⇒菅茶山の紹介
菅茶山について T  
                                                   
 初代HPに記載
 菅茶山(1748〜1827、名を晋帥〔ときのり〕、字は礼卿、通称は太中・太仲、号は茶山)は、寛延元年(1748)近世山陽道の宿場町であった備後国福山領安那郡神辺駅に菅波扶好・半の長男として生まれた。

父扶好(1727〜1791)は、造り酒屋を営みながら神辺駅の本陣を務めており、俳諧を趣味とし、菅茶山によって編まれた『三月庵集』という句集を残している。母半(1732〜1796)も、国史を諳んじ茶山の質問にことごとく対応したという賢夫人であったし、伯父の高橋慎庵(1710〜1780)は、医を業とし漢詩に通じ和歌・狂歌を善くした。このような教育的環境の中で菅茶山は成長した。

 明和三年(1776)十九歳のとき菅茶山は上洛し古文辞学を市川某に、その後那波魯堂に朱子学を、和田東郭に古医方を学んだ。茶山の遊学はこれを含め六度にわたっている。
天明元年(1781)頃、神辺の地に私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。
寛政八年(1796)、菅茶山は塾を私物化せず、公的なものとすることによって末永い存続を願い、塾と田畑を藩に献上したいと「郷塾取立に関する書簡」を福山藩に提出し、郷校としてほしいと願い出た。願いは受理され、塾はそれ以降「廉塾」または「神辺学問所」と呼ばれるようになった。

 菅茶山の生きた江戸時代後期という時代は政治においては各藩閉鎖的であったが、文人たちの交友は身分・地域をこえ、驚くべき広範囲にわたり、その交友は幕末が近づくにつれ政治的にも大きな力を発揮するほどになった。
さらに詩集『黄葉夕陽村舎詩』の発刊は多くの文人墨客の来訪を促した。
文化二年(1805)より廉塾を訪ねてきた人の名を忘れてしまうのは残念なので、これからは遠近を問わず、その姓名を記入してもらってその人を思い出したいとの考えから始めた『菅家往問録』には、茶山を慕い530余人が名を留めており、国も全国に及んでいる。その中には梁川星巌夫婦、篠崎小竹、浦上玉堂、田能村竹田等の記名があり多くの人々との交友が偲ばれる。また、茶山は伊能忠敬、松平定信らとの交友も知られている。

参照 [年 表]