黄葉だより 2021・22 菅茶山に関連した地域の情報・寄稿を掲載いたします。
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2021-no6
 講演「安政大地震と神辺宿の人々」
冒頭に廉塾の薔薇の話         
 

 11月25日神辺公民館で、神辺宿歴史文化研究家菅波哲郎を講師に「安政大地震と神辺宿の人々」と題する歴史講座がありました。講演要旨は次の通りです。

 本題に入る前に入る前に、少し茶山に関わる草木の話をします。
 茶山が最初に開設した金粟園(金粟は木犀の別称)すなわち木犀は、朱熹(別号丹桂)が白鹿堂書院(中国江西省)や岳麓書院(中国湖南省)の庭など、中国書院の主要な施設の庭などに植栽されています。何故、桂(木犀)が教育と関わりがあるのか。このことが明らかに出来れば茶山の教育への想いが、聊かでも明らかになるのではないか。因みに廉塾の「槐寮」は茶山の居所ですが、「槐」は中国雲南省原産で「仁政(思いやりのある政治)を具現する木」と認識されている。
 ところで、最近、廉塾中門前の薔薇が中国原産の「庚申ばら」であることが分かりました。黄葉夕陽村舎の文政4年の項に「薔薇」の二文字の詩があります。即ち、廉塾の一隅に薔薇が自生していた。薔薇と言えば西洋バラを常に意識していましたが、これを契機に古の地域の人々が馴染み親しんできた薔薇を、私たちの日常生活の中に蘇らせればとの想いが募ります。

 さて、本題(要旨)に入ろうと思います。安政元年(1854)は全国各地で大地震があり、神辺地方では南海大地震がありました。神辺では「葛原勾当日記」と「菅波信道一代記」に詳細な記録を残しています。
 地震は11月3日か4日~7か8日に発生。葛原勾当は牛窓に出稽古に出かけ、5日の晩方から大地震があって、牛窓若宮神社へ避難し一夜を過ごした。揺れは収まったものの寒い夜風に困り、家へ帰ったり、舟に避難する者のもいました。1214日まで余震が断続的に続き、17日八尋村の自宅に帰宅。「面白からぬ年の暮れ」を迎えたと書いている。
 菅波信道は「海山鳴動繁き故」倒れて大地を相抑えたり、「家蔵などもこけねじれ」目も眩み正気を失う者もいた。福山藩と周辺地域もさることながら、藝陽より東へ行くほど被害も甚大であった。東海道四日市宿本陣では、火災が発生し一部の建物が焼失する。(「清水太兵衛日記」。

 福山藩江戸屋敷では、10月2日、地震が勃発。翌3日、福山城下へ向け、飛脚が出立する。全行程約800㎞を走破、7日に福山城下役所に到着、藩役所は8日に「触」を作成し、9日には各村へ届けている。「未曾有の大地震で上屋敷など大破損したが、殿様、大殿様、御前様、御子様らは別状なかった」。

 被災した広島藩家中(52歳)が江戸からの帰途、神辺本陣に宿泊した。「惨状を思い起こす度に、立身出世は尚更に金の望みも更になし。畳の上で死ねるのが最上」と、生死の狭間をさまよった体験談を話す。これを聞いた本陣の信道も、「欲も望みも要らぬ」と思った。

 神辺本陣では被災した御成門の修復工事に着手、礎石は寒水寺本堂西裏の庭の大石を貰い受け、運搬しやすいように長さ1間、幅7寸、二分割して積み重ね塀の柱を立てた。

 一方、勾当は安政2年正月から日常を取り戻し、新玉の歌を詠み、出稽古・内稽古を始めている。

 顧みると、安政年間は内憂外患の年であった。全国的な大規模地震頻発、日米・日露和親条約締結、安政の大獄、阿部正弘の老中首座辞任、コレラの流行etc。令和の全世界規模の新型コロナウイルス感染と重なる。

 
   
2021-no5
 『江戸時代の神辺宿 神辺本陣』発刊
全国各地の街道に現存する本陣・脇本陣の現地踏査        
 

 このほど、菅波哲郎氏(元県博副館長・「神辺本陣」の子孫)が約7年の歳月をかけ全国各地の街道に現存する本陣・脇本陣の現状とそれらが地元の「まちづくり」にどのような役割を果たしているかをつぶさに現地踏査、『江戸時代の神辺宿 神辺本陣』に総括した。
 参勤交替制度に伴う大名の公的休泊施設本陣制度廃止から、150年。多くの旅行者で賑わった神辺宿の二つの東・西本陣。大名専用宿の性格上、さだなくしても維持管理経営に随分腐心したことであろう。茶山ゆかりの東本陣はすでに消滅してしまっている。代々の主人の苦労が偲ばれる。

現「神辺本陣」は菅茶山が選んだ第11代目菅波信道が遺した絵図付自叙伝「菅波信道一代記」、先代菅波堅次著「神辺風土記」、現当主菅波真吾氏が付設した「神辺本陣資料館」、末弟菅波哲郎氏主宰の研究グループ「神辺宿研究会」などともども、温故知新or 温故創新、高齢化・少子化、それにコロナ禍の中、ふるさと再生の起爆剤への希いを託しての全国8街道、?本陣・脇本陣、全国行脚であったろう。


 先ず、この書籍の帯封に注目してほしい。本陣の建物を背景に、大名行列、当時の市井風俗図が克明に描かれている。今様に云えば、PP付、原本として類例のない貴重な木版図が挿入されている。「第一章 神辺宿と神辺本陣」1977年11月から「第四章 実見した本陣・脇本陣と神辺本陣」2020年9月まで、198㌻に及ぶ。
 別に、神辺本陣の建造物については、福山大学柳川真由美講師が研究を継続している。(菅茶山顕彰会会報 第30号 参照)

 
2021-no4
小惑星「kansazan」と天文学
「福山ゆかりの天文家顕彰」のため「黄道光の会」設立        

 2021年05月16日付「中国新聞」に、『「福山ゆかりの天文家顕彰」グループが「黄道光の会」(代表 神谷和孝・児玉英夫・三谷干城三氏)を設立、「子ども未来館」(仮称)での顕彰活動にも取り組む』との記事が掲載された。
会の名称は戦前、福山市瀬戸町所在の「瀬戸黄道光観測所」に因んだもの。

江戸時代、天文学に造詣が深かかった菅茶山・甥萬年を筆頭に、多数の彗星や新星を発見したアマ天文家本田実さん(1913~90)、探査機「はやぶさ」「あかつき」などの軌道計画に携わった故木村雅文さん(道三町)たちの功績を末永く顕彰する。

①kansazan  6846番目の惑星

   1976年10月22日、香西洋樹・古川麒一郎両氏が東京天文台木曽観測所で発見。
 1998年(平成10年)春、香西洋樹氏(当時鳥取佐治天文台長)が偶々菅茶山記念館を訪れ、茶山の「筆のすさみ」から、茶山&萬年の業績を高く評価、早速、小惑星「kansazan」の登録申請する。
 1999年(平成11年)2月11日、記念館あて「認可の公表が可能になった」とのサプライズを伝えるメールが届けられた次第。

  *関連資料

    会報第10号(p.p.6~8)・第11号(p.2)第26号(pp14~15)

   フリー百科事典(Wikipedia) 菅茶山(小惑星)
   「筆のすさみ」(リンク) ・・・月蝕、列宿、渾天の説、六惑星の説など

②Sessai 1006番目の小惑星
 茶山刎頸の友、西山拙齋(備中鴨方)に因んだ小惑星sessaiも存在する。

  1976年(昭和57年)香西洋樹・古川麒一郎両氏が東京天文台木曽観測所で発見

  2007年(平成17年)10月27日、登録認定

 

③Masafumi   平成22年 16853番目の惑星 2010年11月、命名

  木村雅文(福山市出身) 福山葦陽高~東京理大~JAXA

  「さきがけ」から、「かぐや」「あかつき」など歴代の日本の科学衛星の高感度アンテナ制御リーダー。
2009年8月、急性膵炎で死亡。享年49歳。

   *関連記事「中国新聞」(2016年1月27日付)

    フリー百科事典(Wikipedia) 雅文(小惑星)

  
 
2021-no3
 菅茶山と蠣﨑波響・大原呑響
2021/04/0205/30 県立歴史博物      

 

・蠣﨑波響(1764~1826)北海道松前藩主の子、家老蠣﨑氏を継いだ。アイヌの酋長を描いた「夷酋列像」が有名。絵を南蘋派・円山派に学び、詩を能くした。
 菅茶山とは、寛政6年(1794)京都で大原呑響を通じて邂逅。8月15日、伏見巨椋湖での総勢8人の宴会(「巨椋湖月下舟遊図」)が両者にとって忘れられない思い出となっている。文化元年(1804)、茶山が江戸出府の際には、3月19日、隅田川で舟遊している。茶山は波響と寛政6年以来の再会を果たしているが、この後、二人は手紙のやりとりはしたが、会うことはかなわなかった。

文化15年(1818)茶山は「大和行日記の旅」中、巨椋湖を再訪しているが、その時存命だったのは、茶山・波響・金城の3名のみだった。

・大原呑響(1761?~1810)奥州東山(岩手県)の生まれ。父は仙台藩の藩儒。儒学を皆川棋園に、画を丸山応挙に学んだ。
呑響は寛政元年(1789)9月?廉塾を訪ねていることから、茶山を介して、京で蠣﨑波響と知り合い、その師となり、兵学に通じていることから、一時期松前藩に請われ伺候する。

文化元年(1804)9月9日、在府中の茶山は浅野侯の招宴で呑響と再会している。書簡によると、茶山がこの年の5月9日~6月21日、常陸へ旅行したことを知った上で、一旦帰京。旅行記や詩作(「ひたちのミちの記」・「常遊雑詩十九首」)と併せて、この絵を巻物にすれば、"一興アラン"と、「常州筑波山図」を贈っている。また、文政?年、大野巨泉が「常州名勝之真景」を贈っている。

 
 
2021-no2
 菅茶山と白河藩
2021/03/0603/28 県立歴史博物      

 陸奥国(現福島県)白河藩松平定信は、天明7年(1787)、老中首座となり、寛政の改革を推進した。
定信は日本最初の古文化財図録「集古十種」(全85冊)を編纂した。編纂に当って、家臣を調査員として全国へ派遣し、各地の古文化財の調査や模写」を行わせた。この西国調査で白河藩と茶山の関係が始まったと考えられる。
 寛政8年、白河藩儒広瀬蒙齋が先触れとして、次いで、寛政12年閏4月18日、白雲上人(画僧)と大野文泉が神辺に来訪、廉塾に数日滞在、茶山に、教示、協力を求めている。
この調査に基づく資料「西国名所図」には「備後国未渡邑虹橋」(帝釈峡雄橋)がある。こうした現在の写真に相当する真景図は、出張報告書を兼ねていたのであうか、図の何処かに、必ず二人の人物像が描かれている。

 文化11年二度目の江戸出府で、茶山は初めて江戸で越年、更に帰郷を目前にした文化12年2月5日、定信に白河藩下屋敷・浴恩園(築地)に招かれた。文政7年、この日の記念の巻子「浴恩園図並詩歌巻」を定信の近侍田内月堂から贈られた。浴恩園51の名勝に和歌・漢文を記し、定信が自ら手折り茶山に贈った大明梅図などが収められている。

特集 南湖と白河藩

 定信は生涯で5つの庭園を造った。最初の庭園が享和元年、白河城下に造った南湖。士民共楽、身分に関係なく誰もが楽しめる垣根のない庭園。17の名勝に、茶山も需に応じ、漢名「逗月浦」(和名「月見浦」)の漢詩を作っている。

【コラム1】 江戸の情報源 田内月堂

 田内月堂は茶山と最も親しく交わった白河藩士で、自らも茶山の大フアンであった。茶山は彼を通じて江戸の情報を入手していたようだ。

【コラム2】 茶山と「花月吟」

 「花月吟」は茶山が明和8年~安永9年頃、京坂遊学中に詠んだ詩集である。文政10年、岡山藩士中村嵓州の校訂により刊行された。「黄葉夕陽村舎詩」には「合わない」として、掲載されていない。この冊子の手録(書写)が定信に献上されたことが判る と。

 *件題については、会報第28号pp17~18、同29号、p.19,同第31号p.10に関連記事が掲載されているが、別の切り口
  から、見学記を整理した。     文責 編集子

 
 
 2021-no1
 会報第31号発刊に寄せて
令和3年3月発行    

 ウイズコロナの日常生活への転換から、本年は少々、例年と異なる紆余曲折がありましたが、当該年度内に、第31号をお届けする日を迎えることができ胸を撫で下ろしています。
 さて、令和二年度(2020)は、鵜野会長が巻頭言で紹介されているように、菅茶山顕彰会先輩諸氏、即ち、顕彰会前会長高橋孝一様・特別顧問松井義典様・前理事武村充大様・前理事武田武美様・現理事三宅真一郎様、以上、五名もの異例なご逝去の悲報がありました。謹んで哀悼の意(誠)を捧げると同時に、読者の皆様ともども、在りし日の故人の地域・社会貢献など業績を偲ぶよすがにと関係記事を集約しています。
 次に、今年度も皆様からご玉稿をお寄せいただいたことに厚く御礼申し上げます。最初の「『風俗問状答』から考えること」の中道豪一氏は広島市在住、神辺出身のご母堂とご一緒に入会。事務局からの懇望に応えて日成らずして、件題の論稿をお寄せ頂きました。
「高峰茶山詩六曲屏風に初挑戦」皿海弘雄氏も、県博や地元公民館など歴史・文化講座常連仲間、「菅茶山顕彰活動の継承を願う」本会藤田副会長氏の論稿には、顕彰会CEOというべき藤田氏並びに全会員の喫緊の課題、次世代へ繋ぐ思いが凝縮されています。
ご熟読の上、方途は兎も角、時恰も、高齢化と会員漸減化途上、自らその「土台石」として献身された故高橋会長の覚悟を承継するため、一人でも多くの個人・事業所の入会と力強いご支援を賜りますよう切にお願いいたします。
次の本会の年間活動報告「顕彰会だより」は、恒例行事がコロナウイルス汚染拡大防止策として年度当初の定例総会が書面決議のやむなきに至るなど、「3密」を避け、縮小、若しくは中止に追い込まれました。しかし、昨年度から内容を参加・体験型に改善、好評の「茶山学習会」と「建碑15周年記念松風館十勝碑林再整美計画事業(二カ年計画)については、逆風を逆手に実施。「説明板」設置、茶山ゆかりの「梅」「槐」など記念樹植栽、駐車場等、ハード面の事業は概ね完了、記念出版物の発刊を次年度に残すのみ。後はコロナの収束を待って、プレスリリース予定です。
締めくくりは歴史と文化の故郷かんなべを彩る「黄葉だより」。これは二部構成、第一部、劈頭に菅茶山記念館・顕彰会共催「茶山ポエムハイク」、町観光協会・顕彰会共催「廉塾など町並みウオーク・茶山の漢詩を読む体験」etc。第二部は「2018年、県博近世文化展示室創始以来の「続 国重文『菅茶山関係資料』見学記」、ふくやま文学館「葛原しげる神辺・中条公民館など「歴史講座」満載。掉尾を「2019年度茶山ポエム絵画展」で結んでおります。ご高覧の上、今後とも宜しくご指導とご協力を賜りますようお願い申しあげます。
 なお、このHP「茶山新報」(代表 藤田卓三)が、リニューアルオープンして以来三年目。ここに至って、15年前、他団体に先行、IT革命導入を示唆した故高橋会長の先見の明に驚嘆せずにはおれません。また、季刊「顕彰会だより」による情報発信も併用しています。ともあれ、書籍版が限定出版の関係上、入手できない場合は、どうぞスマホからも可能なこのHPにお立ち寄りいただきますように、また、何よりも、史実に違わないよりよい『菅茶山全書』を持続的に次世代へバトンタッチするため、info@chazan.clickで率直で忌憚のないご斧正を賜りますようお願い申し上げます。
                         2021/02/06 編集長 上 泰二