⇒黄葉だより
黄葉だより別冊 
 記念講演「葛原しげると宮城道雄」要旨 (文責 編集子)
 講師 児童文学作家 皿海達哉先生
 ①宮城道雄「童曲集」
 作詩・葛原しげる、作曲・宮城道雄で子どもの箏曲練習用に創られ、ピアノやオルガンでも
弾けるゆに五線音符にも書かれている。大凡、三百曲にもなる。

②随筆「鞆の津」 宮城道雄
 昭和23年8月10日、前夜の尾道での演奏会を終え、尾道に宿泊。尾道から船で鞆を訪れる
段取りになっていた。道雄は神戸生まれだが、両親は鞆の出身である。
葛原先生に宿まで出迎えられ、見えていないのに見えているような気配りの案内で海を渡り、
仙酔島の宿に落ち着いた。
 翌日、弁天島がよく見えるという常磐館へ宿を移した。宿の主人の案内に、ドビッシーの「海」
を思い浮べた。その後、南禅坊の先祖の墓参に出掛けた。
先生が、私の手をとって、一々さぐらせ、戒名などを説明してくれた。
午後と夜二回、「宮城道雄帰郷記念演奏会」を鞆劇場でを開いた。
 翌朝、祇園さんへ御参りした。昔葛原勾当が奉納したという箏を出して触らせてもらった。
弾いてみたい気がしたが、弦が古びたり、断たれたりしていた。

③随筆 「私の好きな人」 宮城道雄
 冒頭、印度のガンジー翁「自分をピストルで射った相手をもうらまず、助けてやるようにと言わ
れた」寛恕の人として、名を挙げているが、同世代の師友については、次項「桑原会」に詳述し
ている。

④「桑原会」 
 「桑原」は「ソウゲン」と読み、「箏弦」、また、雷鳴除けの呪い「クワバラ!クワバラ!」とも掛けて
いる と。自嘲か時流への警鐘か? 発案者は米川正夫(46歳・ロシア文学)。宮城道雄(43歳)
を中心に葛原しげる(51歳・英文学)、内田百閒(48歳・ドイツ文学)ら、箏弦を通しての「師弟」・
「同好の士」が構成員。昭和12年7月2日、第一回演奏会を開いている。

⑤宮城道雄氏寄贈の箏のこと
昭和31年6月24日、宮城道雄は東京発、急行「銀河」で関西公演に向かう途上、25日午前
3時頃、刈屋駅付近でデッキから転落事故、病院で手当を受けたが、7時15分頃、最後の息
を引き取った。享年62歳。この日、しげる70歳の誕生日であった。
 昭和34年「至誠学園創立二十五周年記念・宮城道雄名曲大演奏会」が新市中央中学校
で行われた。宮城社中のトップ3が来演、その上、箏二面とオルガンが寄贈された。

⑥箏曲について 日野八州行
⑦宮城道雄との出会い 佐々木龍三郎
⑧葛原勾当 井伏鱒二
 

葛原しげる紹介・レジュメ

①しげるの童謡
 彼の童謡は「喜怒哀楽」の中、一貫して「喜・楽」を詠んだ。子ども達を励ますと同時に自分
を鼓舞しようとした。孔子が「邪無し」(邪念がない。無邪気)と高く評価した「詩経」に似て、
「とんび」のように繰り返しと対照が多く、平易なことばで表現されている。

②なぜ小学校訓導に?
 同世代の福山中出身者、丸山鶴吉(東京帝大―警視総監・出原冨子至誠女子高理事長
の伯父)、福原麟太郎(東京高師―同校教授・しげるとスティブンソン著「子供の詩」共訳)
など周囲の動向や能力を考え合わせると大きな謎である。
一つは、しげるが心底子ども好きであったこと。もう一つは東京高師で下位春吉と創始した
「大塚講話会」。校内外、全国各地に巡業、ことばとからだを通して直接子どもたちと接し、
その在り様を模索した活動であろう。

③ニコピン先生の意味するもの
童謡集『こんころ踊』序に、「ニコニコ」は「円満、幸福、平和」、「ピンピン」は「進取」(自ら
行動すること)と解説している。
「ピン」を単なる「健康」ととるのは浅い解釈と云わねばならない。

④しげるの童謡(定義)
 第1、児童に共鳴多き事柄を 第2、短く、第3、口調よく、第4、平易な言葉で歌った詩で
ある。

⑤しげるの短歌
 福山中学時代の「校友会詩」への寄稿、東京高師時代の2年先輩前田純孝(与謝野鉄幹
主宰「明星」への常連の投稿者)による短歌指導、佐々木信綱(歌人、「心の花」主宰)との
交流を通じて、しげるは短歌とも無縁ではなかった筈だが、意外にもその事蹟は知られて
いない。因みに、しげる唯一の自選短歌集に『電車の国旗』がある。

⑥しげるの校歌
 高校野球の強豪「広陵高校」校歌の作詩者として有名だが、団歌、社歌も数多く作詩して
いる。戦前・戦後、海外も含め、四百編以上と言われている。校歌の意義について、帰属
意識の高揚を第一に掲げている。

⑦しげるの少年小説
 しげるは自ら編集した「少年世界」に、日常生活に普通に見られる少年の葛藤をみずみず
しく描いた短編を発表している。