廉塾           「菅茶山の紹介」へもどる         
 廉塾は菅茶山の開いた塾で、当時の様子がよく残されています。「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年に国の特別史跡に指定されています。それでは皆さんをご案内しましょう。
廉塾鳥瞰図
  頼山陽の描いた廉塾
神辺七日市通りの様子
七日市通り  JR神辺駅を北東にすすむと近世山陽道の面影を残す町並みをすぎ左手に、こんもりしたクスノキが見えたらそこが菅茶山の旧宅です。

神辺には格子戸のある家が多く残っています

格子戸に飾られた
季節の花
谷口屋さん
茶山饅頭のカンバンが  神辺のお土産に「茶山饅頭」はいかがですか。
 お店は七日通り廉塾のすぐ隣り
限定生産なので買い求めはお早めに!!

しっとりとした白あんです
一個80円です
廉塾門
廉塾正門  大きなクスノキを目印に、廉塾正門に着きました。
若き日の頼山陽もこの門をくぐったことでしょう。はるか向こうに中門が見えています。


 門に入るその前に、白壁の右手、竹垣の内側に立つ案内板に眼を通してください。
廉塾案内説明板
ここをクリックすると説明板を拡大表示します


 この案内板を読んでいただくと、これからご覧になる廉塾のポイントと菅茶山についての概要を知るとができます。
正門から見た廉塾全景
茶山の時代にも柳の木が植えてありました それでは中に入って見ましょう。

 門をくぐると中門までまっすぐな道がつづき、両側は畑になっています。寮生たちはこの畑で野菜を育て、自給していたといわれています。

 格子戸のついた中門までは30mくらいありそうです。
特別史跡指定の石柱
 正門を入ったすぐ右に石柱が立っています。
「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年に国の特別史跡に指定されています
特別史跡石柱
廉塾養魚池
廉塾養魚池  中門の左手前に養魚池があります。通常は養魚に使い、火事にそなえては防火用水にという用心深く合理的な考えから作られました。
 養魚池の中に石碑が立っています。
「廉塾養魚池 政酉(寛政の酉年=1789年)、杪冬(12月)につくる」と書かれています。この文字もまた茶山の書と言われています。
槐 寮
槐寮  この建物は「槐寮」と名づけられた塾生の寮舎で(カイリョウ)と読みます。槐はエンジュという木の名です。.

 現在残っている寮舎はこの建物だけですが、文書によるとこの他に南寮・敬寮があったようです。
講 堂
廉塾講堂  廉塾は最初「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)と名付けた私塾でしたが、公的なものとすることで末永い存続を願い、塾と田畑を福山藩に献上し、藩校となりました。
 福山藩には弘道館という藩校があり藩士の子だけが学習していましたが、廉塾では全国から藩の枠や身分をこえて、勉強していました。
講堂内部 竹と木が組み合わされデザイン的にも優れている
方円の手水鉢
 廉塾の講堂前にある手水鉢です。御影石が丸と四角に彫られています。「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれています。

 この手洗いは講堂の濡れ縁から使いました。右後の濡れ縁は板と竹を組み合わせたもので茶山の優れたデザイン感覚がうかがえる秀作です。
水路と筆洗い場
 講堂の前に流れる水路です。塾生はここで筆を洗ったといわれています。

 この水は廉塾の裏手を流れる高屋川から引いたもので、ここを出発点として今も神辺の町の中をきれいな水が絶えることなく流れています。
高屋川
 廉塾のすぐ裏に神辺を東から西に貫いて流れる「高屋川」があります。昔の堤防は今よりも低く廉塾から北方がよく見えたようです

 この写真は川下、西の方角を写したものです。
廉塾講堂ごしに黄葉山を望む
高屋川土手より廉塾講堂を見る  高屋川の土手に上がると、廉塾の裏手から講堂の屋根が見えます。
屋根の向こうには「黄葉夕陽村舎」の語源となった黄葉山が見渡せます。


 廉塾訪問のおりには、茶山も眺めたこの土手からの眺望をぜひお楽しみください。
茶臼山
茶臼山  同じ土手に立って廉塾から反対の北の方角を見ると、はるか遠くにこんもりした山が見えます。(写真中央の小高い山)これが菅茶山の名前の語源となった茶臼山です。
 現在では要害山と呼ばれるのが一般的となっています。
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高屋川