黄葉だより 2023 菅茶山に関連した地域の情報・寄稿を掲載いたします。
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2023-no2
菅茶山顕彰会総会記念講演
菅茶山の漢詩ネットワーク」要旨  

  日時 令和5(2023)年05月13日(土)14:20~ 於 神辺商工文化センター

 演題「菅茶山の漢詩ネットワーク」    講師 菅波哲郎氏


プロローグ

 広島県立歴史博物館副館長を含む来し方30年の郷土史研究家としての研究や国内外に亘る現地調査を回顧・精査しながら、今回の講演は三谷太一著『日本の近代化とは何か』(岩波新書 2017年)のうち、次の二本柱を礎に展開された。

 ①茶山を含む韻文の結社は「当時の知的共同体」への参加を意味づけている。

 ②いずれも、身分、職業などに関係なく、自ら詩・和歌・俳句・狂歌などを嗜む人々が自然発生的に集い構成された組織で、興味・関心を抱く誰に対しても門戸が開かれていた。


1.神辺宿や周辺地区の知的共同体(事例)  

 1)藤井暮庵の詩宴  文化10(1813)年3月13日 於 子晦宅

   出席者 賴春水・聿庵一行、北条霞亭・立敬兄弟、膨城東作(長崎 徳見訊堂の書持参)、道光上人

 2)中條山田谷 河相君推「松風館十勝」へ寄せられた詩文

   *「河相君推と松風館十勝」~菅茶山と中條村の文人たち~ 参照


2.備前地方の知的共同体(事例)

 1)武元登々庵書会  享和2(1802)年 於 武元登々庵宅

   出席者 武元君立、明石退蔵、大森巳之介・武兵衛、万代秀閑、僧侶

 2)梅華吟社 「詩筵一粲」文化3(1806)年 発刊

   寄稿者 菅茶山 序・井上四明、齋藤九畹、武元登登庵、小原梅坡、僧孜堅、紫岡順卿、明石退蔵、無弐道人、武元君立、伊澤子琢、山内梅顛、竹西黄葉、山口美耶、水田福州

 3)岡山吟社(会主 宇野蘭渓)「展観書画録」文化5(1807)年 於 岡山 蓮昌寺

   出品者 井上四明、中村嵓州、齋藤一興、小原梅坡、明石退蔵、武元登登庵・君立兄弟、桐野孟徳、若林叢亭、浦上春琴、佐々木逸齋

 *「黄葉夕陽村舎に憩う」県立歴史博物館展示図録 平成17年 論旨 参照

  これら岡山の詩人たちが隣国の茶山のみならず、江戸を舞台に他国の文人たちと多彩な交流の輪を広げていることが判る。


3.
旅先で交わった知的共同体(事例)

 1)茶山主催詩画会 文化元(1804)年7月16日 於 柴野栗山邸(江戸)

  「対嶽楼宴集当日真景図」谷文兆画 ←『栗山堂餞筵詩画巻』招待者の詩画

(参加者は全員、中国趣味への憧憬を著わす中国服を纏い、左から順に、描く者、書す者など、相互に楽しみながらも切磋琢磨する当日の様子を描いている。)

倉成龍渚、谷文晃、尾藤二州、古賀精里、岡田寒泉、菅茶山、柴野栗山、賴杏坪、

   鈴木芙蓉

 2)恒心社(盟主 山口凹巷)文化11(1814)年5月22日 

於 東海道関宿脇本陣

(これより前5月20日、是非とも社友北条霞亭を廉塾後継者と願う茶山が山口凹巷等に面会を希望する書状が届いている)

     出席者 山口凹巷、佐藤子文、東伯斤頁、孫福孟綽

     *「関驛示佐藤子文菅茶山 後編巻五 参照  

 3)松平定信と「南湖名称図並び詩歌」

   ・「南湖」は藩主松平定信が享和元(1801)年、白河小峰城の南に「士民共楽」の理念に基づいて築造した日本最初の公園と称されている。塀がなく士民が自由に出入りできる。

   ・園内に景勝地17景を選定し、和名と漢名を付し、和名は公家や諸大名に和歌を、漢名は幕府や諸藩の儒者に漢詩文を請うた。

    和歌 15名中、 福山藩主阿部正精も名を連ねている。

    漢詩文 林述齋、尾藤二州、古賀精里、賴杏坪、篠崎三島、井上四明、立原翠軒、辛島盬井、亀井南溟、樺島石梁、市川寛斎、廣瀬蒙齋、菅茶山

    *「逗月浦」(和名「月待つ浦」)白河南湖十五勝之一 廣瀬以寧傳公命所需 菅茶山 前編 巻之八

 4)松平定信と『集古十首』編集グループ

    近習田内月堂、藩儒廣瀬蒙齋は別格として、白河藩と茶山の関係が始まったと考えられる西国調査員に限って云えば、廣瀬蒙齋、白雲(画僧)・大野文泉のち巨野泉祐(画人)の3人。蒙齋は寛政8(1796)年11月、予備調査に、白雲・文泉は寛政12(1800)年4月、「西国名所図(備後国未渡邑虹橋(帝釈峡雄橋)」描写のため、先ず茶山を訪ね、両人は名刺代わりに「白河城下図」・「大野文泉像」贈っている。


エピローグ

 菅茶山の漢詩ネットワーク

1.身分や所属を超えた『文芸的公共性』を共有する成員間の平等性の強い知的共同体

  事例 廉塾という一宿場町を拠点とする、ささやかなコミュニケーションのネットワークと言える。

2.『文芸的公共性』によって『政治的公共性』が胚胎し、明治維新の觸発剤となった。

  事例 阿部正弘の政策 

     幕末の危機的な政治情勢に対応する政治戦略の一環として、

     1)1853年、ペリー来航への海防策を広く幕臣、諸大名、家臣、更には民衆に意見を求める。

     2)身分や所属に拘わらず人材を登用した。

      その結果、権力分立制と議会性の観念が浮上、明治維新への展望を開いた。(文責 編集子)

   

 
*テキスト:「菅茶山と漢詩ネットワーク」―日本近代化 へ の 文芸的公共性を醸成ー   PDF(リンク) 
 
    2023-no1

菅茶山の姓名・号について 


 このほど、『まんが物語福山の歴史「神辺編」菅茶山・葛原しげる』(神辺創成の会 平成28年刊 改訂版)の内容にある間違いが指摘されている。その中、件題の「菅茶山の姓名・号について」-茶山・晋帥・太中-に関わる岡野将士氏の論考「広島県立歴史博物館 研究紀要 第24号」(p.p.59~66)が掲載されている。

 県博近世文化展示室「菅茶山の世界」はWITH・AFTERコロナ禍3カ年に次いで、令和5年2月からは改修工事が行われている。定番の見学記に代えて、岡野氏の研究について概論を整理したい。

はじめに

 菅茶山 〔幼名〕百助 〔通称〕久次郎太中 〔名〕晋帥 〔字〕礼卿 〔号〕茶山     
                       
*太(多)仲(中)                 

  礼卿の典故 『春秋左氏傳』「僖公二十七年」晋公、谺穀を元帥に任命 

事由 禮楽を好み、詩書を重んずる人物 晋の元帥として不足のない人物           

 菅茶山の読み方 かん(くわん)さざん  かん ちゃざん  かん&すが←すがなみ  すがのときのり

*菅→管 表記も有り
 菅家の始まり 私的な「菅太中」「菅晋帥」「菅禮卿」の使用は、寛政4(1792)年以前の遊学時代から
         すでに使用されている。

 公的な「菅」の使用は「寛政四子八月廿六日 五人扶持被下置」(「菅茶山履歴覚書」依拠)
  と考えられる

おわりに

 号 茶山 ちゃざんと発音される

 名 ときのり 通称 たちゅう         

 姓 すが←家名であった

   かん(ちゃざん) 漢詩の世界で通用したもの

   すが 公的に使用し始めた時期は寛政4(1792)年頃、5人扶持を下賜された頃であるが、
      私的に使用し始めた時期は確定しきれなかった。

 
   
 黄葉だより (2022版)  
               2022-no10
  2022/12/03 
 於:福大社会連携推進センター

  講師 柳川真由美 福山大学准教授
     山口 佳巳 比治山大学講師  
 福山大学文化フォーラム2022 歴史と街
第4回 「神辺本陣と神辺宿」
  講演要旨                   

1.柳川真由美先生

 ・神辺本陣の普請と地域

  普請に伴う資材(材木・石材・瓦・釘など)は近隣の村落で調達、芦田川~高屋川を利用、本陣の裏で陸揚げされた。

  職人の多くは神辺平野を中心とする地域に在住、大工の中には親子2代に亘って携わっている例も見られる。

 ・神辺本陣と神辺宿

  神辺宿は川北・川南村両村から成る。二つの本陣、西本陣と東本陣はいずれも川北村にある。しかし、両村の相互扶助によって
 こそ宿場町全体の賑わいと繁栄が醸成される。

      屋 号  所在地   休泊受け入れ大名 備 考

西本陣(尾道屋)三日市    福岡藩・黒田家  現「神辺本陣」

東本陣(本荘屋)七日市    諸大名      現存しない

  代官宛「乍恐以書附奉願上」書付 天保4年 菅波序平

趣旨 宿場町&東西二つの本陣の共存共栄

規程 休泊受け入れ対象の大名規程(前項)の弾力的運用

   両本陣の利益配分格差の補填

2.山口佳巳先生 

  神辺本陣は現存する数少ない本陣で、往時(延享3年~寛延年間)の建築をよく残している点で文化財的価値が高い。本陣屋敷は正式で高級な書院造りに、数寄屋造りの意匠が取り入れられている。神辺宿では本陣のほか、江戸時代の民家が2棟確認されている。 いずれも、座敷の角に角柱、それ以外の部屋に面皮柱を使用、当時の民家の特徴を裏づける重要な要素と言える。
 当地域には江戸時代から昭和(戦前)まで幅広い年代の町家が現存している。宿場町から繊維業(「ガチャマン」時代)への変遷した歴史を残す町並みとして、今後の保存が期待される。