⇒神辺ご案内
茶山ゆかりの地 
 松風館址 松風館十勝碑林
 
 顕彰会ニュースno.42号(2006年)から転載
 
 江戸時代の後期、備後中条村山田谷(現神辺町西中条山田)の豪商河相君推(かわいくんすい)は、その広大な 邸宅に回遊池や茶室などを設け「松風館」(しょうふうかん)と名づけました。

茶山は黄葉夕陽村舎を訪れる天下の有名人士を伴い、しばしば松風館を訪れ、君 推もこれによく応え、茶会を催すなど心から歓待しました。
こうして茶山の活躍を支えた一人として大きな功績があったとされています。

 松風館の随所には訪れた文人の命名揮毫による「紅於径」(こうおけい)「鳴玉橋」(めいぎょくきょう)などの碑が建ち並び、十勝と称されていました。(下記参照)

 時代が移り、これらの碑は散逸し「松風館」も忘れられていきました。

 こうした中、君推の功績を残そうと、跡地を所有する武田武美氏(当顕彰会理事)や茶山顕彰会役員など有志の協力によって、跡地の一部に松風館関係碑3 基、十勝記念碑10基、茶山および頼春水詩碑3基、全16基が建立され、中国の「西安碑林」や「曲阜碑林」に倣って、この記念碑庭園を「松風館十勝碑林」 と名づけ、後世に伝えようとするものです。  

碑林にある菅茶山詩碑(2基)については、後述しています。

 参照:
菅茶山と河相君推 

       
碑林にある菅茶山詩碑の紹介     菅茶山記念館HPからコピー
 
     松風館即事
 
  詩罷松窓夜幾更
  捲簾閑待柿歸鳴
  隣燈有影樟陰黒 
  林雨將収竹氣清 
       菅茶山

 詩罷(や)んで 松窓(しょうそう)夜(よる)幾更(いくこう)

 簾(すだれ)を捲いて 閑(しず)かに柿帰(しき)の鳴くを待つ

 隣燈(りんとう)影有りて 樟陰(しょういん)黒し

 林雨(りんう) 将に収まらんとして竹(ちく)気清(ききよ)し
   【大意】

  詩を吟じ終わり、松の差しかかった窓から見れば、夜もたいそう更けてきた。
  簾を捲きあげてホトトギスが鳴くかと静かに待っている。
  隣の家の灯りでクスの木陰は薄暗く、林を濡らした雨は今にもあがりそうで、
  竹藪には清々しい気配がただよっている。

    【出展】『黄葉夕陽村舎詩』前編3-15所収
 
    所見 

  落日残光在  
  新秧嫩翠重  
  遥雷何處雨  
  雲没両三峰 
   茶山老樵

落日(らくじつ)残光(ざんこう)在り

新秧(しんおう)嫩翠(どんすい)重なる

遥雷(ようらい)何れの処の雨ぞ

雲は没す両三峰(りょうさんぽう)

  【大意】

  夕日が空を赤く染め、野山の緑の中で若苗の緑がさらに美しい。
  遠くで鳴る雷はどこに雨を降らせているのか。
  雲が広がり二、三の峰を隠してしまった。

    【出展】『黄葉夕陽村舎詩』前編3-4所収

 参照:茶山詩碑案内
 
   
松風館十勝について 

松風館は、林泉をめぐらし池亭を設け、邸内に十勝を定め、天下の名士たちにそれぞれ揮毫してもらい、
それを石あるいは木に刻して標示されていたようです。
 現在、迎碧墩のみ残っています。
(茶山詩話より) 

     
   碑銘 揮毫  場所など   形状
 1   松風館  頼杏坪(広島藩儒者)  下に永富充国の記文(訳)あり
 「時、寛政十年(1798)5月13日」 
 四角木柱
 -1面
 2  棣棠橋テイトウキョウ  倉成善司(豊前中津藩儒者)  両岸にニワウメ、ヤマナシ の植えらた橋  四角木柱
 -2面
3    鳥語澗チョウゴカン  赤崎彦禮(鹿児島藩儒者)   庭の渓流  四角木柱
 -3面
 4  鳴玉橋メイギョクキョウ  菅信卿
(茶山末弟、春水門下生)
 橋  四角木柱
 -4面
 5  迎碧ゲイヘキトン  柴野栗山(昌平黌儒者)  青い苔で覆われた小高い丘
 茶山の記文 「時乙丑(文化二年
 1805)」
 石標 現存
 6   浸翠池シンスイチ  山本来山(江戸の儒者)
 北山?
  庭池  石標?
 7  紅於徑コウオケイ  岩瀬華沼(肥前島原藩儒者)   カエデの茂った小路  石標
 8  魚楽梁ギョラクリョウ  亀田鵬斎(江戸の儒者)   水を堰きとめて魚を取る梁  石標
 9   垂白棚スイハク  紫源  白 藤の棚  石標 
 10   娯論亭ゴロンテイ  菅茶山  泉水中の一つの亭  扁額