫)、母以津の次男として生まれた。
安那高等小学校、福山中学校(現誠之館高校)を経て、明治三十七年、東京高等師範学校に入学した。
 二年先輩に前田純孝(号 翠渓)がいた。与謝野鉄幹主宰の「明星」などに毎号短歌や詩を載せるほどの歌人、東の啄木、西の翠渓と呼ばれた。東京高師では音楽会で欧米の名曲に日本語の歌詞をつけて歌っていた。
純孝が卒業時しげるがその歌詞づくりを継承した。卒業後、純孝は教職に就いたが、結核に倒れ、収入の道を閉ざされていた。窮状を知りしげるは心ばかりを送るが、純孝が頑として拒むので、原稿料の形で支援していたが、31歳で他界した。
無名のまま忘れられて行くことを惜しんだしげるは夫人から預かっていた資料を生きた証として、与謝野晶子の追悼歌などを載せた歌集を出版、収益金を純孝の妻子に贈った。

②大塚講演会 大正三年設立
 東京高師の卒業生と現役学生から成るこども向けの話し方講習会。嘉納治五郎校長に背中を押され先輩の下位春吉とともに設立。博文館「少年世界」の編集主任という多忙な時期に、話し方のマニュアルの出版、講演を精力的にこなしていた。
一昨年、東京・武道館で百周年記念式典が行われ眞が招かれた。

③「新唱歌集」(竹久夢二装丁)「大正幼年唱歌」(葛原しげる作詩、小松耕輔・梁田貞作曲)大正四年
 この頃、しげるは小松耕輔・梁田貞らと毎週一回会合を開いて唱歌の研究をしていた。
その成果がこの歌集に総括されている。全十二編。大正八年には、この続編「大正少年唱歌」(全十二編編)を発刊している。
大正十年、有名な「夕日」を雑誌「白鳩」十月号に発表。室崎琴月が作曲。

④祖父「葛原勾当日記」編集 大正四年
 しげるの祖父柳三は八尋村矢田家の出身。3歳の時、両眼とも失明、京都で琴と三味線の技を磨き、葛原勾当の公称をもらった。帰郷後、矢田家から独立、寄稽古や出稽古で三備地方に生田流を広めた。
「葛原勾当日記」は46年間に及ぶ就業日記。弟子による「代筆日記」(文政八年~)と自ら考案した「木活字」を使った日記(天保八年~明治十五年)。
鈴鹿秀満に師事した和歌を含む口語体であることも注目に値する。自作の印刷用具については、昭和12年に来日したヘレンケラーが「東洋のタイプライター」と激賞した。木活字印刷用具、日記3帖11冊は昭和29年広島県重要文化財に指定された。

太宰治著「盲人独笑」などで知られるこの日記を父重倫名で編集出版している。他に、奇縁でしげると結ばれた小倉豊文(元広島大学教授)が漢字混じりの「葛原勾当日記」緑地社 昭和五十五年)を編集している。
なお、父二郎の遺志を継承、鈴鹿秀満翁遺詠「梅のうた」を編集している。

⑤第一回宮城道雄演奏会 大正八年
 勾当の長男は若くして他界、次男二郎、しげるの父が家督を継いだ。
大正三年、二郎は妹の結婚式のため上京中、多忙なしげるに代って福原麟太郎が東京見物の案内役を務めていた。
 折りから、当時無名だった箏曲家宮城道雄が京城から来日。尺八の吉田晴風を介してしげるに紹介された。箏の道に詳しい二郎も、有志による「試聴会」に同席、宮城の「水の変態」を聴いて、「お祖父さんの生まれ変わりだと思って手を引いて、そういうものを広く聞かせて上げなさい」と感想を述べた。

 この言葉でしげるは宮城の熱心で頼りがいのある後援者になった。かくて、第一回宮城道雄演奏会が成功裡に幕を閉じた。
次いでながら、第三回目の発表会の楽屋で、和田英松から、宮城の故郷は「神戸ではなく鞆」だと聞き、宮城に尋ねると、宮城はしげるが八尋の勾当の孫で、勾当のことも祖母からよく聞かされていて、そういう好から、よくしてくださるのだばかり思っていたと。機縁に二人は手を取り合って感動、さらに信頼関係を強固なものにした。

⑥至誠学園創立25周年・備南文集「わが郷土」発行 昭和三十四年
 昭和二十年3月、東京大空襲で勤務先の九段精華学校が、焼失、廃校になった。
4月、しげるは妻喜美子、娘三人、孫三人を伴い生家に疎開した。この間、戦争で長男、丘、次男、守を奪われている。因みに、眞氏は昭和二十三年二月二十一日、前年入婿した父隆と母安の長男として八尋で生まれたが、幼稚園時代から東京で暮らし、夏休みになると、夜行列車で帰省、祖父と一緒に暮らしていた。
 
 昭和二十一年、誠之館時代の旧友丸山鶴吉の要請で、鶴吉の姪出原冨子が経営する至誠女子高等学校校長に就任。
戦後の混乱期に自ら陣頭に立って学校の条件整備と教育内容の充実に努め、「いつもニコニコ、いつもピンピン」を旗印に、十四年間にわたって生徒や周囲の人々の信望を一身に集めた。

 昭和三十四年、至誠学園創立25周年事業の一つとして備南文集「わが郷土」が発行された。文芸部門に、井伏鱒二、木下夕爾、福原麟太郎、随筆部門に森戸辰男、宮澤喜一、小林和作、山代巴、久留島武彦、大妻コタカ、徳永豊など、錚々たる執筆者が名を連ねている。

 また、これら一連の記念事業として森戸辰男、久留島武彦の講演会、第三回宮城道雄名曲演奏会を開催した。お気づきであろうが、宮城道雄は昭和三十一年六月二十四日、急行「銀河」で大阪公演に向かう途中、愛知県刈谷市で転落、翌二十五日、奇しくもしげる七十歳の誕生日に、六十二歳の生涯を閉じている。
主亡き後のこの公演には、宮城社中トップ三人が来演している。しげると道雄と太い絆を物語る何よりの証であろう。
 とまれ、このようにして生徒や地域の人々絶えず直に一流の人・一級品に触れる機会を設け、備後の教育・文化発展に貢献している。

  交流サロン「にこにこ茶屋」開店 
   ニコピン先生旧宅で


 十月二十二日、葛原文化保存会が昨夏改修を終えた葛原勾当・しげる旧宅(神辺町八尋)を活用、地域の文化継承と活性化を希って「にこにこ茶屋」を始めた。
会の名称はしげるの口癖、「いつも元気でニコニコピンピン」にあやかり、毎月22日を定例日に充てている。
 初回のこの日、健康体操と一茶の俳句の朗読で体をほぐした後、二話のトークショー。

一話 高橋孝一氏 
 西ドイツなど海外生活の経験から、昭和63年、鞆から倉吉まで沿線の5青年会議所(倉吉、真庭、高梁、井原、福山)に、「ロマンチック街道313」を提唱、到底一人ではできない、皆が協力しあい行政の支援も得て、歴史、文化、自然、観光資源の発信を地域の活性化を呼びかけた。
「にこにこ茶屋」もそれに倣っての発信基地の一つ。

二話 藤井登美子先生
 故郷神辺が光り輝いた三時代について。
①古代、穴の国と呼ばれた弥生・縄文時代、大和王国に対抗する吉備国(備後)があって、豪族が住んでいた。奈良よりも大きい、横穴式古墳が多数散在する御領遺跡がそれを証明している。

②神辺城は戦国時代中期、城主杉原理興・盛重・元盛が死亡、福島正則を経て水野勝成が福山へ新しい城を築くに至って、備後の中心、戦略上の要衝としての価値を失い、宿場町として栄えていった。

③江戸時代中期―全国的に気温が低く、凶作が続き、大飢饉が起きた。農民は厳しい賦課の取り立てで進退窮まり、一揆を起こした。
備後国六郡中、安那郡から五名もの義民(頭取)が出た。義民は周囲から推され、然かも打ち首、獄門覚悟の指導者である。義民が五名も出たことは郷土の誇りである。
  特集 「茶山先生に学ぶ講座」

 その一 7月29日 神辺公民館
  「柳と蝦夷―「筆のすさび」より―」
                     菅波哲郎氏(元県立歴史博物館副館長)
はじめに
「筆のすさび」とは「思いのまま書き記す」の意。当時の社会における蘭学重視、儒学軽視の風潮などを憂い茶山が書き残したもの。木村雅壽の書写を元に、安政四年(一八五七)、弟子たちが出版。賴山陽の弟子、後藤機が序文を書いている。

その後、大正三年(一九一四)、「日本名歌随筆集」第一巻 吉川弘文館に、平成十五年(二〇〇三)には「現代文訳注本」菅茶山顕彰会  が活字本になり、現代に伝えられている。

 全四巻一六二話から二編を選んでの講演。菅波氏は、一編、僅か200~300字程度の随筆だが、その内容を裏打ちする多彩な人脈を活かした膨大な情報量に驚嘆する。

①「柳に数種ある事」
 廉塾には三種の柳が植えてあったがことが判る。最近発見された徳見茂四郎(長崎の貿易商)から茶山宛書状には、「当初、西湖の柳と聞いていたが、所を間違えて蘇州の柳という。
唐通詞の清川が出役した唐船で柳枝を見かけ、蘇州産と聞いて貰い受け自宅の庭に植えた。その柳を崇福寺(長崎市媽祖堂で有名)に植えたのであろう。その若木を貰い受けたものを茶山へ贈った。」との旨が記されている。

 往時、廉塾には柳が繁茂していたことは、伊澤蘭軒著「長崎紀行」、画人不明、岡本花亭賛「茶山肖像画」、「菅波信道一代記」挿絵、「茶山詩」に在りし日の姿を伝えている。
柳は日本では幽霊の背景として頻用されるが、中国では悪霊を避け、子宝を授かる縁起のよい木とされている。

 中国文化の影響か、茶山は柳のほか、朱熹(朱子学の祖)が愛した木犀の別称「金粟」を家塾名として「金粟園」と命名した。
廉塾西側の台所、茶山居所を「槐寮」と名づけ、学問の木と称されている槐の木を植えていた。
また、今も書庫の西に生い茂っている芭蕉などを詩に詠み込んでいる。柳、木犀、槐などの木が植栽されていたこのは茶山の中国趣味の一端を表している。

②「蝦夷」
 茶山は「蝦夷は大抵三角なる地にて・・・」の書き出しで、蝦夷地の東西南北の地形や地名を記している。
茶山は、寛政十二年(一八〇〇)には伊能忠敬図に先立つ近藤重蔵の「松前えそ図」を入手、文化十一年(一八一四)には、江戸で近藤重蔵と初めて会っている。こうした交流を通じて当時国家機密に近い蝦夷地図を入手したものと思われる。

 先住民族アイヌの容姿について「眉一文字につづきて髪長く多し」とその特徴を記している。このことは、親交のあった松前藩家老蠣﨑波響が描く「夷酋列像」によって知ったのであろう。
さらに、煙草用具・印籠・小刀などのアイヌ工芸品を所蔵しており、現在これらの品々は国内に存在するアイヌ工芸品の中で、制作年代が推定できる日本最古の工芸品と云われている。

 さらに、茶山収蔵品の中に、亜欧堂善作「ゼルマニア廓中之図」がある。この図は空想的な古代ローマ風景図を描いた版画であるが、これによって西欧都市の家並みが「石造り」であることを認知していただろう。これらのことは。鎖国下にありながら、茶山が蝦夷地や異国への強い関心を懐いていたことを自明にする。
中国など異国趣味への関心は、文化元年(一八〇四)5月、茶山が常陸国大田の徳川光圀の墓に詣でる旅行の際に詠んだ詩にも窺われる。

常遊雑詩(一〇) 
青蜒州盡鹿州東 青蜒州は盡く鹿州の東
錯道人寰至此窮 錯りて道う人寰此に至りて窮まる
嘆息地毬程九萬 嘆息す地球程九萬
蛮船有路四相通 蛮船有路り四に相通ず

(大意)日本列島の東端は鹿島灘で尽きる。世の人は此処が地の果てであるかのように誤って言う。地球は万里に及び、溜息が出るほど広大である。外国船は航路によって東西南北の四方、即ち世界中に通じている。
 その二 10月16日 神辺本陣
  「鞆で活躍した神辺の文人菅良平」
                    園尾裕氏(福山市教育委員会学芸員)


①菅波家の一族
 現神辺本陣の分家本庄屋(七日市)の分家が中屋、その三代目上本庄屋(新宅)黄葉夕陽村舎菅茶山―北条譲四郎、四代目下本庄屋菅良平である。

②茶山と良平
 菅良平(明和8年(一七七一)~天保6年(一八三五)は、茶山の末弟耻庵とは三つ年下、茶山の勧めで、天明7年、17歳の時、拙齋の欽塾に入門。後に家業が傾き大阪から鞆へ移り、屋号生玉堂(現太田住宅)で保命酒の製造・販売を生業とする六代目中村吉兵衛(号 應雅)と起居を共にする。

③良平の学問
 良平は25歳ころ、京都へ遊学、医学を学んだ。名医だったらしい。
耻庵の随筆に「平野村中の嫌われ者、大極道九平が暈絶、診察を乞われた某名医が見捨てていた命を救ったことで一躍有名になった。」件で、耻庵は良平が「小事を見て、大事を忘れている。某名医が施薬をしなかったのはきっと理由がある」 と。
京都では伴嵩蹊に和歌を学んだ。同門に中島宗隠がいる。、小沢蘆庵や上田秋成とも交流している。

④鞆へ移住して医業
 良平28歳は神辺で開業、34歳の時、鞆へ移住している。文化元年、中村吉兵衛の世話で、対潮楼下の借家から、現沼名神社南の小松寺付近の中村家借家へ引っ越し、この居を「聴松庵」と名づけた。
鞆では、清酒「梅香」酢「花の浪」など製造・販売で知られる豪商大阪屋上杉平佐衛門清直(号 閑鷗 通称 三島新助)や賴山陽、中島宗隠らと交遊している。

 山陽全書(書翰)によれば、山陽は文化八年閏二月六日、廉塾出奔三日前、心中を相談している。無論、良平は翻意を促したが聞き届けられなかった。
 文化十一年九月、山陽は廉塾出奔以来初めて京から西下、途中神辺に立ち寄り、良平に招かれ、藤井暮庵と鞆へ赴く。大阪屋で田能村竹田と面会している。

 中島宗隠と良平は伴嵩蹊塾の同門。山陽のライバル、宗隠の西遊を聞き、良平が鞆に招待、地元の二大財閥・風流人の上杉平佐衛門、中村吉兵衛を夫々の門楼「對酔楼」、「賽黄鶴楼」で引き合わせ、歓迎の宴を開いている。

⑤朝鮮通信使と「鞆浦図并対潮楼石摺屏風」の作成
 朝鮮通信使は江戸時代十二回のうち十一回鞆の津へ寄港している。正使、副使、従事官の宿舎に振り当てられた福禅寺・対潮楼には多くの文化遺産が残されている。
今、日韓両国で朝鮮通信使ユネスコの記録遺産登録を目指す動きが進んでいる。来春には朗報が届く可能性がある。
「鞆浦図并対潮楼石摺屏風」(六曲一双十二面)は右隻に通信使と応接する人物像に四枚の拓本、左隻に鞆の浦港と町並描画と十一枚の拓本、うち九枚が通信使が詠んだ五言律詩、二枚が茶山と良平の識語文である。画面から文化十一年、福山藩士杉野怡雲が描いたものと推測されている。

「日東第一形勝」の木額
茶山は正徳度通信使書の木版摺ができる木刻を鞆の人々に提案した。しかし、賛同を得られず、「日東第一形勝」のみ木刻した。茶山から未完の「三使書」の木刻の依頼された良平は三島新助こと大阪屋に相談、財政支援を得て完成した。

 その三 10月21日 神辺公民館
  廉塾と東本陣」―廉塾にて学文のこと―
                      菅波哲郎氏(元県立歴史博物館副館長)


①菅波信道
 文化四年、菅波信道(倉敷市出身)は医者を志望して廉塾に入門、茶山に目をかけられ、昼も夜も傍近くいて、書を読んだり、用事を言いつけられたりした。特に、倹約を厳しく躾けられた。先輩に諭され、中退を思い留まったこともあった。
ある時、茶翁に呼ばれ、儒学も医業も才と人望が無ければ難しい。勧められ菅氏本家の入り婿になって、家督を相続した。

②茶山の塾―金粟園と廉塾
 金粟園は茶山最初の塾、弟子の「藤井暮庵略記」などから、安永四年に開設、黄葉夕陽村舎(閭塾)は最近発見された文書から、寛政四年、創設、寛政八年、福山藩に塾舎に田畑を添え寄付、郷校として認められ、以後、廉塾と称した。
文化四年、神辺大火で自宅が焼失、以後、自宅からの通勤を止め、廉塾に住居を移した。

 私塾設立の動機について、神辺が「ことの外悪風俗之処」と表現しているが、「ことの外」に藩への配慮が窺える。
「廉塾図」(蠣﨑波響画・岡本花亭賛)は真景図、写真さながらに家屋や樹木が描かれているが、波響は神辺を訪れたことはない。
集古十種編集に携わった白雲上人、大野文泉が寛政十二年に、また、文泉は文化八年、林述齋に従って、廉塾を訪れていることから、波響は二人の作品を参考に画筆を揮ったものと思われる。

 廉塾に伝来した資料には、岡本花亭賛画不詳「菅茶山肖像画」、廉塾来訪者、伊能忠敬贈「孝經」、谷文晁画「磻蹊跪餌図」、大森黄谷画「山水図」、京での池大雅「天門山の図」、波響画「寛政甲寅中秋巨椋湖舟遊図」江戸での波響画「墨水舟中図」、釧雲泉画「墨水舟中」など、本人が茶山と直接出会い、手渡している点で付加価値が高い。

 菅波家総本家尾道屋(西本陣)は現神辺本陣として現存しているが、分家本荘屋(東本陣)はその分家上本荘屋両家とも消滅し、廉塾(上本荘屋分家)のみが、国特別史跡として現在もなおその面影と事蹟を伝えている。
 信道は「菅太中が世に有し、時は村里人々も、教なくとも自ら、仁義礼智の道に寄、風儀風俗何となく、義道を立る事多し」と書き記している。
それが、教育・文化に他の追随を許さない故郷かんなべの伝統として今日に及んでいる。(以上、文責編集子)
  神辺宿 歴史まつり
  茶山ウイーク2016そこかしこ


 十月十六日、恒例の歴史まつりと茶山ウイーク2016が旧神辺宿場町そこかしこで催行された。生憎の雨模様、本陣会場は一日限りのコンパクトなイベントだったが、久しぶりに町内外からの大勢の人出で賑わった。

廉塾→廉塾ふれ愛ボランティア絆の会が廉塾菜園で収穫した素材を活かし「元祖神辺うずみ御膳」、「大学いも」などの模擬店を開いた。講堂東、方円の手水鉢近く、市制100周年記念に茶翁の顔出しパネルが御目見得した。
本陣→本陣前では「軽トラ市場」を挟んで、地元神辺商工会に近郊の世羅・あしな・福山北・沼隈商工会も協賛、特産品を直売した。
御殿様お成りの間では定番シリーズ「歴史講演会」、園尾裕氏が茶山の親族「鞆で活躍した神辺の文人菅良平」を熱っぽく語った。
三日市・七日市通り→町家が特別見学会、「茶山ポエム町並み格子戸展」に協力。

 菅茶山記念館→「第24回特別展 菅茶山の系譜」が開かれ、「重要文化財・菅茶山関係資料」(県立歴史博物館蔵)の中から、漢詩人、教育者、藩儒としての茶山と親交のあった人々との交流を伝える関係資料などが里帰り、馴染みの訪問客と再会した。

神辺文化会館→「茶山ウィーク2016公募俳句展」一般、小・中学生、総計四二〇七点の全応募作品が公開展示。
 一般の部 特選 入賞作品(敬称略)
   筆洗の流れに零る銀木犀  世良正子
   朱子学の筆硯洗ひたる流れ 成末知歌子
   光陰といふ涼しさに茶山像 広川良子

 かんなべ図書館→「菅茶山―その生涯と交流」伊能忠敬・箱田良助との交流を紹介したパネル展と関連本の貸し出しがあった。
 2016年茶山ポエム絵画展
 最優秀賞に高原万愛さんら8人


 平成二十九年一月十四日、菅茶山記念館で2016年茶山ポエム絵画展表彰式が行われた。
今年度からご高齢の縄稚輝雄氏に代って神辺美術協会(徳永侚子理事長)が審査を担当。
応募総数二九七七点の中から高原万愛さんら8人が最優秀入賞作品に選ばれた。

写真⑪ 2016最優秀作品ポスター

 各学年別最優秀賞受賞者は次の皆さん
高原万愛(誠信幼稚園)、西本苺生(湯田小一年)、赤尾周祐(御野小二年)、重本奏(神辺小三年)、
藤井優吉(中条小四年)、豊嶋規晃(竹尋小五年)、佐々木康(湯田小六年)、大崎日奈子(市立福山中三年)以上、敬称略
 編集後記
◇平成28年度総括の漢字は「金」。音訓読で清濁背反の話題を連想させる。黒田投手の「耐雪梅花麗」の下、全国怒濤のフアンを魅せたカープは衆目の一致するところ超大キン星。
◇本号は帰国直前の蒋春紅先生(中国)に特別寄稿を依頼した。一衣帯水、日中共同掘削の井戸の呼び水になれば幸いである。
◇今、神辺では、茶山、御領発古代ロマン三絶、五義民の郷、ニコピン先生など先人に学び未来に夢馳せる情報発信が盛んである。
◇一人では無力。皆でしっかり手を繋ぎ、信・愛の縦・横糸で、生き甲斐のある故里創生の織布を産み出すことを希ってやまない。

会報編集部

園尾俊昭(福山市神辺町十九軒屋二八九―四
℡・fax 084―960―5595
上 泰二(福山市神辺町湯野二三―八)
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掲載写真

①茶山の閭塾にて學文の図(「菅波信道一代記」菅波信道著 より)
②孔子像
③定期総会or記念講演
④西福寺にて詩会の図(「菅波信道一代記」菅波信道著 より)
⑤茶山墓参の集い
⑥詩碑「龍泉寺櫻」の前にて
⑦茶山詩碑 東福院の「閑行」
⑧出雲大社ご正殿前にて
⑨全国砂留シンポジュームポスター
⑩神辺宿歴史まつり2016ポスター
⑪2016最優秀作品ポスター