黄葉だより 2018 菅茶山に関連した地域の情報・寄稿を掲載いたします。 |
ふくやま書道美術館所蔵品展 |
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11月1日から12月16日までエフピコRIM「ふくやま書道美術館」において、特集陳列「生誕270年 菅茶山」が行われている。 当館所蔵の遺墨の中から「黄葉夕陽村舎詩」に収録される自詠の漢詩を揮毫した作品を中心に24点が公開された。 作品の中には、茶山が大好きだった「梅」、茶山ポエム絵画展でお馴染みの「螢」の書軸や世界最古の庶民のための公立学校閑谷学校(平成27年度日本遺産認定~近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―)を詠んだ「閑谷」の屏風などが来館者の足を引き留めていた。 有名な健康法を説いた詩も出展された。 酒人某出扇索書 酒人某扇を出して書を索む 一杯人呑酒 一杯 人が酒を呑む 三杯酒呑人 三杯 酒が人を呑む 不知是誰語 是誰の語か知らざれど 我輩可書紳 我が輩は紳に書すべし 紳とは大帯のこと *関連記事 会報24号 書道美術館展 |
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10月21日、同館ロビーで西村直城氏(県歴史民俗資料館学芸課長)による講演が行われ、満員の聴衆が熱心に耳を傾けた。以下は講演要旨。文責編集子) 文化財保護法に定める重文のうち、茶山の資料は「・・・その他の学術上価値の高い歴史資料」 即ち、廉塾に於ける教育活動の資料→茶山の思想・思索の形成過程を語る資料・江戸時代の文人交友を語る資料」に当る。 平成7年、子孫菅好雄氏から全資料の寄贈を受け、文化庁の指導を受けながら、調査研究整理を進め、漸く、平成26年3月18日、答申。同年8月21日、指定に漕ぎ着けた。 同年3月18日付、プレスリリースには、5369点の歴史資料のうち、「黄葉夕陽村舎詩」(原題「茶山樵響」)、「筆のすさみ」、「福山志料」、「室町志」(草稿) 別紙として、茶山略歴、「菅茶山肖像画」、「廉塾ならびに菅茶山旧宅」(写真)並びに「冬夜讀書」(原文・読み下し文・大意)を掲載している。 指定範囲・人物&時代について 「黄葉夕陽文庫」のうち、父、樗平、茶山本人、末弟菅耻庵、甥萬年、後継者北条霞亭まで、菅三郎(自牧齋)、梅五郎(晋賢)、文二郎時代は除外している。 時代を特定できる根拠は茶山の自筆、蔵書印、整理番号、日記等の記録とした。 具体的な例として ・自筆 「補訂鄭孝経」(久保木竹窓著 弟子伊能忠敬の序文)表紙に茶山自筆の「伊能勘解由所贈」の書き込み、書中に奥書がある。 ・蔵書印 金粟園蔵書印・神邊驛閭塾記など茶山の時代を裏づけられる刻印がある。 ・整理番号 自画像 代表作は「栗山餞筵詩画」(谷文晁画 文化元年)一番の番号がふられている。 六十三番「アシカ図」(鞆の浦に出現)、二百二番「銅鐸拓本」(神村で出土)。 ・日記等の記録 日記には、「文武忠孝」(松平定信書「集古十種」編集調査のため廉塾を訪れた白雲から、まくり(未装幀)のまま受け取ったと帰されている。 重要文化財未指定の資料について 「集古十種」(数が揃っていない)、「群書類従」(塙保己一著 本の状態がヨレヨレ、書き込みがあり、茶山の猛勉強家ぶりが窺える)、自牧齋55歳の借金証文(京都遊学中)などがある。 新事実 従来、「教育資料」(明治元年 菅晋賢 提出)に基づいて、「黄葉夕陽村舎」は天明元年頃の開塾説がとられていたが、新たに発見された「茶山書付」から、寛政3年(1791)であることが裏づけられた。 |
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本陣で記念講演&コンサートなど 福山城築城400年記念プレ事業 |
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10月13日、福山城築城400年記念プレ事業として、午前中、神辺本陣で「福山名所コンサート」 午後、文化会館で「かんなべ歴史文化交流フォーラム」があった。 本陣では菅波哲郎氏の講演「神辺城趾と本陣について」に次いで、能楽師大島衣恵氏と菅茶山が登場する新作能「鞆のむろの木」の一節をともに謡った後、仕舞「羽衣」の観賞。 声楽家奥野純子氏などにより、菅茶山ポエムを編曲した「神辺の四季」や葛原しげるの童謡などが紹介された。 菅波哲郎氏講演要旨(文責編集子) 神辺本陣南方に聳える黄葉山頂には城郭があった。1997年、広島県教委によって、発掘調査が行われ、1郭と9郭から遺構と遺物が出土した。 神辺城は1443年築城が定説とされている。1619年、水野勝成が福島正則に代わって入城、 1622年に現在地に福山城を完成する。 その間、3カ年、藩政は神辺で行われたと考えられる。福山城への移転によって、神辺は城下町の機能を失う。 1634年、参勤交替制により、城下町神辺は山陽道の宿場町として新たな活況を呈した。 幕府御用や参勤交替などの休泊所として城主茶屋や本陣を初め街道筋の町屋が利用された。 当神辺本陣は基本的な本陣遺構の正門、玄関、座敷、雪隠風呂、番所が残っている。 十一代目当主菅波信道は筑前黒田家「定本陣」を願い、1649年に聞き届けられ、永代二人扶持を頂戴、見返りとして黒田家定紋「藤巴」を瓦に焼き入れた。 午後の「かんなべ歴史文化交流フォーラム」は本年で2回目、広島大学名誉教授、三浦正幸氏による特別講演「福山城の特色とあなたの知らない神辺城の魅力」があった。 レジュメ8㌻に満載した絵図、写真、復元図、断面図、実測図などを示しながらの講演に、満員の聴衆が魅了された。 三浦正幸氏講演要旨(文責編集子) 1619年、芸備四十九万石の福島正則が改易され、水野勝成が備後十万石を受封、神辺城に入城した。1622年、水野勝成は現在地へ建築した福山城へ移った。 現在の福山城は新名城百選のボーダーラインにあるが、戦災前の福山城は、江戸城、大阪城、名古屋城、姫路城、岡山城、広島城、熊本城とともに、ベスト10入りできるほどの名城である。 今でも、主として元神辺城の他、天下の名城、伏見城、安土城などから移築された遺構が徳川幕府の権威を引き継いでいる。 南側は百万石、中納言クラス。北側は城下町、経費節減のため五十万石クラス。南表は西の広島藩・東の岡山藩への抑えの意味もあろう。 東坂三番櫓、南に月見櫓、筋鐵御門、伏見櫓、西に神辺一、二、三番櫓、乾櫓、無防備とも思える北は外塀に代わる突破不可能な多聞櫓で取り囲み、天守閣北側は窓格子も含め鉄板張りで当時の大砲の攻撃にも耐えた。 福山城は上下サイズが同じ、左右非対称、地階に付庇・小天守(付櫓)がある。 内部は心柱が通され、各階に天井が張られ、2、4階には床の間、最上階の5階には、上段の間がある。美しい城である。 實相寺(福山市北吉津町)は神辺城城門、二間二戸(通路・杉材)、冠木を横倒しにしたため、正面側に柱のホゾ穴と板溝が残っている。 伏見櫓は二階内部の梁に「松ノ丸東やく(ら)」の刻銘があることから、聚楽第、指月城、伏見城を経て、福山城へ移築されたものと考えられる。 |
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国重文「菅茶山関係資料」順次公開 県博「近世文化展示室」新設 |
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10月12日、広島県立歴史博物館で、常設の近世文化展示室がリニューアルオープン。 平成26年、国重要文化財に指定された「菅茶山関係資料」が順次、2ヵ月毎に入替え公開展示されることになった。 菅茶山生誕270年祭の記念すべき年の開館、わが顕彰会にとってもビッグニュースである。 展示室は2階にあり、今回は①松鶴図(西山拙齋賛・黒田綾山画)②菅茶山肖像画(岡本花亭賛③茶山直筆「黄葉夕陽村舎」④黄葉夕陽邨舎」陶額(武元登々庵贈)⑤菅茶山遺書(以上、いずれも国重要文化財指定)並びに⑥「黄葉夕陽村舎詩」版本 と豪華極まりない資料が来館者を熱烈歓迎している。 菅茶山関係資料とは? ・国文化財指定までの経緯 平成5年6月 菅茶山の子孫・菅好雄氏が「黄葉夕陽文庫」(廉塾書庫保管資料)寄託 平成7年7月 菅好雄氏が企画展「菅茶山とその世界~黄葉夕陽文庫を中心に~」を受けて、 「黄葉夕陽文庫」を寄贈 平成21年2月 黄葉夕陽文庫」(廉塾講堂と母屋に保存)を追加寄贈 平成26年8月 黄葉夕陽文庫の中、5369点が「茶山関係資料」として国の重要文化財に指定。 ここまでに至る20年間、県博による調査・研究・整理済資料の企画展が4回開催された。 ・菅茶山関係資料の内訳 ①著述稿本類 673点 ②文書・記録類 631点 ③書画類 331点 ④典籍類 2,706点 ⑤絵図・地図類 44点 ⑥器物類 71点 合計 5,369点 |
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展示解説会 10月13日(日)第1回展示解説会が開かれ、説明者は同館主任学芸員岡野将士氏で、わかりやすく解説いただいた。 1階ロビーでは、顔馴染みの「茶山ポエム絵画」が歓迎してくれた。 展示場は2階にあり、入口から左回りにテーマ毎4章の構成で、テーマは不変とのこと。 展示は2カ月毎に取り替えられる。 資料展示ケースの前の陳列ケース4基は左右に振り分けられ、山陽の手紙などと時節柄元号の出典書が紹介されていた。 第1章 菅茶山~菅君詩を以て鳴る~ 有名な亀田鵬齋の讃辞。日本橋で鵬齋と邂逅を果たした茶山の日記。遺書など。 第2章 廉塾~茶山の教育拠点~ 廉塾設立年は? 茶山書付。「黄葉夕陽邨舎」陶額(武元登々庵贈)。 額字「不如學也」(阿部正精親筆)、廉塾規約。書籍類。 第3章 忘れられぬ交遊~京・大坂編~ 「黄葉夕陽村舎詩集」遺稿。池大雅・蠣﨑波響画。旅日記。筆のすさみ。 第4章 忘れられぬ交遊~江戸編~ 墨水詩画巻・栗山堂餞宴詩画巻の文人達 茶山先生菅君之碑 石碑の費用は? 140万円。 顕彰活動 ①天保3年 茶山先生菅君之碑 ②大正4年 菅太中贈位記 トリの入口右は私的な茶山資料コーナー。 第2回展示解説会 10月28日(日)14時から30分、当館学芸員による分りやすい解説が行われる。 |
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顕彰会」ニュース リンク | |
菅茶山生誕270年記念遺墨展 政治批判詩や文人サロン中条 |
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10月11日~11月18日、菅茶山記念館で茶山生誕270記念遺墨展が開催中。 生来、病弱だった茶山が健康管理に努め、当時の総理大臣、老中、松平定信や文部大臣、大學頭、林述齊などの高官の知遇を得ながら、三都、高位高官を望まず、菅茶山とその故郷神辺宿の名を全国に広め、概ね神辺で80年の生涯を過ごした。 この特別展では、遠回しに世相を風刺した漢詩「御領山大石歌」(前編巻一)、神辺近在の人情風俗を描いた「田家」(下記)(前編巻二)。茶山が支援を惜しまなかった平田玉蘊の画賛など茶山の遺墨や茶山が屡々廉塾の客人たちを伴って訪れた文人サロン、富豪河相君推の邸宅(西中条山田谷)、在りし日の「松風館十勝」の原資料などを公開している。 関連記事:顕彰会ニュース リンク:筆のしずく「御領山大石歌」 ポスター 表・裏 |
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田家 菅茶山 (前編巻二) 菅茶山記念館HPからコピー 葛覃藤[ ]夏木瞑 …葛覃(かったん)藤(とう)[まん]夏木(かぼく)瞑(くら)し 牧犢隔林聲相應 …牧犢(ぼくとう)林(はやし)を隔(へだ)てて声(こえ)相応(あいおう)ず 陂塘閘開風始薫 …陂塘(はとう)閘(こう)開(ひら)いて風(かぜ)始(はじ)めて薫(くん)じ 野川堰成路正濘 …野川(やせん)堰(せき)成(な)って路(みち)正(まさ)に濘(ぬか)る 揚柳貫魚三両童 …揚柳(ようりゅう)魚(さかな)を貫(つらぬ)く三両(さんりょう)童(どう) 累騎老牛入竹叢 …老牛(ろうぎゅう)に累騎(るいき)して竹叢(ちくそう)に入(はい)る 竹叢数里擁閭巷 …竹叢(ちくそう)数里(すうり)閭巷(りょこう)を擁(よう)し 屋影參差嫩翠中 …屋影(おくえい)參(しん)差(し)たり嫩翠(どんすい)の中(なか) 僻郷人僕[ ]爭少 …僻郷(へききょう)人僕(じんぼく)にして[かい]争(そう)少(すく)なく 相通乞假新隣保 …乞假(きっか)相通(あいつう)じて隣保(りんぽ)親(した)しむ 東家鑿井常共汲 …東家(とうか)井(せい)を鑿(うが)てば常(つね)に共(とも)に汲(く)み 北舎生兒時更抱 …北舎(ほくしゃ)兒(こ)を生(う)めば時(とき)に更々(こもごも)抱(だ)く 嗟我平生懐憂虞 …嗟(ああ)我(われ)平生(へいせい)憂虞(ゆうぐ)を懐(いだ)く 目耕何似躬耕好 …目耕(もっこう)躬耕(きゅうこう)の好(よ)きに何似(いずれ)ぞ 隔下脱林字北上脱共汲二字 衰旄経写到此紕漏覧老[ ]嗤 七十翁晋帥 |
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「田家」(大意) 田舎の家の周辺は蔦や藤が昼なお暗いほど蔓延っている。 放牧の小牛が林を隔てて鳴きあっている。 田植えが始まり溜池の樋を抜く頃、若葉の匂いが立ち、水路に堰が下ろされると畦道はぬかるんで村は急に忙しくなる。 二、三人の童が柳の糸に魚を突き刺して掲げ、老牛の背に二人乗りして竹藪に隠れた。その竹藪は長々と続き、集落を抱きかかえているようだ。 若緑の中に高低入り乱れて散在している家々。片田舎の人は純朴で争いごとは少なく、隣り合わせで互いに物を融通し合って平和に暮らしている。 東家に井戸を掘ると共に汲み、北舎に子が生まれれば交々抱いて皆で愛育する。 自分は常々当世のことが気になって仕方のない者だが、さあ、学問で生きるのと百姓をするのとどちらを選ぶべきかなあ。 |
玉蘊屏風を豪雨被害の民家で発見 広島県立歴史博物館に寄贈 |
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9月に入って地方新聞やテレビ放送局が報道し、話題となった。 中国新聞の記事によると、町の3分の1が被災した倉敷市真備町の若林泰典氏が家を解体中、二階から平田玉蘊の「市井風俗図屏風」(庶民生活月別風俗図12図・6曲1双)が発見された。 若林氏は「多くの人が鑑賞してもらえれば、入手した父も幸い」と広島県立歴史博物館へ寄贈した。 同館は若林氏に感謝状を贈り、災禍の中の希望の灯として6日から9日まで特別展示する。 平田玉蘊(1787~1855)は19歳の時、父五峯(47歳)を失い一家倒産の憂き目にあった。山陽との初恋に破れながらも、懸命に父親譲りの画筆一本で母妹を養い、茶山ら賴一族らにこよなく愛された尾道の閨秀画家。 リンク 玉蘊と山陽 玉蘊展 |
伊能忠敬の測量に関わった郷土の人々 菅茶山記念館 夏の特設展示 |
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幕府御用として伊能忠敬の測量隊に参加した内弟子 箱田良助(箱田村庄屋細川園右衛門次男)および天文方下役坂部眞兵衛供侍 松井沢次(西中条村庄屋松井弥次兵衛次男)について紹介している。、 国宝「伊能忠敬測量日記」十七部分(パネル)(文化8年閏2月12日~箱田村止宿)のほか「杖先羅針」(傾斜地などに立て方位を測定する道具)など近年神辺で発見された珍しい測量道具などが展示されている。 会期延長:~10月8日まで 関連記事:顕彰会ニュース *** *** *** |
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伊能忠敬~菅茶山・箱田良助&松井沢次の記録 文化3年 第五次測量(山陽道・山陰地方の海岸線)。伊能と良助、初対面 文化4年6月6日 良助、伊能忠敬の内弟になる。 文化6年8月 良助、伊能に「一札之事」(菅茶山記念館に常設展示)提出。保証人、親細川園右衛門・親類谷東平連署。 8月27日、第七次測量(九州・中山道・山陽道)に従う。 11月27日、神辺本陣(菅波武十郎)止宿。菅茶山と会談。勘解由(忠敬隠居後の通称)、茶山に「鄭註孝経」を贈る。「門人二人?出て見ゆ」(茶山日記) 一方、茶山は伊能に漢詩「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」を贈る。 文化8年閏2月12日、伊能、箱田村細川園右衛門宅に止宿。これより前、2月3日、三次に帰着した伊能を細川園右衛門、松井弥次兵衛が三次まで出迎える。 伊能、細川に佐原(伊能の養子先・千葉県)への土産物畳表購入を斡旋依頼。 この時代の史実に基づいて、建立された伊能測量碑が神石高原町に四基ある。 文化9年1月12日、茶山、伊能を本陣に訪ねる。伊能(勘解由)、茶山へ銅板の萬国図を贈る。 文化11年、茶山出府、江戸で越年。6月19日、良助、茶山を訪ね、伊能の伝言を伝える。 9月14日、茶山、伊能を訪ねる。 以後、文化12年にかけて、両者、若しくは良助を介して交流が続く。4月27日、良助、第九次測量に出発。伊能、老齢のため不参加。 閏8月8日、良助、内弟子筆頭となり第十次測量に出発。 文政元年4月13日、伊能、自宅で死去。 文政四年2月10日付、園右衛門の書状で、良助は御徒士榎本家に持参金50両で入婿を果たしたことが判る。 7月10日、天文方役人・門弟の協力で「大日本沿海與地図」「大日本沿海実測図」を完成、幕府に上呈した。 良助の次男が榎本武揚。戊辰戦争で旧幕府海軍を陣頭指揮、新政府軍に抗戦し、敗戦後は特に請われて新政府の中枢に推された傑物である。 |
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関連記事 会報20号「伊能忠敬測量の地」記念碑 |
特集 「茶山先生に学ぶ講座」 |
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その一 7月14日 神辺公民館 「廉塾と槐(エンジュ)」 菅波哲郎氏(県歴史博物館副館長) |
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楷と槐。同じと勘違いしている人がいるが両者は、異なる。 楷はウルシ科カイノキ。孔子廟(山東省)に弟子子貢が植樹。學問の木として知られ、人間尊重と人格形成の象徴とされている。大正4年、農林省役人によって、その実が日本に持ち帰られ、育苗、大正14年、湯島聖堂や閑谷学校などに植えられた。 槐はマメ科クララ属。和名はエンジュ、中国名 国槐、家槐。北米産名 洋槐(ハリエンジュ)。黄色い花をつけ、幹にトゲがある。 *講演レジメ 「廉塾と槐」 廉塾の槐の存在(疎明資料) ①茶山詩 悼亡 文政9年 遺稿巻八所収 5月19日歿した妻宣(70歳)に捧げる哀悼詩。茶山79歳 悼亡(三) 菅茶山 槐風竹露寂荒郊 槐風 竹露 荒郊に寂たり 柳徑莎階小石橋 柳徑 莎階 小石橋 獨酌無人為温酒 獨酌 人の為に酒を温むる無く 一池新月自良宵 一池の新月 自ら良宵なるに (大意) 見るものすべてが悲愁の種。池に新月。またとない良宵なのに、もう酒を温めてくれる妻もいない。 ②菅太仲存寄書 「槐寮より拍子木鳴り候ハバ、誰にても返事いたし早々参り可被申候」 *槐寮=茶山の居室。 文化4年、神辺大火で自宅が類焼、やむなく(既ニ有司へさし上候)廉塾へ転居。 ③「特別史跡 廉塾ならびに菅茶山旧宅保存計画書」~樹木の状況~ 講堂の西隣の槐寮、南側の水路を隔て木小屋があるが、その傍に一本。 もう一本は中門前、南寮の裏鬼門にある。 「槐」考 ①実用面 食用、染料、資材(框・床柱)、街路樹、薬用(止血剤) ②科挙とのつながり 科挙の時期(陰暦六、七月)、槐の花が黄ばむ頃を槐秋、科挙の試験に赴くことを「踏槐」 という。官僚にとっては忘れられない黄花、高位高官の象徴。 ③政治的意義 槐は仁政を体現するものとして、宮廷・宮苑・役所や高位高官の屋敷の庭に植えられている。 ④信仰と民俗 槐は生命力が強く高大に成長し、大きな樹陰を作ることから、「社」の樹、日本では「子安の木」として多産や安産を祈る信仰がある。 槐に寄せる茶山の思い 「槐雨山楼記」(武元君立)縁起 赤石子道(儒医・備前北方)の書楼に「槐雨山楼」という扁額がある。楼に迫っている裏山には槐が多い。庭にも植えている。茶山が命名した所以であろう。 古人は槐に子孫繁栄の希いを託した。しかし、槐を植えたからと言って、徳が備わり、子孫が繁栄するわけではない。先ずは自らが生業に励み徳を積むことが肝要である。それが子孫繁栄に繋がれば、それに越したことはない。 茶山が直接「槐」に言及した記述はない。 「夏の木かげ」に、武士の生き方について、三カ条、①蓄財,出世。②忠実に仕事に従事 ③政教のみだれぬやふにこころさす とある。 姉妹編の「冬日影」では、人材育成に関わって、「朝野風俗の麗しき社会」の文言がある。それが槐、すなわち、官吏に期待する生き様のように思える。 ⑤神辺近郊のハリエンジュ 春日公園、中条粟井谷・深水谷にもある。藤の花が咲く頃、花見に出かけてもらいたい。 華鴒美術館にもあると聞いているが、未だ自分の目で確認していない。 結びに 福山市はバラの町として売り出し中であるが、茶山のふるさと神辺に住む自分としてはエンジュの町にしたい。本陣にもエンジュを植えたい。 |
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廉塾も西日本豪雨被害 14日、大講堂の畳干し作業 |
7月5日、突如牙を剥いた西日本豪雨は7日には比較的災害の少ないとされていた神辺町七日市~三日市も一面冠水、床下浸水などの被害が及んだ。 旧山陽街道東西に伸びる神辺宿、平野荒神社境内一里塚跡から西へ約百㍍、「堰きの跡」.昔、一発觸発の危機を孕んだ水争いの禍根跡、今は茶山に学んだ住民の良識で大事に至ることはなかった。 神辺宿東門近くにあった鵜野会長宅では、預かっている「茶山ポエム絵画」を水難から守るため、近隣の人たちの助勢を得て運搬作業。 近くの廉塾、神辺本陣など史跡にも、床下30㌢程度の浸水、軽微な外壁の損壊などの被害があった。 12日、枝広市長自らが災害見舞いを兼ねて視察、13日、市教委が現地調査、鵜野会長ら関係者が立ち会った。 14日、地元「廉塾を愛するボランティアの会」など有志による廉塾「大講堂」の畳を上げ、天日干し作業が行われた。 15日付「朝日新聞」によれば、三原市東沼田町、茶山詩「米山寺拝謁小早川中納言肖像」ゆかりの舞台、東廬山米山寺では、戦国武将・小早川隆景らの代々の墓所や富士川英郎氏の「茶山詩文学碑」がある裏山が約30㍍にわたって崩れ、国重要文化財寶筺印塔を含む墓石群20基のうち15基が埋没した。県史跡「隆景の墓」は被害を免れた と。 関連記事 顕彰会ニュース 本誌第5号・14号・26号 |
旧相馬邸ゆかりの旅人 廉塾訪問 波響画に「そっくり」 |
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3月29日に、廉塾に思いも設けない珍客二人、東出伸司・小林蠢繭両氏の訪問があった。 東出氏は北海道函館市在住、旧相馬邸保存活動に尽力された人である。 鵜野会長が案内役を務めた。 、 平成24年度県歴史博物館夏の企画展「七人の巨人たち」で、旧相馬邸所蔵の「廉塾図(師茶山先生邸)」が本州では初公開された。その後、東出氏との文通で、他に、「常遊雑詩十九首(七)」の書軸も所蔵されているとの情報。 廉塾の外観を今に伝える絵図は松前藩家老蠣﨑波響の画。 寛政6年、波響31歳は大原呑響の紹介で、茶山47歳と京都で知り合い、終生、手紙で交流していたが、廉塾を訪れたことはない。にも拘わらず、茶山の朋友、幕臣岡本花亭は文化6年に廉塾を訪れた経験から、「忽入新図見宛然」と賛をしている。波響にとっても、是非とも一度は訪れてみたい理想の郷校と夢を募らせてていたにちがいない。 この日、6年振り「是非本物を見たい」との希いが実現した、両氏とも口を揃えて実物「そっくり」の評を残して、「廉塾並びに菅茶山先生270歳旧宅」を後にした。 |
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常遊雑詩 (七) 舟成隣並泊空湖 舟は隣並を成し空湖に泊す 一夜交談興不弧 一夜 交談 興は弧ならず 明日乗各新霽去 明日 各々新霽に乗じて去れば 君帰銚子我東都 君は銚子に帰り我は東都へ *「常遊記」グリンプス 文化9年1月、茶山は藩主正精に召されて江戸へ。 5月9日、賜暇を得て、水戸徳川家累代の墓所がある瑞龍山参拝を主目的に、石田悟堂と常陸に遊ぶ。目的は6月、香澄湖(霞ヶ浦)を眺め、牛久沼(牛来湖)で悟堂と別れ、21日、江戸に帰着した。 詩中、「君」は一夜を共にした交談者では?とは富士川英郎氏の推論。 |
旧相馬邸所蔵の「廉塾図」 廉塾往問録リンク |
茶山ゆかりの帰谷・網付谷 神辺宿文化研究会の行うー地域キャラバン講話会ー |
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6月19日,神辺学区まちづくり推進委員会が「歴史文化を活かしたまちづくり事業」として進めている「地域キャラバン講話会」が開催されました。 神辺町川北の網付谷(菅茶山墓域)、帰谷(竜泉寺など)、黄葉山(神辺城址)について、菅茶山顕彰会理事で、神辺宿文化研究会メンバーの黒瀬道隆さんが講演されました。 講演概要は、「茶山ゆかりの地」に記載しています。(リンク) |
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第35回茶山ポエムハイク~府中編~ 茶山ゆかりの石州街道を往く |
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4月28日、絶好の行楽日和、茶山ポエムハイク春編(菅茶山記念館主催)が催行された。 第35回目のこの日は石州街道の古い町並みが残る府中市。定員を超える参加者25名がJR府中駅に集合。 記念館矢田笑美子氏と地元VGの案内で、日本一の石灯籠見学がてら安全祈願。 次いで茶山詩「羽中」ゆかりの舞台・府中八幡神社、近くの首無地蔵の上に祀られている大戸直純(私塾「楽群館」開設者・社会事業家)の墓(菅茶山撰文・賴春風書)など急な坂道を含む約6㌖の行程を足取りも軽やかにウオーキング ご褒美に、その昔多くの著名な政治家や文人が訪れたその名も「恋しき」旅館(国登録有形文化財・建造物)で昼食。名残を惜しみながら、お互いに今秋の再会を約して解散した。 |
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羽中(一) 菅 茶山 叢祠清澗曲 叢祠清澗の曲(辺) 磴道亂松傍 磴道亂松の傍 有石山不険 有石るも山険しからず 無風谷自涼 無風くも谷自ずから涼し 掬泉沾講舌 泉を掬いて講舌を沾(潤)し 聴鳥鼓吟腸 鳥を聴いて吟腸を鼓(励)す |
(二) 詩 碑 川明知日暮 川明らかにして日暮るを知る 烟直覺風収 烟直くして風の収まるを覚ゆ 暫得談經暇 暫く談經の暇を得て 聊成踐勝遊 聊か踐勝の遊びを成す 雲邊僧磬沓 雲邊 僧磬 沓かに 林際市燈浮 林際 市燈に浮ぶ 歸路沿田洫 歸路 田洫に沿う 淙淙暗水流 淙淙として水流暗し |
大戸士章剰馥樓 菅 茶山 茶罷談闌興転深 茶罷みて談闌にして興転た深し 書樓思舊老梅陰 書樓舊を思う老梅の陰 傳家潜徳餘馨在 家に潜徳を傳えて餘馨在り 一枕薫風十歳心 一枕の薫風十歳の心 大戸家(直純の子・士章)の庭で芳香を漂わせていた老梅、頼春水が名付けて「剰馥梅」、それを商品名に繁盛した老菓子舗も世代交代し、古死した巨樹の根幹のみが栄華を識る人々によって保存処理されJA福山市府中中央支店で在りし日の文雅の集いを今に偲ばせている。 現地には赴かなかったが、街道出口で旅人や住民を苦しめた暴れん坊「龍田川」に見かねて直純が架けた三室橋を渡り川沿いの道を上って行くと、道端に小さな公園に茶山詩碑が建立されている。 寛政五年(一七九三)茶山46歳が父樗平の三回忌を済ませ、服喪中、断っていた詩作を再開、「羽中」・「荒谷即事」を詠んだ。 |
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荒谷即事 菅 茶山 野歩追帰鳥 野歩 帰鳥を追い 遙窮澗水源 遙かに澗水の源を窮む 当峰雲欲宿 峰に当りて雲宿らんと欲す 迎客石将言 客を迎えて石将に言わんとす 圯上逢孤犢 圯上 孤犢に逢い 林梢忽一村 林梢 忽ち一村 敲詩安未得 詩を敲くも安んぞ未だ得ざらん 環坐老松根 環坐す 老松の根 |
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【大意】野山を歩きながら巣に帰る鳥を追い、遠く小川の源までいった。 雲が山の頂上に当りそのまま動こうとはしない。 石は久しぶりの通行者となにか話したがっている。 土橋で道に迷った子牛と出会い、林の梢の向こうには村が広がっていた。 同道者と老松の根元にぐるっと座って、ゆっくりつくろう。詩を推敲するができずに心がやすまらない。 【出展】『黄葉夕陽村舎詩』前編四-ニ |
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昨年(平成29年) 生誕230年をむかえた平田玉蘊の特別展が奥田元宋・小由女美術館開催されている。 約半世紀ぶりに発見された巻物「竹原舟遊画巻」や、「紙本着色軍鶏図」(浄土寺蔵)、「紙本着色桐鳳凰図」(寺観寺蔵)、(2点とも平成29年 尾道市重要文化財 指定)などが訪れる人たちの目を見はらせている。 1807年(文化4年)9月21日、山陽28歳は家翁、叔翁の法要に、春水、杏坪に従って、竹原春風館へ赴き、10月3日まで滞在している。 24日、師春風の誘いで、玉蘊・玉葆姉妹も一連の催事に参加、25日には照蓮寺・普明閣での詩会、26日には竹原床浦舟遊を共にするうち、山陽と玉蘊の恋が急激に芽生えた。 二人の初恋は実らなかったが、生涯忘れがたい思い出の舞台である。 左図は、奥田元宋・小由女美術館HPから |
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因みに、平田玉蘊(天明7年(1718)~安政2年(1825)は、尾道に生まれ、京都で八田古秀に絵画を学び、伊藤若冲や南蘋派などの作風に親しみながら、花鳥画・人物画・風景画と幅広く優れた作品を生み出した。 また、賴家一族、菅茶山、田能村竹田といった文人とも親しく交流し確かな足跡を残した。 |
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菅茶山記念館 収蔵作品展「春」 菅茶山と葛原勾当関係資料、公開中 |
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作品展に寄せて もう二三年になるだろうか、かんなべ図書館が一部郷土資料を「貸出可」にしたのは英断である。 先日、菅茶山の勉強目的で「備後史談」を借りたら、以下の記事を見つけた。 折から、菅茶山記念館では収蔵作品展「春」のさかり、菅茶山と葛原勾当に関する資料が公開中である。 一人でも多くの来館と展示作品理解の一助になればと希い、転載した。 以下は、「備後史談」(第十三巻第六号 昭和12年5月15日発行)-昭和12年4月22日付東京朝日新聞所載-記事。旧漢字、旧かなづかいは編集子が改めた。 聖女に贈る「勾当日記」 ~闇征服四十六年の記 我が天才盲人の偉業 ヘレンケラー女史の来朝が各方面に異常な感動を与えている折から、嘗て我国にも盲目の身をもって独特の創意によるタイプライター式活字ケースを考案製作,四十六年の長きにわたって日記を書き続桁勾当の居たことが新しく話題に上り、散逸を恐れて複写製本した『勾当日記」一部をケラー女史に贈って日本の盲人のために気を吐くことになった。 此天才勾当は童謡作家本郷区西方町10いの43 葛原しげる氏葛原しげる氏の祖父故葛原重美氏―文化九年備後国八尋村の庄屋に生れ、三歳のとき天然痘のため両眼とも失明、翌年から隣村の師匠にについて三味線を習い九歳にして京都に上り松野検校の門に入ったが十五歳で早くも勾当を許されて帰郷、備後備中を歩いて生田流の琴、三味線を教授した。 二絃琴『八雲琴』の発明家として知られ、又折紙をよくしたといわれる。 未だ点字の輸入なく、代筆の不便を痛感した勾当は自ら苦心の結果「いろは」四十八文字のほか数字や「御、候、申、奉」等の漢字を併せて六十三の木製活字を活字枠、インク等と共に配列した小形携帯用ケース製作に成功。初めて文字を駆使する喜びを見出したが、その年の天保八年から明治十五年七十一歳で歿するまでの四十六年間克明に日記を書き続けたのであった。 内容は主として音楽修行の苦心や教授の心構えであるが、折りにふれての感想や、聴覚に徹した特異の和歌等も盛られて、安政元年関西大地震の描写など眼あきも敵わぬ名文を以て綴られている。 この程この日記を一巻にまとめて六百部印刷、全国の有名図書館、盲学校、日記中登場人物の子孫等へ頒布したが、その序文には三上参次博士、和田英松博士などが讃辞をおくり、佐々木信綱博士の如きは 「みみなくば、などかこころのまどはまし、きかぬもかしぞ、こいしかりける」 「うぐいすの、こえだにきけばうめのはな、さくもさかぬも、うれしかりけり」 等の和歌を抜粋して「音楽家の和歌らしく調子が高雅で、特に聴覚にかんするものが面白い」と激賞している。 葛原しげる談 祖父に検校になることを薦められながら、検校になっても琴の音色がよくなる訳でもないから勾当で沢山だと頑張り通したという程で、決して自分の天分を誇ろうとしなかった人ですが孫として祖父の名を讃えることは悪いことではないと思います。 勾当日記の一部をケラー女史に贈る決心をした所以です。 ((作者 上 泰二) |