黄葉だより 2022 菅茶山に関連した地域の情報・寄稿を掲載いたします。
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               2022-no10
  2022/12/03 
 於:福大社会連携推進センター

  講師 柳川真由美 福山大学准教授
     山口 佳巳 比治山大学講師  
 福山大学文化フォーラム2022 歴史と街
第4回 「神辺本陣と神辺宿」
  講演要旨                   

1.柳川真由美先生

 ・神辺本陣の普請と地域

  普請に伴う資材(材木・石材・瓦・釘など)は近隣の村落で調達、芦田川~高屋川を利用、本陣の裏で陸揚げされた。

  職人の多くは神辺平野を中心とする地域に在住、大工の中には親子2代に亘って携わっている例も見られる。

 ・神辺本陣と神辺宿

  神辺宿は川北・川南村両村から成る。二つの本陣、西本陣と東本陣はいずれも川北村にある。しかし、両村の相互扶助によって
 こそ宿場町全体の賑わいと繁栄が醸成される。

      屋 号  所在地   休泊受け入れ大名 備 考

西本陣(尾道屋)三日市    福岡藩・黒田家  現「神辺本陣」

東本陣(本荘屋)七日市    諸大名      現存しない

  代官宛「乍恐以書附奉願上」書付 天保4年 菅波序平

趣旨 宿場町&東西二つの本陣の共存共栄

規程 休泊受け入れ対象の大名規程(前項)の弾力的運用

   両本陣の利益配分格差の補填

2.山口佳巳先生 

  神辺本陣は現存する数少ない本陣で、往時(延享3年~寛延年間)の建築をよく残している点で文化財的価値が高い。本陣屋敷は正式で高級な書院造りに、数寄屋造りの意匠が取り入れられている。神辺宿では本陣のほか、江戸時代の民家が2棟確認されている。 いずれも、座敷の角に角柱、それ以外の部屋に面皮柱を使用、当時の民家の特徴を裏づける重要な要素と言える。
 当地域には江戸時代から昭和(戦前)まで幅広い年代の町家が現存している。宿場町から繊維業(「ガチャマン」時代)への変遷した歴史を残す町並みとして、今後の保存が期待される。  

 
  2022-no9

築城4百年・歴史からの提言
~勝成の復活で福山維新~   
 

 このほど、中山善照氏が『築城4百年・歴史からの提言~勝成の復活で福山維新』( 304㌻ 1500円)を出版した。 茶山ポエム絵画展創始に貢献した中山氏はこの本については、
 「福山藩、阿部時代は160年、高税のため一揆が6回勃発。天明の一揆は神辺が直接の舞台になっている。初代福山藩主水野勝成は何もない所から現在地に城・町・産業・文化・宗教などの基盤を造った。」
 「この歴史事実を大切に、持論のPTSD・廃藩置県以降の<明治の凋落>の歴史を肝に銘じ、それ以前の備後福山の<栄光の回復>を目指すべきだと。」 ( PTSD=強烈なトラウマ体験の後に起こるストレス障害)
 
  2022-no8

第19回全国藩校サミット福山大会
-阿部正弘公の精神から学ぶ   

 11月19日、リーデンローズで第19回全国藩校サミット福山大会が開催され、全国260余の藩校の中から過去最多の34藩(2藩欠席)が出席した。
 開会に当って、各藩の代表がステージに登壇する際、福山誠之館高在校生がプラカードを掲げて先導、また、デモンストレーションとして、約50名の在校生が校名「誠之館」の由来となる『中庸』の一節「誠者天之道也」(~誠は天の道也~)と大書された墨書をバックに、日頃素読しているその原典を朗詠するなどして、次世代を託された若者として、伝統の藩校サミットに敬意、錦上花を添えた。
 シンポジュームでは、漢字文化振興協会長徳川斉正氏が進行、築城から明治維新まで福山藩を治めた3家の末裔水野家20代当主水野勝之氏、松平家16代当主松平忠雅氏、阿部家17代当主阿部正紘氏が、それぞれ、在りし日の先祖について語った。
 

 *誠者、天之道也 誠之者人之道也 誠は天の道なり これを誠にするは人の道なり

  誠者、不勉而中、不思而得    誠は勉めずして中(あた)り思わずして得て

    従容中道 択善而執之者也  従容として道に中(あた)り  これを誠にするは善を択んで、これを固執する者なり

   

  2022-no7

旧山陽道に大名行列
神辺本陣動く江戸空間  

 11月6日、神辺本陣(県指定史跡・同重要文化財)前三日市通りで大名行列が再現された。
 行列の先導を努めた重政流音君(神辺高2年)など、地元神辺小・神辺西中・神辺高有志約60名が、約200㍍の旧山陽道を30分間かけて2回練り歩き、久し振りに町並み一杯に詰めかけた観客から拍手喝采を受けた。
 折から日本晴れの天空下、本陣は久し振りに一般開放され、高校生によるガイド、論語の素読会、イベント広場での交流喫茶など、暫しコロナ禍の日常から解放された老若男女の笑顔と談笑を生んだ。
 主催者「菅波教育文化財団」(代表理事 菅波真吾氏)によれば、こうした行事を通じて、「郷土の歴史に少しでも興味を持ってもらえるように努めたい」と。大名行列参加の一人は、新聞記者の問いかけに「草鞋で歩くのは疲れたが、本陣が残る地元への理解が深まった」と。

 

   
 黒田家行列の再現 小学生の絵画展示  論語の素読 
     
 2022-no6

 福山城築城400年記念事業 新作能「福山」公演
6年振りに上演 


 10月29日、リーデンローズにおいて、新作能「福山」(原作 森和子)が、福山市制施行100年記念事業として初演されて以来6年振りに上演された。
 徳川家康ゆかりの三河の国岡崎から旅人が福山城こと鐵覆山朱雀院久松城を訪れ、時空を超えて出現した開祖水野勝成と幕末の国難を救った老中阿部正弘の案内を受けた。フィナーレは福山の守護神、朱雀が天空を舞い、幾久しくこの地、備後福山の弥栄を寿いだ。

 茶山は藩主阿部正精(1803~1826:茶山56歳~79歳)に重用されている。一方、阿部正弘(1836~1857)とは茶山の弟子・養子でもあった門田朴齋と深い関係がある。即ち、朴齋は、文政12年(1829)、江戸藩邸に召され、第6代藩主阿部正寧並びに正弘、正教、正方、正桓ら歴代藩主の侍講として本格的に仕えることになった。
 正弘は天保14年(1814)、老中、弘化2年(1845)、老中首座まで上り詰めた。嘉永元年(1848)年、朴齋(58歳)の年、ペリーが浦賀に来航、通商を求めた。尊皇攘夷か開国が。この折、朴齋は正弘に頑迷なまでに尊皇攘夷を主張し譲らなかった。終に嘉永6年(1853)罷免・帰郷を命じられた。

 翌嘉永7年安政元年(1854)、福山誠之館が竣工。翌安政2年(1855)正月16日、國づくり=國の核づくり=人づくりを理念に、福山誠之館の開校式が行われた。正弘は公務多端で欠席。安政3年(1856)6月17日に江戸官邸で歿した。

 朴齋は文久元年(1861)、第9代藩主阿部正方に召され復職。慶應4年(1868)、長州軍来襲の報に、伏せられていた正方の柩を守り、福山を戦火から守った。この年、阿部正桓が第10代藩主に。朴齋は誠之館を去った。翌年、版籍奉還が行われた。

  
   
   2022-no5

 文化講演会『備陽六郡志』と宮原直倁
講師 藤井登美子氏ほか


 10月22日、かんなべ文化会館小ホールで文化講演会が開催された。福山築城400年記念市民企画事業、『備陽六郡志物語』(藤井登美子)の出版記念講演会。講師4人がそれぞれ持ち時間約30分での講演。

  1.     藤井登美子・・『備陽六郡志物語』

  2.     園生 裕・・・『備陽六郡志』とはどんな史料か

  3.     鐘尾光世・・・『備陽六郡志』福山城本丸天守鉄板張りなどと城下地図にみる宮原家屋敷について          

  4. 八幡浩二・・・・宮原直倁と『備陽六郡誌』の時代

 『備陽六郡志』(宮原直倁著)は、宮原直倁(1702~1776)が元文末年(1740年頃)から、30余年にわたり、備後福山藩の地理、歴史、文化を網羅した福山藩最古の地誌。全46巻から成る。のちに発刊された『福山志料』(菅茶山)、『西備名区』(馬屋原重帯)の参考資料として重用されている。

直倁直筆の稿本は大正7(1918)年、末裔宮原国雄氏から「義倉」に寄贈され、今日まで大切に保管され、平成12(2000)年9月22日福山市重要文化財に指定された。

 昭和2年10月23日、備後郷土史會(和田英松会長)が一心寺で備陽六郡志(校正)発行法要を執行されているが、その後、直倁の墓石は同寺無縁仏の中にあることが判明。

平成28(2016)年、波瀾万丈の直倁の生涯を綴った小説「草根の賦」(藤井登美子著)発刊。それを機に、宮原直倁顕彰会(池口義人会長)が発足、240回忌直近の10月8日、同寺無縁仏の中に保存されていた宮原直倁の墓石を境内入口に移転、故髙橋孝一会長ら臨席の下、開眼法要を行い、記念碑を建立した。

(詳細は菅茶山会報第27号p.13 or HP福山市広報・宮原直倁顕彰会 参照)

 墓碑(字面)

  表 無二直翁圓倁居士

  右 辞世 枯木龍吟塵夢覚

       明々赫々一乾坤

  左 安永五丙申天十月六日

    宮原八郎左衞門直倁

  裏 門弟□之(□は字体不明)

参考資料 備後史談 第三巻 第十一号

  

  

  2022-no4

福山城築城400年記念事業~備後福山の源流を巡る~
 神辺城下歴史まつり2022  


 10月15日夜、前夜祭、昭和30年代から始め、ここ数年来中断していた「三日市夜店」が一日限りの復活。明けて16日、町内各所で慶祝イベントが開催された。幸いにも両日とも秋晴れの好天に恵まれた。
 廉塾では第三年次目を迎えた同整備保存事業現地説明会が行われた。見学希望者はヘルメットを着用、普段は入ることができない修復現場を間近に見学した。翌日の中国新聞には、その様子が大きく報道された。

 顕彰会は、コロナで途絶えていた「茶山ポエム絵画格子戸展」を3年ぶりの復活。格子戸のある町屋の協力を得て町並みを飾った。サテライト会場(太閤屋敷跡前広場)では、七尺の巨大鍋で作られた豚汁やにぎわい市場が来客の足を留めた。

 歴史探訪ツアーでは、三日市を出発点に、神辺城趾(案内役 黒瀬道隆当会副会長)および葛原邸行のシャトルバスが運行された。また、土肥徳之氏案内の堂々公園-御領古墳群-「御領山大石歌」で知られる八丈岩に至る歴史ハイキングコースも用意され、終日、参加者が新たに完成した「御領の山ル-トマップ」をよすがに、終日ぼつぼつ色づきはじめた秋の山歩きを満喫した。

写真は顕彰会ニュースに掲載   
   
2022-no3
福山市民が選んだ
福山ゆかりの先人 」 


 8月18日、福山市枝廣市長は「福山市ゆかりの先人」をプレスリリ-スした。

水野勝成侯、福山城築城から、400年。これまで、ふるさと福山出身またはゆかりが、深い人で芸術や学問、スポーツ、経済などの分野で貢献した先人29名を顕彰、郷土への誇りと愛着を育み、次世代に継承したい と。

 菅茶山も江戸時代後期から、生誕275年祭に至る今日まで、民衆教育に尽瘁したとして選ばれた。茶山との縁に結ばれている人では、阿部家第7代藩主阿部正弘、「備備陽六郡志」著者宮原直俰、「福府義倉」設立謝河相周兵衛、葛原勾当、そこを源泉に、さらに藩校誠之館を起源とする福山中学校卒業生-葛原しげる・福原麟太郎・井伏鱒二など。  詳細は福山市HP参照

  

 当会某氏が本年三回忌を迎えた第二代会長 故髙橋孝一氏を推薦したが、またの機会に委ねられることになった。

応  募  用  紙

 先人候補者名

髙橋 孝一 (旧姓 戸田)

 福山市との関係

福山市出身者

 生没年月日

生 昭和7年3月7日 深安郡中津原村茶屋 現御幸町新茶屋 

没 令和2年7月31日 福山市神辺町徳田1314

 功 績

昭和28年、大阪外国語大学卒、貿易関係業務で海外諸言語国歴訪。この道程で、方言辞典『びんごばあ』(昭和61年)出版と「ロマンチック街道313」(昭和63年)を着想。

昭和34年、東大坂に「キングパーツ」創業。昭和61年、本社工場を故郷に移転。実業家として率先垂範、故郷のCSR推進に徹した。

平成9年~25年、現菅茶山顕彰会第2代会長。平成23年、在任中の勲功の集大成として、福山市善行市民賞受章。その他多くの社会参加活動団体トップ併任。就中、堂々川ホタル同好会会長としては、大臣表彰4回、その他の授賞3回。また、平成29年、国交省からロマンチック街道313が夢街道ルネサンスとして登録・認定される。

能筆・能弁・草笛の名人。ICTにも通暁、自社の情報誌「フロッピー」を魁に、「かんなべ浪漫」コラム欄常連執筆者、「FMふくやま」レギュラー出演など、マスメディアとタッグ、その生涯を故郷の情報発信と地域資源の発掘発展のCEOをも務めた。

著書 『びんごばあ』18000部、「お山のこんぴらさん」、自叙伝風随筆など数多。

  
 2022-no2
菅茶山記念館 第30回特別展
「菅茶山と備陽の人々」展見学記

 

図の作者 

1.孔雀薔薇図(上左)

辻鳳山

2.山水図(上右)

  黒田綾山

3.三顧図(下左)

  宇野蘭渓

4.梅花書屋図・

秋景山水図(下中・右)
岡本豊彦
 

1.孔雀薔薇図

辻鳳山

2.山水図

  黒田綾山

3.三顧図

  宇野蘭渓

4.梅花書屋図・

秋景山水図 

岡本豊彦

 備陽とは、山陽道の延びる吉備国(備前・備中・備後)、この故郷ゆかりの文人に焦点をあてている。展示作品27点。

先ず、「河相君推と松風館十勝」で、お馴染みの「暮春十八日野歩」「各中條山聯詠」の墨書。「鍾馗図」黒田綾山画・茶山賛(ニュ―ス欄に記載) 黒田(讃岐高松 1755~1814)は、福原五岳に画を学び、諸国遊歴後、1785年頃、玉島に住んだ。

黒田の弟子、岡本豊彦(倉敷 1773~1845)の山水図双幅「梅花書屋図」・「秋景山水図」菅茶山賛。両者は1794年(寛政6)、京都で初対面、1816年(文化13)、廉塾、1818年(文化15)大和行日記の旅で交流している。

同年2月14日、没した武元登庵の作品2点がこの特別展を締め括っている。No.25墨書
物外終為自在身」(世の俗事からのがれ、ついに自由の身になる)は、畏敬の的であった茶山の生き様を筆に託したものと思える。

 

茶山と黒田綾山・岡本豊彦が、いつ頃から接点があったか詳らかでないが、お互いに隣国同志、茶山や西山拙齋が着賛した作品が多い。また、綾山は茶山の父、菅波樗平還暦60歳の祝いとして、『松鶴図』(賴春風賛)を寄せている。

こうして故郷の巨峰茶山は近隣の備陽のみならず全国各地で多くの文人画家とも交流、江戸時代後期の文化芸術活動を築きあげ、今日に幾多の貴重な財を遺している。

   
2022-no1
生誕130年金島桂華展
7月15日~8月21日    
 

 
 菅茶山記念館で、福山城400年記念事業企画展「生誕130年金島桂華展」が開催されている。
 金島桂華(本名 政太 1892~1974)は、明治25年6月29日、福山市神辺町湯野に生まれた日本画家。幼少時から絵を描くことが好きで、少年の頃、大阪に出て絵を学び、19歳の時、京都竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入門。
 大正7年、初期文展に初入選、その後、華やかな受賞歴を経て、昭和34年、芸術院会員、京都画壇の重鎮として活躍した。昭和44年、京都市文化功労者賞受賞、昭和49年9月16日死去。昭和54年、福山市名誉市民の称号が贈られた。

 

菅茶山&金島桂華作品in湯野山東福院
 本会報第11号(2001年3月発行)の巻頭言に「菅茶山詩碑」「閑行」(湯野山東福院)。
同27号(2017年3月発行)には、その前年に復活した「茶山ゆかりの地訪問」で東福院を訪問、金尾英俊現住職の特別の計らいで、一行は客間に通され、茶山自筆の軸装「閑行」を鑑賞させてもらったことが記載されている。

東福院由来記(文政5年壬午之秋現住覺本記 備後史談掲載 編者得能正通)によれば、覺本とその弟子教道も茶山の弟子。覺本の師央本法印は茶山の末弟恥庵と共に京都に学んだこともある。こうした関係から、茶山自墨の「閑行」一が絹本に書かれ、東福院に所蔵されている。詩中、東院の桜と対比されている南池の桜は、「平田池」の桜のことであろう とは 得能氏。

東福院は金島桂華画伯の菩提寺、先祖供養のため双幅大画「白木蓮」「椿」(大正12年・32歳の作品)が贈られている。