会報電子版
  「菅茶山顕彰会会報29号」電子版

会報をWORD原稿から電子収録しました(写真以外)
原稿から収録しましたので、印刷と異なる内容があります。

菅茶山顕彰会会 第29号 2019・3・3

(記念式典写真 会長 式辞)

 菅茶山生誕270年記念式典 式辞
          菅茶山生誕270年祭実行委員長 
         菅茶山顕彰会会長         鵜野 謙二


 「菊薫るかぎり 茶山の文化あり」
 今年は菅茶山生誕270年にあたります。私たちは、神辺における文化・教育の先駆者菅茶山の遺芳・遺徳に学び、その顕彰活動を継承しています。その活動の一環として、生誕270年記念式典・講演会を皆様方と共にこのように開催できることをうれしく思います。

 さて、今年は異常気象で、各地で豪雨、台風等で多くの甚大な被害をもたらしました。廉塾も床下浸水の被害を受けました。しかし、復興支援ボランティア活動の報道を見ていると、菅茶山の思想(人間の生き方、教育の精神)を見る思いがします。

 当時の菅茶山の儒学者・教育者としての存在感は、全国的な反響を呼び、多くの塾生が茶山を敬慕して廉塾を訪れました。彼等は「学種」すなわち「学問と文化の種」として大事に教育されました。国特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」と「菅茶山関係資料」は、福山市・神辺町の宝です。

 本日の講演は、岡野将士先生(広島県立歴史博物館主任学芸員)をお願いしています。長年にわたる「菅茶山関係資料」の調査・研究を通じて、菅茶山の人間性・感性、多くの文人・墨客との交流関係、菅茶山の事蹟等について詳しく拝聴していただけると思います。
 また、詩吟・詩舞を錦城流神辺支部の皆様にお願いしています。本日は、「当世随一の漢詩人」と高く評価された菅茶山とその弟子賴山陽の漢詩を朗詠・詩舞していただきます。映像による解説もあり、わかりやすく楽しく拝聴できると思います。

さらには、菅茶山生誕270年を記念して、来年3月2日(日)には、菅茶山と賴山陽の朗読劇「梅花の契り」の上演を予定していますので、この場を借りてご案内いたします。

本日は公私ともにご多用中、ご臨席・ご参加くださいまして心からお礼申し上げます。
菅茶山生誕270年祭実行委員会を代表いたしましてご挨拶といたします。
     平成30年11月10日 
 
 菅茶山生誕270年記念事業 全日程終了
      式典・朗読劇・復刻版etc

 平成30年11月10日、好天下、神辺平野を抱く山脈に見守られ、菅茶山生誕270年記念式典が神辺文化会館小ホールで行われた。衆議院議員小林史明氏ら来賓を初め、約180名の出席者がロビーで茶山ポエム絵画・イラスト画展示作品の歓迎を受け、祝賀会場に臨んだ。
*写真①ポスター


第一章 祝生誕270年記念式典
①式典~遺芳を偲び更なる顕彰活動を~
定刻13時、開式宣言。初めに式場正面に飾られた菅茶山肖像に向い鵜野会長ほか理事、次いで来賓らが拝礼、白菊献華。
 鵜野実行委員長式辞(巻頭掲載)。全国各地を次々と襲った豪災害の復興支援活動に菅茶山の思想と遺芳を偲び、更なる顕彰活動の継続を誓い、参列者一人ひとりの協助を求めた。
 来賓祝辞。最初に登壇した衆議院議員小林史明氏は、人口減、大都市集中化が進む中で、茶山のような目標となる先輩に学び、足許を見詰め、明確な判断力に基づく住みやすいふるさとづくりを 熱っぽく訴えた。次いで、枝廣直幹福山市長(代読)、宮澤洋一参議院議員(ビデオメッセージ)、松岡宏道広島県議会議員、榊原則男福山市議会代表の祝詞が続いた。
来賓各位ならびに参列者の皆々様方には、公私ともご繁忙の砌、ご来臨賜り、五年に一度の祝典を盛り上げていただいたことに主催団体として深甚の謝意を捧げたい。

②「献吟」&詩舞 錦城流神辺支部
茶山・山陽唱酬詩in丁谷梅林etc
 小休憩後、錦城流神辺支部長綿谷城魄氏のビデオ解説付で次の献詩と詩舞を披露した。
・冬夜讀書 雪庇の山堂 一穂の青灯に萬古を懐ふ
・宿生田with詩舞 生田の宿 忠臣楠氏の自刃を悼む
・本能寺 総大将明智光秀 真の敵は本能寺に在りや
・茶山・山陽唱酬詩in 丁谷梅林,
 茶山 笻を停め 山陽頻に顧みる。梅花香裏 夕陽傾く
*写真②献吟


③記念講演「地方時代の象徴・菅茶山」
講師 岡野将士氏(県博 主任学芸員)
自ら廿余年にわたって携わった「菅茶山関係資料」調査・研究・整理に基づき、地方で中央の学問政策を体現しようとした茶山の事蹟、「廉塾」周辺について、画像を添え分りやすく説明した。(要旨 19㌻掲載)
*写真③記念講演


④閉会の辞 藤田副会長 講師謝辞と参列者への深謝。HPでも検索可能な茶山情報の紹介とふるさと創生の先駆者茶山の更なる顕彰活動のため一人でも多くの会員・ボランティアの入会を呼びかけ、この日の祝典を閉じた。

第二章 市民朗読劇「梅花の契り」
  高橋孝一氏、十八番の草笛演奏で開幕

 年が明け平成最終年3月2日、かんなべ文化会館大ホールで朗読劇「梅花の契り」(作・演出藤井登美子)公演。
 会場ホワイエでは2018年度(第26回)「茶山ポエム絵画展」最優秀作品9点・優秀作品6点に、神辺美術協会新春展に出品された菅茶山詩画書「夏の思い出」(山下英一画)、「所見」「蝶」(菅波由美子書)3点が松岡宏道県議会議員等来賓8名、開場前から長蛇の列、当日券を求める来場者などを熱烈歓迎。 

14時、鵜野実行委員長あいさつ、来賓紹介。観客の大きな拍手に誘われ、お馴染み高橋孝一氏、草笛の開幕演奏。市内朗読劇グループ「温故知新の会」(代表北川佳代子)&福山市立大演劇サークル(代表山下歌菜子)。主人公茶山役は藤岡詔雄さん。知名人・隣人・友人・顕彰会役員ら顔馴染みの登場に観客が微笑しながら巨星茶山八十年の生涯を追慕した。
*写真④朗読劇


江戸文政期、幕藩制度は貧しい民衆から教育を奪った。茶山はその不合理を糺すために「廉塾」を開設、備後の地に、やがては全国各地にも広がる「学種」を蒔きつづけた。

巨星が置かれた三つの岐路①茶山19歳京都遊学後帰郷、人心の廃れた神辺宿を学種による世直しを指向、黄葉夕陽村舎開設。②茶山34歳、刎頸の友、西山拙齋と共に天明の大飢饉前後の幕藩政治批判から、藩儒として一人でなく天下のための天下を理想郷とする迂遠法への転換③茶山62歳、親友賴春水の嫡男、脱藩・廃嫡された山陽を廉塾都講として引き受けたものの我儘放題、実質一年二カ月で脱去。三年間にわたる不和が続く中、やっと和解の時が訪れる。

*茶山77歳、茶山・山陽唱酬詩in丁谷梅林
「樹、静かならんと欲すれど風やまず。子、養わんと欲すれど親待たず。」これから先、先生から坏を受ける時があるだろうか。それを思うととても返杯しがたい。山陽は別れがたい気持ちを振り切って、静かに暮れなずむ梅林を後にした。
胸キューン、万雷の拍手喝采の中菅茶山生誕270年祭全記念事業の幕も降ろされた。

第三章 菅茶山顕彰会会報復刻版発刊
     報道各社が強力エール放唱

もう一つの記念事業、会報復刻版発行。当初、既刊28号までの出版計画。各号から5つのジャンル別に4~5㌻分の記事選別作業を進めていた。中途、格調高い先輩の論文や寄稿文を割愛する非礼を避けるため、急遽20号まで書籍版、21号以下は同時進捗中のHP電子版(全号)に委ねる計画変更。菅茶山ミニ全書を目指した当初案中、菅茶山肖像画・珍しい自画賛像などをグラビアに、菅茶山略年表・墓碑銘・墓所・家系図などを附録として採録、裏表紙を方円の手水鉢で納めた。

 10月17日、鵜野会長以下三役が市役所市政記者クラブでプレスリリース。記者の皆さんに多忙な時間を割いてもらい272㌻に及ぶ分厚い「復刻版」を前に、記念祭、朗読劇をお上乗せ、懸命の紹介に努めた。
有り難いことに中国・毎日・産経・読賣・朝日・山陽新聞各社の他、神辺観光協会広報誌、井原放送などがインパクトのあるバックアップ。同時進行の県立歴史博物館・ふくやま書道美術館・菅茶山記念館などの協賛展示会とセットで大々的に報道。お陰様で菅茶山について広く地域住民の関心と話題を呼び、記念・協賛事業の趣旨や集客面で、この上ない力強い応援歌となった。
*写真⑤プレスリリース記事
 

復刻版は、記念式典後、早速、三役、理事等が手分けして、広く近郊の図書館、大学・高校・町内小中学校、公民館等に寄贈した。一人でも多くの人に読んでもらえることを希っている。また、本会としても、今後の学習会資料として活用する計画案が浮上している。

  菅茶山生誕二七〇年祭を終えて
      菅茶山顕彰会事務局長 武田 恂治

 晴れやかな秋日和の中、菅茶山生誕二七〇年祭一連の行事を無事に終えほっと一息ついている。
神辺のこの地に豊かな学問の土壌を築き、鄙僻の町の名を全国に知らしめた茶山の大いなる遺産を風化させることなく更に力強く伝えていくためにはどのような式典にすればよいか、約一年前から、実行委員会を挙げて議論に議論を重ねて来た。

廉塾を会場とした生誕260年祭は人々をその頃にタイムスリップさせ、今なお記憶に新しい。
今回は廉塾さながらの臨場感を少しでも創出するためロビーで茶山ポエム絵画&アート展を行った。茶山詩(現代語訳)を読み子供達なりにイメージを膨らませた力作と応募資格を問わないアート作品は自然の美しさを讃えふるさとの四季を見事に再現させてくれた。
献花に始まった生誕祭。壇上で一本一本白菊を供える理事や来賓の方々の姿が地域の為に尽くした茶山の姿と重なり、万感胸に迫るものがあった。
また、茶山の魂に触れた錦城流の朗々とした献吟も、遙かな時空を超え、人々の胸をうった。解説も、分り易く効果的だった。

県立歴史博物館岡野将士先生による講演も、茶山の偉大さを再認識させるものであった。学問的に高い視点に立ちながらも、ユーモアを交え、初心者にも分り易い内容であった。

ここで、記念事業に関わって、理事などから寄せられた感想の一端を整理してみたい。
①手作りティーマット 大好評!
記念品として配布されたティマットは高橋孝一氏ご令室靖子様のご指導の下、安原三津代さん、小林貞子さんら女性理事が手づくり。
想定外、連日の炎暑とも格闘しながら、350枚に及ぶ苦心作。ご労苦のほどが偲ばれる。図柄は方円の器。栞には次の言葉が添えられている。 
菅茶山の教育方針「水は方円の器に従う」人は環境や人間関係によって良くも悪くもなることを表している。 と。
*写真⑥ティマット


②二百七十年祭刻印in菅茶山先生顕彰碑
菅茶山記念館玄関前に「菅茶山先生顕彰碑」(平成十一年建立)がある。この石碑に 祝年祭を記念、菅茶山生誕二百七十年祭・二百七十年祭実行委員会・菅茶山顕彰会・平成三十年十一月 と刻印、化粧なおしも施してもらった。
*写真⑦顕彰碑
 

③助成金・御祝儀受納謝告(順不同敬称略)
 この記念事業のために助成金、ご厚志を賜った事業所・団体などを紹介し、心から御礼申しあげたい。
・社団法人義倉
・(公益)ツネイシ財団
・(公益)エネルギア文化スポーツ財団 
・(学法)福山大学 理事長 鈴木 省三 
監 事 光波祥二郎 
・神辺ライオンズクラブ 
・詩吟朗詠錦城会神辺支部 
・古文書研究会会長 林多恵子 

また、福山市神辺文化会館・菅茶山記念館をはじめ、地域社会の皆様、顕彰会会員の皆様方には、物心両面にわたるご支援ご協力を頂き、ここに菅茶山生誕270年祭を成功裡に終えることができたことに深甚の謝意を表すると共に、この祝年祭をジャンプ台に、さらに、会員の学修を進化させると共に、茶山先生の遺徳を老若男女を問わず、ボーダーレスに広めたいものと誓いを新たにしている。 

 巨峰菅茶山に懐う
       福山大学理事長 鈴木 省三

菅茶山生誕270年記念記念祭おめでとうございます。光栄にもご招待に預かりながら、公務のため出席できませんでした。この紙面を借りて、改めてお祝詞を述べさせていただきます。と同時に、今夏の西日本豪雨被害についても衷心よりお見舞い申し上げます。
貴顕彰会の拠点、国特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」の被害は軽微にとどまったと知り安堵しております。

さて、神辺城時代から時移り備後国福山城下、神辺宿の頃、存世の菅茶山53歳の漢詩「神邊驛」は一見ありふれた宿場の叙景のように思いますが、「空濠荒驛半榛荊」中、「荒驛」は何を語ろうとしたのでしょうか。
茶山は当時の神辺宿について、①かんなべ(燗鍋)で酒のむ人ハ多けれど、本読む人はちろり(銚釐)ともなし。②ことの外悪風俗の處、村役でも、呑む・博つ・買うの日常。自らも例外ではなかったと告白しています。
こうした状況下、一揆が頻発する末世的な現実に危機感を募らせた茶山は19歳の時、一念発起して京坂に遊学六回、取っつきにくい外貌に似合わず、人好みをしないバランス感覚の取れた為人に加え「当代随一の漢詩人」評の追い風を得、居宅・旅先、そこかしこ面談を求める人たちとの交遊を重ねる中、更に自らを磨き上げ、やがて、ふるさと神辺の荒廃を憂い「学種」による社会秩序の回復を企図、先ずは、刎頸の友、西山拙齋、賴春風らと側面的に「寛政異学の禁」を支援し、その成立を待って、ふるさとに「朱子学」を唱導する私塾「黄葉夕陽村舎」を開設、永続のため藩に郷校化を申請、寛政9年に認可された。爾来、明治維新の学制改革に至るまで、多くの学種を全国に送り出しました。その巨樹下、幾星霜、教育面で蹊を成すのが、備後では、窪田次郎、山本瀧之助、葛原しげる、福原麟太郎諸氏であろうと思います。

昭和50年、縁あって、私は、草創期の福山大学、今は亡き名誉総長宮地茂氏の許で、働くことになりました。当時の理事長・学長宮地先生は広島高師を経て旧文部官僚、学閥・「島の者」との陰口に耐え抜き、戦後の学制改革や大学紛争解決に尽瘁、退官後「郷土に大学を」という公約を掲げ出馬した衆院選で苦杯、耳順にして一私人として立志、故郷因島を指呼の間に望む現在地に福山大学を創建しました。学長建学の理念は「学者や高級官僚などエリート養成を目指す大学」は端から念頭になく、人格陶冶を第一に「知識を蓄え鵜呑みにするだけでは意味がない。自分の考えを磨いて、疑問を持ち、それを解決して行く」実学主義を主眼としたNO1ではなくONLY1、時代と地方の要請に応えうる学府を唱導。更に、平成5年には福山平成大学を開設。国家・郷土の教育に粉骨砕身され、平成17年5月19日、91歳で帰幽されました。
現在までに両大学合せて約四万二千人の卒業生・修了生の有為な人材を輩出しております。

 菅茶山を懐うたび、私は茶山の下、蹊を成す教育者に宮地茂名誉総長の名を刻みたいと思います。折から、地方の時代、その傘下にある高等教育機関の一翼を担う責務の重大さに身の引き締まる思いを抱きながら、江戸文政期の巨峰茶山に学び、地域に密着した実学を目指し、いみじくも、父が私の名に託した教訓を胸に揺るぎない前進を重ねたいものです。

  吾日三省吾身 (論語 学而第一 四)
 為人謀而忠可乎     人の為に謀りて忠ならざるか
 與朋友交信而不信乎  朋友と交わりて信ならざるか
 傳不習乎          習わざるを伝うるか

結びに当たって、菅茶山顕彰会の益々の弥栄とご発展を衷心よりお祈り申し上げます。
(学校法人福山大学理事長)

 神辺界隈と五十嵐浜藻(抄)
           塚本 照美

五十嵐濱藻は武州大谷村(一八〇六年)現東京都町田市南大谷)の江戸後期における女流俳人である。濱藻は父梅夫と共に文化三年(一八〇六年)から西国の俳諧行脚に出かけ、山陽路に赴き,菅茶山に邂逅しているのである。

五十嵐濱藻(波間藻とも書く)。名は茂代。安永元年(一七七二))に武州大谷村(現、町田市)に、五十嵐伝兵衛孝則(通称文六。俳名は桑園梅夫)と高座郡座間村栗原村(現座間市)大矢善兵衛女(智専院水月慈音大姉)との間に生まれた。
濱藻が生まれた大谷村は、幕末に至るまで旗本久留忠兵衛正吉の知行村であった。五十嵐家はその旗本領の名主を代々勤め、近在に知られた素封家であった。梅夫の父も祇室と号する加舎白雄の門人で、梅夫も白雄に入門している。
濱藻もその影響を受け、俳諧を趣味とした。濱藻は寛政年間に義矩(九代目、傳兵衛)を婿に迎えたが、父の仕事からか、江戸に出ることが多かった。

文化三年、濱藻三十三歳の時、父梅夫と西国方面へ足かけ五年の旅に出かけた。
西国行脚に出た梅夫と濱藻の旅日記は見つかっていない。しかし五年間にも及ぶ行脚の足取りや様子は、二人が上梓した『草神楽』(梅夫編)『八重山吹』(濱藻編)の中から伺うことができる。そこで『八重山吹』を通して濱藻と神辺界隈を探ることにする。

出立から半年、父娘は安芸御手洗を最初の興行地に歌仙を巻き、九州へ渡り、翌文化四年六月、安芸国から備後庄原・上下を経て、七月、備中笠岡へ。笠岡には三か月近く滞在した。この後、備前和気郡北方村で、儒者武元北林と出会い、北林が父娘に贈った次の漢詩二編が『北林遺稿 上』に残されている。

   贈梅夫
 千里勝遊佳句多 吟成毎付雪見歌
 相逢相別怱怱裏 山雨江雲奈恨何

   贈波間藻 
 梅夫女善俳諧 将赴小豆洲
 瑜伽山上偶仙娥 聞得樽前白雲歌
 所恨人間難久接 滄洲一去阻烟波


化五年(一八〇八)一月、小豆島へ。この小豆島への往来の中、菅茶山との交流があった。
菅茶山、六十一歳の文化五年七月十一日の『菅家往問録』には次の記載がある。 
  

丁卯七月十一日江戸大伝馬町三丁目新道
   桑園梅夫・波間藻・五十嵐文六
(『広島県史・近世資料編Ⅵ』広島県編集 昭和五十一年三月二日刊)
この時、濱藻は菅茶山から詩を頂いている。

  女俳諧師濱藻索詩  (後編巻)菅茶山
 弓鞋不畏道程長
 酔月吟花向遠方
 彤管到頭栽綿綉
 何如歸作嫁衣装 
 

江戸では小林一茶、夏目成美、井上士朗、鈴木道彦らとの交流がったとはいえ、武州の女流俳人が西国行脚にでかけ、その中での備後菅茶山との交流。どんなにか貴重な出会いとなったことだろう。
浜藻・梅夫の西国への旅は文化三年から八年までの長きに渡り、長崎・四国・吉備・浪速・京・尾張・伊勢と広範囲を訪れた。その間、各地で吟詠し、歌仙を巻いた。特に『八重山吹』では、天地二冊の十八興行中、半数が備前・備中でのことであり、文化四年六月から小豆島へ渡り戻ってきてからの文化五年七月までの二年にも及ぶ期間この地にいたことになる。

また、この西国行脚では『草神楽』に掲載されているものとも合わせると、一座した俳人は延べ六百余人に上り、特に安芸御手洗の樗堂、長崎の菊也・京の蒼虬・尾張の士朗・近江の千影・伊勢の椿堂・さらに書肆の長斎・其成等、当時の俳壇・出版会における重鎮ともいえる俳人との交流も数多いものであった。
しかも、そればかりではなかった。浜藻らは、旅の中から多くの情報を入手し、人脈を駆使して「正風俳諧名家角力組」・「新板諸国はいかいし大角力ばん付」・「正風道場録」・「南澹部州大日本国俳諧四海兄弟合」の番付に,さらに『万家人名録』にも掲出した。

西国への旅を終えた濱藻父子は大谷村に戻った。文政三年(一八二十)父梅夫が六十四歳で逝去し、弘化五年(一八四八)二月十四日 濱藻は七十七歳で逝去した。その墓碑には、「黄香院 巌濱藻大姉」とある。現在は五十嵐家の子孫に継続され、濱藻関係の資料は町田市の自由民権資料館で保管されている。(東京都八王子市めじろ台 在住会員)

*塚本氏の了諾を得て本誌には菅茶山関係部分のみ。全文はHPへ掲載(編集子)
 
 蠣崎波響画「黄葉夕陽村舎図」
  その原画を画いたのは誰か?
            菅波 哲郎

平成24年度夏の企画展図録『菅茶山と化政文化この度発行された広島県立歴史博物館平を彩る七人の巨人たち』で、蠣崎波響画「黄葉夕陽村舎図」が掲載された。図録ではこの図に類似する資料が四点あることが紹介されている。

蠣崎波響画以外では、星野文良画であり、「□雪」と記した画人であり、四人目は筆者が昭和51年(1976)「菅茶山とその弟子たち」(図録)を製作した際、廉塾の当主から示された写真版の画である。
蠣崎波響画以外の三点は廉塾伝来資料である。但し、図録では「□雪」の画は紹介されていないので、「□雪」以外の三図(HPへ掲載)に共通していることは構図や絵柄が類似している真景図である。

真景図とは特定の場所を写生によって描いた画のこと。すなわち、現地でしか描けない画である。文政7年(1824)に作成された「廉塾屋敷図」と三図に共通する構図や絵柄は次の個所である。
 ①山陽道に面した門と井戸。
 ②南寮と記された建物や垣。
 ③図の中央部から左に見られる用水路。

蠣崎波響(1764~1826)は北海道松前藩12代松前資広の五男で家老蠣崎家の嗣子となる。幼少期に江戸の建部凌岱のちに宋紫石について南蘋派の画を、寛政3年(1791)京都で円山応挙に画を学ぶ。  
文化4年(1807)松前氏は陸奥国梁川(福島県)に転封となり、家老であった波響は領地回復に努力し、文政4年(1821)復領を実現した。寛政2年、27歳の時アイヌの首長を描いた「夷酋列像」(領地回復ブザンソン市立美術館 蔵)は代表作である。  

星野文良(?~1846)は白河藩の絵師で画を谷文晁に学んだ。松平定信が享和元年(1801)に築造した南湖を描いた「南湖名勝図」や、各種の蓮の花を描いた「清香画譜」は代表作である。
*写真 ⑧
 

蠣崎波響や星野文良は画に巧みであったが、二人とも一度も廉塾を訪れることはなかった。ということは、二人の図は誰かが描いた図を模写したという事になる。蠣崎波響や星野文良と接点があり、しかも廉塾を訪れたことのある人物に、白河藩の画僧白雲上人(1774~1825)がいる。 
白雲は松平定信に仕え『集古十種』の編纂事業に加わった。寛政12年(1800)4月19日に、その事業のために同藩絵師大野文泉と共に廉塾を訪れている。
集古十種とは松平定信が全国各地の古画、扁額、銅鐸など十種の古宝物を、所在地や寸法、更に模写図ともに編纂した模写図録である。それ故、この事業に参加した絵師は写生画に卓越した人たちであった。

茶山はこの二人について詩集『黄葉夕陽村舎詩 巻之五』に「白雲上人に贈る」と題して、「上人奥州白河人、画を能くす。白河候、集古十種を著し、捜索模写す。上人も亦これ焉にあずかる 與る」。大野については「名は文泉、奥州白河の人、写真を能くす」と記している。
二人は翌日20日に廉塾を去り、安芸の宮島に向かった。その帰路の5月15日、再び廉塾に戻り、16日、備後の府中や新市の吉備津神社に赴き、19日に廉塾に帰った。
茶山日記はその夜に「二客、余に山水図を作る」と記している。この時、二人には黄葉夕陽村舎図を描く時間はあった筈である。その時に一枚を茶山の元に置いて行ったとすれば、それが写真版かも知れない。そして二人が去ったのは20日であった。

いずれにしても、原図を描いたのは白雲か文泉のどちらかである。大野については「名は文泉、奥州白河の人、写真を能くす」と記している。
黄葉夕陽村舎図の原図を持ち帰った白河藩の二人は、仲間である星野文良に見せたことは容易に推察出来る。模写を描いたもう一人の蠣崎波響は、中村真一郎著『蠣崎波響の生涯』で茶山との関係について、「波響にとって茶山は生涯の詩の師匠である」と記している。波響の居所は松前(北海道)であり、文化4年から文政4年(1821)まで梁川であった。奥州街道の北の起点である白河は、松前も梁川も江戸への往来の際には、必ず通行しなければならない地である。画人でもあり詩人でもあった波響は、白河に備後神辺の茶山の居所を訪ねた者が居れば、その人と会わずには居れない筈である。ここに、波響が原図と出会う機会があったといえる。

筆者は関係資料を検討したが、波響画の原画を描いたのは、茶山が「写真を能くす」と記した大野文泉ではないかと推定する。「写真」とは真景図のことである。
その後、文泉は文化8年(1811)朝鮮通信使への対応のため、対馬へ赴く大学頭林述斎の随員として神辺宿を訪れ、茶山と再会した。茶山日記は「巨野(大野のこと)文泉、酒祭(林述斎のこと)に従って西行し、夜、来訪して、諸画を恵む」と記す。
この諸画の中に、文良画や写真版が混じっていた可能性が極めて高い。註 □内、特定不可。
(元広島県立歴史博物館副館長)

 
 お気に入り散歩道
   ~近世山陽道を歩く~
            藤田 卓三

夕暮れどき、妻と散歩に出かけるのが日課である。特に、お気に入りは、近世山陽道が高屋川の土手を通る辺りで、夕焼けが綺麗な時は最高の気分になる。
 まずは、国道313を北に歩く。高屋川に架かる髙淵橋を渡るとすぐに、西から来た山陽道と合流して堂々川の「長土手」といわれた道が真っ直ぐ北に向かって延びている。
 正面の山は御領古墳群、八丈岩、砂留で有名な御領の山並みで、正面の山裾には備後国分寺がある。右手側には「御領遺跡」が広がり、弥生人が環濠集落を造り、稲を栽培していたことが知られている。

 小学生の頃、通学路だった長土手には奇怪な姿の「艮(うしとら)松」(樹齢500年?)がそそり立ち、「首つり松」「化け物が出る」と云われ、夕暮れ時に通るのが怖かった記憶がある。残念だが、今はない。青い松に白い鶴が眠るという詩は、素人判りする綺麗な詩である。
   松高白鶴眠(後編巻八)   菅茶山
 蒼松白鶴競仙姿 日々喜聲無断時
 怪底今朝聴未得 仰看眠在最高枝

 
国道を左折して堂々川の髙淵橋を渡り、山陽道を神辺宿に向かって歩く。まず髙淵の地蔵様が川を背にぽつんと立っている。昭和の河川改修前は道と川の間に民家があり、地蔵様もその傍にあったはずで、今はひとり寂し気に見える。髙淵のいわれは知らないが、川の曲がり角で、しかも井手(堰)があるので、いつも深い淵になっている。

 髙淵は、江戸後期の「神辺十景絵皿」の一つ「天井堤」(注1)という名所として、岩谷焼の絵皿と菅茶山の弟子たちの漢詩や和歌が残されている。鈴鹿秀満の和歌「髙ふちの つゝみのくさも かけろうふの もゆる春へは のとけかりけり」は、ほのぼのとして良い。
 当会代表理事高橋孝一氏が情報誌「かんなべ浪漫」に書かれたコラム欄によると、明治大正時代の「神辺八景」を詠んだ日枝神社奉納扁額には、「髙淵の帰帆」の歌があり、「この辺りが潟湖(穴の海)の東端で一番深いところで、帰帆の舟がたむろしている懐古の情景が詠まれていたようです。」と書いてある。
 昔は井原を流れる芳井川の分水も流れ込む水量豊かな川だったそうで、川舟がこの辺りまで上って不思議はなく、その昔は穴の海の港だったかと想う楽しくなる。

 そこから橋本橋までの風景は、いつ歩いても素晴らしい。川の流れの先には黄葉山と古城山に続き廉塾の樹々があり、遠くに山手郷分の山々が見える。
 晩秋の夕方は、遠くの山に沈む夕日と照らされた黄葉山系の黄葉と陰影が美しく、茶山先生や葛原先生が眺めた景色をご相伴する気持ちになる。
 杉原耕治『忘れられた街道をたずねて』では、「高屋川の高い土手から、緑に染まる神辺平野の東西南北を、もう一度ゆっくりと見詰め直す。一見どこにもありそうだが、なんと穏やかで優しい風景なのであろう。」と書いている。誇らしい場所だと思う。

 右手の坂本デニムのある辺りは竹継という地名だが、戦国時代の杉原盛重家臣竹継次郎左衛門の「はいから水」の話が残っている。
左手の川中に一本の栴檀の木が枝を広げている。きっと廉塾から種が飛んできたのであろう。何時かは水路の邪魔者として切られる運命にあり、可哀想な複雑な気持ちになる。この木は町内のあちこちに自生しており、ふっと茶山先生の学種を連想してしまう。
*写真⑨散歩マップ


対岸は、「水越」(注2)という土手が低くなった箇所で、子どもでも簡単に川に入ることができた。髙淵の堰までは私の漁場で、ドンコ、アカマツ(ハヤ)や泥鰌を手掴みした感触が懐かしい。

 やがて橋本橋に至る。『福山志料』には、この橋は「砂橋」と云い、長さ八間、幅二間あり、土橋が板橋になり、安永二年(1771)には石橋に架け替えられたと記してある。橋が砂・土・板・石と変化しているのが面白い。
 71歳の茶山先生が「大和行日記」の旅に出かける時の心境を詠んだ詩はここが舞台である。

  平野橋示送者 菅 茶山
 閑行本自往来軽  
閑行本自ら往来軽し
 不似前遊厳路程  
前遊の路程を厳しくするに似ず
 唯為衰躬重離別 
 唯 衰躬の離別を重んずるが為に
 出門己有異郷情
  門を出でて己に望郷の情あり

 橋を下り南行すると古市に入る。廉塾まではあと僅かである。その集落の手前に三叉路があり、旧道「笠岡道」が始まる。昔はそこに「みぎかさおか ひだりいずえ」と刻んだ石柱があったが、その行方は知らない。
 今は新道があるので人通りはないが、約一間幅の用水に沿ったこの道を、茶山先生は竹田へホタルを観に出かけたり、坪生・笠岡経由で鴨方に行き、西山拙齋を訪ねたりした筈である。
この道に入ると、散歩は終りになる。

自然と歴史が豊かで、茶山先生の遺芳が随所に感じられるこの土地に、夫婦ともども暮らせることは幸せなことと思っている。

注1 天井堤の漢詩
①風暖春三月 遊絲十里隄
 茜裾村様女 拾翠此相携(門田朴齋)
②遅日輾晴天 来遊天井川
 脉々遊糸動 芳艸帯春烟(小早川文吾)
注2 水越
 福山藩は城下町を守るため、芦田川水系の各地に堤防の低い場所を作り、洪水が溢れる(越水×溢水=堤防がない場所)ようにした。昭和の河川大改修まで、住民は迷惑した。 

参考文献
『御野村郷土史』 土肥政長著 
『菅茶山とゆかりの人々』 菅茶山記念館刊

 
 平成30年度定期総会開く
  茶山生誕270年記念事業を要に

 5月18日、神辺商工文化センターで、平成30年度菅茶山顕彰会定期総会が開かれた。
 開会のあいさつで、鵜野会長が「本年は茶山生誕270年の節目の年、特に記念祭と記念事業については、会員全員の参加・協力を、国特別史跡、廉塾並びに菅茶山先生旧宅」修復・保存・活用計画については、顕彰会として可能な協力をしていきたい」と。
次いで、議長に井上謙二氏を選出、議事①平成29年度事業報告・決算-監査報告②平成30年度事業計画・会計予算案、付随して、茶山生誕270年に関わる趣意概要・関連行事・実行委員会規約・実行委と朗読劇上演に係る会との覚書・予算案・実行委員名簿など詳悉、病気療養中の猪原文夫氏に代わって藤田卓三副会長の就任案などが全会一致で承認された。

 最後に、藤田副会長が「会長補佐と本会の活性化のため尽力したいと就任のごあいさつ。次いで、顕彰会主要行事への参加協力、新入会員の加入勧誘、生誕270年祭特集の会報第29号(平成31年3月発行)への積極的な寄稿・情報提供懇請、昨年末リニューアルオープンしたHPサイト仕様の紹介とモニターの参加を呼びかけ、各項目別に出席者のアンケートの提出を呼びかけ、用意された全議事が終了。

 次に、「朗読劇「梅花の契り」上演について」作・演出の藤井先生から、出演者代表、山崎典子さん、吉富純子さんの紹介。その後、仲々、「大河ドラマにならない茶山・山陽物語」を藤井先生がプロの意地にかけての執筆されたシナリオの梗概(3㌻掲載)を紹介。
 最後、上副会長が講師への謝辞と再度茶山生誕270年記念事業に関わる全会員の協力を呼びかけ閉会した。

 
   菅茶山墓参の集い
   黒瀬理事が新事実公表

 8月13日、茶山の命日に、茶山墓参の集いが催され、当会鵜野会長以下理事13名に、地元帰南子ども会の子どもと保護者たち15名が参加。炎暑で藪蚊の波状攻撃もなく、清掃作業を手伝った後、墓前で「茶山讃歌」を合唱、霊前に線香を供えた。
 今年で五回目を数える子どもたちへのご褒美に郷土史研究家でもある黒瀬理事が自らが行った最近の研究に基づいて茶山と茶山墓所に関わる3つの新事実をユーモアをこめ、やさしく説明した。
写真⑩墓参の集い


その1 茶山は「せごどん」と同様3度結婚している。(次いでながら、最初の尾道屋菅波家養子縁組では久次郎と名乗っていた。)
その2 茶山の弟子の墓と言われてきた二基の中、一基は攝州花熊村保兵衞が埋葬されている。酒造業を営んでいた菅家に出入りしていた杜氏である。
その3 茶山の父、扶好(樗平)の墓の直近に、最近、小さな墓石があることが判明した。「岡田快三」の名が刻まれている。一体何者か?歴史的な事実として、確証を得るまで鋭意、調査・研究中である。
新事実の発表に理事たちも吃驚仰天すると同時に黒瀬氏のひたむきな学究心と行動力に敬服した。
   ***   ***   ***
 菅茶山先生のお墓参り
   福山市立神辺小学校六年 小林 伸輝

 八月十三日は菅茶山先生の命日なので菅茶山先生のお墓参りに行って来ました。今年は生誕二百七十年目の節目の年でした。
 今回も菅茶山顕彰会の方からたくさんのことを教えていただきました。今年はこれまで分らなかった人の墓が二つも分ったそうです。
 菅茶山先生は江戸時代に廉塾を開いて生徒に学問を教えていましたが、貧しくて塾に通えない人にも塾の家事をしながら、平等に勉強できるようにしました。菅茶山先生は、当時ではとても長生きで八十歳まで生きました。
 お墓参りでは「わが茶山先生」という歌も歌いました。とても心に残る長い歌でした。最後に参加者一人ひとりが墓前に線香を供えました。
 僕はこの墓参りに来て四回目です。毎年、毎年、神辺町が誇る菅茶山先生に墓参りができたり、新しい事実が発見されたりして、とてもうれしいです。
 僕もこの菅茶山先生を見習って,勉強を一生懸命にがんばったり、どんな人でも差別せず、大切に優しく接して行きたいと思います。

 冊子「茶山先生の詩碑を訪ねて」
   黒瀬道隆理事が発表

このほど、黒瀬道隆理事編集の冊子「茶山先生の詩碑を訪ねて」(20㌻)を頂いた。「本会など主催している年数カ所の詩碑探訪が待ち切れなくて、町内全ての詩碑を車で巡ろうと車を走らせた」が動機。
「限られた文字数に籠められた漢詩を理解するためには、中国の故事や地名、歴史上の人物等の理解が必要。漢和辞典、国語辞典を手元に、さらにはIT検索や先人の参考文献へ挑戦しなくては・・・。頭がこんがらがってしまいます。でもなんだか、楽しみでもある?」が挑戦後の感想。

 色彩豊かな写真を配し分り易い文章で綴られた力作を編集子が独り占めするのは勿体ない。当面、本誌でお届けしたい。「神辺ぶらり散歩」、「菅茶山・本荘屋菅波家と網付谷・帰谷の関係について」「菅波久次郎ってだれ?」「松風館十勝碑林と中条道中」などシリーズ作品が続々。茶山に倣って、納得が行くまで、推敲・改訂が行われている。随時、会報とHPで紹介したい。黒瀬氏の飽くなき調査研究で、茶山や茶山墓所などの新事実も判明。詳細は「復刻版」附録に譲る。
 
  生誕270年 菅茶山特集展示
    ふくやま書道美術館所蔵品展

 11月1日から12月16日までエフピコRIMふくやま書道美術館で「菅茶山生誕270年特集陳列」が行われた。当館所蔵の遺墨の中から「黄葉夕陽村舎詩」に収録される自詠の漢詩を揮毫した作品を中心に24点が公開された。
 作品の中には、茶山が大好きだった「梅」
茶山ポエム絵画展でお馴染みの「螢」の書軸
や世界最古の庶民のための公立学校閑谷学校(平成27年度日本遺産認定~近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―)を詠んだ「閑谷」の屏風などが来館者の足を留めていた。 

  第35回茶山ポエムハイク~府中編~
   茶山ゆかりの石州街道を往く

 4月28日、絶好の行楽日和、茶山ポエムハイク春編(菅茶山記念館主催)が催行された。第35回目のこの日は石州街道の古い町並みが残る府中市。定員を超える参加者25名がJR府中駅に集合。
記念館矢田笑美子氏と地元VGの案内で、日本一の石燈籠見学がてら安全祈願。次いで茶山詩「羽中」ゆかりの舞台・府中八幡神社、近くの首無地蔵の上に祀られている大戸直純(私塾「楽群館」開設者・社会事業家)の墓(菅茶山撰文・賴春風書)など急な坂道を含む約6㌖の行程を足取りも軽やかにウオーキング。ご褒美に、その昔多くの著名な政治家や文人が訪れたその名も「恋しき」旅館(国登録有形文化財・建造物)で昼食。名残を惜しみながら、お互いに今秋の再会を約して解散した。

  羽中(一) 菅 茶山
 叢祠清澗曲 叢祠清澗の曲(辺)
 磴道亂松傍 磴道亂松の傍
 有石山不険 有石るも山険しからず
 無風谷自涼 無風くも谷自ずから涼し
 掬泉沾講舌 泉を掬いて講舌を沾(潤)し
 聴鳥鼓吟腸 鳥を聴いて吟腸を鼓(励)す

    (二)=詩 碑
 川明知日暮 川明らかにして日暮るを知る
 烟直覺風収 烟直くして風の収まるを覚ゆ
 暫得談經暇 暫く談經の暇を得て
 聊成踐勝遊 聊か踐勝の遊びを成す
 雲邊僧磬沓 雲邊 僧磬 沓かに
 林際市燈浮 林際 市燈に浮ぶ
 歸路沿田洫 歸路 田洫に沿う
 淙淙暗水流 淙淙として水流暗し

  大戸士章剰馥樓   菅 茶山 
 茶罷談闌興転深 茶罷みて談闌にして興転た深し
 書樓思舊老梅陰 書樓舊を思う老梅の陰
 傳家潜徳餘馨在 家に潜徳を傳えて餘馨在り
 一枕薫風十歳心 一枕の薫風十歳の心

 大戸家(直純の子・士章)の庭で芳香を漂わせていた老梅、頼春水が名付けて「剰馥梅」、それを商品名に繁盛した老菓子舗も次々世代へ交代、古死した巨樹の根幹のみが栄華を識る人々によって永久保存処理されJA福山市府中中央支店で在りし日の文雅の集いを今に偲ばせている。
 現地には赴かなかったが、街道出口で旅人や住民を苦しめた暴れん坊「龍田川」に見かねて直純が架けた三室橋を渡り川沿いの道を上って行くと、道端の小さな公園に茶山詩碑が建立されている。

 寛政五年(一七九三)茶山46歳が父樗平の三回忌を済ませ、服喪中、厳に断っていた詩作を再開、「羽中」・「荒谷即事」を詠んだ。

  荒谷即事 菅 茶山
 野歩追帰鳥 野歩 帰鳥を追い
 遙窮澗水源 遙かに澗水の源を窮む
 当峰雲欲宿 峰に当りて雲宿らんと欲す
 迎客石将言 客を迎えて石将に言わんとす
 圯上逢孤犢 圯上 孤犢に逢い
 林梢忽一村 林梢 忽ち一村
 敲詩安未得 詩を敲くも安んぞ未だ得ざらん
 環坐老松根 環坐す 老松の根

 更に、西へ芦田川の上流、父石村、三郎の滝近辺などを舞台に詠んだ詩もある。

 
第36回茶山ポエムハイク~中条編~

 11月18日、第36回茶山ポエムハイク~中条編~が催行された。
講師岩森逸見さん(前中央公民館長)の案内で、中条公民館を出発・帰着場所に、①中条八幡神社②鶴の供養塔、茶山ゆかりの③高居松井邸④松風館十勝碑林⑤常夜灯・迎碧墩⑥金尾邸跡など、全行程約6㌖、「やぴゃー、えーなー(中条)ふるさとマップ」からハイキングコースを選んだ。

  次子璐月夜泛琵琶湖韻 於 高居松井邸
 天女祠前湖月清 天女祠前(弁財天)湖月清し
 湖心乗月棹空明 湖心月に乗じて空明に棹さす
 風來波浪生哀響 風來って波浪 哀響を生じ
 舟在琵琶絃上行 舟は琵琶 絃上に在りて行く

 松井子璐 宝暦三年(一七五五)、西中条高居の大庄屋、松井内裕正博の末子。茶山より五歳年少、師弟であり、友人。親交があったと思われる。28歳の若さで歿した子璐の墓碑正面の文字は茶山の書と伝えられている。
 
  ハワイ・マウイ島から親善訪問
  廉塾・本陣・「天寶一」で日本体験

 5月19日、米・ハワイ州マウイ郡アラン・アラカワ郡長を団長とする一行6人が前日、福山市と親善友好都市提携。枝広市長夫人、地元榊原市会議員らの案内で神辺を訪問。「廉塾」「本陣」並びに参勤交替での道中、宿舎を提供したと伝え聞いた地元最古の酒蔵、地酒「天寶一」の村上酒造を訪れ、日本の歴史文化を体験学修した。訪問団員投稿のフェイスブックによれば、予想もしない大勢の町民に出迎えを受け、マウイから土産に持参した「ネクタイピンをありったけ手渡し、感謝の印とした と。

 旧相馬邸ゆかりの旅人 廉塾訪問
   波響画に「そっくり」

 3月26日に、廉塾に思いも設けない珍客二人、東出伸司・小林蠢繭両氏の訪問があった。東出氏は北海道函館市在住、旧相馬邸保存活動に尽力された人である。鵜野会長が案内役を務めた。

 平成24年度県歴史博物館夏の企画展「七人の巨人たち」で旧相馬邸所蔵の「廉塾図(師茶山先生邸)」が本州では初公開された。他に、「常遊雑詩十九首(七)」の書軸も所蔵されている。六年振り「是非本物を見たい」との両氏の希いが実現。

廉塾の外観を今に伝える絵図は松前藩家老蠣﨑波響画。ただ、誰がこの原画を描いたかは特定できていない。寛政6年、波響31歳は大原呑響の紹介で、茶山47歳と京都で知り合い、終生、手紙で交流していたが、廉塾を訪れたことはない。にも拘わらず、茶山の朋友、幕臣岡本花亭は文化6年に廉塾を訪れた経験に基づいて、「忽入新図見宛然」と賛をしている。波響にとっても、是非とも一度は訪れてみたい理想の郷校と夢を募らせてていたにちがいない。
この日、平成の珍客も口を揃えて実物「そっくり」の評を残して「廉塾並びに菅茶山先生270歳旧宅」を後にした。

  常遊雑詩 (七)
 舟成隣並泊空湖 
舟は隣並を成し空湖に泊す
 一夜交談興不弧 
一夜 交談 興は弧ならず
 明日乗各新霽去 
明日 各々新霽に乗じて去れば
 君帰銚子我東都
 君は銚子に帰り我は東都へ

*「常遊記」
 文化9年1月、茶山は藩主正精に召されて江戸へ。5月9日、賜暇を得て、水戸徳川家累代の墓所がある瑞龍山参拝を主目的に石田悟堂と常陸に遊ぶ。目的は6月、香澄湖(霞ヶ浦)を眺め、牛久沼(牛来湖)で悟堂と別れ、21日、江戸に帰着した。
詩中、「君」は偶々一夜を共にした交談者では?とは富士川英郎氏の推論。

  西日本豪雨被害お見舞い申し上げます
   廉塾 大講堂 畳干し作業

 7月5日、突如牙を剥いた西日本豪雨は7日には比較的災害の少ないとされていた神辺町七日市~三日市通りも一面冠水、住宅の床下浸水などの被害が及んだ。被害者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 旧山陽街道東西に伸びる神辺宿、平野荒神社境内一里塚跡から西へ約百㍍、「堰きの跡」、昔、一発觸発の危機を孕んだ水争いの禍根跡、今は茶山に学んだ住民の良識で大事に至ることはない。神辺宿東門近くにあった鵜野会長宅では、保管中の「茶山ポエム絵画」を水難から守るため、近隣の人たちの助勢を得て階段や下駄箱の上など高所へ運搬作業。近くの廉塾、神辺本陣など史跡にも、床下30㌢程度の浸水、軽微な外壁の損壊などの被害があった。

12日、枝廣市長自らが災害見舞いを兼ねて視察、13日、市教委が現地被害状況調査、鵜野会長ら関係者が立ち会った。14日、地元「廉塾を愛するボランティア絆の会」など有志による廉塾「大講堂」の畳を上げ、天日干し作業が行われた。

20日、RCC&廣島ホームTVが廉塾・本陣の取材に来訪。夕方のニュースで、廉塾と周辺の被害状況が放映された。
本誌第27号で紹介した神辺・狭間川の「竹田ゲンジボタル」も増水で、幼虫が流された可能性も(17日付「中国新聞」)

この豪雨で、竹原市伝統的建造物群保存地区では茶山と家族ぐるみの交流があった春水、春風、杏坪三兄弟の父「賴惟清旧宅」(県史跡)を含む約40棟が床下浸水被害があった。(11日付「中国新聞」)

 三原市東沼田町、茶山詩「米山寺拝謁小早川中納言肖像」ゆかりの舞台、東廬山米山寺では、戦国武将・小早川隆景らの代々の墓所や富士川英郎氏の「茶山詩文学碑」がある裏山が約30㍍にわたって崩れ、国重要文化財寶筺印塔を含む墓石群20基のうち15基が埋没した。県史跡「隆景の墓」は被害を免れた と。(15日付「朝日新聞」)

 9月に入って地方新聞やテレビ放送局が一斉に報道。町の3分の1が被災した倉敷市真備町若林泰典氏がやむなく家を解体中、二階から平田玉蘊の「市井風俗図屏風」(庶民生活月別風俗図12図・6曲1双)を発見。若林氏は「多くの人が鑑賞してもらえれば、入手した父も喜ぶ」と広島県立歴史博物館へ寄贈した と。
同館は若林氏に感謝状を贈り、災禍の中の希望の灯として6日から9日まで特別展示。

玉蘊(1787~1855)は19歳の時、父五峯(47歳)を失い、一家倒産の憂き目、山陽との初恋に破れながら、懸命にも画筆一本で母妹を養い、茶山夫婦や賴一族らにこよなく愛された尾道の閨秀画家。

  
 伊能忠敬の測量に関わった郷土の人々
  測量道具など特設展会期延長

 今年は伊能忠敬没後200年、菅茶山記念館夏の特設展示「伊能忠敬の測量に関わった郷土の人々」が10月8日まで会期を延長した。
国宝「伊能忠敬測量日記」(文化8年閏2月12日~箱田村止宿)、幕府御用として測量隊に参加した内弟子箱田良助(箱田村庄屋細川園右衛門次男)+天文方下役坂部眞兵衛供侍松井沢次(西中条村庄屋松井弥次兵衛次男)、「杖先羅針」(傾斜地などに立て方位を測定する道具)など近年神辺で発見された珍しい測量道具並びに後藤四郎兵衛分銅(旅先で受け取った贈答品など重量を量って換金が原則、その際使用する幕府公認の様々な分銅)などが展示された。

9月16日、広島大学総合博物館と東京地学協会、地理科学会一行約30人は、神辺町箱田の「箱田良助誕生之地」碑前で、良助の功績をしのび、その足で、県博の企画展「世界を驚かせた日本人の地図作り」を見学した。
   ***  ***   ***
 伊能忠敬~菅茶山・箱田良助&松井沢次

・文化3年 第五次測量(山陽道・山陰地方の海岸線)。伊能と良助、初対面
・文化4年6月6日 良助、兄右忠太とともに伊能忠敬の内弟になる。
・文化6年8月 良助、伊能に「一札之事(菅茶山記念館に常設展示)提出。保証人、親細川園右衛門・親類谷東平連署。因みに、谷東平(井原市大江町)も、江戸に出て伊能忠敬に地理測量を学び、寛政2年、忠敬に従って、蝦夷地の測量にも従事。
中国地方の測量にも参加している。
・8月27日、第七次測量(九州・中山道・山陽道)に従う。

・11月27日、神辺本陣(菅波武十郎)止宿。
菅太仲と会談。勘解由(忠敬隠居後の通称)茶山に「鄭註孝經」を贈る。「門人二人?出て見ゆ」(茶山日記)一方、茶山は伊能に漢詩「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」を贈る。
・文化8年閏2月12日、伊能、箱田村細川右衛門宅に止宿。これより前、2月3日、三次に帰着した伊能を細川園右衛門、松井弥次兵衛が三次まで出迎える。伊能、細川に佐原(伊能の養子先・千葉県香取市)への土産物畳表購入を斡旋依頼。この時代の史実に基づいて、建立された伊能測量関係碑が神石高原町に四基ある。

・文化9年1月12日、茶山、伊能を本陣に訪ねる。伊能(勘解由)、茶山へ銅板の萬国図を贈る。
・文化11年、茶山出府、江戸で越年。6月19日、良助、茶山を訪ね、伊能の伝言を伝える。
・9月14日、茶山、伊能を訪ねる。以後、文化12年にかけて、両者、若しくは良助を介して交流が続く。

・4月27日、良助、第九次測量に出発。伊能老齢のため不参加。
・閏8月8日、良助、内弟子筆頭となり第十次測量に出発。
・文政元年4月13日、伊能、自宅で死去。
・文政四年2月10日付、園右衛門の書状で良助は御徒士榎本家に持参金50両で入婿を果たしたことが判る。
・7月10日、天文方役人・門弟の協力で「大日本沿海與地図」「大日本沿海実測図」を完成、幕府に上呈した。

 良助の次男が榎本武揚。戊辰戦争で旧幕府海軍を陣頭指揮、新政府軍に抗戦し、敗戦後は特に請われて新政府の中枢に推された傑物である。

 
  茶山生誕270記念遺墨展
   政治批判詩や文人サロン中条

 10月11日~11月18日、菅茶山記念館で茶山生誕270記念遺墨展が開催中。生来、病弱だった茶山が健康管理に努め、当時の総理大臣、老中、松平定信や文部大臣、大學頭、林述齊などの高官の知遇を得ながら、三都、高位高官を望まず、菅茶山とその故郷神辺宿の名を全国に広め、概ね神辺で80年の生涯を過ごした。

 この特別展では、遠回しに世相を風刺した漢詩「御領山大石歌」(前編巻一)、神辺近在の人情風俗を描いた「田家」(前編巻二)。茶山が支援を惜しまなかった平田玉蘊の画賛など茶山の遺墨や茶山が屡々廉塾の客人たちを伴って訪れた文人サロン、富豪河相君推の邸宅(西中条山田谷)、在りし日の「松風館十勝」の原資料などを公開している。

「田家」(大意)
 田舎の家の周辺は蔦や藤が昼なお暗いほど蔓延っている。放牧の小牛が林を隔てて鳴きあっている。田植えが始まり溜池の樋を抜く頃、若葉の匂いが立ち、水路に堰が下ろされると畦道はぬかるんで村は急に忙しくなる。
二、三人の童が柳の糸に魚を突き刺して掲げ、老牛の背に二人乗りして竹藪に隠れた。その竹藪は長々と続き、集落を抱きかかえているようだ。若緑の中に高低入り乱れて散在している家々。片田舎の人は純朴で争いごとは少なく、隣り合わせで互いに物を融通し合って平和に暮らしている。
東家に井戸を掘ると共に汲み、北舎に子が生まれれば交々抱いて皆で愛育する。
自分は常々当世のことが気になって仕方のない者だが、さあ、学問で生きるのと百姓をするのとどちらを選ぶべきかなあ。 

  国重文「菅茶山関係資料」順次公開
県博「近世文化展示室」新設

 10月12日、広島県立歴史博物館で、常設の近世文化展示室がリニューアルオープン。
平成26年、国重要文菅茶山関係資料」が順化財に指定された「順次、二カ月毎に入替え公開展示されることになった。菅茶山生誕270年祭の記念すべき年の開館、わが顕彰会にとってもビッグニュースである。入口で顔馴染みの「茶山ポエム絵画」が歓迎してくれた。

 10月13日、第1回展示解説会。担当は同館主任学芸員岡野将士氏。入口から左回りテーマ毎四章構成、テーマは不変。展示は二カ月毎に取り替えられる。トリの入口右は私的な茶山資料コーナー。展示資料前の陳列ケース四基は左右に振り分けられ、山陽の手紙などと時節柄元号の出典書が紹介されていた。

第一章 菅茶山~菅君詩を以て鳴る~
 有名な亀田鵬齋の讃辞。日本橋で鵬齋と邂逅を果たした茶山の日記。遺書など。
第二章 廉塾~茶山の教育拠点~
 廉塾設立年は? 茶山書付。「黄葉夕陽邨舎」陶額(武元登々庵贈)。額字「不如學也」(阿部正精親筆)、廉塾規約。書籍類。
第三章 忘れられぬ交遊~京・大坂編~
 「黄葉夕陽村舎詩集」遺稿。池大雅・蠣﨑波響画。旅日記。筆のすさミ。
第四章 忘れられぬ交遊~江戸編~
 墨水詩画巻・栗山堂餞宴詩画巻の文人達

(私人)茶山先生コーナー
茶山先生菅君之碑
  石碑の費用は? 140万円。
 顕彰活動
  ①天保3年「茶山先生菅君之碑」建立
  ②大正4年 菅太中贈位記

   ***   ***   ***
第2回 平成31年2月3日 見学
第一章 著書「黄葉夕陽村舎詩」(原稿・刊本)「福山志料」「風俗御問状答書」
第二章 「塾生預銀差引帳」「寛政九年田畑畝髙平均引掛米等記録」「菅茶山遺書」のほか、
明治23年「文部省報告書写」回答菅自牧齋の養子晋賢。この記述に依拠、天明年間、黄葉夕陽村舎開設説が公式記録に。
 *同館内の年表では、黄葉夕陽村舎は寛政2年建築、寛政3年、移転 としている。 
第三章 「菅家往問録」、学者、書家、画家等の書画を纏めた資料など。
第四章 茶山が収集した考古学資料。神村で出土した銅鐸の拓本など。大石内蔵助邸のものと伝えられる巴文軒丸瓦も。

特集 菅茶山の名前「晋帥」出典とされる「春秋左氏伝校本」(晋の元帥として禮を知る卿が相応しい)から。
コラム 菅茶山宛 岡本花亭書状。政治批判詩「休否録」の著者の人物照会など、所謂、マル秘文書。
 

 神辺宿を彩る歴史文化行事満載
  晩秋、茶山ゆかりのイベント競演

 10月13日に次いで、21日、第18回神辺宿歴史まつり」。本陣のある三日市通では、町屋見学、七日市通の廉塾ひろばでは、秋の収穫祭(神辺うづみ御膳ほか)、茶山ポエム絵画展、19日~22日、かんなべ町並み格子戸展が行われた。

11月に入って、神辺宿では歴史文化行事が競演、あちら立てれば、こちらが立たず。リピーターが選択に迷うことしきり。
 巨星菅茶山生誕270年祭当日の10日、やっぴや~神辺史跡めぐり一日バスツアー(町観光協会)一行が廉塾、本陣などを見学、
 17日、18日、神辺本陣と廉塾講演会&茶華会並びに第36回茶山ポエムハイク~中条編~(菅茶山記念館)が催され、中条公民館を発着、茶山ゆかりの高居松井邸詩碑、金比羅常夜灯、松風館十勝碑林、中条八幡神社などを訪ねた。

 11月23日、神辺文化会館で第43回神辺音楽祭が催され、茶山生誕270年祭に協賛、神辺小学校が「茶山ポエムの歌」(中山善照作詩作曲)、中条小学校PTAコーラス部が編曲者奥野純子さんの指揮で「寒水寺に登る路で」(佐々木龍三郎 現代語訳)を発表した。

   上寒水寺路上 菅 茶山
 寺見飛禽外 
寺は見ゆ飛禽の外
 泉鳴雑樹中 
泉は鳴る雑樹の中
 狂痴従世捨 
狂痴 世捨つるに従せ
 尊酒有人同 
尊酒 人の同にする有り
 尋徑追牛跡 
徑を尋ね牛跡を追い
 班荊待午風 
荊を班って 午風を待つ
 雲松随處在 
雲松 随處に在り
 吾道幾時窮 
吾が道 幾時か窮まらん

(訳詩)
飛んでいる鳥よりも高く 寒水寺が見える
深い木々の合間から 水音が聞こえる
「やれ暑い しんでえなあ」
小道を探し 登る途中 草を敷いて一休み
涼しい風が吹いてきた
「やあれのう 登かのう!」
ぐるり 辺りを見渡せば
あちらこちらに 雲につつまれた松林
*茶山が心密かに目指していた道(青雲の志)とは、何であったのであろうか? 

  鵜野会長、善行市民賞受賞
   廉塾拠点地域ぐるみふれ愛の場創出

 12月15日、リーデンローズで第36回福山町づくり推進大会が開かれた。席上、枝廣福山市長より、本会会長鵜野謙二氏が、村上カヨ記念基金条例に基づく善行市民賞(ばら賞)を贈られた。
鵜野氏は2013年度、第3代菅茶山顕彰会会長に就任、2015年「廉塾を守る会」、次いで「廉塾ふれ愛ボランティア絆の会」を設立、福山ブランド第1号として認定・登録。国特別史跡「廉塾並びに菅茶山旧宅」の保存美化活動に努め、地域のふれあいの場の創出に寄与、幅広い世代間交流、市内外への魅力発信に務めたことが評価された。
写真⑪ 表彰状


 鵜野会長の同賞受賞は2011年前高橋孝一会長とのアベック受賞以来2度目。当会としても鼻が高い。会員一同、心からお祝詞を申しあげるとともに、菅茶山生誕270年祭を成功裡に終え、益々の活躍を期待したい。

 
  神辺宿学生Vガイド四代目誕生
   渡世理彩さんがデビュー

 「中国新聞」(12月25日付)が、うれしい話題、神辺宿第四代目渡世理彩さん(岡山大一年)のデビューを報じた。
初代は2015年大土井温子さん(福山市立大)。「生まれ育った神辺の歴史を研究、訪れる人たちに伝えたいと、駅のポスターを見て志願。当会理事でもある倉田義朗氏の指導の下、廉塾で月に数回、土日祝日のガイドを務める。 

「廉塾と槐(エンジュ)」
   菅波哲郎氏(広島県歴史博物館副館長)

楷と槐
同じと勘違いしている人がいるが両者は、異なる。楷はウルシ科カイノキ。孔子廟(山東省)に弟子子貢が植樹。學問の木として知られ、人間尊重と人格形成の象徴とされている。大正4年、農林省役人によって、その実が日本に持ち帰られ、育苗、大正14年、湯島聖堂や閑谷学校などに植えられた。
槐はマメ科クララ属。和名はエンジュ、中国名 国槐、家槐。北米産名 洋槐(ハリエンジュ)。黄色い花をつけ、幹にトゲがある。

廉塾の槐の存在(疎明資料)
①茶山詩 悼亡 文政9年 遺稿巻八所収
 5月19日歿した妻宣(70歳)に捧げる哀悼詩。茶山79歳
悼亡(三) 菅茶山 
槐風竹露寂荒郊 槐風 竹露 荒郊に寂たり
柳徑莎階小石橋 柳徑 莎階 小石橋
獨酌無人為温酒 獨酌 人の為に酒を温むる無く
一池新月自良宵 一池の新月 自ら良宵なるに
(大意) 見るものすべてが悲愁の種。池に新月。またとない良宵なのに、もう酒を温めてくれる妻もいない。

②菅太仲存寄書
「門の西の二間ハ今の納戸其之次間槐寮と壁をへたて塾に可致候」
「槐寮より拍子木鳴り候ハバ、誰にても返事いたし早々参り可被申候」
*槐寮=茶山の居室。文化4年、神辺大火で自宅が類焼、やむなく(既ニ有司へさし上候)廉塾へ転居。

③「特別史跡 廉塾ならびに菅茶山旧宅保存計画書」~樹木の状況~
講堂の西隣の槐寮、南側の水路を隔て木小屋があるが、その傍に一本。もう一本は中門前、南寮の裏鬼門にある。

「槐」考
①実用面
 食用、染料、資材(框・床柱)、街路樹、薬用(止血剤)
②科挙とのつながり
 科挙の時期(陰暦六、七月)、槐の花が黄ばむ頃を槐秋、科挙の試験に赴くことを「踏槐」
という。官僚にとっては忘れられない黄花、高位高官の象徴。
③政治的意義
 槐は仁政を体現するものとして、宮廷・宮苑・役所や高位高官の屋敷の庭に植えられている。
④信仰と民俗
槐は生命力が強く高大に成長し、大きな樹陰を作ることから、「社」の樹、日本では「子安の木」として多産や安産を祈る信仰がある。

槐に寄せる茶山の思い
「槐雨山楼記」(武元君立)縁起
 赤石子道(儒医・備前北方)の書楼に「槐雨山楼」という扁額がある。楼に迫っている裏山には槐が多い。庭にも植えている。茶山が命名した所以であろう。
古人は槐に子孫繁栄の希いを託した。しかし、槐を植えたからと言って、徳が備わり、子孫が繁栄するわけではない。先ずは自らが生業に励み徳を積むことが肝要である。それが子孫繁栄に繋がれば、それに越したことはない。

茶山が直接「槐」に言及した記述はない。「夏の木かげ」に、武士の生き方について、三カ条、①蓄財,出世。②忠実に仕事に従事 ③政教のみだれぬやふにこころさす とある。
姉妹編の「冬日影」では、人材育成に関わって、「朝野風俗の麗しき社会」の文言がある。それが槐、すなわち、官吏に期待する生き様のように思える。

神辺近郊のハリエンジュ
春日公園、中条粟井谷・深水谷にもある。藤の花が咲く頃、花見に出かけてもらいたい。
華鴒美術館にもあると聞いているが、未だ自分の目で確認していない。

結びに
福山市はバラの町として売り出し中であるが、茶山のふるさと神辺に住む自分としてはエンジュの町にしたい。本陣にもエンジュを植えたい。
 講演レジュメ リンク
その3 10月21日 菅茶山記念館
「菅茶山関係資料」
  ~なぜ重要文化財に指定されたか~

 西村直城氏(県歴史民俗資料館学芸課長)

 文化財保護法に定める重文のうち、茶山の資料は「・・・その他の学術上価値の高い歴史資料」即ち、廉塾の於ける教育活動の資料→茶山の思想・思索の形成過程を語る資料・江戸時代の文人交友を語る資料」に当る。
 平成7年、子孫菅好雄氏から全資料の寄贈を受け、文化庁の指導を受けながら、調査研究整理を進め、漸く、平成26年3月18日、答申。同年8月21日、指定に漕ぎ着けた。その間、東北大震災の影響による中断と、茶山自詠のものか、茶山の所有のものか、茶山の交友人物によるものか、それらを一つひとつ明らかにする詰めの作業からやっと解放されたのは前年大晦日の夜のことであった。

 同年3月18日付、プレスリリースには、5369点の歴史資料のうち、「黄葉夕陽村舎詩」(原題「茶山樵響」)、「筆のすさみ」、「福山志料」、「室町志」(草稿)、別紙として、茶山略歴、「菅茶山肖像画」、「廉塾ならびに菅茶山旧宅」(写真)並びに「冬夜讀書」(原文・読み下し文・大意)を掲載している。

 指定範囲・人物&時代については、「黄葉夕陽文庫」のうち、父、樗平、茶山本人、末弟菅耻庵、甥萬年、後継者北条霞亭まで、菅三郎(自牧齋)、梅五郎(晋賢)、文二郎時代は除外している。時代を特定できる根拠は茶山の自筆、蔵書印、整理番号、日記等の記録とした。

・自筆 「補訂鄭孝経」(久保木竹窓著 弟子伊能忠敬の序文)表紙に茶山自筆の「伊能勘解由所贈」の書き込み、書中に奥書がある。
・蔵書印 金粟園蔵書印・神邊驛閭塾記など茶山の時代を裏づけられる刻印がある。
・整理番号 自画像 代表作は「栗山餞筵詩画」(谷文晁画 文化元年)一番の番号がふられている。六十三番「アシカ図」(鞆の浦に出現)、二百二番「銅鐸拓本」(神村で出土)。「文武忠孝」(松平定信書「集古十種」編集調査のため廉塾を訪れた白雲から、まくり(未装幀)のまま受け取っている。

 未指定の資料 「集古十種」(数が揃っていない)、「群書類従」(塙保己一著 本の状態がヨレヨレ、書き込みがあり、茶山の猛勉強家ぶりが窺える)、自牧齋55歳の借金証文(京都遊学中)など。

 新事実 従来、「教育資料」(明治元年 菅晋賢 提出)に基づいて、「黄葉夕陽村舎」天明元年頃開塾説がとられていたが、新たに発見された茶山書付」から、寛政3年(1791)であることが裏づけられた。

 
その4 11月10日 神辺文化会館
「地方時代の象徴・菅茶山」生誕270年祭記念講演
 岡野将士氏(県立歴史博物館主任学芸員)

1 茶山が塾を開くまで
 安永4年、金粟園 開設
 寛政3年、「黄葉夕陽村舎」辛亥之年開設
 寛政8年、福山藩へ塾献上(郷校化)願い
寛政9年、郷校認可。これは「個人の死が塾の閉鎖に繋がらない」意義がある。

2 幕府の学問政策と茶山
 寛政2年 寛政異学の禁と時期を合わせる
ように茶山の動きがある。茶山は黄葉夕陽村舎建築。当時、茶山は寛政の三博士、柴野栗山、尾藤二州、古賀精里などと交流はあったが、表面には出なかった。同志の推進派、西山拙齋・賴春水など神辺を訪れている。
同年7月5日付、春風から春水あての書簡に「白河公(松平定信)、神辺、鴨方、嘸々、よろこひと察し存じ候」と心情を認めている。
 寛政4年 中央では学問(儒学)吟味が行われ、茶山は五人扶持を与えられる。
その翌年、松平乗衡(林述齊)が幕府へ養子に送り込まれ、寛政9年には、林家の私塾が昌平黌になった。神辺では、茶山の私塾が郷校として認可された。地方で中央の政策を体現するため、茶山の学問が福山藩に必要と考えたのであろう。

3 朱子学正当化と茶山の立ち位置
 「殊の外悪風俗の處」神辺宿にあって、天明の一揆で乱れた社会秩序規範の再構築と有能な官吏の創出こそが朱子学者の責任と考えていたと考えられる。

4 塾屋舎建築の理由
初意は「村医・手習師に貸すつもり」の文
書が残されているが、異学の禁に連動した翻意と思われる。学館は廉塾・槐寮(台所)・厨屋からなる。
 塾を守るため、生涯、後継者に悩んだ。弟耻庵、甥萬年、塾頭賴山陽・北条霞亭。歿前、菅三が後継者として藩から認められたが、茶山は意識が混濁していて分っていたかどうか。

5 地方の時代と茶山
 地方へ張り巡らされたネットワークの結節点としての神辺及び茶山、神辺に学問の種を植えつけ、全国に拡げたふるさとの宝。地方創生の先駆者として今こそ学ぶべきものが多々あると思う。 

 辛苦、砂留の上に十三年
  茶山が魅しホタルと花と砂留への挑戦

 このほど堂々川ホタル同好会(土肥徳之会長)が平成30年10大ニュースを発表した。
その昔、茶山を魅了したホタルと花と神辺を守った砂留と をコンセプトに発足以来、実に13年、先祖が残した防災の宝物、昨夏、西日本豪雨にも耐え地域住民を守り切った砂留を守るため、持続されている対不法投棄と害獣?猪との終わりなき戦の一年、菅茶山詩にヒント、啓発されたこの息の永い防災保全事業、ここにも、範とすべき多くの示唆が含まれている。

①GCFで冊子「神辺の砂留」(福山ブランド認定)発刊。
②7月西日本豪雨に耐える砂留
③広島県文化財協会賞・中四国環境活動賞ダブル受賞
④彼岸花 驚異の開花17万本・花色21種
⑤七年連続中南米公務員,JICA研修地に
⑥第3回「全国砂留シンポ」於 松本市
 第1回開催地神辺。「堂々川ホタル同好会」が市内三小学校を巻き込んでの事例発表
⑦堂々川の四季を楽しもう植樹事業実施
⑧近隣小学生らと水質調査&球根植付作業
⑨堂々川ホタル復活1000匹光の乱舞
⑩猪被害急増 球根200球が日干し

  蛍七首(五) 菅茶山(後編巻七)
 連夜収来満練嚢 
連夜収め来って練嚢(蛍籠)に満つ
 柳陰懸照納涼牀 
柳陰懸けて照らす納涼の牀(涼み台)
 童言蛍火亦真火 
童は言う蛍火も亦真火と
 揺扇将然加手陽
 扇を揺がせば将に然(燃)えんとし、手を加えれば陽(暖)しと

 
 2018年度茶山ポエム絵画展
  松田沙和さん画「廉塾」ポスター採用

 年が明けて1月12日、菅茶山記念館で第平成2018年度(第26回)茶山ポエム絵画展表彰式が行われた。
表彰に先立ち開式行事。(公財)福山市かんなべ文化振興会副理事長・市教育長三好雅章氏が、今後とも「茶山詩を読んで感じたこと、見たこと、思ったことを絵で表現する」活動を続けてほしい と挨拶。

授賞式。受賞者を代表して、ポスター採用作品「廉塾」を描いた松田沙和(御野小四年)が「「総合的な学習」などで茶山先生の「廉塾」のことを知り、画題に決めた。特に廉塾で勉強している人たちの着物姿を描くのに苦労した。最優秀賞受賞、とてもうれしい」と謝辞。

 審査委員長神辺美術協会理事長石岡洋三氏は「先月、審査員14名が、半日かけて、皆さんが一生懸命描いた作品を丁寧に見せてもらった。「雪の日」の冬景色、白い画用紙に雪の色を出すのは大人でもむずかしい。苦労が分る。」などの総評。

*主催 (公財)福山市かんなべ文化振興会 菅茶山記念館
*共催 菅茶山顕彰会
*後援 神辺美術協会・福山市教育委員会
*出品点数 2,959点)
*入選点数 最優秀賞   9点
      優秀賞  121点
      入 選  471点

*各学年別最優秀賞受賞者は次の皆さん
木村琴子(誠信幼稚園) 藤本依玲菜(神辺小一年) 藤井瑛詩(中条小二年) 市川昊(湯田小三年)  松田沙和(御野小四年) 瀬尾志音(神辺小五年) 三村佳菜(神辺小六年・井上美羽(道上小六年)  岩井望(福山中三年) 

編集後記

◇平成最後の年末、恒例の「今年の漢字」は平成16年と同じ「災」。近年、想定外の天災、人災が忘れないうちに、しかも、未だ大きな古傷が癒えきらぬうちにやって来ている。
◇時は江戸文政期、茶山の「窮隣」に詠まれた慈善思想が歳末近く各地の災害ボランティアにしっかりと受け継がれている。その事を直近の報道が裏づけ、勇気づけてくれる。
◇「花は咲くプロジェクト」作詩 岩井俊二
  花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
  花は 花は 花は咲く 
  わたしは何を残したのだろう
◇少子化、高齢化の波浪警報下、地方の時代が唱導されて久しい。改元の節目を橋頭堡に、先駆者茶山に学び、産官学民・地域の担い手が手を携え地域に密着、地方創生への道を踏み出すべきであろう。 

◎顕彰会事務局
 武田恂治(福山市神辺町西中条二一一五)
  ℡・fax(084―967―1172)
◎会報編集部
園尾俊昭(福山市神辺町十九軒屋二八九―四)℡・fax 084―960―5595
 上 泰二(福山市神辺町湯野二三―八)
  ℡・fax(084―962―5175)
◎HP「菅茶山新報」info@chazan.click
 藤田卓三(福山市神辺町平野一一九―一)
  ℡・fax(084―962―0528)
◎印刷所 北川精美堂
 (福山市神辺町川南一〇四三)
℡(084―962―0355