黄葉だより 2019 菅茶山に関連した地域の情報・寄稿を掲載いたします。
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 福山大学文化フォーラム 第1回、第2回
 平田玉蘊記念室オープン
 備中・茶山ゆかりの地を訪ねて
 水野勝成神辺城入城400年祭
 菅茶山と福山藩
  菅茶山と混沌社
 「菅茶山をめぐる画人たち」
 菅茶山の家族たち
 廉塾と中国の書院(私塾)
 ニコピン先生131歳生誕祭
 菅茶山と大原呑饗
 廉塾ならびに菅茶山旧宅整備計画
 茶山記念館収蔵作品展「夏」
 堂々川砂留 ホタル 光の演舞
 茶山ポエムハイク~神辺遍~
 長寿を寿ぐ(近世文化展示室 4回展示)
 菅君詩を以て世に鳴る(近世文化展示室 3回展示)
 初公開の菅家伝来資料が語る茶山の足跡
 会報第29号発刊について
 市民朗読劇「梅花の契り」上演
 梅花ほころび 春まじか
 蠣﨑波響画「廉塾図」あれこれ
 
 
福山大学 神辺特区2019文化フォーラム 「神辺の文化と歴史」 第3回

神辺本陣の建築とその歴史 
福山大学 柳川真由美講師
 
第3回 11月02日

以下は、柳川先生ご自身から御寄稿の講演要旨 
 
 2017年度から2018年度にかけて、神辺本陣の建築とそれに関連する資史料の調査を行なった。
・近世の普請については、「菅波信道一代記」(以下「一代記」)、天保三年作成の「神辺西本陣図」(以下「本陣図」)に詳しく、他にも墨書銘や古写真など参考となる資史料が多く残る。
 *「菅波信道一代記」 本陣役を務めた尾道屋菅波家の第十一代当主菅波序平(信道)による自叙伝。
  序平は、備中連島出身、儒医を目指し、廉塾に入門したが、師茶山の勧めで尾道屋菅波氏(神辺本陣)に入婿した。
  「一代記」は、子孫への道標として、序平が自らの生涯を口述筆記させたものである。
  また、日常生活・世相・風俗などにも詳しく、326点の挿絵には神辺本陣を中心とした近世庶民生活が活写されている。

・家督相続から約十年、最初の普請として、文政十二年に長屋(木なや)を崩し、二間に九間半規模の土蔵(家人が「古蔵」と呼称)を主屋の北側に新築した。
次いで、天保二年には、第三代目源左衛門によって承応年間に建てられた主屋が老朽化したことから、序平はこれを建て替え「新宅」と称した。「一代記」の記述では「俄に」思いついたとされる主屋の建て替えであるが、新出の史料から、文政十年には筑前黒田家に普請を願い出ており、工事の完了は天保三年であったと考えられる。
その後も、本陣座敷の修築、酒蔵増築、酒造店の新築など、序平は大小様々な普請を行なっている。

・主屋の維持費として、黒田家から「御手伝銀」を下賜されているが、それを基金に約二十年運用増益を行い、費用の一部に充てていたことが分かる。

・普請に用いる資材は、木・石材の多くが備後圏で調達されている。御成門左右の外塀の基礎石をはじめ、石材はほとんどが寒水寺(中条)から運ばれている。釘は鞆、瓦は神辺宿など、近隣から調達された。
府中からの木材運搬には筏を組んで、芦田川―高屋川を利用、掛の橋で陸揚げしており、芦田川を使った河川運送の例として興味深い。

・普請に携わった職人も、地元や近隣在住者が占めている。例えば、主屋普請では、大工の勘三郞(宇山)、庄兵衛(戸手)、左官は清兵衛(当駅)、石工は文平(千田)、瓦工、新七(後町)などである。複数の普請に携わった職人も多く、親子二代にわたって従事した例も見られる。

・本陣内には夥しい「祈祷札」が保管されていた。祈祷札は、家内安全などの祈願をした際に作られた木札で、神辺本陣では寒水寺と近くの西福寺で毎年のように祈祷を行なっていた事が分かる。重ねられ釘付けされていて確認しづらいものも多いが、十八世紀半ばから明治十年代までの296点の祈祷札が現存している。

・序平が当主であった期間には、毎年のように敷地内で普請が行なわれており、神辺本陣は大きく姿を変えていった。
近代以降に取り壊された建物もあるが、本陣座敷はもちろん、主屋や内蔵をはじめ、多くの建物が「一代記」に見られる往事の姿をとどめている。
   
   
 
 福山大学 神辺特区2019文化フォーラム 

神辺の文化と歴史 4回にわたって講演会開催

 福山大学が2019年度文化フォーラムとして「文学・歴史を通してみる神辺の文化と歴史」を主題に、井伏鱒二、菅茶山、神辺本陣についての新しい研究成果を4回の講演会で発表した

第1回 10月5日 

 井伏鱒二の作品における神辺
 ―『鞆ノ津茶会記』を中心に

        福山大学 青木美保教授

井伏鱒二が「鞆ノ津茶会記」に描いた鞆の浦が瀬戸内海の文化の拠点とすれば、神辺は陸の拠点である。廉塾、神辺城、天別豊姫神社、本陣があり、人と情報と物が行き交う街道文化がある。

鱒二が福山中学時代に教わった門田重長(雅号杉東)は菅茶山の養嗣子朴齋の二男。
朴齋は門田姓に名を復したが、
朴齋と血筋の繋がる晋賢と文二郎が菅家を継嗣している。
後の文部大臣森戸辰男も、重長師の「気骨ある風貌は今も忘れられない」と回想している。内海圏の教育に尽瘁した巨人の一人である。

 

案内チラシ

第2回 1019 

 菅茶山と内海文化圏
         広島大学竹村信治教授

本論の「茶山先生梅花稿六十首」に先だって、竹村教授が広島大学在勤中(平成4年~令和元年)が、内海圏から寄託若しくは蒐集した膨大な資料、(安藝)「三原市立図書館旧蔵書」「備前邑久岩佐家旧蔵書」「讃岐善通寺(誕生院)聖教」など序論として詳述。

それらに基づいて、備後・県歴史博物館所蔵資料などと対比、検証しながら本論「梅花六十首」が展開された。
「梅花六十首」は「梅花二十首」「梅花稿三十首」「梅花稿十首」の合綴と思われる。六十一首本も存在する。

詩作について、和泉式部は「歌を詠む」ではなく「歌を産む」と表現した。正鵠を射ているように思う。
茶山について、賴杏坪は「詩は尤もその長ずる所にして、努めて実際を叙し苟も作らず。鍛錬極めて至る」と墓碑銘に整理している。
一方、茶山自身は晩年「
吾が詩は縦ひ人が笑うとも、必ずしも補刪(加筆削除)を費さず。自ら吟じ又自ら賞すれば、楽意其の間に在り」(「讀舊詩巻」遺稿巻七)としている。

しかし、完成度を高めるため何度も校正改作が行われた傍注や書き込みが詩集に残されている。一回つくったものが、元も子もなくなる例もある。
例えば、「梅十二首」(後編巻2)、承・転・結句と詠んだ上、起句を詠むのが効率的な漢詩作法と言われるが、その是非は兎も角、起句の主人公が老叟・老畟・少婦などを経て、最終的に遊女で収束している。また、𦾔詩に二十八字付加、絶句から大胆に律詩に転換した作品もある。

いずれにしても、師那波魯堂に送った「人之詩ハ我を忘れやかましく間違いなりにいひ好き、自分之詩ハとかく人ニいはれ好きに御座候」の書簡に見られるように、最初に京都詩壇に、「現実性と写実性に着目し生活に密着した宋詩」を鼓吹した六如上人や賴山陽、武元君立、北条霞亭など様々な有識者にリップサービスではなく忌憚のない斧正を求める姿勢を貫き、然も直言を素直に受容している。

かくて、「黄葉夕陽村舎詩集」が当時のベストセラーになっただけでなく、今日もなお古典文学の羅針盤として、内海圏のみならず、海内の燈台として光芒を放ち続けている。

 
   
 
平田玉蘊記念室オープン

菩提寺・持光寺が常設展示 
 
 11月23日、持光寺(尾道市土堂町)に閨秀画家平田玉蘊(1787~1855)常設展示室がオープンした。
玉蘊は賴山陽との恋に破れたが、茶山や賴家族などに支援され、白井華陽「画帖要略」(1802年)、24人の女性の一人として掲載されるほど画家に成長した。

今回は「西王母図」(菅茶山賛・原詩『題 西王母寿大熊文叔令堂』文政8年 遺稿巻五所収)ほか、9点の軸装が展示。年4回展示が入替えられる。

註 西王母 
  中国の神話上の女神。三千年に一度だけ稔り長寿をもたらす桃を武帝に献上したと伝えられている。

    
   

備中・茶山ゆかりの地を訪ねて

良寬、西爽亭、真備の里
    

 11月20日(水)、年一回の菅茶山顕彰会研修旅行が行われ、25名の参加者がバスで晩秋の備中路を訪れた。黒瀬理事によって用意された詳細なガイドブック「拙齋・索我・良寬・槐の木を訪ねて」(20㌻)をテキストに、バス内で事前学習を経て現地へ。

 最初の訪問先かもがた町屋公園へ。西山拙齋顕彰会守屋会長、浅口市教委平井文化振興課主幹、地元有志に案内いただき、鴨神社(題額は賀茂神社)、「宮の石橋」を経て、東西にある「索我」・「拙齋」の墓地へ。拙齋の末裔は、健在、医師で四国在住との説明。
公園内の伝承館は、藩主の私的な宿舎に充てられた旧高戸家住宅。床の間の「華月橋上の拙齋」(索我画)が拙齋&索我の交情ぶりを時空を超えて疎明。

 補陀落山円通寺は「良寬さん」の寺。3グループに別れてのガイド案内。聞き覚えのあるガイド翁の備中訛と名調子、それにほどよい冷気が体を包み、険しい山登りの苦労も眼下に臨む瀬戸海の彼方へ霧散。なお、茶山vs良寬の邂逅の有無は黒瀬さんの継続課題。

 昼食後、晋帥が名付け親と言われる西爽亭(旧柚木家住宅)へ。備中松山藩上級武士の館、藩主板倉公玉島巡見の際、宿泊施設としての格式を具備している。
「上の間」に続く「次の間」、天井に戊辰戦争処理で玉島戦火の危機を救うため全責任を担って自刃した松山藩士熊田恰
あたか、飛び散った血しぶきを拭った痕跡。

 最後の見学地はまきび公園(真備町)、次いで吉備真備公園(矢掛町)、吉備真備を巡っての本家争い?は兎も角、今回は茶山詩や寮名に登場する槐に会うことが主目的。  
途中車窓から、2018年7月豪雨水害の現地真備町内を藤田さんの被害状況説明を聞きながら通過。
フィナーレの吉備真備公園には北山の吉備真備像に至る石段の登り口、左右に槐の木が植栽されている。種類は「枝垂れ槐」、すでに満開の来夏に備え綺麗に手入れされていた。
再会を期して、公園を後に。目に痛いほどの夕陽に向かって、夕陽の故郷神辺を目指した。


  
旅行の写真などは「顕彰会ニュース」 をご覧ください。  
   
 
水野勝成神辺城入城400年祭年


錦秋の神辺プロジェクトたわわ
  

 10月18日~22日、入城400年祭にあわせて、菅茶山顕彰会は茶山ポエム絵画町並み格子戸展(秋季)を開催、子供たちの作品70点を30戸の町屋に展示した。
ほかに、西から本陣前特設ステージでのコンサート・マジックショウ、太閤屋敷前広場の地元名産品店、町屋見学、街道筋を練り歩く町おどりなどアトラクションが行われ、色を添えた。

 10月20日(日)廉塾広場では「秋の収穫祭」として名高い地元ボランティアの模擬店が、名物「元祖・うずみ御膳」、廉塾大学いも、ふれ愛おでん、ふれ愛コーヒーセットを販売し、大盛況であった。

入城400年祭については、顕彰会ニュースno173にも掲載しています。


 11月9日(土)神辺町観光協会主催の「史跡めぐり」(バスで、昼食弁当付)が催され、茶山ゆかりの地、葛原邸、古代ロマン御領三絶などを訪れた。

 11月16日~17日、神辺学区まちづくり推進委員会・神辺宿文化研究会主催の「歴史文化を活かしたまちづくり」行事が行われた。(3ヶ年限定、最終年度)
本陣では、御成之間、二之間を「阿部伊豫守様巡見御小休止間取仕様帳」に基づいた、大名利用時の座敷拵えの復元展示、茶華会など。、

 廉塾講堂では、塾主菅茶山の代講鵜野謙二さんが「論語を読む集い」を開講した、
参加体験型のわくわくイベントとして、「閑谷学校あいうえお論語」(閑谷学校顕彰保存会テキスト)50章所載の中から、5章(HP「菅茶山新報」掲載)を選んで、解説後に全員で素読した。
参加応募した小中高校生が講堂に座り、「門前の小僧習わぬ経を読む」、「讀書百回、意自ら通ず」と朗誦を繰り返し、漢詩人茶山へのオリエンテーションイベントであった。
 イベントの様子は、顕彰会ニュースno175をご覧ください。

 神辺公民館では、3ヶ年総括となる「宿場町フォーラム」が開催され、地元次世代を担う神辺小・神辺西中学校生や井原線・旧山陽道沿いの宿場町高屋・矢掛の町代表などが実践に基づく現状・課題などを報告した。

 ややもすれば、豊かな生活を奪う少子高齢化、普遍的な上方志向のある中で、廉塾・本陣を筆頭に重伝建など豊富な歴史文化を活かした賑わいづくりを目指そうとすれば、住民意識、交通網、危機管理、おもてなし施設の充実など課題が山積している。

 そうした課題解決の方途として、矢掛の取り組みに学ぶこと大なるものがある。矢掛町は、人口14247人、4500世帯の町。平成5~19年度、景観整備事業で町並み再生と併せ、三世代を繋ぐ郷土愛を育てる生活環境づくりと集客事業を徐々に充実、遂に、平成27年度を「観光元年」と位置付けに漕ぎ着けている。
(文責 編集子)
 
 
   
   
 
第8回展示 ~菅茶山と福山藩~

広島県立歴史博物館 菅茶山展示室 12月12日~2月2日
   

第1章 菅茶山を語る
・菅茶山自画賛の肖像画、「黄葉夕陽村舎詩」・「筆のすさび」などの著作のほか、茶山を語る師那波魯堂並びに「菅君詩を以て世に鳴る」と絶賛した亀田鵬齋などの詩(集)紹介

第2章 菅茶山の教育拠点
・茶山最初の塾舎名「金粟園」の書(医学の師和田東邦書)、郷校廉塾誕生に至る経緯、「神辺宿図」&「廉塾図」のロケーション紹介

第3章 ・廉塾主菅茶山と福山藩のつながり
・黄葉夕陽村舎から廉塾への沿革
寛政2年 自宅の東北に塾の建物建築
 *幕府→林信敬「寛政異学の禁通達」
寛政3年 そこへ塾の拠点を移す
寛政8年 塾の建物に田畑を添え、福山藩に献上申請、寛政9年、郷校として認可
 *文化元年 藩主阿部正精が茶山の嘱みに応じ書「不如學也」を贈る
この他、教育内容に関わる資料として、掛軸「朱文公之語」(阿部正精書)「白鹿洞書院掲示」(福山藩家老佐原作右衛門嘉方書)など

第4章 福山藩儒菅茶山としての立場と仕事
・履歴書 菅茶山
享和元年 福山藩校弘道館に出講を命じられる。
寛政4年「五人扶持」賜俸後の「菅茶山履歴書付」~文政3年・その後文政9年補足)の昇進、褒賞に付随する書状
・公務 江戸出府(二回)、勇鷹神社造営
 藩史誌編集 「福山志料」「風俗御問状答書」

特集1 平成30年度保存修理資料(3点)
・「賴山陽・来杏坪詩巻」。「梅水仙図」(野呂介石画)、「歳寒三友(文人の理想像)は松竹梅が基本だが、時に梅・水仙・竹の場合もある」と。

特集2 茶山、年末年始を詠じる
・「黄葉夕陽村舎詩集」草稿から、大晦日(文化14年)、元旦(文化15年)を詠んだ詩を披露。 
  
 
 

第7回展示 ~菅茶山と混沌社~

広島県立歴史博物館 菅茶山展示室 
10月10日~12月8日   

「見学記録」
 第1章 菅茶山―菅君詩を以て世に鳴る

・前回70歳の肖像に次いで、「菅茶山肖像」(伝谷文晁画 『近世名家肖像』に収められた壮年期の肖像)紹介。
・茶山にとっての學問とは?「一番大切なのは実際の行為である。行為を先にして儒学の教えを帰着点とする」 と。

・茶山と交流のあった人々23人の顔写真がずらり。老中松平定信や大学頭林述齊など多士済々。
 筆者、未知の名が多いことに反省しきり。

・「菅茶山葬儀」(冊子)茶山の葬儀記録。儒教式の葬儀が行われ、葬送の列には200人以上の人が集まった。

第2章 廉塾~菅茶山の教育拠点~

・廉塾沿革史―開塾天明元年頃説など修正
 安永4年(1775) 自宅に金粟園を開く (佐々木良斎書「金粟園」(巻子) 展示)
 寛政2年(1790)頃 黄葉夕陽村舎を新築。寛政3年、ここに塾の拠点を移す。
 寛政8年(1796)塾の永続目的で、塾建屋と付随する田畑を藩に献上、福山藩の郷校となった。以後、塾は「閭塾」「廉塾」
 と呼ばれた。
 文化2年(1805)槐寮建築。文化3年、南寮、文化5年、敬寮(新宅)建築。

・「論語集註」(冊子)論語の解説書
 素読用に、返り点や置き字、送り仮名がつけられている。

 子曰、「吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲。不踰矩
     (論語 為政)
  「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。 四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
  六十にして耳順(従)う。 七十にして心のする所に従ええども。矩を踰(超)えず」

第3章 菅茶山の家族~実家「新宅」と後継者~
 ・菅家の後継者 
  父 初代 樗平(扶好)分家 新宅(上本庄屋)2代 太中→3代 圭二→4代 萬作

 ・廉塾の後継者
 文化6年(1804)  賴山陽(1年余で出奔)
 文政3年(1820)  門田朴齋(離縁)
 文政9年(1820)  北条霞亭(病没)
 文政10年(1821) 菅三

 ・「享保庚子以降日月そく記」(冊子)甥萬年が写した天体観測記録に茶山が書き込みをしている。
 「菅三覚書」(仮綴)「堯佐、不行跡で離縁。茶山は塾の後継者を望んでいなかったが、親類、縁者の説得で菅三を養子に。
 (茶山没日に藩への願書)堯佐が適切であれば、菅三は後継者にならなかった。」と。
 ・「敬」命名書(折紙)
  敬とは「物事を大切に思い心をこめて目的以外に目を向けずに一生懸命生きる」こと、その願いを籠めている。

特集 描かれた動物たち~茶山の許に残された記録から 9点~
 うち、「日東漁譜」「アシカ図」「雷獣図」は「菅茶山の世界」にも掲載されている。 (作 上泰二
 
   

第6回展示 ~菅茶山の家族たち~

広島県立歴史博物館 菅茶山展示室 8月8日~10月6日
   
 
第1章 菅茶山の生涯

・前回70歳の肖像に次いで、「菅茶山肖像」(伝谷文晁画 『近世名家肖像』に収められた壮年期の肖像)紹介。

・茶山にとっての學問とは?「一番大切なのは実際の行為である。行為を先にして儒学の教えを帰着点とする」 と。

・茶山と交流のあった人々23人の顔写真がずらり。老中松平定信や大学頭林述齊など多士済々。筆者、未知の名が多いことに反省しきり。

・「菅茶山喪儀」(冊子)茶山の葬儀記録。儒教式の葬儀が行われ、葬送の列には200人以上の人が集まった。

第2章 廉塾の建造物と教材

・廉塾沿革史―開塾天明元年頃説など修正

安永4年(1775) 自宅に金粟園を開く

(佐々木良斎書「金粟園」(巻子) 展示)

寛政2年(1790)頃 黄葉夕陽村舎を新築。寛政3年、ここに塾の拠点を移す。

寛政8年(1796)塾の永続目的で、塾建屋と付随する田畑を藩に献上、福山藩の郷校となった。以後、塾は「閭塾」「廉塾」と呼ばれた。

文化2年(1805)槐寮建築。文化3年、南寮、文化5年、敬寮(新宅)建築。

・「論語集註」(冊子)論語の解説書

素読用に、返り点や置き字、送り仮名がつけられている。

子曰、「吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲。不踰矩」(論語 為政)

「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。

四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(従)う。七十にして心のする所に従ええども。矩を踰(超)えず」

第3章 菅茶山の家族~実家「新宅」と後継者~

・菅家の後継者 

父 初代 樗平(扶好)分家 新宅(上本庄屋)2代 太中→3代 圭二→4代 萬作

・廉塾の後継者

文化6年(1804)賴山陽(1年余で出奔)

文政3年(1820)門田朴齋(離縁)

文政9年(1820)北条霞亭(病没)

文政10年(1821)菅三

・「享保庚子以降日月そく記」(冊子)甥萬年が写した天体観測記録に茶山が書き込みをしている。

「菅三覚書」(仮綴)「堯佐、不行跡で離縁。茶山は塾の後継者を望んでいなかったが、親類、縁者の説得で菅三を養子に。(茶山没日に藩への願書)堯佐が適切であれば、菅三は後継者にならなかった。」と。

・「敬」命名書(折紙) 敬とは「物事を大切に思い心をこめて目的以外に目を向けずに一生懸命生きる」こと、その願いを籠めている。

特集 描かれた動物たち~茶山の許に残された記録から 9点~

うち、「日東漁譜」「アシカ図」「雷獣図」は「菅茶山の世界」にも掲載されている。

 

 
 
  
廉塾と中国の書院(私塾)

神辺公民館歴史講座(第2回) 
 
 7月6日 神辺公民館において、菅波哲郎氏(元広島県立歴史博物館副館長)から、中国宋時代の書院教育と菅茶山が生涯
 をかけた廉塾での教育との共通する目標、相違する目的などについて、講演がありました。

・はじめに
 現在行われている廉塾発掘調査に期待することとして、
  *東池中島へ架けられた石橋の位置
  *槐寮と水竹を隔てた新塾(塾頭の部屋のあったされる)
  *貸家 料助の存在の有無(現駐車場付近にあったとされる)
  *槐樹の存在とその位置

1 両者の教育目標
 ・「白鹿洞書院掲示」(朱熹(中国)が定めた教育理念)に集約されている。
  「正其義不謀其利 明其道不斗其功」(菅茶山関係資料 松平定信書)がその第四カ条。
  孝行、忠誠、男女の役割、長幼の秩序、信義などの道義を学び、利益は考えない としている。
  第五カ条「接物の要」前半「己の欲せざる所は人に施すなかれ。」は聖書でも説かれている。

2 中国白鹿洞書院掲示の日本への移入
 ・それが、中国から、朝鮮、日本に伝えられた。朝鮮王朝時代、韓国では李退渓が初の「紹修書院」を開いている。
  本年、ユネスコのイコモスが、この書院を含む9つの「白雲洞書院」群を世界文化遺産に登録した。
  定型性をもった建築文化  をつくり上げた点で、世界遺産の必須条件である「顕著な普遍的価値」を認められた と。

 ・日本では、五山の禅僧間で研究が始まり、江戸時代に各地で広まった。
  備後では、津山碧山(藩校誠之館)書が伝えられている。日本遺産に登録された学校教育群(閑谷学校、足利学校
 、咸宜園、弘道館)には、前述の共通性がない。

 ・本家中国と日本の教育目標には、次の点で差異が見られる。
       中   国         日   本
 経営   諸侯(私塾)       私塾、藩校
 目的   科挙の合格       自己実現
 立地   人里離れた仙境    世俗との雑居地

3 菅茶山~日本と中国の教育の在り方~
 ・閭塾で茶山の代講した藤井暮庵の日記によれば、「禮記註疏義ヲ読ム」までに留めている。
 ・茶山詩「鈴木曹長の東都に之(行)くを送る」(後編巻八)によれば、文教を貴ぶ学問の場が、かえって、科挙試験の登竜門
  (立身出世)、予備校的な受験戦争の場になっている。
  張氏家廟「徳遠堂」(福建省)に、巨大な龍の彫刻が彫られた石龍旛杆群23本が建てられているが、そのうち、14本が
  科挙合格の記念塔だという。狂奔ぶりが窺える。

 編集子所感 
  ・中国書院の建築様式を映像で見て、その豪壮な建築群に驚くと同時に、今回、廉塾で確認された東池と中島への石橋、
   中国の泮池、状元橋に倣って造園されたのではとふと思った。

 
   
 
ニコピン先生131歳生誕祭

「書簡からうかがえる葛原校歌のひみつ」  松岡義晃氏講演 

 6月23日、葛原邸でニコピン先生こと葛原しげるの生誕祭が行われた。
この日をはさんで、17日~25日の期間中、「想い出の品展示」も行われた。

 葛原しげるは、明治19年6月25日、現在地神辺町八尋で、父二郎、母以津の六人兄姉妹の次男として生まれた。祖父は箏曲家葛原勾当、父重倫は勾当(重美)の次男として生を享けたが、長男の夭折に伴い家を継いだ。
重倫は井原で阪谷朗廬(現興譲館創設者)に漢学を、寺地舟里に蘭学を学んだ。
家督を継いだ後、近隣の青年たちに勉学を教え、村役として地域貢献に務めた。

 葛原しげるは学齢期前、4歳10月で、尋常小学校―安那高等小学校を経て、明治31年4月、14歳で福山中学校(現福山誠之館)に入学。入学当初、不登校に悩んだ時期もあったが、その後は文武両道の活躍をした。
学齢に達せず、明治37年4月まで待って、東京高等師範学校の門を潜った。世話好きな性格から、卒業後も母校との交流が途絶えることがなかった。 

松岡氏講演要旨(文責 編集子)


 大正元年、葛原しげるが当時の第八代青木義太郎校長(明治35年~45年=大正元年)からしげるに「福山中学校校歌」依頼があった。しげるは自らが作詩した「誠之舎舎歌」を送って「どうか」と尋ねたら、「この様なので結構」と即答があった。
しかし、日限を切られていなかったので、先延ばしにしていた。その中に、青木校長は転勤、しげるは到々、嘱を果たさなかった。
その後、第十代田村喜作校長(大正元年~昭和4年)時代、一教諭の友人から催促され、苦心して校歌を作詞、某大家に作曲も依頼、電送した。ところが、それが幻の校歌になった。

 大正元年1月25日、第五十九回福山中学校創立記念式典で校歌が発表された。しかし、それはしげるの苦心作ではなく、田村校長命により部下の樋口千代教諭作詞、楠木正一作曲(『嗚呼玉杯に花受けて』による)の校歌であった。

 明治45年福山中学へ入学、大正5年同校卒業した、井伏鱒二「半生記」によれば、彼が2年か3年(大正2年か3年)の頃、最初の校歌 作詞 樋口慶千代)が、前後は忘れたが「・・・良徳公(阿部正弘)の創設に 烈公(水戸藩主徳川斉昭)名づけし誠之館 語りて榮の歴史あり・・・」の存在を記している。
井伏鱒二の記憶にある「神仙遊ぶ」で始まる歌詞である。
何も事情を知らない在校生からの連絡にしげるは不愉快千番であった。青木校長が何うして知られたか、「○○教諭が間に入って困っているだろうから・・・」と御手紙が寄せられた。

 昭和6年、第十四代福間典海校長(昭和6年~21年)からの正式な依頼を承け、福山誠之館中学校第一校歌(儀式用)葛原しげる作詞・小松耕輔作曲、第二校歌(野外用)葛原しげる作詞・藤井清水作曲が決定。昭和7年7月4日、発表された。

 昭和26年10月15日、福山東高等学校新校歌第一校歌(葛原しげる作詞・小松耕輔作曲)、第二校歌(葛原しげる作詞・故藤井清水→平井康三郎作曲)が発表された。
校名は幾多の変遷を経て、昭和28年、広島県福山誠之館高校と改称された。

 「葛原しげる作詩校歌集」には母校福山誠之館中学第一校歌(昭和七年二月制定 作曲 小松耕輔、同第二校歌 作曲藤井清水 いずれも昭和七年、)の2曲(現在は歌われていない)が所収されている。
  

 第5回展示 菅茶山と大原呑

広島県立歴史博物館 菅茶山展示室 6月15日~8月4日 
 
 
「見学記録」
 第1章 菅茶山―菅君詩を以て世に鳴る
 ・お馴染みの「菅茶山肖像画」。松前藩士高橋波藍画のコメントにびっくり。因みに波藍の師は蠣﨑波響である。
 ・菅茶山旅行行程図、テーマの大原呑響との交流は寛政元年、廉塾。寛政6年、京都。文化元年、十一年~十二年、江戸。
  最後は文政元年、京都である。

 第2章 廉塾~菅茶山の教育拠点~
 ・「福山志料」章立て紹介。第1~10巻 総叙。 第11~20巻 邑里  第27巻 土産 
  第28~30巻 寺社・名勝・古戦場 第31~35  附録 古文書・絵図など

 第3章 菅茶山と大原呑響~京都での交流を中心に~
 ・「福山史料」附録所収の鶴橋図(原画 大原呑響)や「梅山図」呑響画・天台宗僧侶六如賛が、二人の人間関係を自明にする  。事実、茶山は呑響の仲介で、待望久しい詩僧六如上人と京都柏園寺での面会が実現している。

 第4章 菅茶山と大原呑響~「常州筑波山図」を中心に~
 ・文化元年、江戸在府中、茶山は、常陸へ「きたちのミチの記」の旅を行っている。呑響は茶山に旅のよすがに、
 「上州筑波山図」や情報提供の書状を送っている。
 ・茶山の日記「蝸角檮杌二」、文化7年6月12日、呑響の訃報が届いたことが記されている。

特集 重要文化財「菅茶山関係資料」以外の大原呑響作品~
 ・「渓山歸樵図」呑響画・茶山賛。「百亀図」呑響が波響の快気祝いに贈ったなど。

コラム 江戸時代の書状を読む
 ・文化元年6月8日付、甥萬年に送った書状には、常陸旅行から無事帰ったこと、
  江戸での近況に「山王社(日枝神社)参拝」の記事があった。

   ***   ***   ***
 大原呑響は茶山12歳の宝暦11年(1761)、奥州大原村(岩手県一関市)に生まれた。父は仙台藩の儒者。儒学を皆川淇園に、画を丸山応挙に学んだ。
 武術・兵学・砲術、海外事情にも詳しく海防を唱えた。

 寛政元年(1791)、西国旅行の途上、廉塾に茶山42歳を訪ねた。その後、寛政6年(1794)、茶山「北上歴」旅行中、京都で、 呑響の墨斎に招かれたり、「巨椋湖賞月の会」など詩宴や書画会などで、連日、交流、呑響を蠣崎波響と引き合わせている。

 「月下巨椋湖舟遊図」の作者蠣﨑波響はこの頃経世家大原呑響を松前に招く藩命を帯びて京都滞在中であった。
 定信の「南湖」など庭園づくりの背景に、対外問題として、特に海防があると伝えられていることと、無縁ではなさそうである。 
 文化元年(1804)、茶山57歳が第1回目の江戸出府の際は、杏坪、呑響と淺野侯の招宴で再会している。 作 上泰二
  
   
廉塾ならびに菅茶山旧宅整備計画

一年遅れの2020年スタート
  

 3月27日、国特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅」修復保存活用策定委員会(鎌田輝男委員長)が開かれ、その整備計画が公表された。
それによると、当初予定の2019年度修復工事着工に先だち、発掘調査が行われるため、1年遅れることが判った。 なお、2020年度には祠堂復旧事業から開始し、2031年度、全事業を完了予定。

 6月3日、福山市文化振興課(担当 平林工氏)による発掘調査が始まった。
対象となるのは①養魚池の導水管・畑の花粉分析②元南寮(中門前)③東池(講堂東庭)④元薬園(現南寮)・花粉分析⑤側溝(祠堂前)である。

 6月25日、第一回報告会があり、報道関係者を含む約50名が正門付近の「特別史跡 廉塾ならびに菅茶山旧宅」石碑の樹陰で、平林氏の報告に聞き入った。
 ①廉塾は、弘道館、閑谷学校と並ぶ国特別史跡(全国62カ所)で、敷地3000㎡。塾の景観がよく保存されている。
残された文書から、寛政4年、漢詩人、教育者、儒学者、菅茶山によって、立身出世ではなく、学問の趣旨を体得する次世代を育てる目的で創設。
明治5年、後継者晋賢まで存続、小学校令によって廃塾、その歴史を閉じた。

 ②南寮は現在地より北側の水路寄りで、台所(槐寮)に隣接していたと思われるが、幕末(あるいは明治)の火災で焼失、そこから礎石、焼土、焼瓦などが発掘された。織部焼陶器の破片も出土した。
この旧寮舎から西の萬念寺にかけ、砂地が続いているが、これは物資運搬などのため、高屋川の流路変更がなされたものと考えられる。

 ③今回の目玉は、廉塾講堂東庭にあった「東池」の存在確認である。
発掘結果、東西11㍍、南北7㍍の池跡があり、側面は厚さ20㌢の粘土で補強されている。
現存の養魚池への移転理由は、元々川の中にあったため、洪水等で埋もれたためと思われる。
7月以降、土壌調査で、種子を調べる。

 ④現場で、鵜野顕彰会会長から、「東遊漫録」(賴山陽のスケッチ)、「茶山詩」(蓮と螢を詠込む)、
「茶山日記」(養魚池への魚の移動)など、関連事項の補足説明があった。

なお、紀要「広島文化財ニュース」(第209号)「廉塾の池と寮について」(菅波哲郎 広島県文化財協会 平成23年)。当会会報バックナンバー「第21号」2011年「中国新聞所載記事」&第24号」2014年発の「廉塾の東池~詩に詠じられた荷沼~」(菅波哲郎)に詳しい。

当日の写真などは、「顕彰会ニュース」をご覧下さい リンク
  
   

 左図:賴山陽のスケッチ「東遊漫録」
     所蔵:広島県立歴史博物館

 上図:現在の養魚池
   
 菅茶山肖像自画賛など お披露目

茶山記念館収蔵作品展「夏」
 

 菅茶山記念館収蔵作品展「夏」に、当会が菅茶山生誕270年祭記念事業として発刊した復刻版掲載の「菅茶山肖像画」や、雅俗貴賎を問わない人間性の茶山が珍しく「盃の酒こそわが友!」と詠んだ紙本墨書軸装などが展示されている。

 肖像画には「花にけふ 立ちいててけり この春は またとなりをも とはぬ翁の」の賛もある。

展示期間は、5月28日~9月1日です。是非、本物に出会ってもらいたい。

 紹介が遅れたが、6月16日終了の第2展示室には、神辺美術協会初代理事長を務めた故長谷川樹氏の「廉塾」関係の額装、藤井松林の「四季農耕図」などが展示された。


 菅茶山顕彰会では、
〔8月24日(土)10:00~〕から開催の茶山学習会#2にて、
記念館の矢田氏を講師に、展示作品の解説をお願いしております。 多くの方の参加をお願い致します。 乞うご期待!
 
   
   

堂々川砂留 ホタル 光の演舞

西日本豪雨ニモ負ケズ
   

 4月19日付、「中国新聞」が堂々川砂留のホタル復活を報じた。
昨夏の豪雨で、ホタルの幼虫の餌になるカワニナの流失を危惧、「魅せられた黄色い光」の祭典が懸念されていた。

 どっこい先祖が額に汗して残し、「堂々川ホタル同好会」会員たちが大切に維持管理した防災の寶物「砂留」が、現役で地域と小さな昆虫の命を守り次世代へと繋いでいた。
4月7日、最下流で幼虫7匹の上陸が確認され、その後、4月23日には、5番砂留(2006年、他の7基とともに国登録有形文化財指定)で30匹確認された。

 同会会長土肥徳之氏は、幼虫の上陸は、確認した数より現実の方がはるかに多いけれど、ホタルは前年の20~30%程度と予想されています。
一人でも多くの人に観賞してもらいたい。ただ、夜の川辺は危険一杯、充分、ご注意下さい。と。
                                                   (上 泰二)
堂々川ホタル同好会会報
http://chazan.click/keiziban-deta/会報自然歴史安全を守る砂留2号.pdf
  
 
茶山ポエムハイク ~神辺編~

茶山ゆかりの神辺城趾・城下町を往く

 4月
27日、一見、絶好の行楽日和と予想したが、気まぐれな春一番が吹き荒れ底冷えのする寒い一日。茶山ポエムハイク春編(菅茶山記念館主催)が催行された。

 参加者26名。案内役は和久井裕道さん。本会黒瀬理事も協助。神辺駅東口を出発帰着点に約6㌖のコースにチャレンジ。
神辺公民館前茶山詩碑から、西ケ崎荒神社境内から神辺城趾への登山道を上り詰め、神辺城趾へ。いきなり、山頂では眼下に広がる神辺平野を臨むパノラマに息を呑む。
この景色を回復するため、伐採・野積みされた材木の山と巨樹の切り株に参加者一同が目を見張った。普通の鋸と鉈による人海作戦であったろう。「神辺城趾を愛する会」(黒瀬道隆代表)の奉仕活動の跡である。

 黄葉山城とも呼ばれた城趾と肩を並べる山頂の歴史民俗資料館見学。入口で茶山先生にご挨拶。原始から現代に至る「かんなべ」の歴史を学習後、下山する。

 城下では、西福寺~廉塾ならびに菅茶山旧宅~伝太閤屋敷跡~萬念寺を経て、詩碑「農功」の舞台、猫児山が臨める松浦邸で締め括った。

  切り跡   景観
茶山ポエムハイク見学地 神辺編

詩碑については「詩碑ご案内神辺遍」ご参照 リンク

神辺公民館  詩碑「丁谷餞子成卒賦」 

 茶山・山陽が別れを惜しんだ詩の舞台である丁谷梅林はこの谷間の上流にあり、現在も春先に満開の花を咲かせている。

神辺城趾  建武二年(1335)備後守朝山景連築城

 以来、強者どもの夢が繰り広げられた跡。 
元和五年(1619)福島正則改易によって、備後十萬石の藩主水野勝成が入城。
その後、元和八年(1622)、現在地に新築した福山城に移転を機に廃城。

福山市神辺歴史民俗資料館

 道すがら、春はさくら、初夏は紫陽花が楽しめる。昭和五十四年(1979)新築開館、三つの展示室では神辺町内出土の考古資料(旧石器時代~現代)が展示されている。

④普門山西福寺  詩碑「西福寺賞梅」・・・会報復刻版 7号-52参照  

 境内北西隅に茶山の弟子、小早川文吾の墓碑(昭和二十九年、重政雄記并書)がある。
茶山の研究家として著名な重政黄山先生が建碑されたものである。

廉塾ならびに菅茶山旧宅 草浦孝画・・・会報復刻版 4号-25 

伝太閤屋敷跡(現和装紅葉堂) 詩碑「神邊驛」・・・会報復刻版 14-156

萬念寺  詩碑「夏日雑詩」十二の首のうち(三)・・・会報復刻版 17-203

 詩の舞台は「廉塾」と思われる。

松浦正明氏宅(神辺町川南早王)  詩碑「農功」・・・会報復刻版 13-142㌻ 

 松浦氏の茶山への熱い思い入れは「菅茶山への面影を訪ねて」(復刻版15号 187㌻)
発刊でも窺える。


 長寿を寿ぐ

国重文「菅茶山関係資料」第4回展示  

 4月11日~6月9日(4/14) 於 県博近世文化展示室

第1章 菅茶山―菅君詩を以て世に鳴る
・「茶山樵響」=「黄葉夕陽村舎詩」(寛政3年、改題。文化9年刊行)の草稿。多くの人によって繰り返された校正過程が窺える・
・「菅耻庵追悼詩画巻」茶山の末弟耻庵(寛政12年没)。文化7年、追悼の宴に参加した人々の作品を纏めている。
・「黄葉夕陽村舎詩」(前編)の附録としての漢詩集「耻庵詩集」を収録している。

第2章 廉塾~菅茶山の教育拠~
・茶山が賴春風に宛てた「郷塾取立てに関する書付」。開塾目的が社会体制の再建、「学種」が各地で花を咲かせることを目指している。

第3章 茶山の古稀を寿ぐ
・茶山の古稀を寿ぐため、贈られた谷文晁が描いた「太公望の図」、蠣﨑波響画「双鶴図」や全国各地の文人から寄せられた壽詩などを纏めた詩画巻など6点紹介。
特 集 茶山の長寿を寿ぐ
・「福山藩儒者等書画帖」。文政10年4月8日、傘寿を迎えた茶山の祝宴に集まった福山藩の儒者・藩士などの作品集。巻頭に「菅茶山肖像画」倉井雪舫画が掲載されている。お馴染みの「肖像画」岡本花亭賛と異なり、丸みを帯びた容貌と坐像に衰窮を窺わせる。
・殿様正寧 賜盃、謙徳院正精 賜杯、定信(楽翁)壽杯を贈られている。

コラム 長寿を寿ぐ和歌
・茶山70歳・80歳を祝う菅波武十郎本荘屋菅波7代)などが作品を贈っている。   
   
 
菅君詩を以て世に鳴る


国重文「菅茶山関係資料」第3回展示  

 2月9日~4月7日(4/4) 於 県博近世文化展示室

第1章 菅茶山―菅君詩を以て世に鳴る
・『行案詩草』武元登々庵の漢詩文集。文化4年(1807)、廉塾に長期滞在、その間百島(現尾道市)へも。立身出世を望まない茶山の日常生活に惹かれ、家督を弟君立に譲る決意を固める。

第2章 廉塾~菅茶山の教育拠~
・廉塾書箱(木製) 集 漢詩文、史 中国の歴史書、経 儒教の経典類、子 朱子学関係、皇 日本文学関係に分類されている。
・菅茶山遺書 「後太平記」に「岩見国小屋瀬次郎が備後神辺で学問を行った」との記述を読み、茶山も「神辺に学問を根付かせたい。」と心に誓った。

第3章 茶山と白河藩~松平定信と家臣たち
・廉塾主茶山を中四国、九州地方のネットワークの拠点。定信が文化や学問を通して政治活動を行う場所との位置づけをしている。
・定信が茶山に贈った書「文武忠孝」や、定信編集「集古十種」の調査に、廉塾を訪れた大野文泉などの「西国名所図」などが贈られている。

第4章 茶山と白河藩~浴恩園の招宴~
 文化12年2月5日、江戸築地にあった松平定信の庭園「浴恩園」(寛政6年頃造園)へ招かれ、定信に漢詩を求められた。畳一畳分の「浴恩園図並詩歌巻」が壁面一杯に飾られていた。
特集 南湖と白河関
・定信が造園した五庭園の中、「南湖」(福島県白河市)は享和元年、定信が自国に「士民共楽」(身分を問わず誰もが楽しめる)の希いを籠めて造営した日本最初の庭園である。

コラム1 白河藩儒 廣瀬蒙齋
・「廉塾記」佐藤一斎・武元君立・廣瀬蒙齋共著。文化12年。廣瀬蒙齋だけが、茶山が紛失したため、文政4年に書き直している。

コラム2 白河藩士 田内月堂
・田内月堂から茶山あての書状。「定信の隠居に伴い月堂自身も浴恩園内「不崩岸」へ移居した。そこからの風景(星野文良画)を送るので漢詩を一首詠んでほしい と。
 
   
 
初公開の菅家伝来資料が語る茶山の足跡

県博「春の展示」開催記念講演会  
 
 4月19日から 広島県歴史博物館において、「廉塾に伝えられたタカラモノ」と題した春の展示が行われているが、その記念講演会が4月27日開催された。講師は、菅波哲郎氏(元広島県立歴史博物館副館長)で演題は上記タイトルの通り。講演概要は次のとおりです。

1 資料収集の要因と契機
・茶山は生涯、教育者、漢詩人、朱子学者として、神辺、遊学、旅行、福山藩などで、多様な儒者、絵師、僧侶、蘭学者、幕府・藩の高位高官、武士などと交流している。
・長寿で、古希、喜寿、傘寿の祝い、福山藩大目付格三十人扶持への昇進など慶事に恵まれている。

2 菅家資料保存と県博への寄贈
・曾て、著名な郷土史研究家濱本鶴濱は「菅家には茶山先生を顕彰すると同時に当時の文人墨客の消息を知るべき幾多の好資料があるのに、屋内や倉庫で黙々と居眠り状態にあることは遺憾の極みである。」と述べている。
公開を懇望する声に散佚を虞れ「私の代になって、廉塾資料は紙切れ一枚たりとも外へ出してない」と公言していた当家末裔菅好雄氏が、初めて応えたのが平成7年、県博への「黄葉夕陽村舎文庫」寄贈である。
県博学芸員のひたむきな調査研究整理によって、平成26年、その中、「菅茶山関係資料」(5369点)が「国特別重要文化財」に指定された。

3 今回の伝来資料は、平成28年、第2回目、菅家より器物類の寄贈を受け、調査研究整理を経て、その公開となったものである。
・「来歴が判る。」「箱書、漢詩、漢文、手紙、日記など文字による記録がある。」「規格寸法などが残されている。」などから、真贋が識別できる。

4 茶山、実家の什物
・菓子盆 蓋裏の文字資料「宝暦十弐年九月 弐拾人前 菅波扶好調之」から、実家最古品。

5 廉塾・黄葉夕陽村舎の什物と土産品
・うるみすいもの椀 塾の書付がある。数量が多い(五十人前)。文化十年。北条霞亭が都講時代。茶山の名が高まり、「塾生三十人ばかり」と多い。
・古盃 米澤藩侍医 平田道宣贈。上杉謙信伝との伝承
・ガラス製コップ 塾生 佐谷惠甫贈。現在のグラスと異なり鉛が入っていて透明感がない。

6 長寿を祝う什物
・風字研(硯) 白河藩士 田内月堂の古希のお祝い。
・壽盃 白河藩主松平定信から古希の祝いに賜る。田内月堂が取り次ぐ。

7 特に紹介したい資料
・ 孔夫子像 享和三年、江戸出府前年の正月、尾道の松田教之が永く塾に留めるようにと持参。
 
   

会報第29号発刊について


菅茶山生誕270年記念特集号 

  「平成」から「令和」への特需景気の中、会報第29号が誕生しました。
平成最後の30年度は菅茶山生誕270年祝祭年、福山市神辺文化会館・菅茶山記念館を初め、地域社会の皆様、顕彰会会員の皆様の力強いご支援ご協力をいただき、成功裡に全記念事業を終えることができました。この紙面をお借りして衷心より厚く御礼申し上げます。
 

 さて、本会報は先ず5年毎に執り行われるこの記念事業総括、次いで、新たな顔ぶれの学校法人福山大学鈴木省三理事長、東京八王寺市在住の塚本照美氏などのご寄稿、本会の年間活動報告「顕彰会だより」、神辺宿を彩る歴史文化行事など取材した「黄葉だより」の順で、記事を満載しております。ご高覧の上、今後とも宜しくご指導とご協力を賜りますようお願い申しあげます。

 なお、昨年度、このホームページ「菅茶山新報」(代表 藤田卓三)がリニューアルオープンしました。書籍版が限定出版の関係上、入手できない場合は、どうぞスマホからも可能なこのHPにお立ち寄りいただきますように。
 また、素人の手作り故、諸所、お気づきの点がございましたら、よりよい『菅茶山全書』を創るため、ご遠慮なくinfo@chazan.clickでご指摘いただきますようお願い申し上げます。
  
   表紙画像  kaihou29.pdf へのリンク  

市民朗読劇「梅花の契り」上演

高橋孝一氏、十八番の草笛演奏で開幕  

 平成最終年3月2日、神辺文化会館大ホールで朗読劇「梅花の契り」(作・演出藤井登美子)公演。

 会場ホワイエでは、2018年度(第26回)「茶山ポエム絵画展」最優秀作品9点・優秀作品6点に加えて
神辺美術協会新春展に出品された菅茶山詩画書(次の3点)が展示された。
  「夏の思い出」(山下英一画)、「所見」「蝶」(菅波由美子書)

 松岡宏道県議会議員等来賓8名、開場前から長蛇の列、当日券を求める来場者などを熱烈歓迎。 
14時、鵜野実行委員長あいさつ、来賓紹介。観客の大きな拍手に誘われ、お馴染み高橋孝一氏、草笛の開幕演奏。
市内朗読劇グループ「温故知新の会」(代表北川佳代子)&福山市立大演劇サークル(代表山下歌菜子)。主人公茶山役は藤岡詔雄さん。知名人・隣人・友人・顕彰会役員ら顔馴染みの登場に観客が微笑しながら巨星茶山八十年の生涯を追慕した。

 江戸中後期、幕藩制度は貧しい民衆から教育を奪った。茶山はその不合理を糺すために「廉塾」を開設、備後の地に、やがては全国各地にも広がる「学種」を蒔きつづけた。

 巨星が置かれた三つの岐路。
①茶山19歳京都遊学後帰郷、人心の廃れた神辺宿を学種による世直しを指向、黄葉夕陽村舎開設。②茶山34歳、刎頸の友、西山拙齋と共に天明の大飢饉前後の幕藩政治批判から、藩儒として一人で
 なく天下のための天下を理想郷とする迂遠法への転換。
③茶山62歳、親友賴春水の嫡男、脱藩・廃嫡された山陽を廉塾都講として引き受けたものの我儘放題
 実質一年二カ月で脱去。三年間にわたる不和が続く中、やっと和解の時が訪れる。

*茶山77歳、茶山・山陽唱酬詩in丁谷梅林
「樹、静かならんと欲すれど風やまず。子、養わんと欲すれど親待たず。」これから先、先生から坏を受ける時があるだろうか。それを思うととても返杯しがたい。山陽は別れがたい気持ちを振り切って、静かに暮れなずむ梅林を後にした。

 胸キューン、万雷の拍手喝采の中菅茶山生誕270年祭全記念事業の幕も降ろされた。作 上泰二
 
          フィナーレ
     

梅花ほころび 春まぢか

菅茶山誕生日2月2日の開花状況 

 菅茶山生誕270年記念行事も「朗読劇 梅花の契り」の開演を残すのみとなりました。
茶山の好きだった梅の開花状況を写真に残そうと、菅茶山誕生日の2月2日(土)に「神辺のゆかりの地」を訪ねました。

 「梅花の契り」の舞台でもあります丁(ようろ)谷梅園は、花色の見える樹はわずかで、春の気配が感じられる程度でした。
しかし梅園には5分咲きの紅梅や2分咲きの白梅も2,3本あり、梅にも個性がありました。
 廉塾近くの西福寺は茶山詩「西福寺梅」で有名ですが、寺の梅は蕾が膨らみ始めた枝が見える位で、茶山の楽しんだ観梅は当分先のようでした。
 
 朗読劇公演の3月2日には、いづれの梅も咲き競うことでしょう。 
  (作 藤田卓三)

ご参考:「西福寺梅」詩碑リンク
 
 
丁谷梅園の紅梅 
 

蠣﨑波響画「廉塾図」あれこれ

実物は函館市旧相馬邸に保存 

 このところ蠣﨑波響画「廉塾図」(旧相馬邸蔵)に逢う機会が多くなっている。最近では、菅茶山生誕270年祭ご案内パンフレットにも登場した。
この実物は北海道以外では、広島県立歴史博物館が「黄葉夕陽村舎詩刊行200周年記念 平成24年度夏の企画展『7人の巨人たち』」(7月13日(金)~9月17日(月):実物は8月12日まで)で初公開された。
 その図録 附編pp50~51 には「蠣﨑波響画・岡本花亭賛「廉塾図」について~黄葉夕陽文庫所収の関連資料等との比較~」が論述されている。


蠣﨑波響画「廉塾図」(旧相馬邸蔵)

  これに関連する論考として 郷土歴史家 菅波哲郎氏著の『蠣崎波響画「黄葉夕陽村舎図」 の原図を描いたのは誰か』(山陽道神辺宿第51号PDF)が参考になる。

ともあれ、この「廉塾図」が縁で、平成30年3月29日、旧相馬邸家宰東出伸司・小林蠢繭両氏が「是非、本物の廉塾を見たい」との来訪となった。
その後も、鵜野会長との交流が続き、再訪を希望されているという。面白いのは、旧相馬邸では所謂「廉塾図」を「師茶山先生邸」と呼称していることである。 (作 上泰二)

関連資料 黄葉だより「旧相馬邸ゆかりの旅人 廉塾訪問」  廉塾往問録