顕彰会会報寄稿
 「菅茶山顕彰会会報28号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました(写真以外)
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。

上段 写真①キャプション(以下、横書)
     方円の器(会報27号20㌻作品

    方円の器
     菅茶山顕彰会会長 鵜野 謙二

 「水随方円器」(水は方円の器に随う)と言う故事がある。
「方」は四角、「円」は丸、水は器によってどのような形にもなることから、人は環境や教育、交友によって良くも悪くもなる。

 さらに、「方円の器」の故事(思想)には、「方」は人が生きている社会的範疇であり、「円」は人間の内面的な心である と言われている。
人は、家庭、地域、職場、交友関係等の様々な社会でふれ合い、助け合い等の人間関係の中で生きている。

 人の心は見えないが思いやりは見える。人生訓(故人が人間の生き方として遺した言葉)はいろいろある。人の痛みを感じる。いたわり、優しさ等の言葉は、元々、人間性の根幹(人間の生き方)から出ているものであり本能ではない、鍛錬・努力して身に付けるものである。

 廉塾講堂の東、濡れ縁の真向かいに「方円の手水鉢」がある。塾生が講堂から常に目の当たりにした場所である。菅茶山が廉塾で目指した学問(教育)の精神である。

 菅茶山は1748年(寛延元年)備後国(現在の福山市神辺町川北)に生誕し、人生八十年の大半を神辺の地で過ごし、自分自身を磨く努力を惜しみなく、地域貢献、社会貢献に努めた。
また、1796年(寛政八年)には、私塾黄葉夕陽村舎から福山藩弘道館の郷校となった廉塾で塾生を学種として大切に教育した。

 菅茶山は19歳の時から京都・大坂へ六回に及ぶ遊学で賴春水や多くの漢詩人・儒学者と交友を深めた。また、1801年(享和元年)には、福山藩の儒官となり、藩命により二度、江戸に赴き、元老中松平定信、伊能忠敬など多くの文人墨客との交友関係を広げた。

菅茶山は18世紀の終わり頃から江戸後期において儒学(朱子学)者・教育者・漢詩人として日本全国に大いなる反響をもたらし、1800年代(文化・文政年間)には多くの文人墨客が菅茶山・廉塾に訪れている。

菅茶山の豊かな感性・人間性は、深安(神辺)教育の歴史に「茶山に学べ」と言う標語として残っている。今も教育・文化の巨星として光り輝いている、


    菅茶山と河相君推
      ―象山献燈、幼少期の遊び場―
              武田 武美


 福山市神辺町西中条山田は昭和の初め、家の数、僅かに二十数軒ほどの小さな部落であった。
河相君推の君推(くんすい)は名は保之(やすゆき)である。君推の父は上下陣屋の役人をしていた。河相家が酒造業を始めたのも陣屋の役人の役得であっただろう。
河相家は江戸時代、中条村の誰よりも先に酒造業を始め、利益を得て、所謂、分限者となった。
田も10町歩以上20町歩に近い程、持っていたらしい。又、菅茶山と親戚筋にあたり、贔屓にされた。

 菅茶山先生は山に例えれば富士山のような存在です。私共もそれに比較すると神辺沖の片山ぐらいの小山でしょうか?

 私が生まれた家は山田の金比羅様の近くで小学生の時分は金比羅様とその隣合わせの地神様でよく遊んでいたものです。その遊びは「草履隠し」と言って自分の履いている片方の藁草履を金比羅様の火袋とか笠の上とか、あちこちに隠すのです。
「草履隠し」は最初は皆が同時に片方の草履をどこかに隠します。そしてジャンケンをして負けた者が鬼になって隠した草履を探します。そして、最初に見つけた草履を「これは誰々ちゃんの草履じゃ」と言えば今度はその人が鬼になって遊び続けます。

 山田の金比羅様の向かって左側面には「山田講中」と刻してありますが、殆どの資金は河相家が出したものと思われます。正面には茶山先生の筆になる象山献燈なる大きな文字が刻してあります。
四国の金比羅様が祀られている山は象が寝ているような形をしているので象山献燈と云えば「金比羅様に燈明をさしあげる」と云う意味になるのです。
この文字は菅茶山先生がお書きになった文字の中でも一番大きいと言われております。其の大きな文字を椽筆(てんぴつ)と言います。椽=樽。「樽木で作ったような大きな筆で書いた書」と云う意味です。

 菅茶山先生は自宅があまり大きくなかった故もあり天下の有名人が訪ねてこられた時には河相君推の家にお連れしてご馳走になり、詩会を催していたことが多かったようです。
又、河相君推の邸宅の北には三個の池があり、その中の一つの池には蒪菜(じゅんさい)もあり、ご馳走に加えられていたようです。

 金比羅様の金比羅は南洋の島の古い人々が使っていたクンピーラからきています。クンピーラは鰐のことです。昔、南洋の島の人々が小舟に乗って釣りに出掛けたが帰る水路が分からなくて困っていた時、鰐が出てきて帰る水路を先だって泳ぎ、死を免れたので、鰐を神様と崇めたので、日本人もそれに倣って鰐を崇めクンピーラがコンピラになり、金比羅様となりました。
                              (理事・茶山ゆかりの地訪問座長)

    HP菅茶山新報へ寄せて
       熱烈歓迎 http://www.chazan.click/へ
                        藤田 卓三

はじめに
 茶山先生の名が全国に広まり、当代一の漢詩人と評されるようになったのは、神辺宿に住む先生を起点に、口コミ、手紙から始まり、やがて印刷した詩集・著書の頒布によるものでした。人から人へ情報を手作りでつないでゆく江戸時代に懐かしさと温もりを感じます。

 さて、今や、インターネット時代。パソコン、スマフォなどの道具を使った情報伝達が当たり前になりました。高齢者にとっては、戸惑いと無機質な気もしますが、本顕彰会活動も人間臭い口コミをベースに、それらを使った積極的な情報発信をすることが求められていると思います。
寧ろ、ホームページ(以下HP)により、神辺地域の活動を全国の人達に知ってもらうことができます。
また、ロンドンに住む日本人が「菅茶山ってどんな人」と思った時、パソコンで検索すると瞬時に「菅茶山記念館HP」「菅茶山顕彰会HP」等々が現れ、浅くも深くも知ることができると想像すると愉快に思います。
菅茶山顕彰会HP
 菅茶山顕彰会HPは平成14年4月、当時の事務局長渡辺慧明氏を中心に開設されました。菅茶山の紹介、菅茶山顕彰会の活動などが、判りやすく整然と網羅され、カラフルで見易いものでした。
平成26年に一旦その幕を閉じ、キングパーツ(株)にお願いし、同社のHPの一部に移設しました。
そして新に顕彰会HPチーム結成、HP内容の追加訂正、新HPソフトにバージョンアップ等のリニューアルに取り組みました。

 平成29年に新たにサーバー契約して「菅茶山新報」を立ち上げ、同年12月には従来の「菅茶山顕彰会HP」と合体、何とかリニューアル初段階に辿り着きました。これも、偏にキングパーツ(株)及びビンゴネットのご支援と顕彰会メンバーの協力による成果と厚く感謝いたします。

リニューアルの狙い
 新HPは、立ち上がり当初の編集方針を引継ぎ、更に時代に合ったものにしたいと思います。15年の間にIT技術の進歩は目覚ましく、誰もがインターネットを利用し、スマートフォン、ツイッター、ユーチューブ等が普及しました。サーバーの記憶容量は拡大し、学術資料の電子保管や画像・音声を多用したHPが当たり前になりました。

 新HPの考え方をまとめますと
①菅茶山に関連した行事や地域の情報をできるだけ早く広く提供する
②菅茶山に関する資料・論文等を収録する 
③平易で読みやすく、画像多用に留意する
④顕彰会会員の連絡の場として活用する
⑤スマートフォンなどのメディアに対応する

「菅茶山顕彰会HP」「菅茶山新報」との関係ですが、本体は「顕彰会HP」です。「新報」は・ニュース・黄葉だより・行事連絡など常時更新した方が良いもの、しかも、スマフォでも見易いものにしたいと考えています。
素人の手作りですので、間違った記載や著作権違反等の恐れがあると思いますが、どうかご宥恕の上、より良い内容にするために忌憚のないご指摘ご教示をお願いいたします。

 今回「顕彰会会員向け」のページを作りました。行事案内や理事会報告など会員みんなが情報を共有できるように務めます。会員以外の方もご覧いただき、「顕彰会の会員になろうか」と思っていただければ幸いです。

まとめ
 平成30年は菅茶山生誕二七〇年の記念すべき年です。私たちが敬愛する菅茶山先生を広く深く知っていただく良い機会です。
地域挙げて多くの行事が行われると聞いていますが、このHPも一役買いたいと思います。例えば、行事計画を掲載する・行事を報告する・関連情報を掲載する・関係資料を保管する等が考えられます。

 私達HPチームメンバーでどこまでやれるか心配です。会員の皆様のご支援、関係先各位のご協力をお願いします。        (HP担当理事)

    菅茶山顕彰会定例総会開催
        生誕270年記念祭を控え役員増
        
菅波哲郎氏記念講演

 5月13日、神辺商工文化センターで平成29年度菅茶山顕彰会定例総会が開催された。

 鵜野会長が「1987年、本会の前身、菅茶山先生遺芳顕彰会結成から30年、
①廉塾、保存・活用計画については策定委員会が基本計画を来年3月を目途に検討協議中、2019年度からは5年計画で整備される。
②茶山の遺芳・遺徳・為人の持続的伝承のため昨年度から研修を実施、会員の増加も視野に顕彰会の灯を絶やさない努力を続けているが一定の成果を収めている」 とあいさつ。

 次いで、井上謙二氏を議長に選出、議事に入った。
①平成28年度事業報告②平成28年度会計決算報告
③平成29年度事業計画案-菅茶山生誕270年(没後190年)記念祭に向けて(後述)-を含む)
④平成28年度予算案⑤平成29年度役員案と議事が進められた。
特に、平成30年、茶山生誕270年を控え、同記念祭事業案と⑤役員増員案に整合する「規約」一部改正などが上程され、いずれも満場一致で可決された。

 尚、菅茶山生誕270年祭・記念事業については、平成30年1月13日、常任理事会で記念式典と朗読劇を分離する修正案が上程され了承された。ご了解願いたい。

*菅茶山生誕270年祭並びに記念事業

①記念式典~テーマ 煌めく菅茶山の生涯~

・期 日 平成30年(2018)11月10日
・場 所 神辺文化会館小ホール
・記念品 菅茶山顕彰会設立30周年記念 会報復刻版・ティーマット

②朗読劇「梅花の契り」
       脚本・演出 藤井登美子
・期 日 平成31年(二〇一九)3月2日
・場 所 神辺文化会館大ホール

*平成30年度役員名簿
  (順不同敬称略 ○兼常任理事 *新任)
顧 問   大畠功之
会 長   鵜野謙二○
副会長  上泰二○、藤田卓三○
代表理事 高橋孝一○
理 事   藤井登美子、延近隆弘○、渡辺元治、安原美津代○、三宅真一郎、武田武美
       白神直孝、園尾俊昭、*黒瀬道隆○、小林貞子、倉田義朗、羽原知子
事務局長 武田恂治○
会 計   嶋田時市○
監 事   北村陽輔、*斉藤幹夫

 写真②平成二十九年度総会

 総会後、菅波哲郎氏による記念講演があった。(以下、要旨 文責 編集子)

 「菅茶山と廉塾」―新たな「廉塾」像―

 これまで、「菅茶山先生行状」(賴山陽)や「菅茶山」(富士川英郎)で定説となっていた「廉塾像」について、茶山詩の内容を始め、その後発見された諸資料を元に再検討の結果、以下のことが結論づけられた。

①東池
 養魚池(中門西側)の他に、もう一つ講堂の東側の庭に「東池」が存在した。
論拠  
(本会報第21号に関係記事掲載)
・賴山陽著「東遊漫録」中「廉塾」の挿図
・伊澤蘭軒著「長崎紀行」文中、「屋(講堂)傍に池あり、荷花(蓮)盛に開く」と。

夏日雑詩 十二首 内二首目
 雨後溝渠水尚渾  雨後の溝渠水尚お渾(濁)る
 嫰荷新竹小林園  嫰荷新竹 小林園
 聞香已認渚蓮開  香を聞いて已に認む渚蓮の開くを
 萬葉交加亂翠堆  萬葉交加して亂翠堆し

 従前の養魚池ではこの詩の舞台としてはミスマッチの感があった。
・「菅茶山日記」中、文政八年十二月の項
「東池を浚い、小魚数十を移す。新池(養魚池)に鯉を放つ」の記事がある。

②金粟園と廉塾
 金粟園は東本陣敷地内の分家・菅茶山居宅に隣接していた。
園傍に植栽されていた金木犀が塾名の由来。
論拠
・「広島県史 近世3」中、「『金粟園』は『黄葉夕陽村舎』とは別に設けられた塾で、ここには寄宿生がおり、茶山だけでなく他国から来遊した学者の講釈も行われていたようである。
賴春水が寛政四年(一七九二)美作に遊んだ折も、神辺では「金粟園」に逗留している」と。  
・菅茶山から賴春水宛書状要旨(文化四年二月十八日付)―「神辺大火で自宅が焼失、金粟園から廉塾へ移転」と。

③廉塾(黄葉夕陽村舎)の開設年
 寛政四年 ←天明元年頃。
論拠
(詳悉は県博「研究紀要」第19号)
・「廉塾屋敷図」への書き込み―寛政二年新塾(のちの廉塾)の屋敷地造成。
寛政三年、藩へ新塾設立認可の願文を差し出し、認可。
寛政四年「閭(村)塾」を開設。この年、福山藩儒に任用され、塾管理運営費として俸五口を賜ったものと思われる。塾運営に専念するため、家業を実弟圭二(耻庵)に譲る。
寛政八年、閭塾を藩に寄付、「廉塾」と称する。

④塾設立の動機と社会的背景
 人材育成による社会秩序の乱れ抑止策

論拠
茶山が政治批判詩集「休否録」(西山拙齋編)に多くの詩を寄せた時代、うち「黄葉夕陽村舎詩集」にも載せられた「御領山大石歌」には朱子学者たちの体制への閉塞感が吐露されている。
願書「神辺と申処ことの外悪風俗之処」は裏返せば、苛斂誅求を繰り返す福山藩政批判。
「政教のミたれぬやう風俗のくつれぬやうにとこころさす」(「夏のこかげ」茶山著)は藩が寛政異学の禁に則り、主導している収拾策でもあった。

   炎暑下、茶山学習会満員御礼
   登美子先生、玉蘊の恋を語る

 7月15日、本顕彰会主催の定例学習会(同PT延近隆弘座長)が開催された。
藤井登美子先生の講演とあって、昼下がりの炎暑にもめげず会場は満席。
先ずは熱中症対策にしっかり喉を潤してから、2018年茶山生誕270年祭に向け、5月から朗読劇「梅花の契り」の脚本執筆と、NHKなど3会場での連続「茶山講座」で多忙な近況を語り、いざ、「茶山―山陽と玉蘊の恋」の物語へ。(以下は講演要旨 文責編集子)
写真③菅茶山学習会


・茶山 19歳で京都遊学。6回遊学。西山拙齋、賴春水、柴野栗山らと朱子学を学んだ。
お気に入りの墨書は「天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり」。理想の国家像―民主主義を追求、その実現に邁進した。

 最後の留学を終え、最終的に帰郷の道を選んだ。一揆で荒廃、「呑み、打つ、買う」に明け暮れる宿場町の悪風俗を是正するため「学種」を蒔くことを思い立ち、「黄葉夕陽村舎」を開いた。

 天明六年、飢饉の真つ只中、第四代藩主正倫から藩校「弘道館」へ招聘されたが、病弱を理由に遜辞した。
第五代藩主正精には心を開いた。二度の江戸出府。地誌「「福山史料」作成、祖霊社(現護国神社)造成を命ぜられるなど異例の高遇を受けた。しかし、藩と一定の距離を保った。

 寛政七年、私塾「黄葉夕陽村舎」を郷校「廉塾」への願出は教育の永続化を目的としたもの。施設や付属の田畑は藩に寄附したが、その運営については独自性を保った。
一揆の続発に自らも救貧活動、自らが名付け親の救恤制度「義倉」創設の陰の功労者。

・山陽 賴山陽の教育について、父、春水は江戸単身赴任が多かったこともあって生涯の親友茶山の厳しいけれど要所を弁えた指導には及ばなかったように思える。

 常日頃、上方志向を抱いていた山陽は寛政十二年、叔父伝五郎の葬儀に父の名代として竹原へ赴く途中、脱藩。辛うじて死罪は免れたが廃嫡、5年間、座敷牢で幽閉生活。定法に則り妻淳子は離縁、子(号聿庵)は春水夫婦の子として養育された。

 文化二年、自由の身になった山陽は養嗣子景譲と遊蕩三昧の生活を繰り返した。春水から相談を受けた茶山は、山陽を廉塾都講として預かることにした。文化六年末、山陽が再出発を期して神辺にやって来た。
しかし山陽は日々募る上方志向の心情を茶山に面と向かっては言えず文書で「学問は三都で磨かなければ役にたたない」と訴えた。やむなく茶山も上京を認めた。

 山陽は新天地京都で新参者というより寧ろ脱藩者として想定外の非難の嵐にやむなく茶山に泣き付いた。最終的には茶山の思慮深い洞察が山陽、春水、賴一家の窮境を救い、やがて名著「日本外史」の誕生に帰趨する。

・玉蘊 尾道の豪商、木綿問屋福岡屋の娘として産まれ、父の師福原五岳に画を、賴春風に学問を学んでいた。不運にも20歳の時、父を喪い、一家倒産の憂き目に遭い、絵筆で母と妹を養うことになった。

 実は山陽と玉蘊は文化四年、竹原で初対面で相思相愛。その後詩文と絵画を通じて交際していた。山陽からの連絡で京都で芸術家夫婦としての生活を夢見て母妹を伴い上洛した玉蘊であったが、嵐の最中の山陽に叛かれ、やむなく尾道に戻って来た。
「男に振られて、のこのこと戻ってきたふしだらな女」との風評に外出もままならなかった玉蘊であったが、事情に詳しい茶山夫婦、賴家一族、地元の豪商橋本吉兵衛などの惜しみない庇護をよすがに、近世史上に名を残す女流作家として成長して行く。

 茶山先生百九十一回忌
 今年も地元こども会がお参り

 8月13日、茶山先生191回忌当日
早朝、鵜野会長以下役員12名と地元子ども会員11名が茶山先生の墓所に集合、お墓の周辺の落葉をかき寄せたり、雑草を削るなど清掃作業を行った。その後、参加者一人ひとりが墓前に線香を供え江戸後期神辺の偉人の冥福を祈った。

 子ども会の協賛参加は今年で4年連続。来年度は茶山先生生誕270年記念式典と記念事業、 朗読劇「梅花の契り~」(藤井登美子脚本・演出)の上演が予定されている。茶山先生の大好きな子どもたちの協力・参加を期待したい。子ども会代表黒瀬陽菜さん(神辺小6年)から感想文を寄せられた。
***   ***   ***

菅茶山先生のお墓参りに行って
     福山市立神辺小学校六年
          黒瀬 陽菜

 八月十三日は菅茶山先生の命日でした。今日は菅茶山先生のお墓参りに行って家族全員で線香を  あげて手を合わせました。
 そこで菅茶山顕彰会の方から菅茶山先生について色々な事を教えていただきました。
 菅茶山先生は江戸時代廉塾を開いて生徒を教育していましたが、貧しくて塾に通えない人にも塾の  家事をしながら、平等に学問を学べるようにしました。
 そんな風に他の人の事が考えられる菅茶山先生はすごく心のやさしい人だと思いました。
 私も菅茶山先生のように勉強をがんばったり、人にやさしくしたりしたいと思いました。
 
写真④茶山墓参の集い

   賴山陽史跡史料館と安藝の宮島へ
  茶山遊藝日記の足跡を訪ねて            

 11月10日、本顕彰会恒例、年に一度の日帰り旅行、広島平和記念資料館・茶山の「遊芸日記」の旅を辿る「賴山陽史跡史料館と安芸の宮島」への旅行を催行した。
快晴、鵜野会長以下、28名の参加者が百万歩超のさわやかウオーキングを含むあきの終日を楽しんだ。

 往路の車中では、鵜野会長が「菅茶山と賴山陽の交遊 略年表」を配布、今回の旅程とほぼ同じ「遊藝日記」(「藝遊日記」ともいう)の旅、茶山41歳が山陽9歳と初対面に始まり茶山他界まで約40年、雨も嵐の日もあった交流を振り返った。

 9時、広島平和記念資料館へ。本館は改修工事中、東館で一発の原子爆弾で約14万人の命を奪った許しがたい歴史を辿り心から平和を祈念。その後、賴山陽史跡史料館を見学した。

 ここは賴春水の藩邸があった場所、息子の山陽21歳が脱藩の罪で五年間、幽閉・謹慎生活を送った座敷牢「仁室」も復元されている。花本哲史主任学芸員の案内で見学。

 1789年、フランス革命から1832年、ペリー来航までの約50年間、茶山は山陽とは性格的には水と油だったが、山陽の文才については高く評価していた。
この分館には、廉塾出奔については、茶山が「山陽の意を酌んで、許可した」ことが判る手紙や、茶山が山陽に、奴の小萬こと「阿雪傳」の執筆依頼文など百五十通の茶山の書簡が所蔵されている と。
次いで、企画展「賴山陽と酒~一杯一杯復一杯~」へ。

 山陽が①屡々京都から賴家時祭・忌祭年中行事のお供えに不可欠な酒を送っていた②酒は嗜む程度で下戸だったが、九州旅行中、赤関(下関)で辛口の酒の味を覚えてから、「一日も酒を飲まない日はなく、飲んで酔わない日はなかった。」伊丹の剣菱を愛していた。
多くの酒にまつわる詩中、「剣菱」を「剣稜」と間違えて書いている「戯作攝洲歌」(文政七年冬)に我知らず微笑した。

 広島高速道を疾走、最後の見学地、国特別史跡宮島厳島神社へ。同格の「廉塾並びに菅茶山居宅」とは天と地の差の賑わい。
満潮時の大鳥居を背景に記念撮影後、珍しく結婚式挙行中の神社本殿参拝、回廊を巡って、大願寺の根元から九本の枝幹が伸びている巨松、アップダウンの多い丘陵地に建つ五重塔を見学。

 大方の人が名物「あなご弁当」を手土産に道中つつがなく帰着。陽はとっぷり暮れていたが、参加者一同、心はまかっかの終日であった。
写真⑤あきの宮島研修旅行

    茶山著「遊藝日記」の旅を辿る
      茶翁、神童山陽と初対面
            上  泰二
 
 茶山は天明八年(1789年)6月5日から7月6日までの1カ月間、弟子の藤井暮庵を同伴、賴春水親善訪問と宮島管弦祭見学を主たる目的として安藝国へ旅行した。

 5日、朔日出発予定が長雨で遅れ、久方ぶりの晴れ間を機に、従弟君直(菅波武十郎)と家を後にする。午後、福山へ。城下、大念寺歌会に出席、三更、散会。海道士の寺(木綿橋畔)に宿泊。

 6日、玄道(大空遍照寺)上人、海道士、君直らが芦田川までに見送ってくれた。神村伊勢宮茶店で暮庵と合流した。かなり長時間待ちあぐねていたようだ。
雨が上がり、道沿いに綿畑が清々しく、そこかしこ天日干しの藺草が芳香を放っている。官道が所々水に漬かり、谷川に激流が水音高く飛沫を上げ流れ落ちている。

 7日、夜、尾道に到着。勝島敬仲の家(百島・加島園)で2泊、宮地世恭・世梯父子、草香孟慎(平田玉蘊 伯父)、亀山元助(通称 油屋)、地元の弟子や雅人たちと交流。

 8日、尾道を後に三原西野梅林を見学した。嘗て(明和八年・1771年初春)西山拙齋と訪れた「花時香雪十余里」とは一変、樹林は「今望之緑葉陰々」、天日干しの梅の甘酸っぱい匂いが鼻を擽る。
本郷から駕籠で夜道を行く。道すがら、夥しい螢の群れが光の交響楽。時折、水鶏の鳴声が聞こえる。新庄村の百姓家に宿泊。枕辺近く澗流の水音が耳について終夜眠れない。

 9日、西条を経て、海田で宿泊。長雨のため、田植えが遅れたのだろう。「秋前始挿秧」の真最中。
 10日、広島城下に入り、真っ直ぐ、磋工街(研屋町)の頼春水藩邸を訪ねる。春水は藩の学問所に出かけて不在。杏坪と山陽に出迎えられる。山陽9歳とは初対面。暫くして春水が帰宅。家族ぐるみの歓迎を受ける。

 11・12両日、雨天で外出せず、春水宅に宿泊。山陽は「利発で遊びを好まない。客の相手が好きで、対座して終日倦むことがない。書斎で詩や書画を学んでいる。どれも見所がある」

 13日、春水宅を辞し、杏坪の案内で城下の名所めぐり。国泰寺、白神祠、東照宮、櫻馬場・猿猴橋・京橋を経て、宿「かしのや」へ。
夜、杏坪が来訪。酒を酌み交わしながら談笑中、突然、話も通じないほどの大雷迅雨。
 14~15日、雨天が続き、春水、杏坪兄弟とともに、春水宅と宿を気儘に行ったり来たりして過ごす。

 17日 待っていた管弦祭当日。宿から地御前へ。路上、「垂髪誰家子 累騎老豕行」、童が豚の背に相乗りしている愉快な光景に出くわした。連日の雨で、民家が壊れ泥濘に埋まり、崖崩れで道が壊れている箇所もある。
宮島に渡る。海中にあった大鳥居が雷で焼け、未だ修建されていない。管弦祭を見て、宮島で宿を取る。(現在の大鳥居は平安時代から数えて八代目。明治八年(一八七五)再建。海中に置かれているだけ。自重(約六〇屯)で立っている。)

 18日 厳島神社参詣。暮庵は山頂を窮めたが、自分は麓までで後帰り。
「(宝暦四年・1752年)7歳の時、祖父九次郎包貴と母にこの宮島に連れて来られた往時を追憶。あれから三十年、母は垂白(白髪)。自分も二毛(白髪交じり)。我知らず涙腺が緩むのを如何ともしがたい。」
 19日、雨のため岩国錦帯橋行を断念、広島に帰り賴家を訪ねた。
 20日、元安橋多賀庵の水楼で送別宴。春水、杏坪、林堅良(賴家家庭医)、藤季明(藤原春閣弟)が参席。久太郎(山陽)も同席。大人の傍らでよくも退屈もせずに作書及画に耽っている。深更まで盛宴が続いた。

 22日、春水に告別、西条で宿泊。
 23日、噂に聞く三津・岩伏山中「呼石・呼岩」(東広島市安芸津町)を是非訪ねて見たいと三永の藤原春閣に案内を頼んだ。
呼石は高さ八・五㍍、幅十四㍍の花崗岩、現在、谷を隔てた「喚応所」銘のある碑から岩に向かって叫ぶと谺が返って来る。三人(茶山、暮庵、春閣)が代わる代わる呼ぶと人が話すように谺が返って来る。備中横谷の響石、伊勢の鸚鵡石、石洲の響石は、発した声と返る声が重なって聞こえるが、呼石は返って来る声が明瞭で別人が声を発しているようで、なかなか得難い。

 呼石嶺から遙か南に臨む海には大小の島々が横たわり、伊予の群峰には夏雲が架かっている。ふつふつと興趣が湧き、不得手な絵筆を握った。暮庵が用紙を抑えて呉れたが、「どうも風が邪魔して、見たまま、感じたままに上手く描けない。」の言訳に暮庵が微苦笑。この日、春閣宅に宿泊。

 24日、海沿いには塩田が極めて夥しい。竹原の賴春風を訪ねた。
春風は春水の弟、杏坪の兄。初対面にも拘わらず、まるで旧知の間柄のようだ。妙に馬が合い、ご馳走と美酒で夜半過ぎまで歓談。
 (文政七年、茶山は春風の別邸「留春居」新築を祝い、「寄題賴千鈴留春居」を贈っている。三人兄弟のうち、宮仕えをしていない春風の自由な境遇に共感しているように思える。)

 25日、竹原賴家の菩提寺照蓮寺を訪ねる。詩友片雲上人(府中市明浄寺出身)は不在だったが、先代獅絃上人が応対。
寺は絶壁を背負い、生い茂った樹木が寺を蔽い、庭池に影を落としている。池には赤鯉が数十匹、人が近づいても畏れない。手を拍つと我先に集まって來る。酒僧超倫(詩書に秀で美酒で揮毫に応じる僧侶)が餌を数枚投げ入れると、争って食らう。一枚を犬が岸辺から掠っても驚散もしない。

 26日、午後竹原を発ち、本郷へ。春風が尾梨坂で旅の安全を祈り、送別の宴を開いてくれた。
暗くなって官道沿いの沼田川に達した。燭を灯して川を渡っている人がいる。大丈夫と踏んで、徒渉中、深水に蹌踉めいて危うく倒れそうになった。幸い暮庵に助けられ、大事には至らなかった。衣服や所持品、大事な詩囊までがびしょ濡れになり、本郷の宿で乾かしてもらった。「官道に臨む川に藩が渡し舟を置いていないのは何事か」怪しからん。

 27日、今朝は宿の主人の案内で、無事川を渡り、米山寺を訪問。
小早川隆景の肖像及び手書、折簡などを見せてもらい、「米山寺拝謁小早川中納言隆景肖像」。隆景の文武両面にわたる功績を賞賛する詩を詠んだ。(現在、寺の向いの小早川家墓所入口に、その詩碑が建立されている。)

 次の三原では、野畑山の中腹にある無量山明正寺を訪ねた。三原城主の菩提寺、日蓮宗の名刹である。延宝二年(1674)三原城主三代浅野忠眞が米田山山麓に開創したが、享保九年、四代忠義が現在地に移した。
寺は海を臨む景勝地にあり、宇都宮士龍が藩命によって全国の著名な詩人からこの寺と三原のことを詠んだ詩「妙正寺詩巻」を集めていることで有名である。

 城下街から絲崎に出て酒を酌み交わした。夜、尾道に着き亀山元助宅を訪れた。7月5日まで8日間滞在。朔日、暮庵は先に帰る。4日に、有志に乞われて「大学」章句を講義。
その後、千光寺へ登った他は、亀山宅で、昼夜の別無く、訪れる人々と文雅の交流を重ねた。

 6日、勝島敬仲、宮地世恭・世悌父子、亀山元助、豊田子伝らに見送られ尾道を後に1カ月ぶりに神辺へ帰った。

 菅茶山没後190年記念行事
  歴史・文化・教育面の事蹟満載

 菅茶山記念館で第25回特別展「菅茶山没後190年教育・文化の礎」(10月12日~11月19日)があり、江戸時代後期、日本を代表する漢詩人、神辺で「若者の修学に尽力した教育者」菅茶山の功績と茶山没後、郷土の誇りとして茶山に思いを馳せた人々にまつわる資料を紹介。

 神辺歴史民俗資料館では御領の古代ロマンを蘇らせる会の協力で、2017年秋季企画展「御領の遺跡・古墳群」(9月29日~11月26日)で、縄文・弥生時代の故里を振り返った。

 11月14日終日、かんなべ文化会館で4部構成の「かんなべ歴史文化交流フォーラム」、など、旧山陽道一帯で茶翁事蹟満載の記念行事が行われた。

*「菅茶山没後190年教育・文化の礎」
  藩校弘道館関係では、創設者阿部正倫自らが描き納めた「孔子画像」や教育目標「白鹿洞書院掲示」。
廉塾関係では廉塾図五種類の中①「菅茶山邸 作者不詳 文政頃(一八一八~二九)製作 紙本墨画」、②③星野文良画・作者不明(旧相馬邸・黄葉夕陽文庫収蔵)④蠣﨑波響画・岡本花亭賛 文政四年)⑤廉塾古図(「菅茶山とその弟子たち」(「神辺の歴史と文化」第四号 神辺郷土史会 の表紙掲載)の存在を紹介。

 茶山に繋がる文人として江木鰐水(山陽の弟子)、古賀侗庵(精里の三男・阪谷朗廬・江木鰐水の師)、阪谷朗廬(窪田次郎・坂田警軒の師)。
茶山の詩や書を愛した郷土の人々として、「茶山の性格・風藻が面白いのと同郷の誼から」とする金島桂華、茶山詩研究家大御所、重政黄山―集大成「茶山五百首」著者島田真二、北川勇トリオ。
葛原しげるの「大和行日記」筆写原稿、井伏鱒二遺愛の茶山書「蝶七首」など、江戸時代から脈々として現代に繋がる特選の展示が訪れる人々の心を揺さぶっていた。
 写真⑥かんなべ歴史文化フォーラム

*「かんなべ歴史文化交流フォーラム」

①詩吟朗詠会「「菅茶山を詠む」

 詩吟朗詠錦城会師範綿谷城魄さんがppを駆使、吟行会で訪ねた漢詩ゆかりの舞台や懐かしのメロディなどバラエティに富んだ詩の解説後、会員の鵜野会長、武田事務局長、島田時市理事などが茶山詩「冬夜読書」「生田宿」を披露、満員の聴衆を魅せた。

②「市立東小・神辺中学習発表」
 市立東小学校4年生8名&市立神辺中学校1年生3名が「郷土の歴史に学ぶ~大好き!福山~ふるさと学習~」発表。  

・その1「菅茶山と廉塾」 市立東小学校
 医者・詩人・朱子学者・廉塾主、(社会事業家)茶山には名前が雅号を含め7つもある。
お酒が好きだったが、度を過ごすことはなく、80歳まで長生きした。
書は手慣れていたが、絵は得意でなかった。(「遊芸日記」参照)。
塾生の入門については、藩校のように身分などの条件をつけないで、貧しい者からは月謝は取らず、塾の仕事を手伝わせた。
塾の教育方針は講堂東側濡れ縁に置かれた「方円の手水鉢」。人は環境、教育、友人など置かれた場所によって良くも悪くもなる と教育の大切さを説いた。

 茶山没後、昭和28年(1953)「廉塾ならびに菅茶山居宅」は国特別史跡に、「茶山関係資料」は平成26年(2014)、「国重要文化財」に指定された。

 児童はこれら茶山に学んだことを一人ひとりが「廉塾新聞」「茶山新聞」などにまとめ、誇るべきふるさと福山の宝として広く学内外に伝えようとしている。
こうした次世代の活動に大いなる夢を繋ぎたい。

その2「福山藩の砂留」
 ~先人の思い、地域の方の思いに気づき、考え、これから行動するために~ 市立神辺中学校


 「総合的な学習~自然災害~」で、堂々川砂留群・深水川砂留」について学習した。
延宝元年、神辺では、東中条東山に源を発する堂々川(4㌔)が氾濫、大原池が決壊、下流の国分寺が流失、63名の犠牲者が出た。
こうした住民の生命・財産を脅かす自然災害、特に洪水による土砂災害防止と農業用水源保護のため、18世紀に入って砂留の築造が始まり明治時代まで増築・修復工事が繰り返され、現在も現役として健在である。
深水砂留普請は安政元年。堂々川砂留群11基、うち8基が平成18年、登録有形文化財に登録された。その陰に「堂々川ホタル同好会」(土肥徳之代表)の永年にわたる環境美化保全の取り組みがある。

 神中では、そうした先人の過去・未来への思いを量り、アクション・プランとして、ハザード・マップを製作、次世代へ伝えて行くことを決めた。

③茶山生誕二七〇年前年祭特別講演
  「菅茶山と幕末明治の福山」  見延典子氏
 見延先生が十年振りに来演。中国新聞連載小説「賴山陽」に網羅した菅家と賴家の家族ぐるみの交流から、方程式「福山藩+広島藩=広島県」。幕末明治―阿部正方、関藤藤蔭、窪田次郎に繋がる謂わば負け組福山の歴史を振り返った。

④調査発表「菅茶山ゆかりの憩亭と福山市歴史文化基本構想」
 市教委文化財課野村友規氏が茶山編「福山志料」の「憩亭」の調査結果を公表。
これら未指定文化財を地域に近づけ地域活動の活性化醸成の機運を盛り上げたい と。

 *第17回神辺宿・歴史まつり
 本年は一日限りの15日当日、生憎、終日雨。
三日市・七日市通りでは、茶山ポエム格子戸展(13日~17日)&町屋八軒が秘蔵の家宝公開。本陣前では軽トラ市に食べ物や木工品、和小物雑貨店、軽食コーナーなどが賑々しく開店。トランペット&ピアノコンサート。
定番、本陣お成りの場での「歴史講座」シリーズが姿を消したのは残念。

 廉塾では雨を押して訪れた人たちが、中庭に設えられた廉塾秋の収穫祭、うずみ御膳、ふれ愛おでんなど、町内会の永い伝統を凝縮したおふくろの味に舌鼓。二胡&ギターコンサートを楽しんでいた。

 廉塾並びに菅茶山旧宅
  日本遺産、追加申請模索中


9月29日付「中国新聞」は、市教委が「廉塾並びに菅茶山旧宅」の「日本遺産」申請を模索中と報道した。
2015年、文化庁は「近世日本教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」として、備前・閑谷学校、水戸・弘道館、足利・足利学校、日田・咸宜園を認定した。
 廉塾はこの申請に関わる必須条件「自治体の歴史文化基本構想」未策定のため乗り遅れた。
本年度、市教委は鞆の歴史的な港湾施設を柱としたストーリーで日本遺産申請予定。

 本顕彰会はこれを承けて「庶民教育に尽くした茶山の功績を国際的に発信、地域の宝を大切に活用しながら、地域創生を目指し、申請を担う市教委など協力体制構築に向け追加申請取り組みを進めて行く」ことを再確認した。
 神辺本陣(県重文・史跡)格上げへ
  2、3年後、国文化財指定を

 4月18日付「中国新聞」によれば、神辺本陣(県重文・史跡 指定)が市教委の調査を経て2、3年後の国指定を目指すとのこと。
国特別史跡「廉塾並びに菅茶山居宅」、さらには「葛原勾当・しげる旧宅」、御領三絶などとのコラボで地域創成へ向けインパクトのある起爆剤として夢が膨らむ。
写真⑦神辺宿ガイドブック

 神辺本陣(ご案内)
  ~一九六九年 県重要文化財指定~

 神辺本陣の成立は寛永年間(1660年代)、寛永十二年の「武家諸法度」に諸国大名の参勤交代を明文化したことから、その往復道中での宿泊施設として利用したのが本陣である。

 神辺本陣は備中高屋宿と備後今津宿の中間に位置し、現存の西本陣(三日市尾道屋菅波家=当主菅波信道など)とその分家東本陣(七日市本荘屋=当主菅茶山など 1767年、大火で焼失)が務めていた。

 現存の神辺本陣は代々、酒造業を営み、筑前黒田家の本陣役を務めていた。敷地は1000坪。
施設は表門、表土塀番所、内倉、内土塀、延享三年建築の母屋(玄関、敷台、お成りの間、二の間、三の間、札の間、湯殿)から成る。

 黒塗りの土塀の門には、九州福岡藩主黒田家の紋所藤巴の瓦が置かれている。大名宿泊の折には、平常の居宅も加え、部屋数27、畳数200余畳を使用し、大名と付添衆50~70人の収容が可能であった。休泊大名の緊急避難場所として、本陣北側佛見山萬念寺が指定されていた。

 現在、住宅部及び酒造関係施設の一部が消滅している他は、本陣関係施設の大部分が現存している。誇り得る財宝である。

 歴史的な数多くの建造物群の維持管理に加え、書画骨董など、それに、何よりも、「菅波信道一代記」(菅波信道)―「神辺風土記」(菅波堅次)―郷土史研究論叢(菅波哲郎)と先祖代々子々孫々にわたって継承されている歴史、文化、教育面などでの社会貢献にも深甚の敬意を表したい。

 夢街道ルネサンス かんなべ浪漫街道 
  中国整備局などが認定・支援

 1988年、高橋孝一氏(本会代表理事)が鞆から倉吉までの沿線の青年会議所に呼びかけ、ロマンティック街道313を提唱、沿線住民が協力し合い、地域の歴史、文化、自然、観光資源を発信、地方創生の先導的試行を呼びかけ、今日に至っていた。

 今回、国交省中国地方整備局などが地域や団体を応援する制度、「夢街道ルネサンス」(2001年創設)に、神辺観光協会(高橋邦広会長)が「かんなべ浪漫街道」として申請、本年3月、福山市としては初めて、中国地方では44カ所目・県内では33カ所目認定された。

 これを契機に行政の支援を得て、国の特別史跡「廉塾並びに菅茶山旧宅」や2、3年後の国重要文化財指定を目指す「神辺本陣」など多くの史跡が保存されている西国街道、「かんなべ(宿)」浪漫を膨らますまちづくりへの再構築が期待される。

  国重文「菅茶山関係資料」常設展示へ
   県博、30年秋専用室完成か
 
 6月9日付「中国新聞」は、来年度秋、県立歴史博物館が「菅茶山関係資料」常設展示室を設置することを報らせた。
 当該資料は、平成7年、菅茶山の子孫、菅好雄氏が寄贈された茶山存生中のコレクション「黄葉夕陽文庫」中、県博学芸員などによる20年に亘る資料整理、研究調査を経て、平成26年、漢詩集の草稿、日記類、典籍類、書状類、茶山に贈られた書画・器具類など五三六九点が国重要文化財に指定された

 これを機に、県博や菅茶山記念館(神辺)などで特別展示会や記念講演会が頻繁に開催されたが、・・・。
国特別史跡から県博へ引き継がれたかけがえのない文化財、資料庫に眠らせたままでなく茶翁の為人そのままに、日常的にできるだけ多くの人々とのふれあいを通じ故郷の偉人の業績を学ぶ次世代の手本にしてもらいたい。
先年、県博分館としてリニューアルオープンした賴山陽史跡資料館(広島市中区袋町)ともども、師弟同行の行脚も期待大である。

   茶山ポエムハイク 中条学区編
   遍照寺 茶山詩碑に学ぶ

 4月23日、第33回茶山ポエムハイク(主催 菅茶山記念館)が中条学区で行われ、参加者35人が岩森逸美前中条公民館館長の案内に耳を傾けながら、半日、徒歩で、大坊古墳に始まり、山頂にある茶山ゆかりの黄龍山遍照寺や史跡などを巡り楽しんだ。

 遍照寺では茶山詩碑3基について学んだ。

黄龍山呈充国   菅茶山(山門前)
 長松大石𦾔林邱  長松 大石 旧林邱(丘)
 二十餘年感壑舟  二十餘年 壑舟を感ず
 嘆息當時携手者  嘆息す 當時 手を携えし者
 幾人相對説曾遊  幾人か相對して曾遊を説くや
(語註)
 ・壑舟 穴の開いた舟・曾遊 かっての吟遊

(大意)背の高い松、大石のある丘の上の古色蒼然とした邸宅 もう二十有余年が過ぎていることに無常を感ずる。当時、共に詩を吟じ合った仲間たちのことを思い起こすと溜息がでる。
充国さん、今はもう、あなたと河相子蘭と私が残っているだけですよ。

 安永七年8月、茶山31歳は仲間(篁大道、松井子璐、河相子蘭、桑田元厚と永富充国(長門五島藩儒)と遍照寺に登り大空上人と交遊している。
寛政十年秋、茶山51歳は充国と遍照寺と河相子蘭を訪ね、次の詩を贈っている。

  同充国訪子蘭      菅茶山
 楚雲湘水二十年  楚雲 湘水 二十年
 屈指同遊半九泉  指を屈すれば 同遊 半ば九泉
 𦾔侶獨存君與我  𦾔侶獨り存す 君と我と
 尊前道故賀華顛  尊前 故きを道って華顛を賀す
(語註)・九泉 黄泉国(冥土)・華顛 白髪頭・尊 樽(ここでは酒徳利)

(大意)江湖を渡り歩いて、あれから二十年。指折り数えて見れば、もう半数が泉下の人。
仲間で存命しているのは貴方と私だけ。酒を酌み交わしながら、白髪頭同志、長寿を感謝しよう。

② 歳杪寄大空師     菅茶山(境内)
 荒歳村居事亦紛  荒歳村居事も亦紛(みだ)れたり
 隣閭警盗譟宵分  隣閭 盗を警めて宵分に譟(さわ)がし
 遥知姑射峯頭月  遥かに知る姑(こ)射(や)峯頭の月
 寺寺経聲咽白雲  寺々の経聲 白雲に咽(むせ)ぶ

(詩碑縁起)釋秀傳老師秘蔵の茶山直筆の書軸を元に刻彫
(語註)・荒歳 飢饉の年・閭 村里(の入口)・姑射峯 仙人が住むという山。→中条山

(大意)飢饉の年には村の暮らしも乱れ、隣近所では夜盗を警戒して夜間は物々しい。
遥かに姑射峯の月に照らされ寺々からは白雲に咽ぶような読経の聲が流れている。

(解説)天明五年3月、茶山38歳が賴杏坪、西山拙齋、姫井桃源、末弟耻庵、河相子蘭と松風館(河相君推宅 東中条)に遊び、翌日は共に黄龍山遍照寺(西中条)を訪ねている。
時恰も天明の一揆の前年、俗世間と隔絶した仙境で読経三昧に過ごす高僧がコントラストに描写されている。

良夜の碑(境内)
月白風清 如此良夜何 晋帥   月白く風清し 此の良夜を如何にせん 菅茶山
   ***   ***   ***   ***
 *ご案内 茶山詩ゆかりの地in中条
①明尾山寒水寺(西中条)
 黄葉夕陽村舎詩「上寒水寺路上」(前篇巻一所収)の舞台
②象山(金比羅宮)献燈&春風館十勝碑林
 「春風館」跡(西中条山田)
③松井子璐を偲ぶ詩碑二首(「次子璐月夜琵琶湖韻」「時子璐叔姪東遊」(西中条高居)

   茶山ポエム花祭in廉塾庭
    A&Mコン入賞絵画・作曲発表会
 
 5月28日、廉塾庭で茶山ポエム花祭(主催神辺創成の会 三宅真一郎代表)が開かれ、第1回茶山ポエムアート&ミュージックコンクール入賞作品の展示・発表会が催された。
 写真⑧絵画入賞作品in廉塾庭

 挿絵部門、金賞の津川純子さん、大塚翔子さん、大塚勉さんら8点は中門に通じるアプローチ特設の西側花壇に展示。
作曲部門で銅賞(5万円)野崎悟良さんは竹尋・神辺小学校に勤務の傍ら「神辺音頭・小唄」作詩でお馴染みのシンガーソングライター。ギター片手に樹陰に特設のオープンカフェで寛いでいる人たちを前に、入賞作2曲、「天狗松(作詩葛原しげる)」「山寺の和尚さん(茶山詩)」を披露し、喝采を浴びた。

 特集 「茶山先生に学ぶ講座」

その一 1月29日 神辺公民館

    「菅茶山(廉塾)と閑谷学校」
       森元純一氏(和気町民俗資料館)


はじめに
 日本最古の庶民対象の公立学校、閑谷学校と菅茶山(廉塾主)の接点を作品ではなく旧大国家(江戸時代大森姓)文書に遺された文化人の活動を通じて紹介したい。
閑谷学校は日本三大名君の一人池田光政が重臣津田永忠に命じて創建した。当初、墓地の敷地候補であったが、光政の判断で、学問読書の場に最適と、地名も閑谷村に変更、色鮮やかな光沢を放つ備前焼瓦と完璧な雨水と火事の防災対策を施した建造物群である。

① 武元登々庵の東遊
 武元登々庵は閑谷学校の隣、北方村の出身、教育熱心な父和七郎に育てられた。安永五年、
登々庵は弟君立と共に閑谷学校へ入学した。
 この年、茶山と賴春水が閑谷を初訪している。この折、二人に西山拙齋、姫井桃源も同道、藤井家に宿泊、藤井高尚(13歳、母方従妹同士、のちに本居宣長の高弟)に会っている。これを機縁に茶山は高尚の自著に序文を寄せている。

 武元登々庵12歳・君立9歳は安永七年、後楽園で藩主に御目見得、二人で「小学」を講釈、登々庵は書も披露している。彼の書と言えば、総社市豪渓の岩山に「天柱」の文字が彫られている。

 天明四年、和七郎は兄弟の教育ために、仙台の儒者志村東州を招いている。東州は天明六、七年、茶山を訪問。同六年春には、西山拙齋・孝恂も同道、龍泉寺、国分寺、中条・松風館で桜花を愛でている。

 登々庵は病弱であったことから、自由に、生涯を旅に費やしている。大坂に在住、木村蒹葮堂(博物学者・蔵書家)の許へ頻繁に通い、その後、江戸では柳橋萬八楼の書画会に出入り、奥州旅行では大西圭斎に出会い、志村東州とも再会している。
「蒹葮堂日記」によれば、蒹葮堂には9萬人の人々が出入りしている。登々庵も大森家から依頼された書画鑑定の仲介役を務めていた。

② 登々庵の西遊
 登々庵は母、次いで父の死去に伴い、一時帰郷、生家で過ごした時期があった。
 寛永十年、君立29歳が齋藤一興(岡山藩士)41歳と一緒に従兄弟の赤石順治の養子赤石退蔵14歳を廉塾に入門させるため事前の挨拶に茶山を訪ねた。

 赤石順治は医師、10代で村民の教育のため天神講を開いた。また、退蔵(希范)はのちに華岡清州に医を学んでいる。
 享和元年、登々庵35歳が初めて茶山54歳を訪問、感謝の印に、翌年、備前焼の陶板「黄葉夕陽邨舎」を贈っている。

 享和二年、登々庵、君立、一興は文雅の交わりグループを結成している。その「書会約定」には「文雅の席に候えば、惣じて貴賎上下の座列、これ無く候事」と結んでいる。

 文化四年、登々庵は長崎旅行、中途茶山の所に数ヶ月滞在。
 文化十一年、茶山、江戸出府の旅では、京に居て、山陽と一緒に茶山を出迎え、石場まで見送っている。
 文化十年、君立は一興の推挙で閑谷学校へ単身赴任。有吉行臓と来客の接待や教職員生徒の憩いの場「黄葉亭」を建てた。
文化十五年、茶山は「大和行日記」の旅行中、登々庵の訃報に接し、京都で追善の会を催している。

③ 大森黄谷の旅
 大森家三代当主文助の長男、武右衛門(黄谷)は、家督を弟武助に譲り旅の人生を送り、様々な人々と交わった。
文政六年、中村嵒州を誘って長崎旅行。道中、茶山の許へ2泊。尾道では平田玉蘊、博多では亀井昭陽を訪ね、長崎では異国情緒を満喫、耶馬溪を巡り、日田では咸宜園に広瀬淡窓を訪ねている。旅すがら、黄谷は嵒州の詩集「夢遊篇」の挿絵集「済勝漫録」を担当している。

 おわりに
 江戸時代、文化人たちは様々な接点を持ち、網の目状のネットワークに繋がっていた。確かに山陽に代表される三都への憧れもあったが、田舎だからこそ良い所もあった。

 全国ネットワークの一翼を担う文化人たちがそれぞれの地域で地域文化の発展に寄与した。
旅の人、登々庵vs地域の人、君立さながらに社会的な制約により、地域に残る人がいたことが幸いしたのであろう。

 その二 2月17日 神辺公民館
「神辺本陣と廉塾の草木」
菅波哲郎氏(元県立歴史博物館副館長)


①神辺本陣

 信道一代記に「庭木の雑木往古より今に残る分あらまし」記されている。
三代源左衛門(明暦元年~元文三年83歳)当時、後ろの竹藪は掛の橋への道筋両側まで生茂り、夜間は恐い場所だった。大藪を背にしているので三代目は雅号を「竹猗軒」とした。

 七代吉郎兵衛(貞享二年~宝暦十年75歳) 座舗上間の北庭や玄関から本門周辺に松など多くの樹木を植栽した。
立派な松は街路の舗装と松食い虫で枯れ、現在、南天、やつで、茶、それに八代嘉兵衛(享保十一年~明和十年47歳)が「植え置し」枇杷、柿、榎、十一代目信道(寛政四年~慶應四年77歳)が鈴鹿秀満に言われ鹿児島から取り寄せた蘇鉄、百日紅、銀杏などがどっこい活きている。

②廉塾
 茶山詩には廉塾の草花(18種類余)と柳、槐、梅などが詠込まれている。
伊澤蘭軒「長崎紀行」(文化三年)には黄葉夕日村舎前の流渠に架かる圯橋の傍らに「柳樹茂密」。
近年、菅波氏によって、茶山の日記「東池から(養魚池へ)魚を移す」から、その存在が明らかになった東池では「荷(蓮)花盛開」、茶山は「一双紅艶爛相偎」(夏日雑詩 後編巻八)と詠んでいる。

 また、「悼亡」(遺稿巻八)では、槐寮(居宅・台所)で一人淋しく最愛の妻宣を偲び「槐風竹露寂荒郊」、池に映る新月を眺めながら冷酒を酌んでいる。

 文化十二年、茶山は二度目の出府で、江戸で最初で最後の越年をした。2月5日、帰郷を目前に白河樂翁公(松平定信)の浴恩園へ招かれ、和歌に添えて庭の梅一枝を贈られた。
梅は接ぎ木して鉢植えにされ、文政元年「大和行日記」の旅の途中、茶山の許に届けられ、廉塾に持ち帰られた。
生きとし生けるものはいずれ土に帰る習い。今はその伝説を伝える梅の姿は見られない。
廉塾には梅、それに「学問所」の柳、「学問」の木、槐、在りし日そのままの名も知らぬ草木を、本陣には松、樅を是非とも復活したいものである と。

 その三 2月23日 湯田公民館
「ゆだの名所・史跡の散歩道」抄
 佐藤一夫氏(芸備現代史研究会顧問)


①亀居山寶泉寺・乗如上人・徳永徳右衛門
 JR福塩線湯田村駅北口、寶泉寺駐車場に「天明之義民」碑、山門入口に「菅茶山詩碑―送惠上人之高野山」、本堂東に義民徳永徳右衛門を含む徳永家代々の墓がある。

 神辺では5回(享保・宝暦・明和・天明&天保(未遂))百姓一揆がある。
天明の一揆の背景には第四代福山藩主阿部正倫の猟官活動がある。江戸にあって、奸臣遠藤弁蔵を登用、田沼意次への献上品資金調達のため、自然災害も重なる中、領民から苛斂誅求の搾取を繰り返したため、天明の一揆が起こった。
その一揆を類い希な戦略と戦術で全面勝利に導いたのが徳永徳右衛門である。他の一揆の首謀者とは異なり無罪放免となったが、正倫老中昇任の一週間後、「病死」。享年38歳。

 菅茶山詩碑は1799年、乗如(假名 慧(惠)充 号丹涯)が寶泉寺から高野山に上った時、茶山が乗如に贈った詩である。
   送惠充上人之高野山  菅茶山
 夙願君業進  夙に願う君業の進まんを
 今恨君學成  今恨む君學を成すを
 學成何所恨  學成って何の恨む所ぞ
 遠近人争迎  遠近の人争ひ迎ふ
 妙選竟難辞  妙選竟に辞し難く
 拗此白社盟  此の白社の盟を拗ず
 沼遞鼎䑓遠  沼遞 鼎䑓(高野山)遠く
 蒼茫薇海横  蒼茫 薇海に横たわる
 別離老愈難  別離 老いて愈々難し
 此行轉愴情  此の行 轉た情を愴しむ

 拙齋が「交遊強半是僧家」と羨んだように茶山には俗事に染まらない僧侶の友人が多い。  
遍照寺(中条)の「送大空上人之高野山」(前編巻二)と題する茶山詩がある。大空上人は高野山から来任、後また高野山へ帰任した。聖域への再帰を当然の帰趨として素直に見送っている。

 一方、惠充上人は茶山と11年遅れの1759年、徳田に生まれ、1771年、寶泉寺に入り、茶山に入門、茶山とは永年の親交。
學成る喜びと別離の悲しみが交錯、茶山の心情のエゴイズムが珍しく剥き出しになっている。

 ②細川家・「箱田良助誕生之地・・・」碑
 菅茶山詩―箱田道中」碑など 後述、その七「細川と榎本~戊申百五十年~」に一括集約

  箱田道中        菅茶山
 經此山渓歳幾回  此の山渓を経ること歳に幾回
 毎将夜半始還来  毎に将に夜半ならんとして還り来る
 行思往時停籃○  行く行く思う往時籃○を停めしを
 数点流螢水竹隈  数点の流螢 水竹の隈
註 ○漢字=竹+擧←要作字 竹駕籠

 その四 3月15日 竹尋公民館
「神辺宿と周辺の歴史―廉塾―」抄
菅波哲郎氏(元県立歴史博物館副館長)


①菅茶山が開いた塾の変遷
 従来の天明元年説ではなく以下の事実が判明した。
 安永四年(1775)、自邸内に新宅「金粟園」(家塾)を開く
 寛政二年(1790)新宅の北東に新屋敷を造成。同四年、「閭塾」を開く
 寛政八年(1796)「閭塾」を藩に寄付し「廉塾」と改称

②詩集「休否録」と政治批判詩
 当時、社会秩序・治政の乱れに加え、天災の連鎖で百姓一揆が頻発した。宿場町ならでは「ことの外悪風俗之処」神辺を教育による世直しを目的としたのが塾開設の動機である。

 当時の凄絶な社会情勢については、西山拙齋編「休否録」(政治批判詩集)所収の「無題」二首 菅茶山 などに詳しいが、編集を委ねられた山陽の「(為政者の)忌諱に触れん」の忠告を素直に受け入れ「黄葉夕陽村舎詩」(草稿)から削除した。

「無題」二首(其二)要旨
 寧作亂民不欲為偸兒 寧斃矢石不欲死鞭笞
  たとえ一揆の乱民になろうともびくびくした生き方はしたくない。
 既賣瓦木又麥苗  一家數口将何逃
 桃紅柳翠社翁雨  冒雨衝寒人繹騒
 去年千請無一唯  賜麥僅支半日飢
  飢餓、逃散、異常気象。進退窮まっての請願にもお上は雀の涙の救済。
 積怒不霽天亦病  愁雲二月夜凄
 奪酒攫食閭喧   毀屋壊廬報誰怨
  遂に怒りが頂点に達した百姓たちは、怒涛のように村々の庄屋を襲い、
  積る恨みを略奪、打ち壊しに向ける。
 渠首固知夷三族  號哭唯希達九閽
 牙兵出戌里正宅  猶嗔盆盂少鶏豚
  固より一揆のお首領は刑罰が三族まで及ぶことも承知の上、
  乱民の声が天に届けとばかりに叫び続けているのだ。
  それでもお構いなしに、あからさまに袖の下まで要求して来る。

③菅茶山関係資料(5369点)
 平成26年8月、国重要文化財に指定された当該資料の中には、茶山の広範囲な交流を証す書画類。「天門山之図」(池大雅画 1770年)、対嶽耬宴集当日真景図」(谷文晁画 1804年)、
松平定信書(1814年)、典籍類「補鄭註孝經」(伊能勘解由所贈の書込み(1809年)、
器物類「アイヌ工芸品(煙草入れ・小刀の拵え・印籠)などがある。

 その五 3月15日 備後国分寺
      「渡辺好右衛門の周辺のあれこれ&同義民顕彰碑・延宝水害供養塔」
          佐藤一夫氏(元福山城博物館副館長)


① 明和百姓一揆
 福山藩では明和六年(1769)の秋から翌年にかけて、宝暦三年(1753)2月に次ぐ2回目の百姓一揆が起こった。
これより前、明和二年、三代目藩主阿部正右が老中昇進、明和六年、父正右の急死に伴い、四代目藩主正倫が襲封した。藩主在府に加え、家督相続などによる藩財政上の出費が嵩み、それのつけが国元領民に対する苛斂誅求の賦課に転嫁された。長雨・日照りで稲・綿花の作付けが不能、大凶作。農民は窮貧に喘ぎ、飢餓人が横行した。

 明和七年(1770)6月、正倫は前年江戸藩邸御勝手御用に登用した叔父安藤主馬を福山へ派遣し、国元の藩改革、事態の収拾を期したが、成果が上がらない。無策に等しい治政に窮乏に堪えかねた農民が遂に決起した。

 8月中旬、下竹田村で一揆が勃発。芦田・深津・沼隈郡へと拡大。月末に至って鎮圧された。要求項目のうち、大割銀、過上米の15年賦返済は先送り(来年1月以降)。小作料など地主と小作人の貸借は当事者同士で解決 などとし、例によって藩は無傷。

 安永元年(1772)11月、正倫が帰国。
翌安永二年一月、一揆発頭人として、定藤仙助、北川六右衛門を謀書・謀判の罪で打ち首獄門。更に、2月、定藤仙助家を闕所絶家にしている。

② 渡辺好右衛門
 福山領6郡全ての農民たちの信頼を得た指導者の一人が下御領村組頭渡辺好右衛門である。資性剛直、頗る才略有り。里正の苛征への憤り抑えがたく、進んで福山藩に訴え出た。
藩が穏便に取りなし、領民の困憊を救った。
お上に阿るばかりの者が多い中で、自らは進んで捕縄を打たれ、粛々として幽界に旅立った と。
  (義挙碑 土肥政長 建立 昭和4年)

③延寶元年溺死六十三霊二百五十回諱供塔
 延寶元年(1673)、堂々川氾濫により犠牲になった63霊250回忌法要
  (土肥七郎建立 大正11年5月)

 その六 3月17日 神辺公民館
      「神辺宿と周辺の天変地異」
  ―連続歴史講座・信道一代記最終回―
             菅波哲郎氏(元県立歴史博物館副館長)


① 天保十一年の大水害(6月5日)
 備後一円に及ぶ大水害、古市では古畳で暫く洪水を防いだ。民家の流失289軒、本陣は床上浸水、畳が浮き上がり、大釜が流れ、酒(損害額約弐百両)がさらさら流れ出した。
多量の流失物が鶴ケ橋で堰き止められ水が逆流、大仙坊で溢水、さらに被害を拡大した。
府中、高木、中須も一面、濁流の海、被災者は屋根から逃れる以外方途なく、樹に上り、水呑まで流された人もあった。

 福山藩では船50艘余を出し、懸命に被災者の救援・救護・炊き出しなどに当った。10月に入って、犠牲者の供養や年貢免除を行った。

② 安政元年・二年の大地震(2年10月3日)
 前代未聞の全国的な大地震、江戸では未曾有の激震で火災も発生。阿鼻叫喚の惨状。
神辺宿では強震の連続で、本陣の土蔵、土塀などが被害を被った。修復の際、寒水寺から礎石を譲り受けた。

 江戸表から国許へ5日間で早飛脚が通報した。丸山上屋敷など建屋は押潰されるなど甚大な被害を受けたが、殿様・大殿様などには別状なく避難された と

 地震後、芸洲の御家中が江戸表よりの帰途、当家に宿泊。信道64歳は、一行の一人52歳から江戸地震の体験談を聞いた。西下中、津波、火災、和歌山死者24名、溺死者699名の情報が印象に残った。地震の被害を目の辺りにして「立身出世、金の望みもさらになし。無事で畳の上で死ねねば本望」との締め括りに、自らも同感した。手土産に「江戸大変の絵図」を給わった。

 同時代の箏曲家葛原勾当は11月4日、外稽古先の牛窓で地震に遭い、5日晩、津波の危険を予測、住民と一緒に若宮神社(海抜30㍍)へ避難、蚊帳を吊り、ここかしこに集まり、夜を過ごした。非常時、何はさておき逃げる・我が身の安全を図ること と。

③ 文政六年の大飢饉(4月~7月)
 備後地方は大干魃に襲われ、「水なく故に土白く」なった。
藩は各地の寺院に藩主代参の役人を送り「雨乞い祈願」を行った。神辺大明神では沼隈のはね踊りが奉納され、夜の町並みは灯籠と松明で昼間のように輝いて見えた。
7月20日を過ぎて漸く雨雲が現れ数日後大雨となった。

④ 文化四年の神辺宿大火
 「得能正通文庫」―菅茶山から賴春水に宛てた書状(2月21日付)―(要旨)
2月18日、茶山は亡父樗平の十七回忌を無事務めた、その夜、大火があった。
北西の風強く、火は三日市から七日市まで総なめ、私宅及び親族(東本陣)本宅、土蔵ともに全焼した。
延焼206件。幸い怪我人は居なかった。藤井暮庵宅と向かいの光蓮寺(十日市)、西本陣(三日市)、廉塾と西隣の高橋家は類焼を免れた。
東本陣は役目柄、再建が急務、復旧工事中は西本陣などが業務を代行した。
幸い「府志」(福山志料)関係資料は焼失しなかったが未完、銭をとられても、筆の立つ人がいれば紹介してほしい。

 その七 6月14日 神辺文化会館
     「細川と榎本~戊申百五十年~」
             佐藤 一夫氏(元福山城博物館副館長)


 榎本武揚の父、箱田良助の生家、箱田細川家は十五代、分家は2家以上ある。広大な細川家墓地には56体の地蔵がある。
墓碑銘や八代友右衛門清明か九代政右衛門直懿が遺したと思われる「細川家文書」(1000点)などから、初代は備中宇喜多直家に仕えた細川掃部助清孝と思われる。

 榎本武揚の父、圓兵衛直由(諱)武規(名)、字は良助、通称は圓兵衛・左忠太。寛政二年、十代目圓右衛門直懿と卜部氏女(水呑村)の次男として誕生。兄、右忠太(生没年不詳)がいた。

 文化三年、伊能忠敬が、山陽道・山陰地方・隠岐を測量中、細川家と接点があったと思われる。良助が茶山の弟子であったこと記す文書はない。
文化4年6月6日、良助17歳は兄とともに江戸へ出立、忠敬の門下生になった。

 文化6年8月、忠敬の第七次九州測量に先だち、良助は測量隊に参加したいと箱田良助名義で「一札之事」(誓約書)を提出している。
「一札之事」(菅茶山記念館常設展示)は、巡見期間中の服務規則遵守はもとより酒、遊び厳禁、役に立たなければ即刻解雇、万一、旅先で病死したら、その場で直葬してもらってよいなど厳しい内容で、本人・父・親類谷東平(現井原市大江町)連署である。

 この測量隊は山陽道を西下中、11月27日、神辺東本陣に宿泊、伊能は菅茶山・菅波武十郎と初めて会談している。この時、茶山は忠敬から表紙に伊能勘解由所贈の書き込みのある「補訂鄭註孝經」(国重文指定)を贈られている。
「伊能勘解由を本陣に見る。門人二人出て見ゆ。伊能、鄭註孝經・菓子・二字扇を惠む。留談夜に至る。此より先き、勘解由、屡ば語を寄せて、余をみんと欲す。而これども公程制あるを以て、往きて見ることを得ず」(茶山日記)
(*茶山は会談後、「伊能忠敬先生奉命測量諸道行次見問賦贈」と題する詩を忠敬に贈っている。)

 文化八年閏2月12日、伊能は九洲からの帰途、箱田村庄屋圓右衛門(良助父)の家に止宿、圓右衛門に土産の畳表の購入を依頼している。

 文化9年1月12日、第二次九州測量の往途、茶山は神辺本陣に忠敬を訪ね、忠敬から「銅版の萬国図」を贈られている。
文化11年6月5日、茶山は藩主阿部正精の命で江戸出府、江戸で迎春、翌年2月26日まで江戸藩邸で過ごした。在府中、茶山、忠敬同士、又は、良助や書状を介して頻繁に交流があった。

 同年4月27日、第九次(伊豆)測量には忠敬は老齢のため不参加、文化13年5月19日、茶山は忠敬から、「第九次測量は良助らによって滞りなく終了。来年度中には地図が全部出来上がるので、長生きをして新地図を御覧いただきたい」旨の書状が届いた。

 この年、良助は内弟子筆頭となり、老齢の忠敬に万事一任され、「大日本沿海與地全図」の作成に着手する一方、養子先を見極めようとしている。その矢先、4月13日、忠敬が死去した。

 文政四年、良助は御徒士榎本家に持参金五十両で入婿、五人扶持五十五俵となった。
7月10日、役人や門弟の協力を得て「大日本沿海與地全図」(225枚)・「大日本沿海実測図」(十四巻)を幕府に上呈した。
この年、妻富との間に長女瑞清が授かったが、文政五年、妻に先立たれ、琴(旧姓 林)を継室とした。娘らくが生まれた。

 文政六年、天文方出仕を命ぜられ、文政七年、榎本圓兵衛武規と改名する。
 天保三年、長男勇之助、天保七年、次男釜次郎武揚が生まれた。
 弘化元年、御勘定方となり旗本の列に加えられた。

 万延元年、櫻田門外の変が起こった年、「良助70歳は天文方から着実に栄進、現在、御勘定所日勤。息子勇之助は講武所、釜次郎は御軍艦操練教授方勤務、娘三人もそれぞれ御鷹匠、御勘定方、御徒士方に嫁ぎ、いずれも折り合い宜しく暮らしている。」旨、書状に認めている。この8月6日、良助は他界した。

 良助、改め榎本圓兵衛武規の次男、榎本武揚は弘化四年、昌平黌で儒学・漢学を、ジョン万次郎の私塾で英語を学んだ。
嘉永五年、樺太探検に参加、安政三年、長崎海軍伝習所に入所、文久二年、オランダ留学を経て、蘭学、舎密学(化学)、航海術、砲術、海事国際法、国際情勢など多くのことを修得した。

 慶應三年、軍艦「開陽」で帰国、明治元年、戊申戦争において、幕府艦隊を率いて函館五稜郭に立て籠もり、新政府軍に抵抗した。明治二年、黒田清隆に降伏、投獄された。
しかし、黒田の助命運動で死罪を免れ、特赦出獄、その才能を買われて、薩長藩閣主導の明治政府にあって要職―逓信・農商務・文部/外務大臣―を歴任した。

 第二次伊藤内閣・第二次松方内閣の時には、農商務大臣として、日清戦争・足尾鉱山鉱毒事件など国難に対処。明治41年、73歳でその波瀾万丈の生涯を終えた。

 その8 11月18日 神辺公民館
      「松平定信と菅茶山」
             岡野 将士氏(県立歴史博物館主任学芸員)
 

 松平定信は徳川吉宗の孫、安永三年、白河藩第二代藩主松平貞邦の養子になり、天明三年、白河藩主、天明七年、老中に就任、寛政の改革を行った。
寛政五年、老中、解任。文化九年、定永に家督を譲った。以後、楽翁と号して江戸浴恩園で文雅に勤しむ。
定信はのち明治政府による顕彰で同時代の田沼意次と比較対照、儒教的倫理を説き、文武両道を勧めた名君とされている。

 定信と茶山の接点は古文化財録「集古十種」編集事業にある。「からうた」や「ふみ」などで言外の余情を汲み取ることが肝要だが、言語や文字の補完資料として、古文書、画図、古図、古額が必要との認識から、この国家的事業に着手、著名な調査・編集要員を全国各地に派遣した。
寛政八年、神辺宿茶山を訪ねたのは白河藩儒廣瀬蒙齋。
「有方録」に「仕官を望まず村里に隠遁。居宅は坊の南に、別荘は坊の北、「黄葉夕陽村舎」と呼んでいる。関西では盛んにその詩を称賛。翁は別け隔てをせず交友の広いことを楽しみにしている。それ故四方の文士が集い、別荘に泊め、色々と談論する。」と記録、同時に楽翁へも悉に報告したものと思われる。

 寛永12年4月には、白河藩画師白雲・大野文泉が茶山を訪ね、宮島や府中へ調査に出かけている。この時、「西国名所図」として描かれた帝釈峡の雄橋や松平定信書「文武忠孝」など5点が茶山に贈られている。

 定信は造園が趣味で、生涯5つの庭園を造っている。茶山ゆかりの庭園は南湖と恩浴園である。
前者は享和元年、白河城下に造られた日本最初の公園、別称「士民共楽」(身分に関係なく誰もが楽しめる壁や塀のない公園)、四季の草花が植栽される博物学的な面と海防、操船訓練の場としての目的も含まれていたと思われる。
文化五年、茶山は園内17の景勝地の一つ逗月浦(和名 月待つ浦)に、漢詩を寄せるよう命じられている。

 後者、浴恩園は寛政五年、築地の一橋家跡に着工、翌年ほぼ完成した。回遊式庭園で茶山は園内五十一勝中、魁春園(和名 春知る里)の詩文を乞われていた。
茶山は藩主正精の命で文化十二年の元旦を江戸で迎えた。程なく帰国を控えた2月5日、白河老公に召され浴恩園に赴いた。諸臣の案内で「春風の池」から「秋風の池」を巡り、客殿「春風館」で老公と対面した。

  侍浴恩園
 雪後江城風剪剪  雪後江城 風剪剪
 蘆芽未茁梅猶晩  蘆芽未だ茁かず 梅 猶晩し
 頼因侍史詠歌佳  頼いに侍史詠歌の佳きに因って
 早已名園春不淺  早や已に名園 春淺からず

 老公は茶山の詩に応えて
  故郷を 思ふも しばしなぐさめよ
   梅の色香は よしあさくとも

と和歌を詠み、一枝の梅を手折りて、茶山に贈った。

 この梅は大事に福山藩邸に持ち帰り、盆栽に接ぎ木した。茶山は帰国途上、傷つくことを慮ってこの盆梅を友人の石田悟堂(秋田藩儒)に預けた。
三年後の文政元年、茶山が「大和行日記」の旅行中、小野梅舎が帰郷途上、件の梅を悟道の書を添え茶山に届け、「2、3日うちに、故国倉敷へ帰るついでに神辺まで持ち帰ってあげます」と親切に言ってくれた。
しかし、茶山は一面識もない梅舎に江戸から京都までの道中に加え、さらに神辺までとは厚かまし過ぎると思い、鄭重に労を労い、そこからは茶山自身が長旅の道連れに廉塾に持ち帰り庭に移植した。
   (以上 文責編集子)

   鞆小六「日東第一形勝物語」公演
   朝鮮通信使ゆかりの町全国交流大会

 3月12日、潮待ちの港鞆町市鞆公民館で朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会があった。
韓国並びに日本各地からの参加者約240名を前に、鞆小学校6年生が「日東第一形勝物語」を熱演。
その中で、「朝鮮通信使に関する記録」のユネスコ記憶遺産登録の実現を祈った。10月、慰安婦問題で揺れる日韓関係の中、地元の関係者や児童たちの祈りが天に通じた。
⑨写真 鞆小「日東第一形勝物語」熱演

 江戸時代の外交使節団、朝鮮通信使一行は来日11回、往復とも鞆に寄港、正使は定宿の福禅寺から弁天島、仙酔島などの絶景を堪能している。

 正徳元年(1711)第六代将軍徳川家宣の祝賀に、通信使8人がやって来て福禅寺に宿泊した。その折、8人が口を揃えて「対馬から江戸までで、此処の景色が最も美麗である」と絶賛し、従事官李邦彦が「日東第一形勝」(墨書)を置き土産に遺した。
文化七年(1810)、阿部正精の命で伊藤良炳が木彫にした。

 また、延享五年(1748)、第九代将軍徳川家重の祝賀には、通信使一行の正使洪啓禧が寄港、福禅寺客殿からの眺望に感嘆、「対潮楼」と命名、子息洪景海に墨書に認めさせた。
藩主阿部正福がそれを扁額に仕立て、座敷に飾らせた。

 次いで、文化九年(1812)、菅茶山が正徳度通信使詩書(9点)の木版摺が可能な木刻を鞆の豪商に提案したが、賛同を得られず、「日東第一形勝」のみ木刻。
その文化的価値を諦め切れない茶山は三使書については、親戚の菅良平に依頼。良平は、友人の豪商三島新助(大坂屋上杉平佐衛門)に相談、彼の理解・協力を得て完成した。

 御野郷土史年表 発刊
  菅茶山の足跡 瞥見

 このほど「御野郷土史年表」(作成 砂留研究会代表土肥徳之 平成29年)を贈られた。
年表は「地域の宝に気づくきっかけになれば・・・」との希いを籠めて学区内全戸約1600戸に配布された。
 「御野村郷土史 稿本」(土肥 政長 昭和3年)と首っ引きしながら、年代を追って菅茶山関係事項を整理してみた。
年号は、「天皇 元号 干支 西暦」を記載

・後桃園 安永五 丙(ひのえ)申(さる) 1776
 「備陽六郡志」46巻 成る。
内、稿本44巻が末裔から財団法人義倉に寄贈され、市重要文化財に指定されている。
後に、編纂された馬屋原重帯の「西備名区」や茶山の「福山志料」の草分けと言われている。

・後桃園 安永八 己(つちのと)亥(い) 1779
 茶山32歳、八丈岩に登り、歌を詠む
 「御領山大石歌」  菅 茶山

・光格 天明四 甲(きのえ)辰(たつ) 1784
 3月19日、茶山37歳、西山拙齋、菅恥庵同道、国分寺に如實上人を訪ねる。

  聯句戯贈如實上人 拙齋&茶山
 上人好事為花顚 唯愛名花不愛銭 拙齋
 為是年年購奇種 下山時乞衆生縁 茶山

 寺院関係では、茶山73歳が證林山明正寺第十二世祐教上人(1797~1853)に求めに応じ詠んだ「祐教上人索偃松詩」が掲載されている。
東西十四間(27.3㍍)、南北九間(17.3㍍)の偃松(通称 囲い松)、残念ながら慶應三年枯死との記録。当寺には在りし日の巨松を描いた額装が残されている。

・光格  文化六 己巳(つちのとみ) 1809
 茶山62歳、「福山志料」35巻、藩へ提出

・光格  文化七  庚(かのえ)午(うま) 1810
 茶山63歳、賴山陽、河相君推、弟子たちと湯野村鼕鼕谷に登る

・光格  文化九  丙(ひのえ)戌(い) 1812
 茶山、塾生と茶臼山に登り、歌を詠む

・光格 文化十 癸(みずのと)酉(とり) 1813
 10月12日、茶山66歳、賴春風、片雲上人(竹原照蓮寺)、塾生らと御領山に遊ぶ

・仁孝 文政三 庚(かのえ)辰(たつ) 1820
 9月9日、茶山73歳、風牀上人、小野泉蔵、北條霞亭、塾生と御領山に登る。雨を避けて国分寺に入る。

   竹田ホタル乱舞の郷へ
   石の上にも三年の鑑賞会

 5月27日宵、竹尋学区の狭間川流域でゲンジホタル鑑賞会(主催 同守る会 吉岡正文会長)が開かれると聞いて訪ねた。
20人余の人々が集まり、宵闇をバックに繰り広げられる光の乱舞に歓声を上げた。

 年々、家庭排水や農薬散布などによる環境汚染が進捗する中、先ずは竹田ゲンジホタル(県天然記念物指定 1958年)を絶滅の危機から「守る」と共にみどり豊かな地球を次世代へ伝えようと地元有志が立ち上がった。
先輩格の堂々川ホタル同好会(2004年発足)を範に、河川の整備、「カワニナ」の放流など環境整備を進め、菅茶山らが愛し、数多の漢詩に遺した夜景復活に努めている。

 螢 七首 (一)     菅 茶山
 満渓螢火乱黄昏  満渓の螢火 黄昏に乱る
 透竹穿藤各競光  竹を透して藤を穿ち各々光を競ふ
 吟歩不愁還入夜  吟歩 愁へずた還た夜に入るを
 借将余照渡山梁  余照を借り将って山梁を渡る

 2017年度茶山ポエム絵画授賞式
 
 1月13日、菅茶山記念館で2017年度茶山ポエム絵画授賞式(写真左)があった。
神辺美術協会(徳永恂子理事長)が総出品数3千点を36の目で公平厳正に審査。
「新らしい詩もよく理解、楽しく描いた」最優秀賞8点、優秀賞121点、入選478点を選んだ。
⑩写真


 最優秀賞受賞者は次の皆さん(敬称略)
伊豆永華那(誠信幼稚園)、末次美陽(神辺小一年)、原口空武(神辺小二年)、宮里爽月(湯田小三年)、福島優華(中条小四年・ポスター採用)、岡崎泰也(竹尋小五年)、藤岡卓登(湯田小六年)、三谷咲樹(福山中)
 
編集後記

◇少子高齢化時代の反映か、来年は「年功助力」が流行と聞く。蓋し次世代を託す少青壮年代層があっての協助であろう。
◇本会も一般参加大歓迎の研修行事、スマホ対応のHP新設などで広報と会員増に努めている。廉塾保存・活用計画策定元年の堠樹下、ふるさと創成にも大いなる期待が膨らむ。
◇教育理念「茶山に学べ」は、昭和初年以来、地元深安の学校現場で「郷土読本」に編まれるなどして継承され今日に至っている。
◇三年前、福山北署が若手署員育成研修会「廉塾」創設。来年度は福山平成大で教育内容に菅茶山採択、県歴博で菅茶山常設展示場新設の朗報が伝えられている。
◇二〇一九年度は菅茶山生誕二七〇年の節目、巨峰茶山をテーマに備後のそこかしこでコラボ事業が催行されることを希ってやまない。

顕彰会事務局長(http://www.chazan.click/)
 武田恂治(福山市神辺町西中条二一一五)
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会報編集部
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