⇒神辺ご案内
神辺宿の今 
 近世山陽道を東から歩いてみよう。

 城下町の街割を残す道は真っ直ぐで、直角に曲がるごとに、七日市、三日市、十日市と「通り」の名前が替わり、商いする家が並んでいた名残があります。

町屋は間口が狭く、奥行が長い短冊形土地区画で、黄葉山麓直下の武家屋敷群を取り囲むようにして、東から西へと広がって行ったと言われている。

今も道の両側には、格子戸のある旧家が点在しており、春・秋には、恒例の茶山ポエム絵画格子戸展があり子ども達の絵が格子戸を飾ります。

現鵜野謙二氏邸付近に神辺宿の東門があり、十日市の西門と併せて、夜の定刻が来ると門を閉め、一切の出入り禁止しました。

その西に現存の廉塾があります。
その西隣には茶山伯父高橋愼庵邸跡があり、北側裏手には土手を隔てて高屋川が流れ、大仙坊橋が架かっている。茶山が一生を過ごした、多くの茶山詩が生まれた舞台である。

廉塾案内へリンク
 
 
 
廉塾の筋向かい、東から北条霞亭邸、東本陣、小早川文吾邸などがあったが、今は姿を消している。
小早川文吾屋敷跡には文字が薄れた木碑が立っている。

 少し行くと旧黄葉堂商店の角に「神邊驛」詩碑がたっている。
太閤(豊臣秀吉)が九州へ向かう途中立ち寄ったとされる伝太閤屋敷跡。
村一番の銘水「太閤水」こと「鍵屋水」が湧出る井戸があり、千利休が、その水で太閤のためにお茶を点てたという伝説も知る人ぞ知る。
今この水は、村上酒造の銘酒「天寶一」の原料となっている。
「神邊驛」詩碑リンク
 

 街道の南側脇道を少し行くと真言宗の古刹「普門山西福寺」がある。

境内の本堂前には、茶山詩碑「賞梅」があり、茶山が近所の寺として親しんでいたことが伺える。

また境内には小早川楽々翁(文吾)の墓が建立されている。


「賞梅」詩碑リンク
 
 
  街道を西下すれば、鈎辻沿いの横町、三日市通りと合流する三叉路にいたる。

南路の突き当たりには、黄葉山麓の天別豊姫神社
(神辺大明神)が遠望される。1700年代、「氏神道」として新道(宮通り)が整備された。

中途、直ぐ茶山と判る特徴のある筆蹟、「献」を彫り込んだ石柱がある。

   
  天別豊姫神社の東山麓に南北に長い菅家墓地があり、その西南の一角の御霊屋に菅茶山の墓がある。

前面の巨大な楠に見守られ東向、寄り添うように左に自牧齋(菅三郎・茶山養子)右に井上敬(萬年継室・菅三郎母、茶山姪)の墓、その右に、二人の愛弟子の墓がある。


菅茶山の墓リンク
 引き返して、横町三叉路から三日市通りを西下すると、右手に広大な敷地の神辺本陣が現存している。
その東側の道は、高屋川「掛の橋」に繋がる往古の幹線道路で北に伸び、茶山が中条の松風館、遍照寺へと通った道である。

本陣の南向かいに問屋(人馬の継立・荷物の運送)、御茶屋屋敷(福山藩直営公用舎専用休泊所)、鈴鹿秀満邸があった。

神辺本陣リンク(未)
 
 再び鈎辻(現広島銀行
付近)で南下する


紺屋町(城主御用商人町)、十日市通りと続く。
   
 
紺屋町通りを挟んで、東側に薬上山光蓮寺、西側向かいに藤井暮庵跡がある。

光蓮寺は、神辺城解体時の建材を一部再利用したと言われ、旧宿場街に残る一番古い建物です。
境内には
菅茶山の詩碑があります。

「十四日與嶺松師赴鞆浦途中口占」詩碑リンク
 

街道が国道313号と合流するあたり(現中国銀行付近)は、神辺宿の西惣門跡で、道の両側に土塁を築き、その上に竹の柵が設えられていた。

当時の巨大な常夜灯は、少し離れたR313沿道(川南長畑)に移され、今も宿の大締め役として往来する人々の安全を願っている。
 

参考資料
「神辺風土記」菅波堅次
「続神辺風土記 遺稿集」菅波堅次
連続教育講座「『菅波信道一代記』を読む」~近世神辺宿の歴史を知る~菅波哲郎